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主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。(10) 主はヨシュアに何ゆえにひれ伏しているのかと問われる。それは天地創造の神を恐れる者の絶えざる礼拝なのか、失敗の罰を恐れてなのか、何を得ようとしてなのか・・。ヨシュアは今、訳も分からないままにひれ伏している時ではなく、早急にみこころを行わなければならない。 イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。(11) アカンの罪は、今やイスラエル全体を汚し主に受け容れられないものとした。イスラエルは神にとって一つの愛の対象であり、リーダーを通しての交わりの対象である。 それゆえ主の命令に背く一人の罪は、全体を汚すパン種の侵入であり、神...なぜひれ伏しているのか②(ヨシュア記7章)
翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。(12~13) 主に在って働く者は、みな主をほめたたえる喜びに満ちて、朝早く起き出して来てみこころを行う。此処に勇ましいときの声はまだ無く、ただ、主の臨在を知らせる角笛を聞きつつ進んだ。 彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。(14) 黙々と町囲いを回るだけの従順は、リーダーを信頼してのことである。ヨルダン川を渡って、ヨシュアに居られる主を経験してのことである。敵を目前にして歩くだけの六日間は、主に魂を平伏させる訓練の時であり、みことばに殉じて自身...みことばの愚かさに在る祝福③(ヨシュア記6章)
祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」(5) 主がヨシュアに告げられた勝利の計画は、難しいことではなく幼子にも出来ることであった。キリスト者は聖書と聖霊によって状況の良い時も悪い時も、永遠のいのちに至る勝利をたまわっている。ご真実な神は出来ないことを命じることは決してない。人の出来ない困難のすべては、キリストが十字架で負ってくださったゆえに、主のくびきは負いやすいのである。 ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」(6) 祭司の役割は民の前で、主を頂いて喜びほめたたえることである...みことばの愚かさに在る祝福②(ヨシュア記6章)
エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。(1) エリコは、イスラエルを恐れて門を堅く閉ざしていた。彼らの恐れはイスラエルの神の御わざを聞いていたからである。門を打ち壊して入って来る敵に向かって一斉に迎え撃つことは、それほど困難とは思えなかったのだろう。 彼らが本当に神を恐れることを知っていたなら、門を開けて降伏し命を求めただろう。神に勝利する戦略ではなく、創造主を悟り、命を願い求める謙遜があれば滅びなかったであろう。ラハブはそのようにして家族ぐるみで命を得たのだ。 それゆえ先に救われた者は、世に向かって神が愛であることを知らせ、一人でも多くの人が聖霊の助けの中で謙遜にされて、天地の創造主である神を悟り、永遠のいのちの救いに与られますようにと祈るのである。 主はヨシュア...みことばの愚かさに在る祝福①(ヨシュア記6章)
ヨルダン川の反対側、すなわち西側にいるアモリ人のすべての王たちと、海沿いにいるカナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前で、彼らが渡り終えるまでヨルダン川の水を涸らしたことを聞くと、心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった。(1) イスラエルの為になされた神のわざは、ラハブたち異邦人にも力ある神の存在を知らせていた。キリスト者が人々に責められている時、天地創造の力ある神が味方であることを証してくださる。恐れることなく弱さを曝らすことは、そこにある主の助けを世が見る時ともなる。私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。(1コリント2:4) 弱さを持っている者が主に信頼してみことばに従い、問題だらけの世で平安に生きることは、それだけ...ヨシュア自ら割礼を施す忠実(ヨシュア記5章)
「わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11) 神抜きの正義は罪である。如何なる理由があろうとも、人は「先立つみことば」の正義を求めなければならない。サタンは肉を刺激して正義を焚きつける。戦争はいつもそのようにして始まる。「悪の限りを尽くそう」と戦争を始める国はなく、みな自分たちの正義を翳す。神抜きの正義は悪魔の罠であり、彼らは巧みに物事の本質をすり替えて、信頼するべき神の正義から目を背けさせる。 不信仰な場に集まって結束することは、信仰によって集まることよりもはるかに易しくその結束は堅い。其処ではキリスト...キリストの身丈にまで達する信仰を求めて
あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところに、それを必ず連れ戻さなければならない。もしその同族の者が近くの者ではなく、あなたがその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜しに来るまであなたのところに置き、それから彼に返しなさい。(1~2) 「同じ民族なのだから互いに助け合いましょう。」というだけのことではなく、この命令は自分よりもずっと豊かな人を助けることもあり、「あの人よりはマシ」と思うことが救いになっている人の牛であったりもするだろう。助けるのは、それが神の愛される民のものだからであり、主を恐れて従順する信仰に拠ることである。 女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の衣服を着てはならない。このようなことをする者は...あなたがたの日々が長く続くように(申命記22章)
さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(1) 蛇は賢さをもって、神の愛の中に居るエバを誘惑した。サタンの使いである蛇がこのようなことを仕掛けるのは、神の愛を失ったものの激しい妬みからである。蛇は神の完全な愛の中に在るアダムたちを羨んで、自分たちと同じ目に合わせたいと、善悪を知る知識の木の側で待ち構えていたのである。神が警告された木に近づくことは危険である。 神の愛から切り離す方法がみことばの否定であることを、サタンは経験から知っている。天使であったサタンはみことばに従順せず、神のようになろうとして神の愛を失ったからである。エバを同じ道に引き込もうとした言葉は「神のようになる」であっ...エバの言葉に寄り添うサタン(創3章)
あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺された者が野に倒れているのが見つかり、だれが殺したのか分からない場合、あなたの長老たちとさばき人たちは出て行って、刺し殺された者から周りの町々への距離を測りなさい。(1~2) これは殺人罪を負わせられる危機、人は神の作品であり人を傷つけることは神に対しても重大な罪である。近くの者から、無罪が証明されるのは疑いが身近な者にかけられるからだ。 そして、刺し殺された者に最も近い町が分かれば、その町の長老たちは、まだ使役されたことも、くびきを負って引いたこともない雌の子牛を取りなさい。その町の長老たちはその雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、絶えず流れる谷川へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。(3~4) 誰のために...主の御名によって祝福を宣言する者(申命記21章)
主人の亡くなられた奥様の弟さんご夫妻とお会いすることになりました。贈り物に刺繍リースを作ることに。オリジナルの図案を描いてみました。Face 信仰Hope 希…
みことばのフレームを製作しました。母の日の贈り物ということでオーダー頂いた作品です。ご年配のお母さまへ、とお聞きしましたので、可愛く温かいお色味のお花たちを選…
Rejoice evermore 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。テサロニケ人への第一の手紙 5:9-10 前回の記事の冒頭でも用いた聖句「どんな人でも上から新しく生まれなければ神の国を見ることはことはできない」(ヨハネ3:3)。 クリスチャンになることとは、自分のこれまで積み重ねてきたものを、すべてイエス・キリストに明け渡すことである。自分の人生をイエス・キリストに明け渡すその時、こ…
少し前から「メルカリ」を利用し始めた。ふと目に付いたのが「メノラー」という燭台。 出エジプト記25章に「純金で燭台を造らなければならない。燭台は打ち物造りとし、台座と幹、萼(がく)、節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように造り、一方に三本、他方に三本付ける。」とあるがこの燭台はイスラエルのいたる所で見られる。シソ科のクラリセージが原型になっているらしい。 「7」はイスラエルでは完全数でありその両側の枝には「あめんどう(アーモンド)」の花の形をした萼がついている。残寒の季節に凛と咲くあめんどうの花は見る人に命を感じさせ神の臨在を示してくれる。ちなみに「あめんどう」の花言葉は…
The LORD is my portion 哀歌の詩人は、絶望の中にすべての知恵と力と企てを失う経験について述べている。心の存在そのものが裸にされてしまう、いたたまれない悲しみと絶望の経験を私たちも味わうことがあるかもしれない。しかし苦難が私たちから何かすべてを奪ったとしても、なお奪うことのできないものがあることをこの詩人はそして聖書全体は指し示しているといえる。 それは意味を求める力。なぜこの出来事は私の上に起こったのか。なぜ今でなければならないのか。その答えはすぐに見出されることもあれば、何年かかってもそれを見出すことができないこともあるだろう。「聖書は我が心の鏡である。」私たちはその苦…
Rejoice in the Lord 信仰に生きるとどのような得があるのか。この手紙を書いたパウロの場合はどうだったかということがここに出てくる。特に5節と6節にはそれまでパウロが得だと考えていたことが書かれている。 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、ピリピ人への手紙 3:5 ここはパウロの信仰の証しとも言える部分である。信仰に生きる前はどういう考え方をしていたかということを証している。 ここに記されているパウロの自己紹介はユダヤ人にとってどれも胸をはることのできるような事柄ばかりが列挙されている。…
いつも喜んでいなさい。「アーメン」絶えず祈りなさい。「アーメン」すべてのことにおいて感謝しなさい。「アーメン」これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。みことばは、聖霊によって聴いままに受け取ることで成就して行く。でも、肉的な聴き方は頭の中で出来るかどうかを判断して、御霊の導きを消している。御霊を消してはいけません。(Ⅰテサロニケ16~19)霊的と肉的