日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。
これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(60) イエスは来る者を追い払わないが、自分を捨ててイエスのことばに従順する弟子は多くはない。奇跡への興味や、宗教家に反発してイエスに来る者もあったろう。 真理に飢え渇いてみことばを求め、謙って主に聴こうとする者なら、わからない言葉に出会った時すぐに立ち去ることは出来ず、なを留まって聴き続ける。渇きを癒やして下さる方を悟ってのことであり、それは初めの神の選びに応答する霊の働きである。 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。(61~62) イエ...イエスは来る者を決して追い出さない③(ヨハネの福音書6章)
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(41~42) 彼らがその疑問を大きな声で言えないのはイエスに神のわざを見たからである。目にしたこととイエスが話された言葉が合致していたのである。しかしその事実を認めたくない故に、仲間同士でイエスを否定する言葉を見つけて文句を言っていたのである。 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。(43) 小声の非難は良心に疚しさがあるからで、イエスは仲間の間でのそのような行為を「止めなさい」と言われる。それは神の真実から目...イエスは来る者を一人も追い出さない②(ヨハネの福音書6章)
16日にブログの編集作業をしていて隅っこに「ブログ開設から6600日」とある数字に気付いた。ちょっと切りのよい数字に年数を計算してみると、書き始めて18年であった。確かに65歳から初めていた。 何度かこれで終わりにすると思ったこともあったが、意地も根性も無いままに淡々と続いているのは、みことばを通して主を味わい、聖霊の助けの中で日々新しく教わるとき、もう死に行くだけの者に教え続けてくださることが勿体なくて、書かずには居られないのである。 ぶっきらぼうな書き方であることはわかっている。「・・ではないでしょうか」とも「・・と思うのです」とも書くことが出来ないのは、私から出たことではなく私の考えでもないから・・ただ、教えられたことをそのまま知らせたい。仮に間違っていても、勘違いをしていても私にはどうすることも...今日の歌(6,600日)
イエスは来る者を決して追い出さない ①(ヨハネの福音書6章)
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(36~37) 「父がわたしに与えてくださる者」とあり、初めに救われるべき者を選んだ神が、イエスに渡されたのである。人が神を見い出したのではなく、人の熱心が神の救いに至らせたのでもない。選ばれていた人は、神の良い計画に応答して救われるのである。 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ1...イエスは来る者を決して追い出さない①(ヨハネの福音書6章)
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。(24) 満腹して余りが出るまでパンを味わった群衆は、病気の癒しに加えて食物の心配までしてくれる、イエスを王として命の心配から解かれようとした。イエスに膨らむ彼らの欲求は支配されているローマに勝利して、プライドも守ってくれることを求めるようになる。 みことばを聞いて主ご自身を求め、経験した御わざによって主を礼拝するには、魂による感情の働きではなく、聖霊と共に霊が働かなければならない。神は霊だから神を知るのは霊に拠るのだ。肉が神のわざを経験しても、際限ない肉の欲求は神を覚えず、御わざにひれ伏すこともなく、絶えず飢え渇いて御わざを利用することを考え続ける。 そして、湖の反対側でイエスを...記憶に残らない神のしるし(ヨハネの福音書6章)
連休疲れ?頭が痛くて・・ちょっとしんどくて何もしたくなかったので、スコップでカリカリと庭を均して、コスモスの苗を植えた。伸びていた雑草を抜いていると、ものすごく久しぶりの雨がぽつりぽつり・・大歓迎!草は伸びるだろうけれど・・雨も見たい。水やりに追い回されて、花は全部終わってしまった。トマトも終わって、プランターの後始末に埃が舞い上がる。あれ?雨はぽつりぽつりで終わり?こう言うとき主人は「天気堅いな」と言っていた。シャワーを浴びたら頭痛を忘れた。今日の歌(2024.08.19)
夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。(16~17) マタイではイエスが彼らを舟に乗り込ませたとあり、このことは主から出たことであるとわかる。しかしヨハネの書き方には彼らの心細さが現れている。 強風が吹いて湖は荒れ始めた。(18) 暗い湖で風と波が出て来ても漁師であった彼らには経験があったろう。落ち着いて操作出来たと思うが、彼らはもう漁師の経験によって生きる者ではなく、イエスに依存する弟子であったのだ。 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。(19) 水の上を歩くイエスを彼らは未だ経験して...霊が見分けられないから恐れる(ヨハネの福音書6章)
秋色のグランデ―ション垂り穂の香 朝露に光る田の面の清しさと秋の気配に心躍りぬ今日の歌(2024.08.15)
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。(9~10) 「何になるでしょう」という問いに対して、イエスはその場の全員を座らせるように命じた。主の御前に静まって座ることこそ、恵みを受けるために覚えておくことであり、事の重大さや数が問題ではなく、それは主を経験する舞台装置のようなものに過ぎない。キリスト者は卑近な事柄にも、御前に静まって主に聴かなければみこころを知ることはなく、御名をほめたたえるまでに至らない。その不自由さに聖霊の助けをたまわっているのだ。 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、...試される時②(ヨハネの福音書6章)
その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。(1~2) 恵みに与りたくて付いて来た人々に、イエスは御わざを味合わせ、彼らの必要を満たして命を養われた。今もみことばを通して神を知ることを求め、みことばに従い行く者にいのちの言葉を解き明かし、日々を養って永遠へと導いていてくださる。 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。(3~4) 過ぎ越しの祭りは主を喜ぶときである。イエスは彼らに喜びを準備してくださった。信じる者を生かす神がどれほど豊かに施すことが出来るお方であるかを経験させ、弟子には豊かに施す神に拠って働くことを経験させられる。 イ...試されるとき①(ヨハネの福音書6章)
もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。(31~32) イエスを証するのは、みことばの真実が現われるわざにある。イエスの口より発した神のわざを目の当たりにして、心の直ぐな人は神のキリストを悟る。 そのように福音を伝える者に対しても、みことばを解き明かしてキリストを語らせ、みこころを生きようとする者には共に居て、誉められている時も責められている時も、私たちたちが神の子であることは、神が証してくださる。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16) あなたがたはヨハネの...神を恐れない宗教家②(ヨハネの福音書5章)
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(19) 「すべてのものはこの方によって造られ」(1:3)とあり、すべてはイエスによって造られた。今も、父なる神から発したことを一つになって、この地に行なわれている。人を愛する御父のみこころを行うために、イエスは栄光の御座を離れて、死ぬべき命の弱さを纏って人となり、罪に滅びゆく人類を惜しんで救い出し、ご自身を信じる者と、創造主なる神の御許で永遠を共にするためである。 イエスは、「父がしておられることを見て行う以外には、何も行うことができません」とある。「何もしません」ではなく「何も出来ません」とあり、御子で...キリストのいのちの言葉を聴きなさい(ヨハネの福音書5章)
オリンピックは「平和の祭典」だそうだが、その平和とは何を指すのだろう。競い合うことは戦いではないのか?自国の国歌が流れると誇らしい気持ちになるのは自然な人情であり、近隣国と比べてメダルが多いと誇らしく思うことに、平和と何の関係があるだろう。 今は戦争の最中であり、人が死に、父も母も子供たちも戦火の中を逃げ惑っている。同時進行で世界規模の「平和の祭典」が催されるとは・・何という神経であろう。 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」(ルカ21:9) 世の終わりが近づいていることを知る戦争の多発も、ただちに終わりのしるしではないとみことばにある。しかし、 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、...今日の歌(戦争とオリンッピク)
午後三時トンボ羽伏す日陰かな コスモスの双葉芽生えて炎天下創造のわざ讃える1センチ今日の歌(2024.08.04)
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(1)そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」(5~6) 死が待つだけの世で苦闘している者に、「良くなりたいか」と近づいてくださるイエス・キリスト。御救に与った者もかっては彼と同じように、思うようにならない状況の中で命をすり減らし、生きる望みに渇いていた。 彼の現状をご覧のイエスは、とても簡単な質問で交わりのときを用意された。ただ「はい」と答えれば良いのである。望みをなくしている者には、主を見上げてみことばに「アーメン」と答えるだけで、み旨に飛び込み関係を築くきっかけとなる。 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入...神を恐れぬ宗教家①(ヨハネの福音書5章)
露光る田の面に流る稲穂の香 汗をして古土弄り種を蒔く双葉待つ間も花の楽しみ今日の歌(2024.08.01)
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神は突然モーセに現れて、イスラエルをエジプトから救い出せと命じられた。 「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト3:10) モーセはこの言葉におじまどっている。過去はともかくも今はエジプトにも、イスラエルにも知られぬ一介の羊飼いであると思っていたからである。しかし、神は彼の命を守って王女に拾わせ、宮殿を恐れない備えをしておられたのであり、神の計画はイスラエルのリーダーとすることである。それはモーセの努力や力に拠って成すことではなく、すべて神の備えに拠る神の計画である。 キリスト者が自分を取るに足りない者と思う時も、神の計画はそれぞれに必要な賜物を備えて、命をたまわったときから神のご計画にある存在だ。 それは人に尋ねて知ること...モーセの信仰
イエスを売るという最悪、再重要な役割を果たしたユダはただの盗人であり、彼は日頃の行いの延長線上でこのことをしたのであり、彼がイエスにいたのも何時でも盗むことが出来る財布を任せられていたからであった。 此処でイエスがユダに財布を預けたのは、彼が重要な役割を負うことになる布石であるとしても、ユダにはイエスを信じて心を入れ替えるチャンスは何時でもあった。ユダは何時もみことばを聞き、近しく神の御わざを見ていたのである。それはすべて彼が生き方を変えるチャンスであった。しかし、彼の興味も関心も金にしか無かったのである。イエスの御わざを見ていても何も感じなかったが、もし、イエスが癒しの度に金を取っていたら、彼はイエスを尊敬していただろう。 マリアの高価な香油がイエスに注がれた時、彼は取り乱すほどの怒りに襲われた。「な...日常の罪がイエスを売ることに至る
アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(10~11) 彼が預言した言葉は事実である。彼はパウロに事実を告げる働きをしたことで、パウロが将来を知った上でみこころに歩んだ信仰に拠って、今もキリスト者のモデルなのである。 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。(12) 人は預言によって命を守ることを考えるが、主は進んで行く道を照らすために語られる。その預言によって自分で将来を選択することは出来る。人々が勧めたことは、誰もが死ぬべき命を少しの間長らえるための...預言(使徒21章)
イエスに繰り返し足を洗って頂くことが正しいことなのであろうか。それは勿体なくもイエスを何時までも奴隷の働きに留めることになるのではないか。未だ肉を着ている者であっても、イエスに一度足を洗って頂いた者はもうきよいのである。もう、全身きよいのである。 再び罪の泥水を選んで歩くことはないように、汚れを見分ける霊の目が見えるようにしてくださっている。十字架のキリストによる完全な罪のあがないに安息するなら、罪に執着する肉からは解かれて、心の底に沈殿する罪の暗闇を掻き回し、罪の欠片を探す習慣から解かれて、救いの喜びに住むことが出来るのだ。 繰り返し罪を侵すのは魂が罪に縛れてのことであり、イエスに罪をあがなわれ、聖霊の守りに在る者は、いつもキリストのうちに在ってきよさに浸され、罪から解放された神の子の喜びに満たされて...悔い改め(ヨハネ6章)
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16) この一見純粋と見える質問は、罪や弱さに悩む者には決して口に出来な言葉である。良いことをしている者だけが、なをその行いに付け加えるものがあるのかと問い、イエスからいのちの約束を聴くことが目的なのである。 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(17) イエスは彼の心を知っておられ、「なぜ尋ねるのか」と言われた。自分で行い戒めを守れば良いのである。彼にはイエスは必要ないからである。 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはな...神に語る祝福のストーリィ(マタイ19章)
キリスト者はイエスの十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、あがないのゆえに義と認められて神に受け入れられた者である。彼らは世から取り出されて、イエスの死とよみがえりを霊に於いて共にし、まったく新しく生み出された者である。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 救いに与るまでとは全く違う価値観にを持つようになり、日々みことばに根ざして生きる者である。世では自分の好みのままに人生を選択し、あるいは、どうすることも出来ない弱さの中で、世の流れに身を任せて生きて来た者が、聖霊の解き明かしによってたまわった永遠いのちを知り、救いの喜びにあふれて生きる者とされる。 心の底から湧き上がる喜びが状況が良くても悪くても変わ...黙って居られなくなる
妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、(民5:14) 民数記には様々な場合、祭司が主がモーセに命じられた事に従って民を裁き、神の民から汚れを取り除くのである。上記の場合は実際に罪を侵した場合と、姦淫を疑われただけの場合が並べて書かれてある。どちらにしても、女が祭司の言葉に従うことによって身の証しがなるようである。無実であれば免れて子を宿すとある。子は神の祝福だからであろう。 妻が罪を犯していないことを証し出来るのは神だけである。裁判の無実は、罪の証拠が得られないので罰することが出来ないだけであって、罪が無いと証されたことではない。しかし、神の基準は心の中で欲望を描いたけで罪なのである。それゆえ義人...義なる神の裁きから愛なる神の赦しへ
日曜日は地域の草刈りだった。私も公園の草を見ながら「もうそろそろだな・・」と思うまでにこの地に馴染んでいた。先日から左足首に痛みがあって自由が利かなかったので、昨夜、主に「しゃがんで草引きが出来るようにしてください。」と願った。 朝食の準備をしていて、ふと痛みが無いことに気付いた。癒された時はどうかすると癒しに気づかないことがある。逆に痛みが残っている時は直ぐに気付くのだ。我ながら不信仰だと思う。主は肉に過ぎない者のこどなど先刻ご存じであり、信仰によって癒されるのではなく、癒しは必要を満たすための、主の憐みに拠ることであるとわかる。 不自由がある度に何度でも祈る。重い病気の癒しも、老いによる日々の衰えも、数えきれず癒されて今生きている。癒しは主のみこころのままにたまわり、癒された命は主のものである。 癒...成長のための癒し
コロコロと土より生まるジャガイモはハラハラどきどき今日で百日 土曜日に、それまで我慢して来たジャガイモ堀をした。思っても見なかった掌の半分もある芋がコロコロと出て来た時は、息が止まるほど驚いた。まさか、こんなのが出来ているとは思っても見なかったから。それというのも、此処は畑ではなく息子が造った花壇の一角。花を植えるのに間があるということで、ジャガイモを育てて見たいと頼んで植えたもの。 通りがかりの方に「これはなにですか」と良く問われ、「ジャガイモです」と答えては「やはりそうですよね」と笑い合った。まさか出来立ての花壇に芋を植えるとはね、驚かれる気持ちはよくわかる。でも、そんなことでお話が出来たことは嬉しかったけれど・・。 包丁の背を当てるとつるんと皮が剥けて真っ白なお肌が現れる。じゃがベーコンやカレーラ...花壇でジャガイモ堀り
神はモーセに、民が備えの地で豊かに生きるための戒めを与えられた。それは「豊かさを得たければ、寸暇を惜しんで働いて備えよ」と言うことではなく、「六年毎に一年間の静まる時を持て」と言う命令であった。不信仰と貪欲による貧しさからの守りのためである。 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(2~4) 六年間働いて収穫を得たなら1年は休めということである。その年はすべての農作業をしてはならないとあり、前年度の種からこぼれて成った実の収穫もしては...神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)
あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申19:21) 民の中から罪を取り除くために、罪の代償は同じものを差し出させよ、とある。故意に命を奪った者は命を求められ、目を傷つけた者は目を差し出すことを神は命じられた。それによってイスラエルの民を治めるためである。 神はご自分の愛するひとり子イエスの命を持って、罪のゆえに死に行く人類を滅びの死からあがなわれた。それによって、イエスを信じるすべての人に無条件の救いが及んだのである。ご自身の定められた「いのちにはいのち」によるルールを適応されたのである。聖なる神には、人が心の中で考えることに拠る汚れも罪であり、あがないを必要とするもので、神の御前に義人は一人もいないのである。 内側から、すなわち人の心の中か...目には目を歯には歯を
引っ越した家の室内は完全なバリアフリーで躓くものはない。ただ、門から玄関まで数段の階段がある。息子は「スロープにするか?」と聞いてくれたことがあったが止めた。注意深く階段を昇るほうが安全なことを知っているから。 50年前に建てた前の家は、当然トイレも和式であり、お風呂のリフォームをしたときも、日々強制的にスクワットを繰り返すことが、私に良いと思ったからである。わざわざ運動をするために、何処かに通う気などさらさら無いからである。 引っ越して二年経ったが私は和式トイレに自信があったので、出かけ先で和式を使用したとき、直ぐに立ち上げることが出来なくなっていたことに驚愕した。使わない筋肉が退化してしまっていたのだ。新築の家ではバリアフリーは当然とされているが、それは筋肉が退化した時に役立つものであって、本当は必...バリアフリー
キリスト者はみな神の祭司とされ、新しく生かされた霊をもって神に仕える者である。 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(1ペテロ2:5)あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9) レビ記には身に欠陥の在る者は祭司となれないとある。キリスト者が神に仕える祭司とされているのは、自身の完全に拠ることではなく、イエス・キリストのあがないの完全にある義と聖に拠ることである。 たとえ見える所は完全であっても、みな心の内には罪があり、また体にあっては、歳と共...祭司のつとめ
「石ころ」はgooブログ終了により、はてなブログに引っ越しをいたします。長い間尋ねてくださり、支えてくださった方には感謝しかありません。18年馴染んで来たgooブログを閉じて、勝手の違うブログに移ることは心細い思いなのですが息子の助けを受けながら、イエスさまが「もう、いいよ。」と言われるまでは、続けようと思っております。それは明日かも知れないのですが・・。老いて新しいことに向かうのは戸惑う事ばかりですが、間違いの無い事実は、今日よりも明日の方が年寄りと言うことで、この辺で決心を致しました。生まれて初めてブログというものを書き始めたのは2006年でした。開設から6873日記事は3610件トータル閲覧数1449356トータル訪問数655196これらのgooブログでの恵みを此処に置いて、はてなブログでの日を...引っ越しのお知らせ
近い将来の備えとして自分の意思をはっきりと書き留め、子どもたちの負担を減らして置きたいと思った。また、苦痛を引き延ばすような延命治療によって、子や孫のための医療費を浪費したくもないから。 84歳まで生きてもう十分であり、むしろ思いのままに動けず、儘ならぬ体は重荷となり、また、世に見聞きすることのひとつ一つを、勝手に負担に思ってしんどいのである。その度に主に逃れて祈って事を忘れるようにしているけれど・・。 「何か重荷を負わせましたか」と言われたことがあった。「勘違いだったのか。座を汚していたのに過ぎなかったんだ」と自分の思い上がと知ったことがあったけれど・・、そういうものかもしれないが・・。テレビを見ることは無いけれど、スマホからも気の重いニュースは目に入って来る。 キリスト者であれば、主が召してくださる...リビングウィル
私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。(出エジプト33:16) キリスト者が神のみこころに叶う者であり、神の愛の中に在ることを世にどのように知らせるのか。それは、永遠のいのちの望みが、キリスト者の平安となって現れることに拠り、死におびえつつ瞬間を生きている世とは全く違う生き方となって現れることに拠る。永遠に変わることのないイエス・キリストの言葉を持つ特別な存在であることが、神の備えによって人生に現れることにある。 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。(マタイ6:10) 彼らは日々にこのように祈りつ、...みこころ
儘ならぬ身を引きずりて生くる日に聞くレクイエム近しきイエスよ 愛無きと棘持つ薔薇も香り立つ1タラントを埋めず開けば今日の歌(2025.05.16.)
五月晴れ庭に溢れる薔薇の香に固きうなじを解かされ憩う 飛び出したジャガイモ一個収穫すツルツルお肌少し青ざめ 五月晴れ三重三年目空広く頂き物のワラビ煮ており今日の歌(2025.05.15)
(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4)一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(7) 人目を避けて炎天下に水を汲みに来ている女は、イエスに差し上げる良いものは何も持っていなかった。女は訪れてくださったイエスに拠って育てられ、イエスの必要を満たすまでになる。それは時間をかけて学ぶことではなく霊に拠って悟ることである。 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(10) イエスは昔も今も同じであ...サマリヤの女の伝道(ヨハネの福音書4章)
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)完全に開放されるいのちの心配
ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。(9~10) 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」イエスのお言葉を、生まれながらに理解出来る人は居ないと思うが、あえてニコデモにレベルの高い答え方をされたのは、彼が「先生」と呼ばれていたからである。 あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8) 兄弟なら教え合う関係であり、ひとりの悟りを皆で分かち合うことが出来る。しかし弟子が先生に教えることは出来ない。誰からも教えられる必要のない先生は、イエスおひとりである。 イエスは一人の女の疑問に答えるために、わざわ...ニコデモの選択②(ヨハネの福音書3章)
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(1~2) ニコデモはユダヤ人の指導者であったが、イエスのなさっていたわざを見てとても素直な反応をしたのだ。これが幼子の心である。しかし、議員であり教師であるという立場に立ち返ったとき、人目を避けてひとりイエスを尋ねた。彼は、イエスのわざがキリストのわざなのか確かめたかったのだ。彼がわざを無視しなかったのはキリストを待ち望んでいたからである。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生ま...ニコデモの選択①(ヨハネの福音書3章)
その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。(12) イエスは肉の家族、霊の家族と共に一時の安らぎを味っておられたのであろう。肉の家族を軽んじておられたのではなく、マリヤを愛して十字架でその身を案じヨハネに託されたほどであり、厳しい言葉は十字架に向かう公生涯に備えてのことである。今から始まる、神から発したものとは似ても似つかぬ宗教との戦いに備えて・・。 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持...イエスの怒り(ヨハネの福音書2章)
衝動買いした南瓜苗をプランターに植えたのは4月の初め。小さな苗を二つと、大き目のプランターを買った。息子に「庭で南瓜を育てるのか」と呆れられた。確かに戦争中じゃあるまいし、あまりしないことだろうけれど「許せ」 小さな小さな苗だったので、大きなプランターに一緒に植えると良いと思っていたけれど、思い出したのは畑の南瓜がゆったりとした広さに植えられていたことだった。絶対二本一緒は駄目だと、急遽ありあわせのプランターに「ちょっと狭いけれどガンバレ」と分けた。プランターを並べると庭の防草シートの上を、大きな葉っぱがどんどん元気に伸びて行った。そこまでは良かったのだけれど、あっという間にウリハムシの攻撃を受けてボロボロ・・。一応消毒もしはしたが繰り返したくはなく、木酢液や石灰を使って悪戦苦闘・・。息子がニームでも消...今日の歌(2024.07.10)
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。(1~2) キリストを知らないままにイエスを招くことが出来るのは、初めに神が選んいてくださったからである。キリストの初めての御わざの場となるとは、どれほどに祝福された婚礼であろう。私たちの救いもイエスを知らないままに御名を呼んで、一つひとつのみことばのご真実を経験して来た。神が初めに選んでいてくださったからである。このことは本当に一方的な神の恵みである。しかし主が招いていてくださるのに、キリストに頼らずに済む方策を持っていることで、選ばれている祝福を無にしてしまう。 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわ...カナの婚礼(ヨハネの福音2章)
タチアオイ種より育て咲き初みて灼熱の下ふわりと開く もぎ取りて熱きトマトに驚きぬ主の備えたもう命強か強か(したたか)今日の歌(2024.07.06)
その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。(43~44) 旧約聖書に書かれてあるイエスに出会ったピリポはどれほど感動したことだろう。大切な人に救い主の到来を伝えに走るピリポの様子が目に浮かぶ。 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」(45~46) キリスト者は目で見ていなくても、霊のうちに共におれるキリストを知って居り、聖霊はみことばを解き明かしてくださっている。また、...何を求めているのですか②(ヨハネの福音書Ⅰ章)
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35~37) ヨハネの言葉を信じた弟子が、イエスについて行くのは健全な反応である。彼らは師であるヨハネから、イエスがどなたであるかをしっかり聴いていたのだ。ヨハネはイエスに導く忠実な働きをしている。イエスの福音を聞きながら人の教えに留まり続けることは、その教師の無能を現わす。いのちは生きている限り成長を求めるものであり、それもキリストを求めることは、神に造られた者の健やかないのちの活動である。 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、ど...何を求めているのですか①(ヨハネの福音書Ⅰ章)
さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:21~22) キリストはすべてのことに置いて罪人の真ん中に来て、罪に悩む病人の隣で生きてくださった。罪を犯されることはなかったが・・。聖いキリストが罪人に混じってバプテスマを受けられた。神のみこころを完成する栄光の十字架も、罪人の真ん中で受けられた。それはキリストが罪に染まることは無く、触れる者をきよめる方だからである。 イエスを神のキリストと証するものは、キリストご自身ではなく神のことばであり神のみわざであった。「わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」御...キリストご自身のバプテスマ②(ヨハネの福音書1章)
さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。(19~20) ヨハネがキリストについて明言出来るのは、彼自身が自分の役割を知って居り、母の胎に在るうちから彼の霊はイエスが神のキリストであると知っていたからである。 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤ...キリストご自身のバプテスマ①(ヨハネの福音書1章)
花陰のバッタやカエル顔を出し少し遊びぬ梅雨の晴れ間に 移り来てまだ海見ぬと気付きしは友の電話の海辺のニュース今日の歌(2024.06.29)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14) キリストは永遠のいのちに在る神の栄光から、罪によって死ぬべき人の体を纏い、人によって育てられて生きることの苦しみや痛みを知っていてくださる。高い所から見下ろして裁く神ではなく、救いのために十字架にまで下ってくださって、今も私たちの弱さの真ん中に居て同情してくださるお方である。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15) ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先に...私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)
鈍色の空に向かって青々と田の面広がり吹く風優し 向日葵の花はいつでも遠き日のあっけらかんを思い出させる今日の歌(2024.06.25)
神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(6~8) バプテスマのヨハネは母エリサベツの胎にいるとき、マリヤの胎に居られるイエスを喜んで踊った。彼は生まれる前から、キリストを知らせる使者の光栄を大いに喜んでいた。 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。(ルカ1:41) バプテスマのヨハネの生涯はイエスをキリストを証して、世の闇を照らす救い主を待ち望む人々に、キリストが来られたことを知らせ礼拝する道を備えた。 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから...生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1~3) イエスは神とともに永遠の始まりであり天地宇宙を、神のみこころに拠って創造された方である。それもことばに拠って造られ、イエスのことばには無から有を創造する力があった。 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:1~3) ヨハネ書の書き出しは人の思考を破壊する。人はせいぜい処女マリヤから生まれたイエスを受け入れるだけで精一杯なのだ。しかし人は神に造られたものであり、被造物の...天地創造の愛の神イエス・キリスト(ヨハネの福音書1章)
見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。(23:14) これらのことを率いた民と共に目で見て、主を経験したヨシュアの人生は非常に幸せであった。「心を尽くし精神を尽くして主を知る」人生だったからである。それも主のたまものであるから・・。 みこころを成し遂げて穏やかに召される日は、主の祝福の時である。「主が御約束を一つもたがわず実現してくださった」ことを経験し、主をほめたたえる言葉を遺して召されることほどの幸いなことはない。 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主は...ヨシュアが受けた主の祝福(ヨシュア記24章)
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。まことに 私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが 私を追ってくるでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいましょう。「アーメン」今日の歌(詩篇23篇)
モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。(6~7) モーセの律法を断固として守るということは、彼らが主に留まろうとする意志に拠ることであり、そのとき、イスラエルの目は主に釘付けられて、その純潔は異邦人もその神々も知ることはない。律法に集中しているからである。 異邦の民との交わりを禁じるのは、主から目を離して異邦人に向くとき、彼らが珍しいものに引き寄せられて、いのちの主を忘れるからである。人は視線の先に向かって生きるのであり、今何を見て...主にすがりなさい(ヨシュア記23章)
此処しばらく歩いていない。暇な時刻には暑くなっていて躊躇してしまうのだった。昨夜、「歩きたいなあ・・でも暑すぎる」なんて・・「公園に行きたいな・・」けれど最近の体調では無理だ・・とネガティブ思考に陥っていた。 今朝息子を送り出し外の涼しい空気に触れて、「そうだ、何もすべてを終えてから歩かなくてもいい。こんなに気持ちいいから今行こう!」と、飛び出すと本当に風がひんやりと肌に心地よかった。 何処までなんて考えずに、心のおもむくままに歩いていたら、公園まで来ていた。途中で畑をしておられる方とちょっとお話をして、以前から「何だろう」と思っていた作物の名前を教えてもらった。 この道を歩くと色々な疑問が湧いて来る。「これは麦。でも何か植え方が変・・」、「普通の稲と少し違うような気がする・・」とか、「これはひょっとし...今日の歌(2024.06.12)