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イエスを殺すほどに憎んだイスラエルの宗教者たちは、イエスから何の被害も受けてはいない。イエスはキリストの愛によって、彼らの救いを妨げるものを指摘しただけである。 人の憎しみは必ずしも被害を受けたからではなく、冷静に振り返ってみれば憎んだきっかけが愛から始まっていることがある。妬みもそのように、愛している人から攻撃を受けることがある。 戦う必要の無い相手を非難したり、攻撃し憎むようになるのは、心に巣くっている罪によることである。それらの罪からすでに解放されていることを悟らなければ、本当はしたくもないことをし続けて、罪に支配される不幸せを自他にまき散らし続ける人生となる。 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるた...今天国行きの列車に乗る時
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(1~2) イエスはその人を見て足を止められた。大きな祝福が彼の前に来たとき、彼は何時も投げつけられる言葉を聞いた。体の不自由さに加えて、自分と親を疑わせる呪いの言葉である。このような考えは日本にもあり、因果応報の考えはそれが他人事である人の、汚れた良心が神に成り代わって下す判決である。 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(3) 障害を持って生まれて来た人とその両親にとって、何と慰めと希望に満ちた言葉であろう。神の愛に満ちたこの言葉によって、...目が不自由な人の癒やし①(ヨハネの福音書9章)