メインカテゴリーを選択しなおす
シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。(15) もうひとりの弟子ヨハネは、イエスについて行くことにためらいがなかった。それは、知り合いの家というだけではなく、何時でもイエスの最も近くに居ることが「イエスの愛された弟子」には当然だからである。 彼はイエスの愛を確信して安息していた。愛されていることを一ミリも疑わなかったので、彼のうちにはイエスの愛が充満しており、十字架の側に居て、マリアを母として託される御声を聞いたのである。 イエスをどのような方と信じるかが、その人が経験するイエス・キ...イエスが愛された弟子(ヨハネの福音書18章)
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20) 使徒をはじめ、弟子たちのためのイエスの祈りは、彼らによって救われた異邦人の私たちに対する祈りでもあった。イエスはこのとき世界中の、すべての時の中で救われて行く神の子どもたちのために祈られた。聖霊が教えることは今生きる一人ひとりの「私」のためにも祈ってくださったことである。イエスの祈りのゆえに、主に信頼するキリスト者の永遠のいのちは神に守られている。この平安のうちにキリスト者は生きている。 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるた...イエスに在って一つ(ヨハネの福音書17章)
わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。(4) 嘲笑と鞭と鋭い棘の茨の冠、強盗と一緒に十字架に曝されているイエスに誰が神の栄光を知るであろう。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:4~5) 人は目の前で見ていることがすべてであり自分に重ねて判断する。イエスは私たちの罪と言う病を負い私たちの痛みを担われた。しかし、十字架を目の前にした群衆が、イエスが成された力ある神のわざ、憐みの御わざを思い出...イエスの栄光となる(ヨハネの福音書17章)