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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

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2016/04/03

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  • 今日の歌(2024.09.30)

     刈り取らる畦の無粋に曼殊沙華 待つ人の無きつゆ草はただ群れてうるうる仰ぐ鈍色の空今日の歌(2024.09.30)

  • わたしは世の光です⑤(ヨハネの福音書8章)

     ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48) 悪魔はイエスの聖なる神と知っており、自分の口では言えない言葉を神に反抗する者に言わせる。神が御子をたまわるほどに愛している者の口から、イエスを貶め罵る言葉を語らせるのである。彼らにイエスがわからないのは、神に反抗する罪を慕って悪魔の言葉に聞き入っているからである。 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49) イエスを知るのは幼子の心である。造り主である神の言葉を喜ぶことが出来るのは、真理を慕う心から出たことである。賢い宗教家や学者たちが、自分の欲望に合わせた理屈に拠って失ってしまった創造主...わたしは世の光です⑤(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です④(ヨハネの福音書8章)

      あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」(41) 彼らは「淫らな行いによって生まれた」と、処女マリアが結婚前に聖霊によってイエスを身籠った事実を、卑しい自分たちの想像によってイエスの出自を貶めているのである。彼らのひとりの父は、この言葉によって悪魔であることを現わしている。 彼らはこの時まで陰でコソコソと噂していたのであろうが、この時彼らの救い主イエス・キリストに向かって「淫らな罪の子」と言ったのである。人は自分の中に在るものを持って他を量る。罪を持っている者は相手にも同じ種類の罪の秤で量り、キリストに拠って聖くされた者は、きよさの秤で自他を量ることが出来る。 イエスは言...わたしは世の光です④(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ③(ヨハネの福音書8章)

     イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31) 何を持って信じたとするのか・・、イエスは心をご存じであり、守るべき者を守っていてくださる。ペテロはイエスを信じていたが、追い詰められた時に3度も関係を否定した。しかし、イエスは彼の弱さをご存じであり、信仰が無くならないように祈られて、ペテロは平安のうちにイエスに留まっていたのである。 信じるとは関係であり、長い信仰生活の中で主に信頼していても、弱さのゆえに危うい時があるが、主は人の弱さには同情してくださる方であり、砦となって守っていてくださる。ただユダの二心をもご存じである。二心の者はみことばを心に受け入れてはおらず、それゆえみことばの真実を経験することは無いので、時が来たらイ...わたしは世の光です③(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ②(ヨハネの福音書8章)

     イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(21) 彼らが自分の罪の中で死ぬのは、イエスをキリストと信じないからであり、彼らを選びみことばと力あるわざによって、神を証した方を殺すからである。賢さによって自分たちの救い主を葬るのだ。 神が遣わせてくださったイエスを救い主キリストと信じた者は、天に永遠の住まいをたまわり、天地創造の神と御子イエスと共に神の子として、永遠を生きるのである。 御わざを見ても、みことばを直接聞いても悟らず、この世に執着して永遠を求めない者は、肉の命が尽きる時に、恵みと憐みによって備えられた救いのための猶予は終了する。 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあ...わたしは世の光です②(ヨハネの福音書8章)

  • わたしは世の光です ①(ヨハネの福音書8章)

     イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12) 此処に姦淫の女もいただろう。イエスに赦された者は闇を嫌って光りを求めるようになる。神の愛が溢れる望みのみことばを聴き続けていたいから。人々に混じって耳を傾けていたであろう。闇から光りの中に移さ、みことばを生きるために。 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」(13) 宗教家たちはイエスによって語られる神のことばを否み、イエス・キリストに権威を返すことを拒んで、律法からイエスを否定する材料を捜している。しかし、律法を成し遂げるのはイエスである。 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思...わたしは世の光です①(ヨハネの福音書8章)

  • 今日の歌(2024.09.16)

     オリオン座夜半に目覚めて星の名を記憶探りてリゲル..シリウス.. さんざめく星の光に誘われて窓を開けたり秋風涼し今日の歌(2024.09.16)

  • 罪を訴えさせるもの (ヨハネの福音書8章)

      イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、(1~3) 人々がみことばに耳を傾けているイエスの教えの中に、割り込んで来たのは姦淫を犯した女を引き連れた一団であった。彼らは女の救いを求めて来たのではなく、神の義を求めて来たのでもなかった。 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(4~5) 得意満面の彼らの顔が浮かんでくる。彼らには女はイエスを追い込むための材料であった。愛を説くイエスには律法によって...罪を訴えさせるもの(ヨハネの福音書8章)

  • イエスの時 ⑤(ヨハネの福音書7章)

     さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(45~46) 彼らはイエスのみことばに心を動かされたのである。それは、かって一度も聞いたことの無い神のことば「人があのように話せるだろうか」と気圧されたのであろう。イエスは、天地をも創造することばなる方である。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもなかった。(ヨハネ1:3) そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」...イエスの時⑤(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ④(ヨハネの福音書7章)

     そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33) 此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。 みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。 ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの...イエスの時④(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ③(ヨハネの福音書7章)

     さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(25~26) イエスのわざを見てメッセージを聞いた人たちから、イエスが命を狙われている意味が分かって来たのであろう。イエスの話されることは、宗教家たちとはまったく違っていたからである。その人たちはみことばからキリストに気付き始めたのである。 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27) ナザレの大工の子であることを知っている。イエスの出自を知っていることで彼らは躓いた。私たちの知って...イエスの時③(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ②(ヨハネの福音書7章)

     ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。(11~13) 神を恐れる者は人を恐れないが、人を恐れて群衆に紛れている者が、天地創造の神を告白することはない。彼らは奇跡を見ても、イエスのパンを味わっても、イエスをキリストと証することはない。彼らは小声でひそひそとイエスを探し、遠くから見物するだけである。しかし、彼らはイエスに在るキリストのわざを見たのであり、その事実を認めずに、神が遣わされたイエスを礼拝しないことは、神に反抗する罪なのである。 祭りも...イエスの時②(ヨハネの福音書7章)

  • イエスの時 ①(ヨハネの福音書7章)

     その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。(1) イエスは、十字架で死ぬことに拠って御父のご計画を全うするために地に下って来られた神の子であり、死を恐れてのことではなく時が満ちていなかった。父なる神のみこころを成し遂げるための時が必要なのである。神の愛をご自身によって知らせ、福音を伝え続ける弟子を育てなければならない。イエスの時は神の緻密なご計画に在るのである。 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。この...イエスの時①(ヨハネの福音書7章)

  • 今日の歌(台風一過)

     初秋の朝日を浴び、夏休みを終えて登校する子供たちの姿を窓辺に見た。台風が去って本当に良かったと、やはり新しいスタートはこうでなければと思いつつ・・。 台風10号は初めに伊勢湾台風級という言葉を聞いて、その台風の惨たらしさは幾らか知っていたので、本当に恐ろしくて「酷いことになりませんよう。台風を消してください。」とイエスさまにお祈りをした。 木曜日には列車の運航停止で、遅くになって息子はタクシーで帰って来た。金曜日は有休を取ってあるとのことで私も気楽だった。雨は断続的に降ってはいたが、伊勢湾台風級というようなものではないと知ったこともあった。 土曜日になって雨は強まり時々窓の外を注意していた。ラジオで線状降水帯と聞いていたが、昼近くに何気なく二階の窓から道路を見て驚いた。側溝から水が溢れており、見る見る道...今日の歌(台風一過)

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