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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

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2016/04/03

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  • 婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)

     長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは永遠に変わることは無く、真理の中にあると励ましている。 聖書に婦人が語ることを禁じている箇所があるが、神は婦人と共...婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)

  • 今日の歌(2025.04.19)

     柔らかき風に背伸びの蓮華草 春の嵐か寝耳に水の引っ越しも初心に帰る経験となれ今日の歌(2025.04.19)

  • みことばの飢饉

     見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見られることで、頭にも心にも納得できる言葉は人の肉に寄り添って惑わす。 「命よりも大切なもの」という本を頂いた。それ...みことばの飢饉

  • わたしにとどまりなさい(Ⅰヨハネの手紙5章)

     何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(14) キリスト・イエスを知ることこそみこころに叶うことである。「なぜ私が愛されたのか、神の御子が、なぜこのような者のために十字架にかかって死なれたのか。」という疑問は、聖霊に拠って神は愛であることを経験するときに、深い平安となる。 一方的な恵みによる救いの他には、救われるべき道はないことを悟るからである。聖霊は神が愛であることを確信させ、神が良い方であることを信仰生活において繰り返し経験させて、命の作者の愛に安息jさせてくださった。 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(15) 神の愛に信頼してすべての...わたしにとどまりなさい(Ⅰヨハネの手紙5章)

  •  午前「必要な一つだけ」は変化する。日々に今日必要な一つがあり、それぞれにイエスが示されることは違う。それは成長に応じて神のご計画も進んで行くからである。 マリヤがイエスを迎えた日に必要な一つだけは、イエスに聴き続けることであった。マルタが食事の支度をしていることにも気づかないで、イエスをもてなすことにも考えが及ばず、ただ、イエスから目を耳を反らせないことが唯一必要なことであった。 マルタがイエスにマリアのことを訴える言葉を聞いても、彼女はその場を動いてはならず、責め言葉に耳を貸してはいけないのである。必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。(ルカ10:42) マリヤは今はマルタを気遣う時ではなく、イエスの葬りの準備のために聴き続けなければ...時

  • 今日の歌(2025.04.12)

     春の田は整然として早苗待つ  ハルジオン何うなだれる明日咲くを 霞ゆくソメイヨシノを窓越しに夕餉支度は筍ご飯今日の歌(2025.04.12)

  • 呼ぶのはいつもイエスの御名

     聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪しい宗教を持ち込む」と言われる思ったからである。 ただ、教会に連れて行ってくださった姉妹にだけ、そっと話した時「そ...呼ぶのはいつもイエスの御名

  • 永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)

     この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さのうちに御霊が臨まれたのである。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩...永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)

  • 世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)

     イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ...世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)

  • 神から出た者(1ヨハネの手紙4章)

     私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って偽りの霊を見分ける。 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神か...神から出た者(1ヨハネの手紙4章)

  • 霊を知る(1ヨハネの手紙4章)

     愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(1) 聖霊がおられるように悪霊も存在する。悪霊から守ってみことばに導くのは聖霊である。聖霊なる神はイエスのことばを解き明かして、聴いたことばに従順して生きる力を与え、生ける神のことばを経験させて主への信頼を育ててくださる。 悪霊は、キリストにたまわった永遠のいのちから目を反らさせて、感情に働いて肉を掻き立て世に釘づける。善悪知識の木の実由来の賢さは、神から独立した善悪によって、救いのための時間を浪費して、悪霊の働きによる目に好もしいものを仕立て、世の成功に惑わして滅びの道連れにするのである。 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は...霊を知る(1ヨハネの手紙4章)

  • 神のうちにとどまって溢れ出る愛(1ヨハネの手紙3章)

     互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(11~12) 妬みは自分と相手に死をもたらせ、キリストから出た愛はいのちをもたらせる。神の愛は御子の命を支払って人を生かしてくださった。肉を持って生きている心の王座は、自分を生かすための自己愛が占めていて、誰よりも愛されることを求めている。その欲求が満たされないことは妬みとなり、宗教家がイエスを殺したように、邪魔者を故無く殺すのである。アベルの正しさは誰よりも主を愛したことにある。 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移っ...神のうちにとどまって溢れ出る愛(1ヨハネの手紙3章)

  • 今日の歌(2025.04.02)

     ジャガイモの新芽すくすく葉の緑 初桜乙女の如き恥じらいの蕾ほころぶ春は嬉しき今日の歌(2025.04.02)

  • 神の子は悪魔のわざを打つ破る(1ヨハネの手紙3章)

     幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。(7) 誰が神に受け入れられる義を行うことが出来るだろう。義を行うとはキリストの義に留まることである。誰であってもキリストのうちに在ることで、完全であり正しいのである。神に生み出された幼子たちは、まず自分が何者であるかを悟るために、キリストにたまわっている御救いに安息することである。世では、見たことも聞いたこともない神の愛を味わうために・・ 十字架の完全なあがないによって義とされ、キリストの復活と共に生み出された神の子は、責められることのない神の平和に安息し、感謝と交わりの中で聖霊に育てられ、キリストの救いに留まることの正しさを聴き続けている。 未だ肉を纏っている身に、罪は犬がワンと鳴くように身近なもの...神の子は悪魔のわざを打つ破る(1ヨハネの手紙3章)

  • 事実、私たちは神の子どもです(1ヨハネの手紙3章)

     私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1) 平安の中で主イエスの御救いを思い返し、救われた身の幸いに感動して、御前にひれ伏す。苦難の中ではたまわっているみことばを読み返し、御約束にある深みに導かれて安らぐ。迷いの中にある思いのすべて主に打ち開けて、みことばに委ねて従順する。そのすべては「アバ、父」と呼ぶ関係に在ってのことである。 神の子らはすべての日々に御父の愛を味わい、御子イエスのことばを経験をして、神より生まれた子であることを、聖霊の導きの中で確信するのである。それは養子とか接ぎ木という薄紙一枚の隔ても無い、真実な神が生んでくださった子であり、聖霊とみことばに...事実、私たちは神の子どもです(1ヨハネの手紙3章)

  • 真理であって偽りではありません(1ヨハネの手紙2章)

     私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(26~27) 神は三位一体の神である聖霊を、キリスト者のうちに住まわせてくださり、守りとし、導きとして、みことばを生きて神の計画を行なわせてくださる。その方は「真理であって偽りではありません」とわざわざ書いてある。 イエスの御わざを、ベルゼブルのわざと言わせるような、サタンや悪霊の偽りの世に在って、聖霊はキリスト者の砦であり、身の避け所であり、平安をたまわるお方である。聖...真理であって偽りではありません(1ヨハネの手紙2章)

  • 永遠のいのちを生きている(1ヨハネの手紙2章)

     幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。(18) 今と書かれたのは1900年以上も昔のことであるが、神に在っては千年は一日のようであって、反キリストがそれ以来現れ続けている。それゆえ常に今が終わりの時なのである。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(Ⅱペテロ3:8) 肉の体にある命は何時取り去られるか誰も知らず、すべての人にとって今が終わりの時である。神が猶予を与えておられる命の間に、イエスを神の救い主と信じて受け入れ、自分の救いを完成するのは今この瞬間である。イエス・キリストを信じる信仰によって、永遠の住まいである天の国籍手続きは、神の御子イエスに罪をあがな...永遠のいのちを生きている(1ヨハネの手紙2章)

  • 福音の喜び(1ヨハネの手紙2章)

     子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(12) 教会に通うようになって、みことばにイエスの御救いを見出し、神の一方的な赦しをたまわった。負いきれなくなっていた重荷を御前に下ろした時、聖霊に触れられて「見よ。すべてが新しくなりました」と、主の焼き印が押された。もう自他のどのような責め言葉も、神のものであることを否定することは無い印である。 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。(13) 家長がイエスの御前にひれ伏すとき、家には喜びと希望がいっぱいに満たされる。イエスを主として迎え、恵みに拠って家族が生きる...福音の喜び(1ヨハネの手紙2章)

  • 光と闇、霊と肉(1ヨハネの手紙2章)

     愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。(7) 神の民が初めに神からたまわった律法は、イエスによる罪のあがないによって廃棄されたものではなく、イエスを信じることによって、それまでの不可能が可能になったのである。 律法はイエスによって成し遂げられて福音となり、イエスのうちに在る者に完成された。彼らはいのちの望みに満たされ、聖霊による交わりの中で神の子どもの喜びを生きている。しかしイエスを主と認めない不信仰は、自ら律法のさばきのもとに留まり続けるのである。また、聞いたみことばを心に留めることなく、故意に胡麻化してやり過ごして来た者に、改めて命じられるのは主の忍耐と憐みに拠ることで...光と闇、霊と肉(1ヨハネの手紙2章)

  • うちに神がおられる(1ヨハネの手紙2章)

     私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(1) 世ではあらゆる形の罪を纏った狼が、肉を纏っている羊を虎視眈々と狙っている。しかし、神の守りにある羊は世で活動している間も、聖霊によってイエスとの絶えざる交わりがある。目にする世のあれこれに支配される必要は無く、それらの善悪を選り分ける役割を負っているわけでもなく、みことばに聴き入って心に留めなければ良いのである。目が汚されたと思えばすぐに主の血潮に洗って頂き、砦に逃げ込んで聖さに身を避けることが出来る。キリスト者はすでに世の者ではないからである。 ですから私たちにはいつでもイエスの希望がある...うちに神がおられる(1ヨハネの手紙2章)

  • ヨハネの見たこと聴いたこと(1ヨハネの手紙1章)

     初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。(1) すべてはイエスによって造られた。ヨハネの確信はイエスを体験していること、いのちのことばの復活を直接見ており、御からだに触れた感覚を持っているのである。みことばに従順して、生ける主を近しく体験することがある。そのようなみことばの経験は、誰に否定されても動じることのない主への信頼として、命に刻みこまれている。 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(2) 聖書にあるヨハネの証を私たちも受け取っている。彼が経験したイエス・キリストを信じることによる救いは、罪の結果である永遠の裁きに代えて...ヨハネの見たこと聴いたこと(1ヨハネの手紙1章)

  • 探し出された一匹の幸い

     あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12) 人は九十九匹の方が大切なので、迷い出てしまった一匹を諦めることが出来るが、神には一匹一匹が神の完全な愛の対象であって、見捨てることが出来る命など一つも無いのである。 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。(13) 神には迷わない九十九匹以上に見つけ出した一匹が神の喜びとあり、それは元通りに百匹揃って良かったということではない。 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。(14) 神のみこころは人...探し出された一匹の幸い

  • 天地創造7日目

     こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(2:1~3) 人のすべての必要は全能の神によって六日間で備えられた。主の創造の御わざによって賜った命の喜びにあふれ、命を満たす備えに安らぎ、創造主をほめたたえる日である。天地宇宙の創造主を神と告白するとき、人はたまわっているその祝福の偉大さを悟り、この神に目的を持って造られた命は、作品を知り尽くす神に在る平安と望みに満たされる。 自分自身を守る言葉を何も持っていない幼子の心で、神の第一声「初めに神が天と地を創造された」このみことばを「アーメン」と受け取るのは、神に選...天地創造7日目

  • 今日の歌(2025.03.08)

     幼木の香りいじらし沈丁花 休日のコーヒーゆるりとガラス越し椿はすでに赤覗きたり今日の歌(2025.03.08)

  • 二つのいのち

     現在生きているすべての人は2つのいのちを持っている。1つは母の胎で形作られた体に在る命であり、もう1つはイエス・キリストの命と引き換えに与えられた永遠のいのちである。 イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して創造主なる神を礼拝した人の死は、イエスの復活のいのちを頂いて、父なる神の御許で永遠に生きることになる。彼らはイエスによって罪をあがなわれてきよくされ、神と和解して神の子という関係をたまわったからである。 しかし、死に至るまで創造主を認めず、御子の死を通して与えられている、永遠のいのちを受け取らなかった死は、罪のあがないを受けていないために、その罪に拠る永遠の刑罰に至る。 地に在る命はすべては、創造主によって与えられている今を生きている命であり、それゆえイエスは「絶えず祈りなさい」と命じておられ...二つのいのち

  • 天地創造6日目

     神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(26) 人の尊厳は神の似姿に造られていることにある。人を殺してはならないのもこの事実に拠るのである。神は人にご自分の作品の管理を委ねられた。忠実に感謝をもって、たまわったすべてを支配する時、それらは豊かに人を養い育てる神の祝福となる。 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(27) 神に創造されたものであることをわきまえる所に、神の平和が存在する。それぞれが違った個性を持って造られ、違う価値観を持つ人々に対しても、創造主のご計画を思い、神を恐れて受け入れるからである。...天地創造6日目

  • 天地創造5日目

       神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。夕があり、朝があった。第五日。(20~23) 神はすべての生き物をそれぞれの形に創造された。発達途上のものではなく、無数とも思える生き物のすべては、みこころのままに完成されていたので祝福された。創造主の全能の力に拠るよることである。 そのような神の知恵と力は人には思いもよらないことなので、己の能力をもって神を計ることにより神がわからず、被造物を拝んで神に敵対するのである。人は神の作品である天地を見ても神の完全...天地創造5日目

  • 天地創造4日目

     神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。夕があり、朝があった。第四日。(14~19) 光りを備える神は闇も備えられた。それらによって時を備え、いのちを刻むためである。闇夜のような時がある。アブラハムにもモーセにもペテロにもパウロにも、そうして私たちにも。自分の力ではどうにもならない時があり、キリスト者にも神を忘れ...天地創造4日目

  • 祝 !パソコン復旧

     pcダウンジャガイモ植えつつ弥生待つ 2月26日記事アップ直前にpcダウン。私には手も足も出ないことなので強制終了して息子の帰宅を待つ。まったくこの仕事は私一人では不可能なことが身に染む。 遠距離通勤の息子の遅い夕食時に「pcダウンした」と、遅くまで調べて「これは簡単じゃない」と告げられ、一部取り換えて今日完全復旧した。動きがぐんと良くなってとても快適。それに「ダメかも・・」と言われていた古いゲームも復旧してくれた。 これは何十年もやっているお気に入りで、ゲームを楽しむというよりも、頭のアイドリングのような役割なので、ダメなのはかなりショックだったのだ。失われたと思われた、「一太郎」のデーターも回復してすべてを元に戻してくれた。 でも、初めから祈りの中でこうなることは分かっていたので、焦ることもなく待っ...祝!パソコン復旧

  • 天地創造3日目

     神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。夕があり、朝があった。第三日。(9~13) 天地の成り立ちを知るときに人は神を悟ることが出来る。全能の神によって備えられた天地を見るた度に、その偉大な愛に満たされて自らの存在価値を悟るのである。それゆえサタンは、人に神を離れて判断する賢さを与え、出自の知識に混乱をもたらせたので...天地創造3日目

  • 天地創造2日目

     神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。(6~8) 宇宙は神の作品。青い空、白い雲、命を育てて輝く太陽、月も星もすべて神の作品それらのすべては人を守り育てるために愛を籠めて備えられたもの。愛に満ち足りて、主をほめたたえつつ生きるために。  信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますよ...天地創造2日目

  • 天地創造1日目

     地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(2~5) 神から発せられた言によって実体が現される。万物の初めからその終わりまで。天地創造1日目

  • 神は愛

     神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17) 人は創造主なる神の愛に留まらないことで、永遠のいのちを失って自ら滅びることになる。神は愛

  • マリアの処女懐胎

     御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかしマリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何もあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえににヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りませんのに。」御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます...マリアの処女懐胎

  • 創世記1章1節

     初めに神が天と地を創造された。創世記1章1節

  • モーセの言葉

     「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。また荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、主が、人が自分の子どもを抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。このようなことによっても、まだあなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。主はあなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行き、夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示されるのだ。」(申1:29~33)モーセの言葉

  • アサ王の祈り

     「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりありません。私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたにより頼み、御名によってこの大群に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。」(Ⅱ歴14:11)アサ王の祈り

  • 詩篇62篇

     私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は決して揺るがされない。(1~2) 私のたましいよ黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。私の救いと栄光はただ神にある。わたしの力の岩と避け所は神のうちにある。民よどんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(5~8)詩篇62篇

  • 今日の歌(2025.02.14)

     主よ。みことばをお導きください。朝から試行錯誤しながら待っていました。パソコンの前で、キーボードに手を置いて戸惑っていました。そうして・・気付きました。 黙って座っていることが正解であるとき、私がそのことに安息しますように。シンと待つことは饒舌に勝って、心はあなたを見ています。何時までも待つことは、忙しく立ち働く日よりもあなたに信頼しています。 すべてを御前に置いて、時々うつらうつらと静けさに休みました。ある時からは、六日休んで一日だけ働くようになるのかもしれません。一方的なお恵みの中で、折々にたまわるすべての時を喜んでいましょう。今日の歌(2025.02.14)

  • ペテロを証するヨハネ(ヨハネの福音書21章)

      まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18) イエスは、ペテロの生涯が主の導きの中に在ることを伝えられた。それは決して安楽な将来ではないけれど、主のみこころを誤りなく成し遂げる約束である。彼はすでに主の良きご計画の中に在って、その命は主に在る栄光をたまわっていたのである。 イエスとのコミュニケーションを持つ祈りの大切さは、みことばによって主が備えて下さっている将来を確信して、今日を誤りなく生きる平安が満たされるためである。キリスト者がどのような死に方をするか、それがどのようであろうと主の備えの中に在るなら、命のことで一喜一憂する必要...ペテロを証するヨハネ(ヨハネの福音書21章)

  • 今日の歌(2025.02.12)

     朝焼けの日毎に早き嬉しさよ真っ新な日を今日も迎えぬ 裸木の楓の梢ぽっちりと寒風の中膨らみてあり今日の歌(2025.02.12)

  • 「あなはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章)

     イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。(14) 主はペテロの傷を癒やして新しくし、みこころに生きるために来られた。みこころを行うには、自分の使命に目が開かれる必要がある。またそれを行ううちに、サタンに責たてられて弱り果てることがないように、イエスとの親密な関係による赦しの確信が必要である。 イエスはペテロに来られ、癒やしの中で人を獲る漁師としての具体的な働きを示された。神より発したことは神によって成り栄光が神に至るのであり、すべては主の御約束によって成ることを明確にするためである。 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ...「あなはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章)

  • みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)

     イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:30~31) 聖書にはイエスの御わざの一端が残されているのであろう。イエスは世に居られる間、寝る間もなくて疲れ果てるほどに働いておられた。それゆえ、その地にイエスを知らない人はいなかった。 イエスが知られていたということは、神がどのようなお方であるかをイエスを通して知ったのである。ただ、自分たちの期待通りではなかった人々が、何を見ても聞いてもイエスを神とは認めなかったのだ。彼らはイエスが神を冒涜していると言って殺したが、彼らこそ自分自身を神としていたのである。...みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)

  • 聖霊を受けなさい(ヨハネの福音書20章)

     マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。(18) マリヤはイエスが生きておられることと「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と言われた言葉を弟子たちに伝えた。 福音を伝えるには技術も能力も要らない。自分が見たこと聞いたことをそのままに伝えるだけ。今は、聖霊がすべてを備えていてくださる。救いの喜びに溢れて、出会ったイエスのみことばを語るだけである。そう、幼子のように・・。 人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。(ルカ12:11) 公にお偉い人の前に引き出されて、証言するときでさえ心配がい...聖霊を受けなさい(ヨハネの福音書20章)

  • 空の墓(ヨハネの福音書20章)

      さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。(1) マタイには「もう一人のマリヤ」も一緒だったことが書かれてあり、此処ではそのことは省略されているが、ルカにも「彼女たち」とあるので事実は二人であったと思われる。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2) 此処にも「私たち」とある。この経験は混乱状態の中にあったことが分かる。まさか、死体が消えるとは想像もできないからであり、ましてそれが愛する方であればなをさらである。 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが...空の墓(ヨハネの福音書20章)

  • 備えられる働き(ヨハネの福音書19章)

     その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。(31~32) 「安息日に死体が残らないようにする」形として目に見えることに彼らが熱心であることがわかる。それで神に忠実に仕えていると思っていたが、イエスが御わざとともに原語で神のメッセージを語っても、耳を閉ざす彼ら宗教者の霊は死んでいた。 イエスを憎んだのは、彼らの宗教が破壊されることを恐れたからである。目に見える所によって尊敬され生活が成り立っており、それを繰り返し続けることに満足している彼らには、救い主は必要では無かったからであ...備えられる働き(ヨハネの福音書19章)

  • わたしの母とは(ヨハネの福音書19章)

     イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。(25) イエスの十字架の側に立得るのはイエスを愛する愛に拠ることである。弱い女が大の男も逃げ出す十字架刑の側に留まっていたのである。彼女たちは最後まで「何かしてあげられることはないか」と愛するイエスを離れなかったのである。 御救いに与ってみことばに聴き入るとき、その恵みのことばを知らせるために、何か自分に出来ることはないかと我を忘れて走り回り、何でも出来ることをしようとする原動力は、イエスの愛を受けたからである。十字架で支払ってくださった尊い血の代価を知っているからである。 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご...わたしの母とは(ヨハネの福音書19章)

  • 今日の歌(2025.01.29)

     叢に水仙一輪密やかに 寒風に婆の強か戻らじと用も無いのに枯野回りぬ今日の歌(2025.01.29)

  • ユダヤ人の王ナザレ人イエス(ヨハネの福音書19章)

     ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。(16) イエスを十字架に付けたのは兵士であったが、此処でピラトがイエスを「彼らに引き渡した」とあり兵士にとは書かれていない。ピラトはそれまで話していた彼らユダヤ人にイエスを引き渡し、彼らはイエスを好きにしたのである。 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。(17~18) 人がどのようにイエスを扱おうとも、すべては神の初めの計画の通りであり、イエスは御父のみこころを行って十字架を負われたのだ。世に居られる間すべてに御...ユダヤ人の王ナザレ人イエス(ヨハネの福音書19章)

  • 神の真実による救いの備え(ヨハネの福音書19章)

     ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。(7~8) 律法を盾にしてイエスを十字架に付けたことによって、結果的には彼ら自身で神の計画を遂行したのである。しかしその役割りは悲惨であり、神から出た方法ではなく、彼ら自身が選び取ったことである。 人は色々な役割りを負って生きてそれを成す。しかし彼らの負った役割りほどに、その子孫に悲惨を負わせるものはないだろう。それでも神は、約束の民イスラエルを切り捨てることはなさらないが、この言葉の代償はあまりにも重いものとなる。 若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか(イザヤ54:6)神はイスラエルを妻と呼んで永遠の愛を誓っておられる...神の真実による救いの備え(ヨハネの福音書19章)

  • 憐みの無い獣の心(ヨハネの福音書19章)

     過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。(18:39~40) ピラトの思い付きはイエスを釈放するためであったが、ユダヤ人たちはそれを許さなかった。彼らの欲望はイエスを殺すことであり、ピラトは支配しているはずのユダヤ人に支配されて計画は挫折した。罪なきイエスが殺されて、死刑になるべき強盗が生かされることを望んだユダヤ人の義は、此処で完全に倒錯している。それは神のかたちに造られた人を離れて、悪魔に心を乗っ取られたことを現している。 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せ...憐みの無い獣の心(ヨハネの福音書19章)

  • わたしは真理です(ヨハネの福音書18章)

     さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。(28) 彼らは、異邦人の庭に入って身を汚すと過ぎ越しの祭りを祝えなくなり、肉の欲求であるご馳走が食べられなくなることを恐れた。イスラエルはローマの支配下に在っても、彼らを汚れた異邦人として軽蔑しており、神の選びの民である自分たちは、律法を守る聖なる民族であると確信していたのである。 それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。「この人に対して何を告発するのか。」彼らは答えた。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」(29~30) 汚れている異邦人に救い主なる王を差し出して殺させ、自分たちは過...わたしは真理です(ヨハネの福音書18章)

  • 中途半端な信仰(ヨハネの福音書18章)

      ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。(16~17) ヨハネが問われないことをペテロは問われている。ペテロの恐れが見透かされるからである。そうしてペテロは悪魔が仕掛けた罠に堕ちて、主イエスとの関係を否定した。恐れがあるならヨハネに誘われても断れば良かったのである。中途半端な信仰によって窮地に追い込まれるのはみことばを握っていないからである。 キリスト信仰に置いて窮地に立たされた時、すべてに通じる解決方法は、即座にイエスに命を託すことである。死はすべての問題を解決するからであり、キリスト者の肉...中途半端な信仰(ヨハネの福音書18章)

  • 今日の歌(2025.01.18)

     うらうらと冬日を浴びて6000歩 今日もまた牛舎近くで「モー」と聞く 一度会いたし松阪牛に今日の歌(2025.01.18)

  • イエスが愛された弟子(ヨハネの福音書18章)

     シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。(15) もうひとりの弟子ヨハネは、イエスについて行くことにためらいがなかった。それは、知り合いの家というだけではなく、何時でもイエスの最も近くに居ることが「イエスの愛された弟子」には当然だからである。 彼はイエスの愛を確信して安息していた。愛されていることを一ミリも疑わなかったので、彼のうちにはイエスの愛が充満しており、十字架の側に居て、マリアを母として託される御声を聞いたのである。 イエスをどのような方と信じるかが、その人が経験するイエス・キ...イエスが愛された弟子(ヨハネの福音書18章)

  • 神がくださる杯(ヨハネの福音書18章)

     シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(10~11) ヤコブとヨハネが求めた杯。しかし、イエスの杯には恐怖が詰まっていた。それはイエスが経験したことのない罪が満ちおり、身代わりの十字架は、義であり聖である神に死にまで従順して、負った汚れのゆえに捨てられることであったから。 ペテロとヤコブが、イエスの左右の座を求めた時イエスは言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。(マタイ20:22)彼らは誓った通りに自分...神がくださる杯(ヨハネの福音書18章)

  • 私と異言

      午前中はずっとマタイ受難曲を聞いていた。耳を傾けつつ静かに大根を切り面取りをして、出汁に放り込んで沸々と煮ている。柔らかな大根は茹でる手間も要らず夕食の一品の出来あがり。 昼食の準備も食事中も後片付けをしているときも、ずっと歌声に聞き入りながら手を動かし、口を動かしている間も慕わしい主を感じていた。私には外国語はわからないので、どれほど繰り返し聴いていても言葉の一つひとつは異言のよう・・。 でも何を歌っているのか、どなたに捧げて歌われているのかは知っている。歌声も旋律も覚えていて、親しい心地よさにリラックスして命が養われて行くよう・・。バッハを知らなくても、外国語が分からなくても、この歌声に何時間も浸って喜んでおり、キリストの打ち傷によって癒やされた者の幸いを味わっている。 異言は理性的でないと拒絶さ...私と異言

  • イエスに倒されたとき(ヨハネの福音書18章)

     これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。(1) イエスが弟子たちと共に歩かれるのはこれが最後であった。弟子たちの帰り道にイエスはおられなかった。すべてのことには時があるが、今がどのような時であるかを人は知らない。でも、主はすべて知っていてくださる。それがキリスト者の慰めである。 イエスは天に永遠の住まいを備えていてくださる。それゆえ今日主と共に歩くことを楽しみ、一時ひとときをみことばに耳を傾けつつ、あっけらかんと喜んで生きることが出来るのだ。 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリ...イエスに倒されたとき(ヨハネの福音書18章)

  • 今日の歌(2025.01.08)

     日向ぼこ面白くない硝子越し 強風に心も萎えて所在なく揺れる山茶花窓辺に眺む今日の歌(2025.01.08)

  • イエスに在って一つ(ヨハネの福音書17章)

     わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20) 使徒をはじめ、弟子たちのためのイエスの祈りは、彼らによって救われた異邦人の私たちに対する祈りでもあった。イエスはこのとき世界中の、すべての時の中で救われて行く神の子どもたちのために祈られた。聖霊が教えることは今生きる一人ひとりの「私」のためにも祈ってくださったことである。イエスの祈りのゆえに、主に信頼するキリスト者の永遠のいのちは神に守られている。この平安のうちにキリスト者は生きている。 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるた...イエスに在って一つ(ヨハネの福音書17章)

  • みことばの成就のために(ヨハネの福音書17章)

     わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。(11) すべては天地創造の神のものであり、イエスは御父のみこころを行って父のものを受け継ぐ方である。イエスに救われ子とされたキリスト者も、みこころを行って御父のものを受け継ぐことになる。それはいのちである。すべてのいのちは創造主なる神のものであるから。滅びから救われるべき名は世の初めから終わりまでただ一つであり、罪を取り去ることが出来るのはイエス・キリストだけである。それは天地創造の父なる神から御子イエスが従順を通して与えられた権威による。 イエスは神にキリスト者を「一つにしてください」と祈られた。...みことばの成就のために(ヨハネの福音書17章)

  • 今日の歌(2025.01.03)

     冬枯れの地を温める陽に遊ぶ 寒風は拒絶するごと押し戻す我も負けじと肥え立ち向う今日の歌(2025.01.03)

  • 今天国行きの列車に乗る時

     イエスを殺すほどに憎んだイスラエルの宗教者たちは、イエスから何の被害も受けてはいない。イエスはキリストの愛によって、彼らの救いを妨げるものを指摘しただけである。 人の憎しみは必ずしも被害を受けたからではなく、冷静に振り返ってみれば憎んだきっかけが愛から始まっていることがある。妬みもそのように、愛している人から攻撃を受けることがある。 戦う必要の無い相手を非難したり、攻撃し憎むようになるのは、心に巣くっている罪によることである。それらの罪からすでに解放されていることを悟らなければ、本当はしたくもないことをし続けて、罪に支配される不幸せを自他にまき散らし続ける人生となる。 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるた...今天国行きの列車に乗る時

  • イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)

     わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。(4) 嘲笑と鞭と鋭い棘の茨の冠、強盗と一緒に十字架に曝されているイエスに誰が神の栄光を知るであろう。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:4~5) 人は目の前で見ていることがすべてであり自分に重ねて判断する。イエスは私たちの罪と言う病を負い私たちの痛みを担われた。しかし、十字架を目の前にした群衆が、イエスが成された力ある神のわざ、憐みの御わざを思い出...イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)

  • 今日も明日もメリークリスマス!

     私の心は年がら年中クリスマスイエスを迎えて驚喜しているニコデモみたいに大騒ぎたまわったいのちが喜び踊る 何の資格もない者が名を呼ばれ御わざの故に生きる者となり御許に在ることをゆるされたから気が狂ったように心が踊る そう、本当に狂ったのかも知れないイエスが狂っていると噂されたようにパウロが狂っていると言われたように魂は一足お先に主に在るようだから 私の心は年がら年中クリスマスこの世にある様な・・御国にある様な・・命といのちはもう区別がつかずすべての時が主を教え続ける今日も明日もメリークリスマス!

  • メリークリスマス(ヨハネの福音書17章)

     これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。(1) 父のみこころにより、人類の罪を負って十字架で死刑にされるためにイエスは産まれてくださった。これがクリスマスである。御子イエスの誕生を喜ぶのは、神の義を成す完全な聖さを持つお方であり、その聖さのままに人となってくださったイエスは、人類代表としてすべての罪を完全にあがなうことが出来ように、神がつかわしてくださった唯一の救い主。 神の栄光はご自身の作品である人類を、御子によってサタンの持ち込んだ死に勝利させ、創造の初めのご計画の通りに、神の子たちが主をあがめる賛美の中で永遠を共にすることである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいの...メリークリスマス(ヨハネの福音書17章)

  • イエスが備える交わりのとき(ヨハネの福音書16章)

     御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。(14~15) 三位一体の神は、創造主なる神に反抗して罪の中に留まっている者を、死という永遠の滅びから救って新しいいのちを与えるために、御子イエスの命を身代わりとして罪を清算して神の義を行い、罪人に永遠の愛を示してくださった。人にとって、この事実以上に重要な知識があるだろうか。御霊はこの神の愛を私たちの霊に来て知らせ、イエスを信じる勇気を与えてくださる。 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」そこで、弟子たちのうちのある者たちは互...イエスが備える交わりのとき(ヨハネの福音書16章)

  • 今日の歌(2024.12.21)

     みことばは主にたまわりし我が望み御顔仰ぐ日切に恋しき 「イエスさま」御名呼びたりてひれ伏すは我にたまわる赦しのゆえに今日の歌(2024.12.21)

  • 真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)

     わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1) 弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。 まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。 疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守って...真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)

  • 今日の歌(2024.12.17)

     トラクターを追いつ群れたる寒鴉 寒風も帰りは背を押す味方なり 明けやらぬ戸口に立ちて送り出す数十年の守りに感謝今日の歌(2024.12.17)

  • 初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)

     しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20) キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。 ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続...初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)

  • 今日の歌(2024.12.14)

     冬薔薇(そうび)香り残りて薄明かり 肉眺め魚を眺めて値を量り脳内巡る今日の献立 冷水で菜を洗いたり魚焼きて時を計りつ夕餉整う今日の歌(2024.12.14)

  • みことばを聴いて溢れる喜び(ヨハネの福音書15章)

     わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(10) 御父の戒めイエスの戒めとは御愛の中に留まること。主の愛に応答して愛する方に聴き従うことは喜びとなる。その人が「なぜですか」と理由を問うことは無い。すべての疑問を封じるのは無条件の愛をたまわったからである。 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11) 命をたまわった主の愛を離れて何処に行けようか。イエスに安息している命は恐れを知らず、大胆にアグレッシブに生きるようになる。そう、父母と居る幼子は、愛の言葉に満たされて勇気凛々なのである。 わたしがあなたがたを愛し...みことばを聴いて溢れる喜び(ヨハネの福音書15章)

  • わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)

     わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1~2) 神は私たちに対して熱心に働いておられる。実を結ぶ者にも実を結ばない者にも神の熱心は変わらず、誰一人放って置かれることも無視されることもない。すべての人の創造主だからである。実を結ぶ者にはもっと多くの実を結ぶことが出来るように必要を備え、実を結ばない者には、実を結ぶことを妨げているものを取り除き、神の光りの中に留まる者を養ってくださる。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(3) 主に留まって成った実はみな聖い。みことばを食べて成長したからである。食べたものによって人は成長する。...わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)

  • みことばの保証 ②(ヨハネの福音書14章)

     わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27) キリスト者の平安はイエスに拠って約束されている。それは十字架の御わざによって、罪に滅びる死に勝利してくださった永遠のいのちである。必ず万民に訪れる死に勝利している平安である。 死以上に人を脅すものはなく、イエスのみことばを真っ直ぐに受け取った者は、どのような世にもひるむことのない勇気を得る。十字架の恥と苦痛をしのばれほどのイエスの愛に、満たされて生まれる勇気である。 「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたが...みことばの保証②(ヨハネの福音書14章)

  • みことばの保証 ①(ヨハネの福音書14章)

     わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(18~19) 十字架の後に残される弟子に、イエスは「捨てて孤児にすることはない」と約束された。イエスと共に地で働いて来た弟子にとって、迫害の日々に必要なものはみことばである。イエスが十字架の死を経て墓に葬られ、三日目によみがえられるとき、弟子もまたイエスと共によみがえりのいのちを得て、御父のもとで永遠に生きる者となる。 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛し...みことばの保証①(ヨハネの福音書14章)

  • キリスト者の奇跡(ヨハネの福音書14章)

     まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(12) 計画を完了して父の右の座に帰られたイエス・キリストを信じる者は、イエスのように神から出たわざを成すようになる。神であるイエスが人となって肉の体を纏って来てくださった。私たちと同じように世で生きても罪を犯されることはないが、限りある体の不自由と弱さを経験してくださった。体の恐れは死である。キリストから永遠のいのちたまわった者は、生きるための遣り繰りから解かれており、イエスの備えてくださった永遠のいのちに安息している。 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがた...キリスト者の奇跡(ヨハネの福音書14章)

  • 今日の歌(2024.12.04)

     なんだか背中が痛い・・膝がどうかした拍子に痛む・・ちょっと頭が痛い・・そんなのが日替わりで現れたり・・消えたり・・ 歳を取るとあちらこちらが痛むのが当然らしい。なぜ日替わりなのかは知らんけど・・いや、少しは知っているけど・・つまり耐用年数が過ぎているからであり、 「よしよし」と自分をあやしつつ・・「痛いない」と騙しつつ・・「じきに治る」と宥めつつ・・イエスさまに「治してください」お祈りをして、その度癒やされて、 自分のやりたいことは全部やれているから感謝する買い物、料理、掃除、自室の模様替え花の世話、少しの野菜は美味しく食べる ブログは仕事、お金にはならないけれどお金では買えないものを得るそれは今日を喜んで生きる力イエスさま感謝します今日の歌(2024.12.04)

  • イエスによって神を見る(ヨハネの福音書14章)

     「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 人は良い事にも悪い事にも心騒いでその事柄に釘付けになることがある。主から目を離して見える所には、光りの御使いに変装したサタンが、いよいよ惑わして滅びに引き込もうと待っている。 十字架のキリストは人には嫌悪したくなる御姿である。それゆえ人は十字架を語ることを避けたいのだ。目の前の出来事によってイエス・キリストへの信頼が揺るぐことがある。そのときは聴き続けたみことばを反芻し、十字架で完成してくださった御わざに留まるなら、そう、イエスの完全な赦しの中に留まるときに、たとえ自分の姿がどのようであろうとも、御わざに安息することが出来るのである。 神が備えてくださった救いの十字架の下で、感謝にあふれ喜びの礼拝を捧げ、みこころを行う力を...イエスによって神を見る(ヨハネの福音書14章)

  • 今日の歌(2024.12.02)

     冬の朝夫婦雀の羽光る 冬の薔薇平凡な赤次々と咲き続けたり此処に居るよと今日の歌(2024.12.02)

  • イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)

     ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31) イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。 神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10) 主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは...イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)

  • 今日の歌(2024.11.28)

     曙のコーヒーの香の平和あり八十路を越えて静寂を知る 先駆ける赤き一輪山茶花の孤独を守る葉は青々と今日の歌(2024.11.28)

  • サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)

     イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(21) イエスは今まさに、一粒の麦となって死んでいのちを与えようとしておられる。しかし、ユダがサタンに従い悪名を残して滅びゆくことに心を痛められ、平気おられたわけではないのだ。主はいけにえを喜ばれないからである。 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。(22~23) 此処にユダとヨハネの違いが明確に現れている。ヨハネが「イエスが愛された弟子」と称して恐れることがないのは、自分を見ることなくイエスに信頼してのことである。主であ...サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)

  • 互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)

     イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。(12~13) イエスは唯一世の初めから終わりまでを知る先生であり、すべての造り主である。主は、裏切るユダの足さえ洗って仕える者の愛の姿を示された。ただ、裏切る者を排除するなら、誰の足も洗うことが出来ないのだが・・。 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。(14~15) 互いの足を洗い合う必要は、世を生きて行く弟...互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)

  • イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)

     さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1) イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。 弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2) イエスに満ち足...イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)

  • 今日の歌(2024.11.20)

     鈍色のうすら寒きにドア閉じて出したばかりの炬燵に戻り アスパラ菜姫の如くに守り来て黄金の蕾今朝見つけたる 鈍色の空に群れるはヒヨドリか百舌は今年も早贄残す今日の歌(2024.11.20)

  • 闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)

     イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)

  • 光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)

     さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21) それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ま...光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)

  • 今日の歌(2024.11.12)

     来年の歯医者の予約印せしは真っ新な日記そは生きんとす 人知れぬひづちの垂り穂さはあれど雀群れたりテンも駆け行く (ひづち稲の刈り株から伸びた穂)今日の歌(2024.11.12)

  • しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)

     大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。(9) 群衆はイエスをキリストとして礼拝に来たのではなく、御わざに惹かれてやって来てラザロを見物するのである。御わざが大きければ大きいほど人はわざに心を奪われて、主を礼拝すること、みことばに従順することを蔑ろにするのは、主ご自身を求めない的はずれである。 今も神の御わざはみこころのままに成されるが、主はラザロの穏やかな日常を奪うような位置には置かれなかった。平凡な日々の中で無数に発生している癌を癒やし、トラブルをそっと執り成し、災いから守り導いて生かし、関係をも執り成して平和を備えていてくださる主。 それがあまりにもさりげない方法なので絶え間ない...しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)

  • ユダの言葉(ヨハネの福音書12章)

     さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。(1~2) よみがえりという大きな祝福を受けたラザロは、人々の中にごく普通のありふれた様子で混じっていた。キリストの証人の荷は軽く負いやすい。彼はイエスの友として今まで通りの平安に居た。 イエス・キリストを信じて罪の赦しをたまわった時、その喜びと感謝のゆえに「さあ、何をするべきか」と落ち着かなくなる。それまでは頂き物をして受けたままに喜んで居ると非難され、必ずお返しすることを求められて来たから、何かをしなければならないと思うのである。 「イエスさまの十字架のお苦しみを私はまった...ユダの言葉(ヨハネの福音書12章)

  • 今日の歌(2024.11.07)

     干し柿に触れて過ぎ行く風小僧 はやにえのトカゲの命受けて飛べ百舌は鳴きたり風強き日も今日の歌(2024.11.07)

  • カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)

     すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。(44~45) イエスは神のわざによってラザロをよみがえらせ、創造主なる神の愛を不信仰な者に見せてご自身を証された。 たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38) 今、イエスの御わざを直接見ることが出来ない者に聖霊が遣わされて、みことばを信じる信仰を助けていてくださる。イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見な...カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)

  • 今日の歌(2024.10.31)

     特売の蜜柑並べて午後3時 コスモスにご苦労様と土返し冬の支度のパンジー選び今日の歌(2024.10.31)

  • ラザロのよみがえり ②(ヨハネの福音書11章)

     彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。(27~29) イエスの御名を聞くとマリアは直ぐに立ち上がった。胸にあるいっぱいの悲しみと、訴えたい言葉を抱えて駆けて行ったであろう。唯一の救い主に。 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。(30) 葬式の混乱の中にイエスは入って行かれない。其処に在るのはサタンの祭りである。神のものであるべき命を奪った、サタンのどんちゃん騒ぎなのである。この中に入って行って大見得を切って、見世物のようにラザロよみがえら...ラザロのよみがえり②(ヨハネの福音書11章)

  • 今日の歌(2024.10.27)

     朝顔のブルーが覆う曲がり角 坂道を悩みつ登る投票所思い書けずに虚しく下る今日の歌(2024.10.27)

  • ラザロのよみがえり ①(ヨハネの福音書11章)

     さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。(1~2) マリヤはイエスが来られると、お側に座ってみことばに聞き入る人であった。彼女はイエスの葬りを察して高価な香油を捧げるほどにイエスを愛していた。 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(3~4) マリヤたちはイエスに知らせることで、すぐにラザロは癒やされると信じていたことであろう。...ラザロのよみがえり①(ヨハネの福音書11章)

  • みことば

     汝ら静まりて我の神たるを知れ(詩46:10)みことば

  • 今日の歌(2024.10.24)

     秋雀宿を一つの同居人 雀との同居にすっかり慣れてしまって、羽を散らされても、糞を落としても動じなくなった二年目の秋。ウオーキングの田に群れる小鳥たちに勝手に親しみを覚え、牛の「モー」という声に立ち止まって姿を見たいものだと、多分牛舎と思しき建物を何時も眺める。 遠距離通勤の息子と早朝に起き出して主を礼拝する。「主の祈り」から始まってみことばを交読し、「アバ父」なる神に感謝を込めてお祈りする。私はみことばから祈り、息子はみことばと祈りのこの「時」を感謝する。私も年寄りであり、明日が約束されている時代でも無い。この時が守られていることは本当に主の恵みである。明日のことは主だけがご存じであり、彼が祈る度に貴重な今日を意識して、備えられたこの時に深い感謝を覚えて私は「アーメン」と言う。 今朝はウォーキングの帰り...今日の歌(2024.10.24)

  • わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)

     わたしと父とは一つです。ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31) イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。 しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32) イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするの...わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)

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