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あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。(Ⅱ:10~11) キリストの教えに留まらない者を受け入れてはならないとある。彼らは「神を持っていない」とあり挨拶もするなとある。教会では誰とでも親しく挨拶をし、主の兄弟姉妹としての愛によって、相手の信仰によって態度を変えることもしなかった。しかし此処ではヨハネの厳しい言葉から、彼らがキリスト信仰を妨害するだけの者だとわかる。 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいる...神の子の証(Ⅱ~Ⅲヨハネの手紙)
長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは永遠に変わることは無く、真理の中にあると励ましている。 聖書に婦人が語ることを禁じている箇所があるが、神は婦人と共...婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)
この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さのうちに御霊が臨まれたのである。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩...永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(1~2) イエス・キリストに無条件で赦され、命を捨てるほどに愛された者は、神の御愛を経験しうちにキリストが形作られ、みことばがこの身になりますようにと、祈り求めるようになる。 いのちの主を愛しみことばを愛して、キリストの愛によって兄弟を愛するとき、たとえ責めているようでも教えているようであっても、心はキリストの平安に守られている。 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ...世に勝つ者(1ヨハネの手紙5章)
私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って偽りの霊を見分ける。 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神か...神から出た者(1ヨハネの手紙4章)
地上で主の記念となる場所や、歴史的な行事を伝える事も良いけれど、今や切実に必要なのは、救われた者の霊のうちに在って、平安を守る三位一体の神の宮の事実である。日々に変化し続ける弱い体や、絶えず揺れ動く感情、それらのど真ん中にあって、何時までも変わることの無い永遠のいのちのことである。 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。(13) 神の臨在は感じるものではなく、見るものでもなく、みことばに拠る交わりであり、それによって悟る永遠の望み真実の存在である。キリスト者は此処から流れ出るいのちに安息して生きる者である。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざ...内住の神の確信(Ⅰヨハネ4章)