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聖書の救い「聖書の神」 私は十代のころは神様を信じていませんでした。二十歳になって統一教会に入り、霊界があることがわかりました。 そして、27歳の時、聖霊体験…
聖書の救い③「感知される神」 「神さまはあなたの頭で理解されるような小さな方ではないんですよ。人に理解されるような神は、本当の神様ではないんですよ」と、優しく…
臨死体験と聖霊のバプテスマ「新しい歩み」 私は10分前と同じようにいすに座っているのですが、以前とは違う人間になったのです。聖霊を受けるというのはこういうこと…
臨死体験と聖霊のバプテスマ「統一教 卒業」 私は臨死体験を擁護するつもりはありません。事実、臨死体験において聖書に書かれている範囲を超えたことを語る人もいます…
臨死体験と聖霊のバプテスマ「聖霊のバプテスマ体験」 私が椅子に座って祈っていると、私がそのまま引き上げられ、祈っている自分の体を上から見ました。意識のある自分…
臨死体験と聖霊のバプテスマ」②「魂は今日、取り去られる」 1982年8月13に兵庫県の嬉野台生涯学習センターでおこなわれたバイブルキャンプに参加しました。プ…
「臨死体験と聖霊のバプテスマ」① 私は1982年の8月13日に「死ぬ」という経験をしました。 証をするにあたり、臨死体験について、客観的に説明しようと多くの本…
統一教会の体験談「聖霊のバプテスマ」 私のブログに質問がありました。「いつ原罪がわかったのですか」というものです。 1979年の時点で、統一原理の「原罪は姦淫…
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35~37) ヨハネの言葉を信じた弟子が、イエスについて行くのは健全な反応である。彼らは師であるヨハネから、イエスがどなたであるかをしっかり聴いていたのだ。ヨハネはイエスに導く忠実な働きをしている。イエスの福音を聞きながら人の教えに留まり続けることは、その教師の無能を現わす。いのちは生きている限り成長を求めるものであり、それもキリストを求めることは、神に造られた者の健やかないのちの活動である。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、ど...何を求めているのですか①(ヨハネの福音書Ⅰ章)
昨日はペンテコステ感謝礼拝でした~使っていないOneDriveの停止について
これは昨日講壇に飾られていたお花です。昨日は聖霊降臨感謝礼拝でした。イエス様の昇天後、聖霊が降って教会が出来た記念の日です。 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒行伝 2:1-4) みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人…
小さい者たちの一人でもが、失われることがないように、と、見渡して
「ローズンゲン『日々の聖句』」より、日々の聖書の言葉を紹介しています。聖書の言葉を中心に、生活に光が差し込むようでありたいです。
「ローズンゲン『日々の聖句』」より、日々の聖書の言葉を紹介しています。聖書の言葉を中心に、生活に光が差し込むようでありたいです。
コメント感謝します。長くなりましたのでこちらでお返事させていただきます。私は牧師さんや先生方の聖霊による体験については、お話を伺ったことも質問したことも無いのです。教派にも関心がないので全く知りません。なのでご質問にちゃんと答えられるかわかりませんが、私の知る限りを子羊さんにお話しできることは嬉しいです。 自分の経験からお話します。私の聖霊のバプテスマの体験は、台所での突然の出来事でした。キリストの十字架の赦しときよめを焼き付けられる経験でした。まだ、洗礼も受けておらず「聖霊のバプテスマ」という言葉さえ知らない時でした。ただ真理を求めていました。 異言は後に知識を得てから求めて与えられました。初めは霊の賛美でした。それから言語として流暢に話せるようになりました。ただその言葉の意味はわかりません。その後に...子羊さんへ
聖霊のバプテスマについては、三十年以上出来るだけ触れないで来たが、最近は避けられなくなって繰り返し書いている。すべてのキリスト者の必要を覚え、みこころが成就することを願って祈りつつ・・。 水のバプテスマも沈められて死を通り、よみがえって新しくされることを現わしているが、それは自らが希望して受けるのに対して、聖霊のバプテスマは、この世ですべての力を失って、死んだ状態に閉じ込められた者に対して、神の霊が臨んで生かされる力である。 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。(マタイ26:35) イエスの十字架を前にして使徒たちは決心を語った。しかし、十字架刑に際してヨハネ以外は皆逃げたのである。そのとき使徒たちは...世で終わった者が受ける聖霊のバプテスマ
水のバプテスマと聖霊のバプテスマは違うものである。ヨハネのバプテスマと、キリストのバプテスマが同じではないことは、ヨハネ自身が言っている。 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。(マタイ3:11) 聖霊のバプテスマを授けられたときに、キリストの十字架のあがないが確信となり、歓喜のうちに罪責感からの完全な解放が与えられる。御救いを備えてくださった父なる神の愛に浸されて「みことばに従わせてください」と切に求めるようになるのだ。 神の御愛に満ち足りて子とされた喜びを味わい、絶えることのないお交わりの中で生きるとき、そこに愛の貧困は存在し...聖霊のバプテスマと水のバプテスマ