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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

ムベ
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2016/04/03

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  • イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)

     これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60) イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。 真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62) イエ...イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)

  • イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)

     ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(41~42) 彼らがその疑問を大きな声で言えないのはイエスに神のわざを見たからである。目にしたこととイエスが話された言葉が合致していたのである。しかしその事実を認めたくない故に、仲間同士でイエスを否定する言葉を見つけて文句を言っていたのである。 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。(43) 小声の非難は良心に疚しさがあるからで、イエスは仲間の間でのそのような行為を「止めなさい」と言われる。それは神の真実から目...イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌 (6,600日)

     16日にブログの編集作業をしていて隅っこに「ブログ開設から6600日」とある数字に気付いた。ちょっと切りのよい数字に年数を計算してみると、書き始めて18年であった。確かに65歳から初めていた。 何度かこれで終わりにすると思ったこともあったが、意地も根性も無いままに淡々と続いているのは、みことばを通して主を味わい、聖霊の助けの中で日々新しく教わるとき、もう死に行くだけの者に教え続けてくださることが勿体なくて、書かずには居られないのである。 ぶっきらぼうな書き方であることはわかっている。「・・ではないでしょうか」とも「・・と思うのです」とも書くことが出来ないのは、私から出たことではなく私の考えでもないから・・ただ、教えられたことをそのまま知らせたい。仮に間違っていても、勘違いをしていても私にはどうすることも...今日の歌(6,600日)

  • イエスは来る者を決して追い出さない ①(ヨハネの福音書6章)

    しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(36~37) 「父がわたしに与えてくださる者」とあり、初めに救われるべき者を選んだ神が、イエスに渡されたのである。人が神を見い出したのではなく、人の熱心が神の救いに至らせたのでもない。選ばれていた人は、神の良い計画に応答して救われるのである。 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ1...イエスは来る者を決して追い出さない①(ヨハネの福音書6章)

  • 記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)

     群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌(2024.08.19)

     連休疲れ?頭が痛くて・・ちょっとしんどくて何もしたくなかったので、スコップでカリカリと庭を均して、コスモスの苗を植えた。伸びていた雑草を抜いていると、ものすごく久しぶりの雨がぽつりぽつり・・大歓迎!草は伸びるだろうけれど・・雨も見たい。水やりに追い回されて、花は全部終わってしまった。トマトも終わって、プランターの後始末に埃が舞い上がる。あれ?雨はぽつりぽつりで終わり?こう言うとき主人は「天気堅いな」と言っていた。シャワーを浴びたら頭痛を忘れた。今日の歌(2024.08.19)

  • 霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)

     夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。(16~17) マタイではイエスが彼らを舟に乗り込ませたとあり、このことは主から出たことであるとわかる。しかしヨハネの書き方には彼らの心細さが現れている。 強風が吹いて湖は荒れ始めた。(18) 暗い湖で風と波が出て来ても漁師であった彼らには経験があったろう。落ち着いて操作出来たと思うが、彼らはもう漁師の経験によって生きる者ではなく、イエスに依存する弟子であったのだ。 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(19) 水の上を歩くイエスを彼らは未だ経験して...霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)

  • 今日の歌(2024.08.15)

     秋色のグランデ―ション垂り穂の香 朝露に光る田の面の清しさと秋の気配に心躍りぬ今日の歌(2024.08.15)

  • 試される時②(ヨハネの福音書6章)

     「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。(9~10) 「何になるでしょう」という問いに対して、イエスはその場の全員を座らせるように命じた。主の御前に静まって座ることこそ、恵みを受けるために覚えておくことであり、事の重大さや数が問題ではなく、それは主を経験する舞台装置のようなものに過ぎない。キリスト者は卑近な事柄にも、御前に静まって主に聴かなければみこころを知ることはなく、御名をほめたたえるまでに至らない。その不自由さに聖霊の助けをたまわっているのだ。 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、...試される時②(ヨハネの福音書6章)

  • 試されるとき①(ヨハネの福音書6章)

     その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。(1~2) 恵みに与りたくて付いて来た人々に、イエスは御わざを味合わせ、彼らの必要を満たして命を養われた。今もみことばを通して神を知ることを求め、みことばに従い行く者にいのちの言葉を解き明かし、日々を養って永遠へと導いていてくださる。 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。(3~4) 過ぎ越しの祭りは主を喜ぶときである。イエスは彼らに喜びを準備してくださった。信じる者を生かす神がどれほど豊かに施すことが出来るお方であるかを経験させ、弟子には豊かに施す神に拠って働くことを経験させられる。 イ...試されるとき①(ヨハネの福音書6章)

  • 神を恐れない宗教家 ②(ヨハネの福音書5章)

     もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32) イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。 そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16) あなたがたはヨハネの...神を恐れない宗教家②(ヨハネの福音書5章)

  • キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)

     イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(19) 「すべてのものはこの方によって造られ」(1:3)とあり、すべてはイエスによって造られた。今も、父なる神から発したことを一つになって、この地に行なわれている。人を愛する御父のみこころを行うために、イエスは栄光の御座を離れて、死ぬべき命の弱さを纏って人となり、罪に滅びゆく人類を惜しんで救い出し、ご自身を信じる者と、創造主なる神の御許で永遠を共にするためである。 イエスは、「父がしておられることを見て行う以外には、何も行うことができません」とある。「何もしません」ではなく「何も出来ません」とあり、御子で...キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)

  • 今日の歌(戦争とオリンッピク)

     オリンピックは「平和の祭典」だそうだが、その平和とは何を指すのだろう。競い合うことは戦いではないのか?自国の国歌が流れると誇らしい気持ちになるのは自然な人情であり、近隣国と比べてメダルが多いと誇らしく思うことに、平和と何の関係があるだろう。 今は戦争の最中であり、人が死に、父も母も子供たちも戦火の中を逃げ惑っている。同時進行で世界規模の「平和の祭典」が催されるとは・・何という神経であろう。 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」(ルカ21:9) 世の終わりが近づいていることを知る戦争の多発も、ただちに終わりのしるしではないとみことばにある。しかし、 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、...今日の歌(戦争とオリンッピク)

  • 今日の歌(2024.08.04)

     午後三時トンボ羽伏す日陰かな コスモスの双葉芽生えて炎天下創造のわざ讃える1センチ今日の歌(2024.08.04)

  • 神を恐れぬ宗教家 ①(ヨハネの福音書5章)

     その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6) 死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。 彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入...神を恐れぬ宗教家①(ヨハネの福音書5章)

  • 今日の歌(2024.08.01)

     露光る田の面に流る稲穂の香 汗をして古土弄り種を蒔く双葉待つ間も花の楽しみ今日の歌(2024.08.01)

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