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さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(1~2) イエスはその人を見て足を止められた。大きな祝福が彼の前に来たとき、彼は何時も投げつけられる言葉を聞いた。体の不自由さに加えて、自分と親を疑わせる呪いの言葉である。このような考えは日本にもあり、因果応報の考えはそれが他人事である人の、汚れた良心が神に成り代わって下す判決である。 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(3) 障害を持って生まれて来た人とその両親にとって、何と慰めと希望に満ちた言葉であろう。神の愛に満ちたこの言葉によって、...目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)
ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48) 悪魔はイエスの聖なる神と知っており、自分の口では言えない言葉を神に反抗する者に言わせる。神が御子をたまわるほどに愛している者の口から、イエスを貶め罵る言葉を語らせるのである。彼らにイエスがわからないのは、神に反抗する罪を慕って悪魔の言葉に聞き入っているからである。 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49) イエスを知るのは幼子の心である。造り主である神の言葉を喜ぶことが出来るのは、真理を慕う心から出たことである。賢い宗教家や学者たちが、自分の欲望に合わせた理屈に拠って失ってしまった創造主...わたしは世の光です⑤(ヨハネの福音書8章)
あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」(41) 彼らは「淫らな行いによって生まれた」と、処女マリアが結婚前に聖霊によってイエスを身籠った事実を、卑しい自分たちの想像によってイエスの出自を貶めているのである。彼らのひとりの父は、この言葉によって悪魔であることを現わしている。 彼らはこの時まで陰でコソコソと噂していたのであろうが、この時彼らの救い主イエス・キリストに向かって「淫らな罪の子」と言ったのである。人は自分の中に在るものを持って他を量る。罪を持っている者は相手にも同じ種類の罪の秤で量り、キリストに拠って聖くされた者は、きよさの秤で自他を量ることが出来る。 イエスは言...わたしは世の光です④(ヨハネの福音書8章)
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31) 何を持って信じたとするのか・・、イエスは心をご存じであり、守るべき者を守っていてくださる。ペテロはイエスを信じていたが、追い詰められた時に3度も関係を否定した。しかし、イエスは彼の弱さをご存じであり、信仰が無くならないように祈られて、ペテロは平安のうちにイエスに留まっていたのである。 信じるとは関係であり、長い信仰生活の中で主に信頼していても、弱さのゆえに危うい時があるが、主は人の弱さには同情してくださる方であり、砦となって守っていてくださる。ただユダの二心をもご存じである。二心の者はみことばを心に受け入れてはおらず、それゆえみことばの真実を経験することは無いので、時が来たらイ...わたしは世の光です③(ヨハネの福音書8章)
イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21) 彼らが自分の罪の中で死ぬのは、イエスをキリストと信じないからであり、彼らを選びみことばと力あるわざによって、神を証した方を殺すからである。賢さによって自分たちの救い主を葬るのだ。 神が遣わせてくださったイエスを救い主キリストと信じた者は、天に永遠の住まいをたまわり、天地創造の神と御子イエスと共に神の子として、永遠を生きるのである。 御わざを見ても、みことばを直接聞いても悟らず、この世に執着して永遠を求めない者は、肉の命が尽きる時に、恵みと憐みによって備えられた救いのための猶予は終了する。 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあ...わたしは世の光です②(ヨハネの福音書8章)
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12) 此処に姦淫の女もいただろう。イエスに赦された者は闇を嫌って光りを求めるようになる。神の愛が溢れる望みのみことばを聴き続けていたいから。人々に混じって耳を傾けていたであろう。闇から光りの中に移さ、みことばを生きるために。 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13) 宗教家たちはイエスによって語られる神のことばを否み、イエス・キリストに権威を返すことを拒んで、律法からイエスを否定する材料を捜している。しかし、律法を成し遂げるのはイエスである。 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思...わたしは世の光です①(ヨハネの福音書8章)
イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、(1~3) 人々がみことばに耳を傾けているイエスの教えの中に、割り込んで来たのは姦淫を犯した女を引き連れた一団であった。彼らは女の救いを求めて来たのではなく、神の義を求めて来たのでもなかった。 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(4~5) 得意満面の彼らの顔が浮かんでくる。彼らには女はイエスを追い込むための材料であった。愛を説くイエスには律法によって...罪を訴えさせるもの(ヨハネの福音書8章)
さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(45~46) 彼らはイエスのみことばに心を動かされたのである。それは、かって一度も聞いたことの無い神のことば「人があのように話せるだろうか」と気圧されたのであろう。イエスは、天地をも創造することばなる方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもなかった。(ヨハネ1:3) そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」...イエスの時⑤(ヨハネの福音書7章)
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)
さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(25~26) イエスのわざを見てメッセージを聞いた人たちから、イエスが命を狙われている意味が分かって来たのであろう。イエスの話されることは、宗教家たちとはまったく違っていたからである。その人たちはみことばからキリストに気付き始めたのである。 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27) ナザレの大工の子であることを知っている。イエスの出自を知っていることで彼らは躓いた。私たちの知って...イエスの時③(ヨハネの福音書7章)
ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。(11~13) 神を恐れる者は人を恐れないが、人を恐れて群衆に紛れている者が、天地創造の神を告白することはない。彼らは奇跡を見ても、イエスのパンを味わっても、イエスをキリストと証することはない。彼らは小声でひそひそとイエスを探し、遠くから見物するだけである。しかし、彼らはイエスに在るキリストのわざを見たのであり、その事実を認めずに、神が遣わされたイエスを礼拝しないことは、神に反抗する罪なのである。 祭りも...イエスの時②(ヨハネの福音書7章)
その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。(1) イエスは、十字架で死ぬことに拠って御父のご計画を全うするために地に下って来られた神の子であり、死を恐れてのことではなく時が満ちていなかった。父なる神のみこころを成し遂げるための時が必要なのである。神の愛をご自身によって知らせ、福音を伝え続ける弟子を育てなければならない。イエスの時は神の緻密なご計画に在るのである。 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。この...イエスの時①(ヨハネの福音書7章)
これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60) イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。 真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62) イエ...イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(41~42) 彼らがその疑問を大きな声で言えないのはイエスに神のわざを見たからである。目にしたこととイエスが話された言葉が合致していたのである。しかしその事実を認めたくない故に、仲間同士でイエスを否定する言葉を見つけて文句を言っていたのである。 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。(43) 小声の非難は良心に疚しさがあるからで、イエスは仲間の間でのそのような行為を「止めなさい」と言われる。それは神の真実から目...イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)
イエスは来る者を決して追い出さない ①(ヨハネの福音書6章)
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(36~37) 「父がわたしに与えてくださる者」とあり、初めに救われるべき者を選んだ神が、イエスに渡されたのである。人が神を見い出したのではなく、人の熱心が神の救いに至らせたのでもない。選ばれていた人は、神の良い計画に応答して救われるのである。 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ1...イエスは来る者を決して追い出さない①(ヨハネの福音書6章)
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)
夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。(16~17) マタイではイエスが彼らを舟に乗り込ませたとあり、このことは主から出たことであるとわかる。しかしヨハネの書き方には彼らの心細さが現れている。 強風が吹いて湖は荒れ始めた。(18) 暗い湖で風と波が出て来ても漁師であった彼らには経験があったろう。落ち着いて操作出来たと思うが、彼らはもう漁師の経験によって生きる者ではなく、イエスに依存する弟子であったのだ。 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(19) 水の上を歩くイエスを彼らは未だ経験して...霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。(9~10) 「何になるでしょう」という問いに対して、イエスはその場の全員を座らせるように命じた。主の御前に静まって座ることこそ、恵みを受けるために覚えておくことであり、事の重大さや数が問題ではなく、それは主を経験する舞台装置のようなものに過ぎない。キリスト者は卑近な事柄にも、御前に静まって主に聴かなければみこころを知ることはなく、御名をほめたたえるまでに至らない。その不自由さに聖霊の助けをたまわっているのだ。 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、...試される時②(ヨハネの福音書6章)
その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。(1~2) 恵みに与りたくて付いて来た人々に、イエスは御わざを味合わせ、彼らの必要を満たして命を養われた。今もみことばを通して神を知ることを求め、みことばに従い行く者にいのちの言葉を解き明かし、日々を養って永遠へと導いていてくださる。 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。(3~4) 過ぎ越しの祭りは主を喜ぶときである。イエスは彼らに喜びを準備してくださった。信じる者を生かす神がどれほど豊かに施すことが出来るお方であるかを経験させ、弟子には豊かに施す神に拠って働くことを経験させられる。 イ...試されるとき①(ヨハネの福音書6章)
もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32) イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。 そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16) あなたがたはヨハネの...神を恐れない宗教家②(ヨハネの福音書5章)
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(19) 「すべてのものはこの方によって造られ」(1:3)とあり、すべてはイエスによって造られた。今も、父なる神から発したことを一つになって、この地に行なわれている。人を愛する御父のみこころを行うために、イエスは栄光の御座を離れて、死ぬべき命の弱さを纏って人となり、罪に滅びゆく人類を惜しんで救い出し、ご自身を信じる者と、創造主なる神の御許で永遠を共にするためである。 イエスは、「父がしておられることを見て行う以外には、何も行うことができません」とある。「何もしません」ではなく「何も出来ません」とあり、御子で...キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)
ヨハネによる福音書について知りたいですか?この記事では、ヨハネによる福音書の著者、内容、特徴などについてわかりやすく解説しています。「霊的な福音書」と呼ばれるヨハネによる福音書に関心のある方は必見です!
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6) 死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。 彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入...神を恐れぬ宗教家①(ヨハネの福音書5章)
さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。(43~44) 故郷の人々は誰よりもイエスを良く知っていた。大工の子だけれど、実は結婚前に宿していた子。有名になっても御わざを目にしても、私たちの方が本当のことを知っている。サタンは刷り込まれた肉の記憶をフルに利用して御わざを攪乱するから、新しく生まれなければキリストに留まることない。 たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38) 御わざを信じるには霊の目が開かれることが必要であり、それは聖霊の働きに拠ることである。その時すべての良きことは...見えるしるし見えないしるし(ヨハネの福音書4章)
そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。(27) 弟子たちがイエスが語る奥義を聞き逃したのは、肉の糧に心を奪われていたからである。彼らがあえて質問しなかったのは、何となく自分たちの間違いを察して聞くことを恐れた。 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。(28~30) 彼女は町の人にもっとも触れられたくないことを持ち出して、キリストを告げ知らせた。それはイエスが満たしてくださったいのちの充満によって喜...自分でみことばに聴いてキリストを知る(ヨハネの福音書4章)
パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、(1)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4) イエスは宗教家の議論を避けて、一人の女が飢え渇きの中で待つサマリヤに行かれる。彼女をいのちの水に満たしてみこころを歩ませ、ご自分の食べ物となさるためであった。 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。(5~6) イエスは神であり完全な人であられ、荒れる湖の小舟の中で熟睡するほどに疲れ、50歳近くに見えるほどに体は酷...サマリヤの女(ヨハネの福音書14章)
その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。(3:22) 豊かにいのちの水をたまわるイエスに、また豊な流れのほとりのヨハネに集まって来て、キリストを求めてバプテスマを受けている人々。この人々の素直な応答はみこころに叶って素晴らしい光景であり、これこそヨハネの役割が進んでいる証である。 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があ...主の御許で生きる永遠(ヨハネの福音書3章)
ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。(9~10) 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」イエスのお言葉を、生まれながらに理解出来る人は居ないと思うが、あえてニコデモにレベルの高い答え方をされたのは、彼が「先生」と呼ばれていたからである。 あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8) 兄弟なら教え合う関係であり、ひとりの悟りを皆で分かち合うことが出来る。しかし弟子が先生に教えることは出来ない。誰からも教えられる必要のない先生は、イエスおひとりである。 イエスは一人の女の疑問に答えるために、わざわ...ニコデモの選択②(ヨハネの福音書3章)
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(1~2) ニコデモはユダヤ人の指導者であったが、イエスのなさっていたわざを見てとても素直な反応をしたのだ。これが幼子の心である。しかし、議員であり教師であるという立場に立ち返ったとき、人目を避けてひとりイエスを尋ねた。彼は、イエスのわざがキリストのわざなのか確かめたかったのだ。彼がわざを無視しなかったのはキリストを待ち望んでいたからである。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生ま...ニコデモの選択①(ヨハネの福音書3章)
その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(12) イエスは肉の家族、霊の家族と共に一時の安らぎを味っておられたのであろう。肉の家族を軽んじておられたのではなく、マリヤを愛して十字架でその身を案じヨハネに託されたほどであり、厳しい言葉は十字架に向かう公生涯に備えてのことである。今から始まる、神から発したものとは似ても似つかぬ宗教との戦いに備えて・・。 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持...イエスの怒り(ヨハネの福音書2章)
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。(1~2) キリストを知らないままにイエスを招くことが出来るのは、初めに神が選んいてくださったからである。キリストの初めての御わざの場となるとは、どれほどに祝福された婚礼であろう。私たちの救いもイエスを知らないままに御名を呼んで、一つひとつのみことばのご真実を経験して来た。神が初めに選んでいてくださったからである。このことは本当に一方的な神の恵みである。しかし主が招いていてくださるのに、キリストに頼らずに済む方策を持っていることで、選ばれている祝福を無にしてしまう。 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわ...カナの婚礼(ヨハネの福音2章)
その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。(43~44) 旧約聖書に書かれてあるイエスに出会ったピリポはどれほど感動したことだろう。大切な人に救い主の到来を伝えに走るピリポの様子が目に浮かぶ。 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」(45~46) キリスト者は目で見ていなくても、霊のうちに共におれるキリストを知って居り、聖霊はみことばを解き明かしてくださっている。また、...何を求めているのですか②(ヨハネの福音書Ⅰ章)
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35~37) ヨハネの言葉を信じた弟子が、イエスについて行くのは健全な反応である。彼らは師であるヨハネから、イエスがどなたであるかをしっかり聴いていたのだ。ヨハネはイエスに導く忠実な働きをしている。イエスの福音を聞きながら人の教えに留まり続けることは、その教師の無能を現わす。いのちは生きている限り成長を求めるものであり、それもキリストを求めることは、神に造られた者の健やかないのちの活動である。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、ど...何を求めているのですか①(ヨハネの福音書Ⅰ章)
さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:21~22) キリストはすべてのことに置いて罪人の真ん中に来て、罪に悩む病人の隣で生きてくださった。罪を犯されることはなかったが・・。聖いキリストが罪人に混じってバプテスマを受けられた。神のみこころを完成する栄光の十字架も、罪人の真ん中で受けられた。それはキリストが罪に染まることは無く、触れる者をきよめる方だからである。 イエスを神のキリストと証するものは、キリストご自身ではなく神のことばであり神のみわざであった。「わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」御...キリストご自身のバプテスマ②(ヨハネの福音書1章)
さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。(19~20) ヨハネがキリストについて明言出来るのは、彼自身が自分の役割を知って居り、母の胎に在るうちから彼の霊はイエスが神のキリストであると知っていたからである。 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤ...キリストご自身のバプテスマ①(ヨハネの福音書1章)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14) キリストは永遠のいのちに在る神の栄光から、罪によって死ぬべき人の体を纏い、人によって育てられて生きることの苦しみや痛みを知っていてくださる。高い所から見下ろして裁く神ではなく、救いのために十字架にまで下ってくださって、今も私たちの弱さの真ん中に居て同情してくださるお方である。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15) ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先に...私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)
神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(6~8) バプテスマのヨハネは母エリサベツの胎にいるとき、マリヤの胎に居られるイエスを喜んで踊った。彼は生まれる前から、キリストを知らせる使者の光栄を大いに喜んでいた。 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。(ルカ1:41) バプテスマのヨハネの生涯はイエスをキリストを証して、世の闇を照らす救い主を待ち望む人々に、キリストが来られたことを知らせ礼拝する道を備えた。 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから...生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)
天地創造の愛の神 イエス・キリスト (ヨハネの福音書 1章)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1~3) イエスは神とともに永遠の始まりであり天地宇宙を、神のみこころに拠って創造された方である。それもことばに拠って造られ、イエスのことばには無から有を創造する力があった。 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:1~3) ヨハネ書の書き出しは人の思考を破壊する。人はせいぜい処女マリヤから生まれたイエスを受け入れるだけで精一杯なのだ。しかし人は神に造られたものであり、被造物の...天地創造の愛の神イエス・キリスト(ヨハネの福音書1章)
ウィンズバッハ少年合唱団の【ヨハネ受難曲】がオンラインで見れます
ウィンズバッハ少年合唱団つづきで。 今度の日曜日、バッハのヨハネ受難曲がライブストリーミングされます。 合唱はウィンズバッハ。 アルト(かな?)のソリスト、テリー・ウェイってウィーン少年合唱団だった人かな。 こちらがリンク↓ www.br-klassik.de VPNで確かめましたが日本からも見れるはず。 見れなければVPNでドイツにいるふりして見ましょう。 18時5分からなので日本は夜中の1時かーー。 たぶんしばらくは見れる状態じゃないかな、と思うのです。 受難曲って自分ではイースターのイメージが強くて春に聞く感があってこの真夏に聞くって思わなかった。 ライブなので生です。 今、リハーサル頑…
私たちが見たこと、 聞いたことを、 あなたがたにも伝えます。 あなたがたも私たちと 交わりを持つようになるためです。 Ⅰヨハネ1:3 「初めからあったもの、 …
一二三神示 第十三巻 雨の巻 一二三神示『雨の巻』 全十七帖 構成 注目ポイント ・これまでの全十二巻の解説巻 ・七五三の意味 草木の喜び ・ヨハネ、イスラ、十二氏族(流れ) ・カイの御用、オワリの仕組み ・コト、マコト、大峠、御恩、御心の