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見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことの飢饉である。(アモス8:11) 聖書が取り上げられるのではなく、聖職者が消えるのでもない。ただ、聖霊に拠って取り次がれることばが語られなくなるのである。美しく装丁され、聖書から心地良い言葉が切り取られた読み物は、幾らでも手に入るだろう。それは世の求めに従って味付けられて、偽キリストの必要をも満たすだろう。聖霊の臨在なき聖書は、どのようにでも用いることが出来る。 それはイエスを知る真理の飢饉であり、生きて働くことばの飢饉である。それは今も見られることで、頭にも心にも納得できる言葉は人の肉に寄り添って惑わす。 「命よりも大切なもの」という本を頂いた。それ...みことばの飢饉
聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪しい宗教を持ち込む」と言われる思ったからである。 ただ、教会に連れて行ってくださった姉妹にだけ、そっと話した時「そ...呼ぶのはいつもイエスの御名
この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。(6) イエスは働きの前にバプテスマのヨハネによって、水のバプテスマを受けられた。イエスにバプテスマが必要な理由は、神が人となって地に遣わされたイエスには、そのままでは人の罪を負うことは出来ないのである。存在そのものが聖である神には、罪を受け入れることが出来ないからである。 人は、罪に死んで神の子として生まれるためのバプテスマであるが、イエスには、罪を侵し得る人の体を着るためのバプテスマであった。完全な人となって纏われた人の弱さのうちに御霊が臨まれたのである。イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩...永遠のいのち(1ヨハネの手紙5章)
互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(11~12) 妬みは自分と相手に死をもたらせ、キリストから出た愛はいのちをもたらせる。神の愛は御子の命を支払って人を生かしてくださった。肉を持って生きている心の王座は、自分を生かすための自己愛が占めていて、誰よりも愛されることを求めている。その欲求が満たされないことは妬みとなり、宗教家がイエスを殺したように、邪魔者を故無く殺すのである。アベルの正しさは誰よりも主を愛したことにある。 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移っ...神のうちにとどまって溢れ出る愛(1ヨハネの手紙3章)
幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。(7) 誰が神に受け入れられる義を行うことが出来るだろう。義を行うとはキリストの義に留まることである。誰であってもキリストのうちに在ることで、完全であり正しいのである。神に生み出された幼子たちは、まず自分が何者であるかを悟るために、キリストにたまわっている御救いに安息することである。世では、見たことも聞いたこともない神の愛を味わうために・・ 十字架の完全なあがないによって義とされ、キリストの復活と共に生み出された神の子は、責められることのない神の平和に安息し、感謝と交わりの中で聖霊に育てられ、キリストの救いに留まることの正しさを聴き続けている。 未だ肉を纏っている身に、罪は犬がワンと鳴くように身近なもの...神の子は悪魔のわざを打つ破る(1ヨハネの手紙3章)
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(1) 平安の中で主イエスの御救いを思い返し、救われた身の幸いに感動して、御前にひれ伏す。苦難の中ではたまわっているみことばを読み返し、御約束にある深みに導かれて安らぐ。迷いの中にある思いのすべて主に打ち開けて、みことばに委ねて従順する。そのすべては「アバ、父」と呼ぶ関係に在ってのことである。 神の子らはすべての日々に御父の愛を味わい、御子イエスのことばを経験をして、神より生まれた子であることを、聖霊の導きの中で確信するのである。それは養子とか接ぎ木という薄紙一枚の隔ても無い、真実な神が生んでくださった子であり、聖霊とみことばに...事実、私たちは神の子どもです(1ヨハネの手紙3章)
子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(12) 教会に通うようになって、みことばにイエスの御救いを見出し、神の一方的な赦しをたまわった。負いきれなくなっていた重荷を御前に下ろした時、聖霊に触れられて「見よ。すべてが新しくなりました」と、主の焼き印が押された。もう自他のどのような責め言葉も、神のものであることを否定することは無い印である。 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。(13) 家長がイエスの御前にひれ伏すとき、家には喜びと希望がいっぱいに満たされる。イエスを主として迎え、恵みに拠って家族が生きる...福音の喜び(1ヨハネの手紙2章)
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。(1) 世ではあらゆる形の罪を纏った狼が、肉を纏っている羊を虎視眈々と狙っている。しかし、神の守りにある羊は世で活動している間も、聖霊によってイエスとの絶えざる交わりがある。目にする世のあれこれに支配される必要は無く、それらの善悪を選り分ける役割を負っているわけでもなく、みことばに聴き入って心に留めなければ良いのである。目が汚されたと思えばすぐに主の血潮に洗って頂き、砦に逃げ込んで聖さに身を避けることが出来る。キリスト者はすでに世の者ではないからである。 ですから私たちにはいつでもイエスの希望がある...うちに神がおられる(1ヨハネの手紙2章)
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。(1) すべてはイエスによって造られた。ヨハネの確信はイエスを体験していること、いのちのことばの復活を直接見ており、御からだに触れた感覚を持っているのである。みことばに従順して、生ける主を近しく体験することがある。そのようなみことばの経験は、誰に否定されても動じることのない主への信頼として、命に刻みこまれている。 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(2) 聖書にあるヨハネの証を私たちも受け取っている。彼が経験したイエス・キリストを信じることによる救いは、罪の結果である永遠の裁きに代えて...ヨハネの見たこと聴いたこと(1ヨハネの手紙1章)
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12) 人は九十九匹の方が大切なので、迷い出てしまった一匹を諦めることが出来るが、神には一匹一匹が神の完全な愛の対象であって、見捨てることが出来る命など一つも無いのである。 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。(13) 神には迷わない九十九匹以上に見つけ出した一匹が神の喜びとあり、それは元通りに百匹揃って良かったということではない。 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。(14) 神のみこころは人...探し出された一匹の幸い
こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(2:1~3) 人のすべての必要は全能の神によって六日間で備えられた。主の創造の御わざによって賜った命の喜びにあふれ、命を満たす備えに安らぎ、創造主をほめたたえる日である。天地宇宙の創造主を神と告白するとき、人はたまわっているその祝福の偉大さを悟り、この神に目的を持って造られた命は、作品を知り尽くす神に在る平安と望みに満たされる。 自分自身を守る言葉を何も持っていない幼子の心で、神の第一声「初めに神が天と地を創造された」このみことばを「アーメン」と受け取るのは、神に選...天地創造7日目
現在生きているすべての人は2つのいのちを持っている。1つは母の胎で形作られた体に在る命であり、もう1つはイエス・キリストの命と引き換えに与えられた永遠のいのちである。 イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、感謝して創造主なる神を礼拝した人の死は、イエスの復活のいのちを頂いて、父なる神の御許で永遠に生きることになる。彼らはイエスによって罪をあがなわれてきよくされ、神と和解して神の子という関係をたまわったからである。 しかし、死に至るまで創造主を認めず、御子の死を通して与えられている、永遠のいのちを受け取らなかった死は、罪のあがないを受けていないために、その罪に拠る永遠の刑罰に至る。 地に在る命はすべては、創造主によって与えられている今を生きている命であり、それゆえイエスは「絶えず祈りなさい」と命じておられ...二つのいのち
神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。夕があり、朝があった。第五日。(20~23) 神はすべての生き物をそれぞれの形に創造された。発達途上のものではなく、無数とも思える生き物のすべては、みこころのままに完成されていたので祝福された。創造主の全能の力に拠るよることである。 そのような神の知恵と力は人には思いもよらないことなので、己の能力をもって神を計ることにより神がわからず、被造物を拝んで神に敵対するのである。人は神の作品である天地を見ても神の完全...天地創造5日目
神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。夕があり、朝があった。第四日。(14~19) 光りを備える神は闇も備えられた。それらによって時を備え、いのちを刻むためである。闇夜のような時がある。アブラハムにもモーセにもペテロにもパウロにも、そうして私たちにも。自分の力ではどうにもならない時があり、キリスト者にも神を忘れ...天地創造4日目
pcダウンジャガイモ植えつつ弥生待つ 2月26日記事アップ直前にpcダウン。私には手も足も出ないことなので強制終了して息子の帰宅を待つ。まったくこの仕事は私一人では不可能なことが身に染む。 遠距離通勤の息子の遅い夕食時に「pcダウンした」と、遅くまで調べて「これは簡単じゃない」と告げられ、一部取り換えて今日完全復旧した。動きがぐんと良くなってとても快適。それに「ダメかも・・」と言われていた古いゲームも復旧してくれた。 これは何十年もやっているお気に入りで、ゲームを楽しむというよりも、頭のアイドリングのような役割なので、ダメなのはかなりショックだったのだ。失われたと思われた、「一太郎」のデーターも回復してすべてを元に戻してくれた。 でも、初めから祈りの中でこうなることは分かっていたので、焦ることもなく待っ...祝!パソコン復旧
「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。また荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、主が、人が自分の子どもを抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。このようなことによっても、まだあなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。主はあなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行き、夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示されるのだ。」(申1:29~33)モーセの言葉
私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は決して揺るがされない。(1~2) 私のたましいよ黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。私の救いと栄光はただ神にある。わたしの力の岩と避け所は神のうちにある。民よどんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(5~8)詩篇62篇
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18) イエスは、ペテロの生涯が主の導きの中に在ることを伝えられた。それは決して安楽な将来ではないけれど、主のみこころを誤りなく成し遂げる約束である。彼はすでに主の良きご計画の中に在って、その命は主に在る栄光をたまわっていたのである。 イエスとのコミュニケーションを持つ祈りの大切さは、みことばによって主が備えて下さっている将来を確信して、今日を誤りなく生きる平安が満たされるためである。キリスト者がどのような死に方をするか、それがどのようであろうと主の備えの中に在るなら、命のことで一喜一憂する必要...ペテロを証するヨハネ(ヨハネの福音書21章)
イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。(14) 主はペテロの傷を癒やして新しくし、みこころに生きるために来られた。みこころを行うには、自分の使命に目が開かれる必要がある。またそれを行ううちに、サタンに責たてられて弱り果てることがないように、イエスとの親密な関係による赦しの確信が必要である。 イエスはペテロに来られ、癒やしの中で人を獲る漁師としての具体的な働きを示された。神より発したことは神によって成り栄光が神に至るのであり、すべては主の御約束によって成ることを明確にするためである。 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ...「あなはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章)
みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(20:30~31) 聖書にはイエスの御わざの一端が残されているのであろう。イエスは世に居られる間、寝る間もなくて疲れ果てるほどに働いておられた。それゆえ、その地にイエスを知らない人はいなかった。 イエスが知られていたということは、神がどのようなお方であるかをイエスを通して知ったのである。ただ、自分たちの期待通りではなかった人々が、何を見ても聞いてもイエスを神とは認めなかったのだ。彼らはイエスが神を冒涜していると言って殺したが、彼らこそ自分自身を神としていたのである。...みことばが無ければキリスト者は飢える(ヨハネの福音書21章)
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。(1) マタイには「もう一人のマリヤ」も一緒だったことが書かれてあり、此処ではそのことは省略されているが、ルカにも「彼女たち」とあるので事実は二人であったと思われる。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2) 此処にも「私たち」とある。この経験は混乱状態の中にあったことが分かる。まさか、死体が消えるとは想像もできないからであり、ましてそれが愛する方であればなをさらである。 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが...空の墓(ヨハネの福音書20章)
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。(11) すべては天地創造の神のものであり、イエスは御父のみこころを行って父のものを受け継ぐ方である。イエスに救われ子とされたキリスト者も、みこころを行って御父のものを受け継ぐことになる。それはいのちである。すべてのいのちは創造主なる神のものであるから。滅びから救われるべき名は世の初めから終わりまでただ一つであり、罪を取り去ることが出来るのはイエス・キリストだけである。それは天地創造の父なる神から御子イエスが従順を通して与えられた権威による。 イエスは神にキリスト者を「一つにしてください」と祈られた。...みことばの成就のために(ヨハネの福音書17章)
みことばは主にたまわりし我が望み御顔仰ぐ日切に恋しき 「イエスさま」御名呼びたりてひれ伏すは我にたまわる赦しのゆえに今日の歌(2024.12.21)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1) 弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。 まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。 疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守って...真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。(20) キリストを愛する者は神の義を語り、イエスの十字架のあがないに拠らなければ、永遠に滅びる真実を伝えて幾人かでも救おうとする。しかし、創造主を否定する人にはその言葉は愚かに聞え、神に赦しを乞うべき罪の指摘は、自分を信じて生きる者の感情を逆なでする。神が備えられた良心の声にも耳を塞ぎ、目を閉ざしていたい自我は、みことばを語る者を迫害するようになる。 ただそのような時代にあっても、イエスを信じて受け入れる人々が神の初めの選びによって起こされる。それゆえ、時が良くても悪くてもみことばを語り続...初めからわたしと一緒にいた(ヨハネの福音書15章)
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(10) 御父の戒めイエスの戒めとは御愛の中に留まること。主の愛に応答して愛する方に聴き従うことは喜びとなる。その人が「なぜですか」と理由を問うことは無い。すべての疑問を封じるのは無条件の愛をたまわったからである。 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11) 命をたまわった主の愛を離れて何処に行けようか。イエスに安息している命は恐れを知らず、大胆にアグレッシブに生きるようになる。そう、父母と居る幼子は、愛の言葉に満たされて勇気凛々なのである。 わたしがあなたがたを愛し...みことばを聴いて溢れる喜び(ヨハネの福音書15章)
わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1~2) 神は私たちに対して熱心に働いておられる。実を結ぶ者にも実を結ばない者にも神の熱心は変わらず、誰一人放って置かれることも無視されることもない。すべての人の創造主だからである。実を結ぶ者にはもっと多くの実を結ぶことが出来るように必要を備え、実を結ばない者には、実を結ぶことを妨げているものを取り除き、神の光りの中に留まる者を養ってくださる。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。(3) 主に留まって成った実はみな聖い。みことばを食べて成長したからである。食べたものによって人は成長する。...わたしはぶどうの木あなたがたは枝です(ヨハネの福音書15章)
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27) キリスト者の平安はイエスに拠って約束されている。それは十字架の御わざによって、罪に滅びる死に勝利してくださった永遠のいのちである。必ず万民に訪れる死に勝利している平安である。 死以上に人を脅すものはなく、イエスのみことばを真っ直ぐに受け取った者は、どのような世にもひるむことのない勇気を得る。十字架の恥と苦痛をしのばれほどのイエスの愛に、満たされて生まれる勇気である。 「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたが...みことばの保証②(ヨハネの福音書14章)
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(18~19) 十字架の後に残される弟子に、イエスは「捨てて孤児にすることはない」と約束された。イエスと共に地で働いて来た弟子にとって、迫害の日々に必要なものはみことばである。イエスが十字架の死を経て墓に葬られ、三日目によみがえられるとき、弟子もまたイエスと共によみがえりのいのちを得て、御父のもとで永遠に生きる者となる。 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛し...みことばの保証①(ヨハネの福音書14章)
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(37~38) 闇が光に打ち勝たないように、人の不信仰によって神の計画が損なわれることはなく、闇の行いの中に十字架だけが罪を駆逐して、永遠の救いの輝きを成就して行く。肉は十字架を避けるが霊はイエスの御わざの十字架に安らう。 キリストを知ろうとする者を惑わす疑惑にも、聖霊の助けが備えられて在る。初めに神が選び・・そう、救いはただ主の憐みに拠ることである。誰も自分の知力に拠ってキリストを知ることはない。 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである...闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
わたしと父とは一つです。ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31) イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。 しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32) イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするの...わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19) イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。 イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶...わたしは門です③(ヨハネの福音書10章)
「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。(1~2) 羊に例えられるキリスト者は神の牧場で養われ、キリストと共によみがえらされたいのちは永遠を生きる。神の牧場の門はイエス・キリストだけであり、キリストの十字架の血潮に拠って罪をあがなわれ、神との平和をたまわった者だけが通る門である。 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。(3) 羊は、牧者であるイエスが語るみことばを聞き分けるとあり、それこそ羊のいのちの言葉である。羊はその声を良く知っていなければいのちを失う。羊は牧場に閉じ込められているのではなく、彼らは囲...わたしは門です①(ヨハネの福音書10章)
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31) 何を持って信じたとするのか・・、イエスは心をご存じであり、守るべき者を守っていてくださる。ペテロはイエスを信じていたが、追い詰められた時に3度も関係を否定した。しかし、イエスは彼の弱さをご存じであり、信仰が無くならないように祈られて、ペテロは平安のうちにイエスに留まっていたのである。 信じるとは関係であり、長い信仰生活の中で主に信頼していても、弱さのゆえに危うい時があるが、主は人の弱さには同情してくださる方であり、砦となって守っていてくださる。ただユダの二心をもご存じである。二心の者はみことばを心に受け入れてはおらず、それゆえみことばの真実を経験することは無いので、時が来たらイ...わたしは世の光です③(ヨハネの福音書8章)
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12) 此処に姦淫の女もいただろう。イエスに赦された者は闇を嫌って光りを求めるようになる。神の愛が溢れる望みのみことばを聴き続けていたいから。人々に混じって耳を傾けていたであろう。闇から光りの中に移さ、みことばを生きるために。 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13) 宗教家たちはイエスによって語られる神のことばを否み、イエス・キリストに権威を返すことを拒んで、律法からイエスを否定する材料を捜している。しかし、律法を成し遂げるのはイエスである。 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思...わたしは世の光です①(ヨハネの福音書8章)
さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(45~46) 彼らはイエスのみことばに心を動かされたのである。それは、かって一度も聞いたことの無い神のことば「人があのように話せるだろうか」と気圧されたのであろう。イエスは、天地をも創造することばなる方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもなかった。(ヨハネ1:3) そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」...イエスの時⑤(ヨハネの福音書7章)
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)
さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(25~26) イエスのわざを見てメッセージを聞いた人たちから、イエスが命を狙われている意味が分かって来たのであろう。イエスの話されることは、宗教家たちとはまったく違っていたからである。その人たちはみことばからキリストに気付き始めたのである。 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27) ナザレの大工の子であることを知っている。イエスの出自を知っていることで彼らは躓いた。私たちの知って...イエスの時③(ヨハネの福音書7章)
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(19) 「すべてのものはこの方によって造られ」(1:3)とあり、すべてはイエスによって造られた。今も、父なる神から発したことを一つになって、この地に行なわれている。人を愛する御父のみこころを行うために、イエスは栄光の御座を離れて、死ぬべき命の弱さを纏って人となり、罪に滅びゆく人類を惜しんで救い出し、ご自身を信じる者と、創造主なる神の御許で永遠を共にするためである。 イエスは、「父がしておられることを見て行う以外には、何も行うことができません」とある。「何もしません」ではなく「何も出来ません」とあり、御子で...キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)
'ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。 「神なる主よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。 神よ、御目には、それも…
私は「新約聖書に登場する人物の中で誰が一番好きか」と問われたら「ペテロ」と答えると思う。彼の直情的でおっちょこちょいなところに自分を見るようで。。。イエスが…
今回の記事は「ノアの箱舟」として誰もが知る人類史上最大の大洪水の聖書箇所です。この洪水は、私たちが時折経験する局地的なものではなく、世界全体を覆う、前にも後…
こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。(22~23) 今聖絶の神は平和の神として、キリストの救いを信じる者うちに住んでいてくださる。聖であり義であり、また完全な愛である神が、未だ肉を纏っている者のうちに住んでいてくださるとは、なんと驚くべき奇跡であろう。 それはキリストの十字架のあがないが、神の御前に完璧な執り成しであり、神の聖と義を完全に満たしたからであって、一ミリも人の行いに拠ることではなく、キリストに対する信頼に拠ることである。 これ...愛と聖絶②(申命記11章)
ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。(10:41~43) イスラエルのために戦われる神と共にいて、勝利をたまわったときヨシュアの兵はみな無事であった。彼らは五人の王とその民を聖絶して神に逆らう罪をきよめた。 ハツォルの王ヤビンはこのことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また、北方の山地、キネレテの南のアラバ、シェフェラ、西方のドルの高地の王たち、すなわち、東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもと、ミツパの地のヒビ...恐れてはならない(ヨシュア記11章)
サマリヤの女との出会い:イエスとの対話から学ぶ霊的な満足 ヨハネによる福音書4章
ヨハネの福音書4章「イエスとサマリアの女」ある日、イエスはユダヤを去り、ガリラヤへ向かう旅を始めました。しかしその道中で、イエスはサマリヤを通過しなければな…
[1] 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。 [2] わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、…
主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。(10) 主はヨシュアに何ゆえにひれ伏しているのかと問われる。それは天地創造の神を恐れる者の絶えざる礼拝なのか、失敗の罰を恐れてなのか、何を得ようとしてなのか・・。ヨシュアは今、訳も分からないままにひれ伏している時ではなく、早急にみこころを行わなければならない。 イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。(11) アカンの罪は、今やイスラエル全体を汚し主に受け容れられないものとした。イスラエルは神にとって一つの愛の対象であり、リーダーを通しての交わりの対象である。 それゆえ主の命令に背く一人の罪は、全体を汚すパン種の侵入であり、神...なぜひれ伏しているのか②(ヨシュア記7章)
翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。(12~13) 主に在って働く者は、みな主をほめたたえる喜びに満ちて、朝早く起き出して来てみこころを行う。此処に勇ましいときの声はまだ無く、ただ、主の臨在を知らせる角笛を聞きつつ進んだ。 彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。(14) 黙々と町囲いを回るだけの従順は、リーダーを信頼してのことである。ヨルダン川を渡って、ヨシュアに居られる主を経験してのことである。敵を目前にして歩くだけの六日間は、主に魂を平伏させる訓練の時であり、みことばに殉じて自身...みことばの愚かさに在る祝福③(ヨシュア記6章)
祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」(5) 主がヨシュアに告げられた勝利の計画は、難しいことではなく幼子にも出来ることであった。キリスト者は聖書と聖霊によって状況の良い時も悪い時も、永遠のいのちに至る勝利をたまわっている。ご真実な神は出来ないことを命じることは決してない。人の出来ない困難のすべては、キリストが十字架で負ってくださったゆえに、主のくびきは負いやすいのである。 ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」(6) 祭司の役割は民の前で、主を頂いて喜びほめたたえることである...みことばの愚かさに在る祝福②(ヨシュア記6章)