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長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。(1~2) みことばに応答して救いを得た婦人とその子たちに、こんなに丁寧に愛を伝えているのは、婦人や子どもたちが片隅に置かれて、持っている良いものを認められる存在ではなかったのだろう。 婦人は教えることを禁じられており、経験している神の愛を語る交わりに置かれなかったのかもしれない。ヨハネは彼女たちに「安心しなさい」と神の家族の愛を知らせている。沈黙の中にある信仰であっても、神の家族であることは永遠に変わることは無く、真理の中にあると励ましている。 聖書に婦人が語ることを禁じている箇所があるが、神は婦人と共...婦人への言葉(Ⅱヨハネの手紙1章)
聖霊についてのみことばが続いていてふっと気づかされたことがあった。聖霊のバプテスマを受けたときは、まだ、洗礼も受けていなくて聖書もあまり知らず、聖霊のバプテスマという言葉さえ知らなかった。 ただ、イエスを知りたいと激しく真理を求めて渇いて、先生方のメッセージテープを聴き続けていた。聖霊のバプテスマは、台所でテープを聴きながら働いていたとき、突然、焼け火箸のよう炎が、頭から足の先までを貫く熱い炎を感じた。 完全な赦しときよめを確信し、喜びが「わぁっ」と全身を駆け巡った。それは、イエスの赦しを確信する出来事であったけれど、起こったことが理解出来ずに、そのとき教会では誰にも話すことはなかった。「怪しい宗教を持ち込む」と言われる思ったからである。 ただ、教会に連れて行ってくださった姉妹にだけ、そっと話した時「そ...呼ぶのはいつもイエスの御名
私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。(6) 神から出たことばを話し、神によって成るわざを行う使徒の働きは聖霊の導きであって、彼らのことばに聴き従う者に救いのわざが現れた。救いは人の熱心や言葉の巧みさには拠らず、神の選びに在る聖霊の働きである。 聖霊に触れられるとき、創造主なる神を悟り、御子イエスの十字架の救いを受け入れることができる。神の愛を経験した者は真理を悟り、イエスにすべての望みを置いて礼拝して、みことばに従順する彼らは、聖霊に解かれたみことばに拠って偽りの霊を見分ける。 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神か...神から出た者(1ヨハネの手紙4章)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(1) 弟子たちが王として世を支配されると期待していたイエス、病人を癒やし死人を生き返らせ、わざをもって神の愛を現しておられた方が、まさか何の罪も犯されないままに十字架で処刑されるのである。それは弟子たちの期待を完全に裏切ることであった。 まして無実を訴えて戦うことも無く、罪人と共に十字架に曝されて死ぬことなど、どうして受け入れることが出来るであろう。イエスは弟子たちが絶望することがないようにと、死を経て再び来られること、また彼らのうちに住まわれるようになることを知らせ、滅びることのないいのちの約束を残された。 疑いから信仰を守るものはみことばの記憶である。聖霊は忘れていたみことばを必要な時に思い起こさせて信仰を守って...真理に導く御霊(ヨハネの福音書16章)
永遠のいのちはイエスを信じた者が、十字架のあがないによりすべての罪をきよめられて神の子とされ、肉体の死を経て、あるいは携挙により、神に召されて新天新地で生きるいのちである。新天新地に死や病はなく、完全な霊のからだは永遠を生きる。 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44) これらを教える聖霊に拠って今神と平和を経験しなければ、隠れるべき夜も影もない、光りの中の永遠を待ち望むことは出来ない。神が待っていてくださるゴールの、永遠のいのちを目指すのでなければ、どんなに働いてもその信仰生活は迷走しているのである。 見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神...永遠のいのち
これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60) イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。 真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62) イエ...イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)
モーセはイスラエルをみな呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、ファラオとそのすべての家臣たちとその全土に対して、主があなたがたの目の前でなさったことをことごとく見た。すなわち、あなたが自分の目で見たあの大きな試み、あの大きなしるしと不思議である。(2~3) イスラエルの民がエジプトを脱出した時のような、恐るべき神の数々の奇跡を今世界が見たとしても、いっせいに悔い改めて真の神に立ち返ることはないだろう。イスラエルの民と同じように、しばらくは恐れて聞き従おうとしても、結局その記憶は日々の必要の中に埋没して行き、あらゆる理屈を並べたてて何も見なかったかのように、それぞれの信じたいものを信じ、自分の生きたいように生きるのだろう。見ただけでは自分の経験とはならず、聞いただけでもそれが「私になんの関係があ...荒野の40年を守る神(申命記29章)
天地創造の神は、アダムがみことばに逆らって入った罪により、神から身を避けて滅ぶ者となった人類を救おうと、御子イエス・キリストと聖霊によって人を御許に取り戻し、滅びから救うことを計画された。 イエス・キリストはご自分が創造された、人の世に無力な赤子として下り、人の罪をすべて負って十字架で贖ってくださった。完全に罪の無い人だけが、他人の罪を贖うことが出来るからである。 聖霊なる神は、キリストが十字架で罪をあがなって墓に葬られ、三日目によみがえって、500人以上の弟子に現れて天に昇られた後、助け主として来てくださり一人ひとりの内に住んでくださっている。キリストの救いのことばを信じるための助け手である。 父なる神は救いの方法も、救いの時も、救われた後の働きも十把ひとからげではなく、個々に母の胎で組み立てられる時...みことばは知り尽くことが無く常に新鮮である