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浜松城に隣接する浜松市役所の前に、「家康公鎧掛松」という史跡があります。この松には、次のような話が伝わっています。元亀3年(1572年)三方ヶ原の合戦から城に帰った徳川家康は、大きな松に鎧を掛けて木陰で休みました。このことから鎧掛松と呼ばれています。現在の松は、昭和56年に植樹された三代目で、初代の松は、浜松城の堀のそばにありました。また、当時、鎧掛松近くの清水で、合戦に疲れた馬のからだを冷やしたところ...
【どうする家康】#16 信玄の策にはめられた家康、泣き落としで家臣を動かす
義弟は、血のつながりが無いはず NHK大河ドラマ「どうする家康」第16回「信玄を怒らせるな」を最初に見たのは先月30日のお昼だったか・・・BS4Kで見た。そこから、まだ薬でボンヤリしているうちにもう土曜日となり、お昼の再放送を見てまた「そうだブログを書こう」と遅ればせながら思い立った。あらすじを公式サイトから引用する。 浜松に居城を移した家康(松本潤)だが、城下で虎松(板垣李光人)と名乗る少年に襲われる。遠江の民は徳川を恨んでいるという虎松の言葉に、家康は傷つく。一方、信玄(阿部寛)に対抗し、家康は上杉謙信との同盟を探るが、それが武田方に漏れ、信玄を激怒させてしまう。武田との決戦を避けられない…
武田軍は、三方向から遠江に侵攻し、一言坂、二俣城で勝利。12月22日、武田方は、二俣城を出発し、西へと進路を取りました。織田軍からの援軍を得た徳川家康も、武田軍を迎え撃とうと浜松城を発ち、自ら出陣。戦場となったのが、三方ヶ原です。以下、Wikioediaより1572(元亀3)年、上洛を目指し、武田信玄が遠江国に進軍することを知った家康は、浜松城を出発・追撃し、三方ヶ原の地で戦いとなりましたが、兵の数でも軍術でも劣る...
浜松八幡宮は、仁徳天皇の時代に、許部(こべ)の里(現在の浜松市南区小沢渡町)に創建された許部神社が天慶元年(938年)に曳馬の里に遷座して現在の八幡宮になったと伝えられています。このとき遠州灘海岸の小沢渡から移した小松を社領の一角に植え、のちに「颯々(ざざんざ)の松」と呼ばれるようになったと伝えられています。1570年(元亀元年)に徳川家康が、居城を岡崎城から浜松城へ移し、本八幡宮を鬼門封じとしました。1572...
山県昌景軍が、柿本城、井平城を落とし、二俣城の武田本隊に合流。二俣城は、遠江国豊田郡二俣(浜松市天竜区二俣町二俣)にあった山城で、戦国時代、今川氏により築城され、武田軍の修築を経て、徳川の時代に天守台など諸施設が構築されました。天竜川と二俣川に挟まれたこの城をめぐって武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。一言坂の戦いで、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲。...
一言坂の戦いは、武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、三方ヶ原の戦いの前哨戦です。元亀3年(1572年)、武田信玄は信長包囲網に応える形で西上作戦を発動。信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河国へ、秋山虎繁率いる伊那衆を美濃へと先行させ、自ら率いる本隊2万5000を信濃国の青崩峠から徳川氏領の遠江へと侵攻させました。別働隊を率いた馬場信春は、徳川方の只来城を落とすことに成功、信玄の本隊と...
では、3階の展望台に上がってみましょう。天井にはこれまでの歴代城主の家紋があしらわれています。北には、三方ヶ原古戦場や二俣城南に遠州灘西に浜名湖、天守の西側に隣接する八幡台晴れた日には、東に富士山が見えます。この日は、富士山を拝むことができました!では、最後に地下に降りてみましょう。地下の井戸は、復興天守閣建設に先立つ発掘調査で発見されました。井戸は天守門の他に城内に6箇所、清水の湧出する清水場が2...
すべて!(笑) 相変わらずテンポの違う半蔵サン。於大サマ,以前ゆーてたことと違いますな〜(苦笑) 源三郎クン,信長サマみたいな信玄サマの愛はなかったのね・・・それとも,もっと歪んだ愛?(違) 信玄サマの言伝場面は,二人の間での繰り返しは避けて欲しかったな・・・。 でもって,相変わらず歯に衣着せぬ家臣たちじゃなあ(ソコガイイ)及ばないという自己認識がある,そこが殿の強みでござる。 家臣団最後にいいとこ持ってった夏目サン・・...
浜松城の天守閣には家康と城下町浜松にまつわる歴史的資料、武具などが展示されています。昨年の夏から4ヶ月にわたり、大河ドラマ「どうする家康」の放送にあわせて進められていた天守閣の改修工事が12月に終わり、新しく生まれ変わった浜松城。改めて内部を見学したのが、今年のお正月でしたので、入り口に「謹賀新年」の文字が飾られていました。家康浜松に立つ「どうする家康」浜松大河ドラマ館のポスター徳川と武田の対立人生...
続いては、浜松城の天守曲輪の紹介です。天守周辺は天守曲輪と呼ばれ、本丸から独立した曲輪となっており、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されています。16世紀末に築かれた天守台が残されているほか、昭和33年に復興天守が建設され、2014年に天守門と共に付近の土塀が復元されました。浜松城跡浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、十七年間在城した。東西600m、南北6...
では、天守門の方へ進んでいきましょう。この野面積みの石垣は、約400年前の築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。野面積み浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えますが、400年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しない...
浜松城の三の丸は、二の丸の南東側に位置し、周囲を土塁と堀で囲まれ、重臣の屋敷が立ち並んでいました。三の丸の南側に浜松城の正門である大手門は、現在の連尺交差点付近にありました。浜松城大手門跡廃城後は土塁の撤去と堀の埋め立てが進み、市街地化されています。連尺町ここから浜松市役所、浜松城方面に向かって歩いて行くと、このような看板があります。「家康の散歩道」として紹介されている家康ゆかりの史跡マップもあり...
【どうする家康】#14&15 ジャニーズ2人で性虐待を演じた意味
爽やかな阿月(あづき)回に涙 NHK大河ドラマ「どうする家康」について、前14回「金ヶ崎でどうする!」のブログは、爽やかな感動回だったので書きたかったけれど体調が許さず諦めた。続けて読んでくださってる方、ゴメンナサイね。今は15回を書こうと思ったけど、14回もちょっとだけでも書いておこう。まずは公式サイトからあらすじを引用する。 ⑭ 信長(岡田准一)と共に、朝倉義景との戦に臨んだ家康(松本潤)。その裏では、浅井長政(大貫勇輔)が謀反を決意していた。浅井・朝倉に挟み撃ちにされれば、織田・徳川連合軍はひとたまりもない。長政の妻・お市(北川景子)の心中を察した侍女・阿月(伊東蒼)は、謀反を知らせるた…
徳川家康が、岡崎から浜松に拠点を移したので、改めて浜松城を紹介していきたいと思います。浜松市役所側から浜松城公園に入ると、公園の南側の「本丸南広場」に、解説看板が設置されています。今回は、その解説看板と共に、浜松城を案内していきます。本丸南の空堀左図:17世紀前半 浜松城の図(浜松博物館蔵)右図:安政年(1850年代)浜松城絵図(浜松北高校蔵)この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために設け...
浜松市中区元魚町に鎮座する松尾神社和銅年間(708〜715年)の創建で、当初は浜松神社と呼ばれていたそうです。1577(天正5)年、徳川家康が引間城を拡張、浜松城構築に合わせ、引間城下の塩市口にあった浜松神社を松尾社と合祀し、現在地に移ったといわれています。以後、浜松城主の祈願所として歴代の城主が帰依するようになりました。祭神は徳川家康をはじめ、白鬚神、大山咋神、厳島姫神で、特に白鬚神は浜松の土産神として人...
大河ドラマ【どうする家康】感想 第15回「姉川でどうする!」
史上一番大魔王感のない、ただの暴力軍団・織田家……。 史上一、あほたわけっぽい家康……。 どうするぅ……。 命 史上一番大魔王感のない、ただの暴力軍団・織田家……。 史上一、あほたわけっぽい家康……。 どうするぅ……。 命
永禄12年(1569)、徳川家康は、遠江国の国府・国分寺が置かれた政治文化の中心都市であった見付(磐田市)に築城を開始しました。遠江国分寺跡しかし、東方の武田信玄に対し、背後に天竜川を控えており、川が増水したら、織田信長からの援軍が間に合わない、水の便が悪い、信玄のとの関係が悪化したなど、いくつかの理由により築城を断念し、引間(浜松)に城を移すことにしたと言われています。見付の築城には、信長からの強い反対が...
アヴァン,トーキチローのあざとさが神がかってる(笑) 耳が弱いの,やっぱ信長サマに仕込まれた疑惑,再浮上だわ。齧られちゃってるし(腐) 相変わらず名前間違うのねえ・・・さすがポンコツ;;;あ,予言吐いちゃった。 そこまで「ぐっちゃぐっちゃ」って強調せんでも・・・二人して殿を脅迫するというね。誰かさんの主君狩り以来の下剋上(笑) 「浅井の首を取れー!」は,いい演技でしたな,うん。さすがムロさん。切り替えがスゴイ。...
浜松市中区に鎮座する分器稲荷神社は、田町の氏神社とされ、徳川家康が三河から浜松に入った永禄11年(1568年)2月に創建されたと伝えられています。稲荷神社の場所は中世引間宿の南限にあたり、家康が浜松に来た頃には、経済の中心としてたいへん賑わっていました。家康の在城17年のうちに引間城(浜松城)を拡大し、堀尾吉晴や江戸初期の譜代大名が城下を大改造すると、引間宿は解体されて跡地は武家屋敷になりました。「分器」...
さらに田んぼに囲まれた道を走り、陣田へ。陣田は、姉川の合戦の際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。 浅井長政と陣田当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっ...
続いて、三田村氏館跡へ。高い土塁が確認できます。京極・浅井氏の家臣の三田村左衛門の館跡である三田村氏館跡は、現在の伝正寺周辺が館跡で、寺の周囲三方に土塁が残っており、下坂氏館跡(長浜市下坂中町)とともに国史跡の北近江城館跡群に指定されています。国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。ほぼ60メートル四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高...
若い時代の家康を丁寧に描いてきた感じのする「どうする家康」ですが、ここにきて、今週は「金ケ崎の撤退」、来週は「姉川の戦い」と、歴史上にも有名な、またかつての大河ドラマでも数多く描かれてきた、出来事の展開に入ってきました。 「金ケ崎の撤退」については、お市が、信長に、両端が閉じ...
続いて、姉川の合戦の戦死者を葬った七十士の墓へ。姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。石塔は五輪塔と宝篋印塔からな...
続いて血原塚へ 姉川古戦場 お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(1570年)6月3万の兵を率いて竜ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。徳川家康は、この時、5千騎を率いてこれを援軍している。 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。 ついに2...
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
阿月チャン,甘いものに目がなかったのねえ(笑)。コンフェイトは干し柿よりもずっとずっと甘いもんね♪(実際はもっと重い思いだったけど・・・) 侍女といえば瀬名サンにも駿府時代にいて,一家護送される時に別れてるけど・・・再登場しないのかしら? 結構結びつきが強かったような印象があるんで,気になるの。 この勝家サン,意外に常識人(だからトーキチローと対立したのか) この光秀ドノ,いやらしさが素敵♪ この信長サマは,面白い性格...
大河ドラマ【どうする家康】感想 第13回・14回 「都→金ヶ崎でどうする」
先々週は金平糖を取られた話で(いや、それだけじゃない(笑))、感想書く気もしなくて、どうする……。 家康(松本 先々週は金平糖を取られた話で(いや、それだけじゃない(笑))、感想書く気もしなくて、どうする……。 家康(松本
続いて向かったのが、姉川の合戦の時に徳川家康が陣を敷いた岡山(勝山)です。上坂神社の前に案内板があります。 徳川家康と岡山(勝山、東上坂町) この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったとされます。徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。 江戸時代...
次に向かったのは、龍ヶ鼻砦から移した織田信長の本陣跡の陣杭の柳(じんごのやなぎ)です。 織田信長と陣杭の柳(東上坂町) 姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」本来「陣鼓」と書かれたとも言...
【どうする家康】#13 「麒麟がくる」ファン号泣(?)回、あんまりな光秀&義昭
神君同様、15代将軍様の見事な貶されっぷり 選挙があった関係で、公共放送NHKもその役割を果たすために看板の大河ドラマを1回お休みした。4/2に放送のあった第13回「家康、都へゆく」についてこのブログに書くのも、こちらも体調不良を引きずりお休みになりそうだったが、タイミングよく間に合いました。 気づけば、こんなダラダラ適当な大河ドラマ雑感でも、お読みくださる方がこんなにおいでなんだなーと驚いている。そろそろ床上げも近い。寝床から起きて、少しでも書いておきます。 ということで、まずは公式サイトから13回のあらすじを引用する。 家康(松本潤)は、徳川領となった遠江の情勢も不安定な中、信長(岡田准一…
龍ヶ鼻陣所からほど近い田んぼの真ん中に、遠藤直経の墓があります。ここは、姉川の合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられています。自軍の敗色が濃くなると、直経は味方の武将三田村左衛門の首級を携え敵軍に偽装、織田信長の陣中に忍び込み、暗殺を謀りましたが、本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中半兵衛(重治)の弟・竹中久作(重矩)に見破られ、捕らえられて斬首されたといいます。永...
先月、滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れません...
越前の朝倉義景討伐の軍を率いた織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守る金ケ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井長政が離反して、織田軍の背後を襲い、一転、挟撃を受ける危機に見舞われました。そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙京都に帰還し...
永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立しましたが、信長は自らの天下統一を目指し、義昭は上杉謙信や毛利元就らにも上洛を促して幕府の再興を目指すという、両者の目指す方向にはずれがあり、次第に両者の関係は冷めていきました。永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟9か条、のちに追加7ヶ条をを義昭に突きつけ、承認させました。一...
菅生神社は、岡崎最古の神社で、日本武尊命により(西暦110年)創建されました。御祭神は、天照皇大神・豊受姫命・須佐之男命・徳川家康・菅原道真。松平家・徳川家康ゆかりの神社で、家康が25歳の時、厄除開運祈願をされ、社殿・寄進田など厚く崇敬されていました。その後、江戸幕末まで、岡崎城主代々の祈願所として城主より社殿・鳥居など寄進を受け、岡崎城内鎮守の守護神とされていました。菅生東照宮 開運稲荷大明神岡崎市...
大河ドラマ 女性主演作女性主人公の大河ドラマは、2024年放送の「光る君へ」(主演吉高由里子)を入れて、63作中15作です。その中で、女性単独主演作は11作、夫婦役でのダブル主演が3作、姉妹役の女優3人での主演作が1作。<NHKドラマ関連記事>歴代大河ドラマ視聴率一覧&ランキングNHK大河ドラマ 歌舞伎役者主演作一覧朝ドラ 男性単独主演作一覧【大河ドラマ 女性主人公作一覧】年代別 女性主演作品数※ダブル主演等含む1963年~199...
岡崎の松應寺は、徳川家康が父・松平広忠の菩提を弔うため創建したお寺です。松應寺の境内は、昭和の時代まで花街として栄えていましたが、近年はほとんどが空き家となっていました。そんな中、かつての賑わいを取り戻そうと松應寺横丁街づくり協議会が発足し活性化を開始し、いろんなお店ができてきたそうです。松應寺横丁を通って松應寺の境内へと進んでいきます。天文18年(1549)3月、岡崎城主・松平広忠は、城中で家臣の岩松...
【読書】王者の妻(下)今年の大河ドラマ『どうする家康』を観ていて、戦国時代を読みたいなと思っていたところで見つけた、永井路子さん著作の『王者の妻』。Kin…
岡崎の善立寺は、1467年(応仁元年)に日護が安城に創建したのが始まりとされています。安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せており、1497年(明応6年)、安祥城主松平親忠より田地3反が寄進されました。その後、親忠の曾孫である松平清康が岡崎城に入ると、1532年(天文元年)に本寺も岡崎へ移転しました。1543年(天文12年)に松平広忠より寺内と田2反を安城の替地として寄進されています。1590年(天正18年)、徳川家康が...
T46.デジャヴュに陥った韓国国政?(ユン・ソクヨル大統領就任100日の世論調査を受け)
第8章 雑記46ユン・ソクヨル大統領就任100日の世論調査を受け 韓国朝鮮の歴史を中心に執筆して居る当ブログですが、今回のブログ記事は計らずも政…
「みちひろば」の徳川四天王の像(2)榊原康政象&井伊直政像
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に設置された徳川四天王の像より、続いては、榊原康政と井伊直政の銅像です。榊原康政像榊原康正といえば、小牧・長久手の戦でのエピソードが知られていますね。小牧・長久手の戦で、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉対し、康政は秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけました。怒った秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れを出したといわ...
「みちひろば」の徳川四天王の像(1)酒井忠次像&本多忠勝像
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に、徳川四天王の像が設置されています。酒井忠次像徳川家康の覇業に功績のあった重臣。本多(ほんだ)、井伊(いい)、榊原(さかきばら)とともに徳川四天王の一人。徳川氏と同祖だという名門左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれる。家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府(すんぷ)人質時代にも供奉(ぐぶ)して奏者役(そうじゃやく)などを...
後の布石、第1弾。徳川信康(寺嶋眞秀)と五徳(松岡夏輝)の登場。まだ、子どもだけど仲の悪い夫婦。将来を暗示している。五徳は、信長(岡田准一)の娘。父の力を笠に着る。家康(松本潤)も信長は怖い。築山殿(有村架純)の運命も…手に入れたコンフェイトは、義昭(吉
どうする家康が中盤でつまらないと視聴率低迷の理由!何故ドラマ反省会で大荒れ炎上?キャスト・脚本・あらすじが微妙!
大河ドラマ「どうする家康」がつまらないと言われている理由は何なのか。 視聴者の感想口コミ評判レビューをみてみましょう。 どうする家康ドラマ公式webサイトはこちら どうする家康ドラマ公式webサイト どうする家康SNS上 ...
「どうする家康」の登場人物の衣装や小道具が展示されています。突如現れ、茶を差し出した僧。徐々にその男が信玄だと気付く家康(^0^;)服部半蔵役の山田孝之さんのパネル徳川家康の衣装瀬名の衣装武田信玄役の阿部寛さんの衣装信玄のパネル家康&瀬名のパネル「どうする家康」の映像世界を楽しむことができるデジタル体験4Kシアターでは、出演者インタビューやメイキング映像、浜松でしか見られないオリジナル映像が流れていました...
浜松城の桜が開花し始め、賑わいを増した日に浜松大河ドラマ館へ出かけてきました。エントランスでは、松本潤さんの大判ビジュアルやwelcomeメッセージでお出迎え。「どうする家康」の番組概要ドラマに登場する浜松城城門を再現されています。体感!「どうする家康」の世界では、登場人物のご紹介や衣装・小道具のほか、実際の撮影で使用されたセットを展示されています。出演者の紹介パネルこちらは、椿姫ことお田鶴の方を演じた...