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ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。(16~17) ヨハネが問われないことをペテロは問われている。ペテロの恐れが見透かされるからである。そうしてペテロは悪魔が仕掛けた罠に堕ちて、主イエスとの関係を否定した。恐れがあるならヨハネに誘われても断れば良かったのである。中途半端な信仰によって窮地に追い込まれるのはみことばを握っていないからである。 キリスト信仰に置いて窮地に立たされた時、すべてに通じる解決方法は、即座にイエスに命を託すことである。死はすべての問題を解決するからであり、キリスト者の肉...中途半端な信仰(ヨハネの福音書18章)
わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。(4) 嘲笑と鞭と鋭い棘の茨の冠、強盗と一緒に十字架に曝されているイエスに誰が神の栄光を知るであろう。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:4~5) 人は目の前で見ていることがすべてであり自分に重ねて判断する。イエスは私たちの罪と言う病を負い私たちの痛みを担われた。しかし、十字架を目の前にした群衆が、イエスが成された力ある神のわざ、憐みの御わざを思い出...イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)
わたしと父とは一つです。ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31) イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。 しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32) イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするの...わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)
人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。(13~14) イエスによる、神の大きな祝福のわざを見た人々がしたことは、律法を用いてイエスを裁くことであった。神の憐み深い御わざを目にした時に、その救いを素直に喜んで、神をほめたたえることが出来ない理由が律法に拠ることなら、その律法の用い方は的を外している。どこから間違ってしまったのか、神がどのようなお方であるかを、みことばに静まって聴くべきである。 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(15) 彼の言葉は、誰に対しても真実を語ってぶれるこ...目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)
ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。(11~13) 神を恐れる者は人を恐れないが、人を恐れて群衆に紛れている者が、天地創造の神を告白することはない。彼らは奇跡を見ても、イエスのパンを味わっても、イエスをキリストと証することはない。彼らは小声でひそひそとイエスを探し、遠くから見物するだけである。しかし、彼らはイエスに在るキリストのわざを見たのであり、その事実を認めずに、神が遣わされたイエスを礼拝しないことは、神に反抗する罪なのである。 祭りも...イエスの時②(ヨハネの福音書7章)
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(41~42) 彼らがその疑問を大きな声で言えないのはイエスに神のわざを見たからである。目にしたこととイエスが話された言葉が合致していたのである。しかしその事実を認めたくない故に、仲間同士でイエスを否定する言葉を見つけて文句を言っていたのである。 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。(43) 小声の非難は良心に疚しさがあるからで、イエスは仲間の間でのそのような行為を「止めなさい」と言われる。それは神の真実から目...イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(1~2) ニコデモはユダヤ人の指導者であったが、イエスのなさっていたわざを見てとても素直な反応をしたのだ。これが幼子の心である。しかし、議員であり教師であるという立場に立ち返ったとき、人目を避けてひとりイエスを尋ねた。彼は、イエスのわざがキリストのわざなのか確かめたかったのだ。彼がわざを無視しなかったのはキリストを待ち望んでいたからである。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生ま...ニコデモの選択①(ヨハネの福音書3章)
神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。(イザヤ50:7) 神に従順する者が傷つけられようとする時、その額は火打石のようになる。死にさえもキリスト・イエスによる勝利を持っており、主が彼らを強めて計画を成し遂げさせるので、事を妨げるものは何も無い。 火打石を打ち合えば火が出る、人に当てれば切り裂いて割礼を施す刃物ともなる。「面の皮が厚い」という言葉は恥知らずを言うが、主に在っては恥も外聞もなく、ただ、聴いたみことばに「アーメン」と言い、委ねられたことを行うのである。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。(ヨハ...顔を火打石のようにする