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まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18) イエスは、ペテロの生涯が主の導きの中に在ることを伝えられた。それは決して安楽な将来ではないけれど、主のみこころを誤りなく成し遂げる約束である。彼はすでに主の良きご計画の中に在って、その命は主に在る栄光をたまわっていたのである。 イエスとのコミュニケーションを持つ祈りの大切さは、みことばによって主が備えて下さっている将来を確信して、今日を誤りなく生きる平安が満たされるためである。キリスト者がどのような死に方をするか、それがどのようであろうと主の備えの中に在るなら、命のことで一喜一憂する必要...ペテロを証するヨハネ(ヨハネの福音書21章)
イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。(14) 主はペテロの傷を癒やして新しくし、みこころに生きるために来られた。みこころを行うには、自分の使命に目が開かれる必要がある。またそれを行ううちに、サタンに責たてられて弱り果てることがないように、イエスとの親密な関係による赦しの確信が必要である。 イエスはペテロに来られ、癒やしの中で人を獲る漁師としての具体的な働きを示された。神より発したことは神によって成り栄光が神に至るのであり、すべては主の御約束によって成ることを明確にするためである。 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ...「あなはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章)
みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:30~31) 聖書にはイエスの御わざの一端が残されているのであろう。イエスは世に居られる間、寝る間もなくて疲れ果てるほどに働いておられた。それゆえ、その地にイエスを知らない人はいなかった。 イエスが知られていたということは、神がどのようなお方であるかをイエスを通して知ったのである。ただ、自分たちの期待通りではなかった人々が、何を見ても聞いてもイエスを神とは認めなかったのだ。彼らはイエスが神を冒涜していると言って殺したが、彼らこそ自分自身を神としていたのである。...みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)
マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。(18) マリヤはイエスが生きておられることと「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と言われた言葉を弟子たちに伝えた。 福音を伝えるには技術も能力も要らない。自分が見たこと聞いたことをそのままに伝えるだけ。今は、聖霊がすべてを備えていてくださる。救いの喜びに溢れて、出会ったイエスのみことばを語るだけである。そう、幼子のように・・。 人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。(ルカ12:11) 公にお偉い人の前に引き出されて、証言するときでさえ心配がい...聖霊を受けなさい(ヨハネの福音書20章)
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。(1) マタイには「もう一人のマリヤ」も一緒だったことが書かれてあり、此処ではそのことは省略されているが、ルカにも「彼女たち」とあるので事実は二人であったと思われる。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2) 此処にも「私たち」とある。この経験は混乱状態の中にあったことが分かる。まさか、死体が消えるとは想像もできないからであり、ましてそれが愛する方であればなをさらである。 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが...空の墓(ヨハネの福音書20章)
その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。(31~32) 「安息日に死体が残らないようにする」形として目に見えることに彼らが熱心であることがわかる。それで神に忠実に仕えていると思っていたが、イエスが御わざとともに原語で神のメッセージを語っても、耳を閉ざす彼ら宗教者の霊は死んでいた。 イエスを憎んだのは、彼らの宗教が破壊されることを恐れたからである。目に見える所によって尊敬され生活が成り立っており、それを繰り返し続けることに満足している彼らには、救い主は必要では無かったからであ...備えられる働き(ヨハネの福音書19章)
イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。(25) イエスの十字架の側に立得るのはイエスを愛する愛に拠ることである。弱い女が大の男も逃げ出す十字架刑の側に留まっていたのである。彼女たちは最後まで「何かしてあげられることはないか」と愛するイエスを離れなかったのである。 御救いに与ってみことばに聴き入るとき、その恵みのことばを知らせるために、何か自分に出来ることはないかと我を忘れて走り回り、何でも出来ることをしようとする原動力は、イエスの愛を受けたからである。十字架で支払ってくださった尊い血の代価を知っているからである。 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご...わたしの母とは(ヨハネの福音書19章)
ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。(16) イエスを十字架に付けたのは兵士であったが、此処でピラトがイエスを「彼らに引き渡した」とあり兵士にとは書かれていない。ピラトはそれまで話していた彼らユダヤ人にイエスを引き渡し、彼らはイエスを好きにしたのである。 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。(17~18) 人がどのようにイエスを扱おうとも、すべては神の初めの計画の通りであり、イエスは御父のみこころを行って十字架を負われたのだ。世に居られる間すべてに御...ユダヤ人の王ナザレ人イエス(ヨハネの福音書19章)
ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。(7~8) 律法を盾にしてイエスを十字架に付けたことによって、結果的には彼ら自身で神の計画を遂行したのである。しかしその役割りは悲惨であり、神から出た方法ではなく、彼ら自身が選び取ったことである。 人は色々な役割りを負って生きてそれを成す。しかし彼らの負った役割りほどに、その子孫に悲惨を負わせるものはないだろう。それでも神は、約束の民イスラエルを切り捨てることはなさらないが、この言葉の代償はあまりにも重いものとなる。 若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか(イザヤ54:6)神はイスラエルを妻と呼んで永遠の愛を誓っておられる...神の真実による救いの備え(ヨハネの福音書19章)
過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。(18:39~40) ピラトの思い付きはイエスを釈放するためであったが、ユダヤ人たちはそれを許さなかった。彼らの欲望はイエスを殺すことであり、ピラトは支配しているはずのユダヤ人に支配されて計画は挫折した。罪なきイエスが殺されて、死刑になるべき強盗が生かされることを望んだユダヤ人の義は、此処で完全に倒錯している。それは神のかたちに造られた人を離れて、悪魔に心を乗っ取られたことを現している。 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せ...憐みの無い獣の心(ヨハネの福音書19章)
さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。(28) 彼らは、異邦人の庭に入って身を汚すと過ぎ越しの祭りを祝えなくなり、肉の欲求であるご馳走が食べられなくなることを恐れた。イスラエルはローマの支配下に在っても、彼らを汚れた異邦人として軽蔑しており、神の選びの民である自分たちは、律法を守る聖なる民族であると確信していたのである。 それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。「この人に対して何を告発するのか。」彼らは答えた。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」(29~30) 汚れている異邦人に救い主なる王を差し出して殺させ、自分たちは過...わたしは真理です(ヨハネの福音書18章)
ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。(16~17) ヨハネが問われないことをペテロは問われている。ペテロの恐れが見透かされるからである。そうしてペテロは悪魔が仕掛けた罠に堕ちて、主イエスとの関係を否定した。恐れがあるならヨハネに誘われても断れば良かったのである。中途半端な信仰によって窮地に追い込まれるのはみことばを握っていないからである。 キリスト信仰に置いて窮地に立たされた時、すべてに通じる解決方法は、即座にイエスに命を託すことである。死はすべての問題を解決するからであり、キリスト者の肉...中途半端な信仰(ヨハネの福音書18章)
シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。(15) もうひとりの弟子ヨハネは、イエスについて行くことにためらいがなかった。それは、知り合いの家というだけではなく、何時でもイエスの最も近くに居ることが「イエスの愛された弟子」には当然だからである。 彼はイエスの愛を確信して安息していた。愛されていることを一ミリも疑わなかったので、彼のうちにはイエスの愛が充満しており、十字架の側に居て、マリアを母として託される御声を聞いたのである。 イエスをどのような方と信じるかが、その人が経験するイエス・キ...イエスが愛された弟子(ヨハネの福音書18章)
シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(10~11) ヤコブとヨハネが求めた杯。しかし、イエスの杯には恐怖が詰まっていた。それはイエスが経験したことのない罪が満ちおり、身代わりの十字架は、義であり聖である神に死にまで従順して、負った汚れのゆえに捨てられることであったから。 ペテロとヤコブが、イエスの左右の座を求めた時イエスは言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。(マタイ20:22)彼らは誓った通りに自分...神がくださる杯(ヨハネの福音書18章)
これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。(1) イエスが弟子たちと共に歩かれるのはこれが最後であった。弟子たちの帰り道にイエスはおられなかった。すべてのことには時があるが、今がどのような時であるかを人は知らない。でも、主はすべて知っていてくださる。それがキリスト者の慰めである。 イエスは天に永遠の住まいを備えていてくださる。それゆえ今日主と共に歩くことを楽しみ、一時ひとときをみことばに耳を傾けつつ、あっけらかんと喜んで生きることが出来るのだ。 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリ...イエスに倒されたとき(ヨハネの福音書18章)
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20) 使徒をはじめ、弟子たちのためのイエスの祈りは、彼らによって救われた異邦人の私たちに対する祈りでもあった。イエスはこのとき世界中の、すべての時の中で救われて行く神の子どもたちのために祈られた。聖霊が教えることは今生きる一人ひとりの「私」のためにも祈ってくださったことである。イエスの祈りのゆえに、主に信頼するキリスト者の永遠のいのちは神に守られている。この平安のうちにキリスト者は生きている。 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるた...イエスに在って一つ(ヨハネの福音書17章)
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。(11) すべては天地創造の神のものであり、イエスは御父のみこころを行って父のものを受け継ぐ方である。イエスに救われ子とされたキリスト者も、みこころを行って御父のものを受け継ぐことになる。それはいのちである。すべてのいのちは創造主なる神のものであるから。滅びから救われるべき名は世の初めから終わりまでただ一つであり、罪を取り去ることが出来るのはイエス・キリストだけである。それは天地創造の父なる神から御子イエスが従順を通して与えられた権威による。 イエスは神にキリスト者を「一つにしてください」と祈られた。...みことばの成就のために(ヨハネの福音書17章)
わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。(4) 嘲笑と鞭と鋭い棘の茨の冠、強盗と一緒に十字架に曝されているイエスに誰が神の栄光を知るであろう。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:4~5) 人は目の前で見ていることがすべてであり自分に重ねて判断する。イエスは私たちの罪と言う病を負い私たちの痛みを担われた。しかし、十字架を目の前にした群衆が、イエスが成された力ある神のわざ、憐みの御わざを思い出...イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)
「マタイ福音書 初心者向け解説」でイエスの教えや奇跡を簡潔に学べる!旧約聖書とのつながりや信仰の基本をわかりやすく紹介します。
これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。(1) 父のみこころにより、人類の罪を負って十字架で死刑にされるためにイエスは産まれてくださった。これがクリスマスである。御子イエスの誕生を喜ぶのは、神の義を成す完全な聖さを持つお方であり、その聖さのままに人となってくださったイエスは、人類代表としてすべての罪を完全にあがなうことが出来ように、神がつかわしてくださった唯一の救い主。 神の栄光はご自身の作品である人類を、御子によってサタンの持ち込んだ死に勝利させ、創造の初めのご計画の通りに、神の子たちが主をあがめる賛美の中で永遠を共にすることである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいの...メリークリスマス(ヨハネの福音書17章)
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。(14~15) 三位一体の神は、創造主なる神に反抗して罪の中に留まっている者を、死という永遠の滅びから救って新しいいのちを与えるために、御子イエスの命を身代わりとして罪を清算して神の義を行い、罪人に永遠の愛を示してくださった。人にとって、この事実以上に重要な知識があるだろうか。御霊はこの神の愛を私たちの霊に来て知らせ、イエスを信じる勇気を与えてくださる。 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」そこで、弟子たちのうちのある者たちは互...イエスが備える交わりのとき(ヨハネの福音書16章)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1) 弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。 まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。 疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守って...真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20) キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。 ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続...初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(10) 御父の戒めイエスの戒めとは御愛の中に留まること。主の愛に応答して愛する方に聴き従うことは喜びとなる。その人が「なぜですか」と理由を問うことは無い。すべての疑問を封じるのは無条件の愛をたまわったからである。 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11) 命をたまわった主の愛を離れて何処に行けようか。イエスに安息している命は恐れを知らず、大胆にアグレッシブに生きるようになる。そう、父母と居る幼子は、愛の言葉に満たされて勇気凛々なのである。 わたしがあなたがたを愛し...みことばを聴いて溢れる喜び(ヨハネの福音書15章)
わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1~2) 神は私たちに対して熱心に働いておられる。実を結ぶ者にも実を結ばない者にも神の熱心は変わらず、誰一人放って置かれることも無視されることもない。すべての人の創造主だからである。実を結ぶ者にはもっと多くの実を結ぶことが出来るように必要を備え、実を結ばない者には、実を結ぶことを妨げているものを取り除き、神の光りの中に留まる者を養ってくださる。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(3) 主に留まって成った実はみな聖い。みことばを食べて成長したからである。食べたものによって人は成長する。...わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27) キリスト者の平安はイエスに拠って約束されている。それは十字架の御わざによって、罪に滅びる死に勝利してくださった永遠のいのちである。必ず万民に訪れる死に勝利している平安である。 死以上に人を脅すものはなく、イエスのみことばを真っ直ぐに受け取った者は、どのような世にもひるむことのない勇気を得る。十字架の恥と苦痛をしのばれほどのイエスの愛に、満たされて生まれる勇気である。 「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたが...みことばの保証②(ヨハネの福音書14章)
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(18~19) 十字架の後に残される弟子に、イエスは「捨てて孤児にすることはない」と約束された。イエスと共に地で働いて来た弟子にとって、迫害の日々に必要なものはみことばである。イエスが十字架の死を経て墓に葬られ、三日目によみがえられるとき、弟子もまたイエスと共によみがえりのいのちを得て、御父のもとで永遠に生きる者となる。 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛し...みことばの保証①(ヨハネの福音書14章)
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(12) 計画を完了して父の右の座に帰られたイエス・キリストを信じる者は、イエスのように神から出たわざを成すようになる。神であるイエスが人となって肉の体を纏って来てくださった。私たちと同じように世で生きても罪を犯されることはないが、限りある体の不自由と弱さを経験してくださった。体の恐れは死である。キリストから永遠のいのちたまわった者は、生きるための遣り繰りから解かれており、イエスの備えてくださった永遠のいのちに安息している。 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがた...キリスト者の奇跡(ヨハネの福音書14章)
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 人は良い事にも悪い事にも心騒いでその事柄に釘付けになることがある。主から目を離して見える所には、光りの御使いに変装したサタンが、いよいよ惑わして滅びに引き込もうと待っている。 十字架のキリストは人には嫌悪したくなる御姿である。それゆえ人は十字架を語ることを避けたいのだ。目の前の出来事によってイエス・キリストへの信頼が揺るぐことがある。そのときは聴き続けたみことばを反芻し、十字架で完成してくださった御わざに留まるなら、そう、イエスの完全な赦しの中に留まるときに、たとえ自分の姿がどのようであろうとも、御わざに安息することが出来るのである。 神が備えてくださった救いの十字架の下で、感謝にあふれ喜びの礼拝を捧げ、みこころを行う力を...イエスによって神を見る(ヨハネの福音書14章)
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。(31) イエスが受けられる栄光は十字架であり、それはまだ起こっていないけれど、サタンが働き始めることを止められなかったので、それはすでに起こったこととなる。 神が死ぬべき体を纏って地に下ってくださったイエスの栄光は、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、弟子に裏切られ、負われた罪のゆえに御父に見捨てられて死ぬことである。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53;10) 主はユダがこれから果たす役割をすべてご存じであり、恐れと苦難の十字架に向かって進まれる。それは...イエスが受ける栄光(ヨハネの福音書13章)
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(21) イエスは今まさに、一粒の麦となって死んでいのちを与えようとしておられる。しかし、ユダがサタンに従い悪名を残して滅びゆくことに心を痛められ、平気おられたわけではないのだ。主はいけにえを喜ばれないからである。 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。(22~23) 此処にユダとヨハネの違いが明確に現れている。ヨハネが「イエスが愛された弟子」と称して恐れることがないのは、自分を見ることなくイエスに信頼してのことである。主であ...サタンに導かれて闇に出て行くユダ(ヨハネの福音書13章)
イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。(12~13) イエスは唯一世の初めから終わりまでを知る先生であり、すべての造り主である。主は、裏切るユダの足さえ洗って仕える者の愛の姿を示された。ただ、裏切る者を排除するなら、誰の足も洗うことが出来ないのだが・・。 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。(14~15) 互いの足を洗い合う必要は、世を生きて行く弟...互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(1) イエスの愛は永遠に変わることがない。それは七の七十倍の赦しの中にあってのことである。イエスの十字架に感謝して救ってくださった愛に応答しようとする者には、彼らの失敗や成功には拠らぬ真実な神の愛がある。 弟子はキリストの御わざを宣べ伝える証人である。主は彼らの必要を満たされる。キリスト者にも働きを受け継がせるために、欠けを覆って罪を洗いきよめられる。思いが汚れているならサタンに支配されるのだ。 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。(2) イエスに満ち足...イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21) それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ま...光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)
しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)
大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。(9) 群衆はイエスをキリストとして礼拝に来たのではなく、御わざに惹かれてやって来てラザロを見物するのである。御わざが大きければ大きいほど人はわざに心を奪われて、主を礼拝すること、みことばに従順することを蔑ろにするのは、主ご自身を求めない的はずれである。 今も神の御わざはみこころのままに成されるが、主はラザロの穏やかな日常を奪うような位置には置かれなかった。平凡な日々の中で無数に発生している癌を癒やし、トラブルをそっと執り成し、災いから守り導いて生かし、関係をも執り成して平和を備えていてくださる主。 それがあまりにもさりげない方法なので絶え間ない...しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)
さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。(1~2) よみがえりという大きな祝福を受けたラザロは、人々の中にごく普通のありふれた様子で混じっていた。キリストの証人の荷は軽く負いやすい。彼はイエスの友として今まで通りの平安に居た。 イエス・キリストを信じて罪の赦しをたまわった時、その喜びと感謝のゆえに「さあ、何をするべきか」と落ち着かなくなる。それまでは頂き物をして受けたままに喜んで居ると非難され、必ずお返しすることを求められて来たから、何かをしなければならないと思うのである。 「イエスさまの十字架のお苦しみを私はまった...ユダの言葉(ヨハネの福音書12章)
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。(44~45) イエスは神のわざによってラザロをよみがえらせ、創造主なる神の愛を不信仰な者に見せてご自身を証された。 たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38) 今、イエスの御わざを直接見ることが出来ない者に聖霊が遣わされて、みことばを信じる信仰を助けていてくださる。イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見な...カヤパの預言から(ヨハネの福音書11章)
彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。(27~29) イエスの御名を聞くとマリアは直ぐに立ち上がった。胸にあるいっぱいの悲しみと、訴えたい言葉を抱えて駆けて行ったであろう。唯一の救い主に。 イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。(30) 葬式の混乱の中にイエスは入って行かれない。其処に在るのはサタンの祭りである。神のものであるべき命を奪った、サタンのどんちゃん騒ぎなのである。この中に入って行って大見得を切って、見世物のようにラザロよみがえら...ラザロのよみがえり②(ヨハネの福音書11章)
さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。(1~2) マリヤはイエスが来られると、お側に座ってみことばに聞き入る人であった。彼女はイエスの葬りを察して高価な香油を捧げるほどにイエスを愛していた。 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(3~4) マリヤたちはイエスに知らせることで、すぐにラザロは癒やされると信じていたことであろう。...ラザロのよみがえり①(ヨハネの福音書11章)
わたしと父とは一つです。ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31) イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。 しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32) イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするの...わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19) イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。 イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶...わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(11) 良い牧者であるイエスは、神の最上の計画を持って地に来てくださった。罪の報いである滅びの死から贖い出し、神の子として生かすために、すべての人の罪を負って十字架に死に、三日目に墓からよみがえり、神の計画を成し遂げて御父の許に昇られた。イエス・キリストのこの御わざを信じる者を、神の家族として迎え入れ永遠を共にしてくださるためである。 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。(12~13) 自分のものではない羊のために狼と戦って命を危険にさらす者は無く、雇い人は羊を支配して危険...わたしは門です②(ヨハネの福音書10章)
「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。(1~2) 羊に例えられるキリスト者は神の牧場で養われ、キリストと共によみがえらされたいのちは永遠を生きる。神の牧場の門はイエス・キリストだけであり、キリストの十字架の血潮に拠って罪をあがなわれ、神との平和をたまわった者だけが通る門である。 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。(3) 羊は、牧者であるイエスが語るみことばを聞き分けるとあり、それこそ羊のいのちの言葉である。羊はその声を良く知っていなければいのちを失う。羊は牧場に閉じ込められているのではなく、彼らは囲...わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)
神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」(29) イエスを知らずに神を知ることはない。天地創造の神はご自身を知らせるために、ひとり子イエスを地に遣わされた。ひとり子のいのちを与えることに拠って神の愛を知るようになり、罪が贖われたことを知った者はキリストへの感謝に溢れて、「アバ父」と呼ぶ神の家族とされるのである。 神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。(ガラテヤ4:4~5) イエスを通らずに神を知る者はおらず、イエスに拠らずに神に受け入れられる者もいない。イエスを否定する者に在るのは永遠の滅びである。御子をたまわるほ...目が不自由な人の癒やし③(ヨハネの福音書9章)
人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。(13~14) イエスによる、神の大きな祝福のわざを見た人々がしたことは、律法を用いてイエスを裁くことであった。神の憐み深い御わざを目にした時に、その救いを素直に喜んで、神をほめたたえることが出来ない理由が律法に拠ることなら、その律法の用い方は的を外している。どこから間違ってしまったのか、神がどのようなお方であるかを、みことばに静まって聴くべきである。 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(15) 彼の言葉は、誰に対しても真実を語ってぶれるこ...目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)