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「道具」という言葉がある。今では、英語の「tool」の訳語としての位置付けになっていると思うのだが、元々、「道具」というのは仏道を学ぶための「具」だったともされる。将に叢林に入るには、先づ道具を弁ずべし。中阿含経に云わく、蓄うる所の物、身を資するべきは、即ち是れ善法増長の具なり。菩薩戒経に云わく、資生順道の具なり。『勅修百丈清規』巻5「弁道具」項以上の通りである。ここで「道具」については、『中阿含経』を典拠として挙げつつ、「善法増長の具」とし、また、『菩薩戒経』を典拠として挙げつつ、「資生順道の具」だとしている。つまりは、自分自身の身の助けとしつつ、善法に順うための「具」を意味しているといえよう。ところで、ここで挙げられた『中阿含経』や『菩薩戒経』だが、実際の典拠はどうだったのだろうか?少し調べてみたが、...仏道修行の「道具」の話
如来 の意味を考える 弧理論から見たら「相対性」であり、「総量は保存する」と同時に「外のない内」
仏教における 如来 とは、悟りを開いた人のことをさして言います。仏陀(Buddha)は、悟りの最高位「仏の悟り」を開いた人を指します。仏陀には、10の称号があり、如来は十号の一つとあります。つまり、如来は仏陀のうちの一つ … 続きを読む →
或る問答で「大修行底の人」と対で用いられた「大作業底の人」について、議論されたことは無かったのだろうか?ということが気になった。それで、以下の問答があったので考えてみた。問う、大修行人、還た地獄に入るや也た無しや。師云く、裏許に在り。僧曰く、大作業人、還た天堂に上るや也た無しや。師云く、鰕の跳べども斗を出でず。『建中靖国続灯録』巻6「仏印了元禅師」これをそのまま採れば、まず、大修行人が地獄に入ることがあるだろうか?という質問に対して、「裏許に在り」という話になっている。これは、大修行人が地獄に堕ちるはずが無いという「前提」があってのことなのだが、この場合地獄の内側にいるという意味なのだろう。何故こうなるのかはこの問答からは知られないようだが、大修行人は修行で何かを目指してしまい、その結果分別が出て来て地獄...「大作業底の人」について
内薫外護(ないくんげご) 内薫外護(ないくんげご)という仏教用語をしってますか。 これはお釈迦様の説法の中にでてくる究極の教えの一つです。 内薫外護(…
おはようございます。😆あいつも見ていただき有り難うございます。僕は毎朝これみてます。メルマガも登録してみてます。宗教に傾倒しているわけではありません。でも人…
おはようございます🌞今日は仙台は、昨日の余韻で、ちょっと雪が残っています。朝方、凍結してたな。何故か。。。3時頃に目が覚めて👀!何故か、無性に腹へった(笑…
とりあえず、【(2)】をご参照いただいた上で、『真宗百通切紙』巻2「卅九妻帯の事」の前回に続く以下の記事をご覧いただければと思う。問ふ、聖人妻帯の意、如何、答ふ、末代下根の凡俗に同じて本願他力を勧め給へり、譬ば人の井中に堕んに衣服を脱ぎ、井に入ん、其の間には、死すべき故に、衣服脱せずして井中に入り、是を救うべし、其の如く、濁世末代の世俗を救んには僧形の侭、俗中に入て本願念仏を勧て、俗人念仏往生疑無しと信を取らせ玉へり、問ふ、末弟の僧、妻子を帯びて念仏往生疑い無し耶、答ふ、本願不思議何ぞ疑ん耶、其の上、源空上人云く、設ひ僧形と為ると雖も、妻子を帯るは、即ち在家の僧なり、更に出家の思いを成すべからず、恒に身心に愧ぢ、深行を修すべし、但だ邪婬を禁ずべきなり、一人猶を以て比丘行に非ず、況や邪婬を行ふをや、空聖人、...江戸時代の浄土真宗に於ける妻帯論について(3)
ちょっと気になる文脈があったので、学んでみたい。戒、唯だ仏制するのみ余人に通ぜず行宗云わく、大千界の内、仏を法王と為す。律は是れ仏勅なり、唯だ聖制のみ立す。自余の下位は但だ依承すべし。良に以れば如来は行果極円にして、衆生、軽重の業性を究尽す。等覚已下、猶お堪る所に非ず。況んや余の小聖をや。輒ち敢て擬議せんや。国家の賞罰号令の如くなること有るは、必ず王より出づ。臣下、僭越すれば、庶人、信を失す。亡敗すれば日無し。仏法も亦た爾り。若し他の説を容れれば群生奉らず。法、久住せざる故なり。『緇門警訓』巻3、版本に従って訓読要するに、戒とは仏陀が定めたものだが、他の人が定めることは出来ない、という趣旨の文章である。まず、行宗とは、律宗系の文献に見える名前だが、律宗僧の祖師の一人か。それが、大千界の内、仏を法王とし、律...『緇門警訓』に見る「仏制としての戒」の説示
もう亡くなった渡辺淳一の代表作のひとつに、「失楽園」って小説があったけど、あれに描かれた世界って、発刊されたばかりの『地獄の法』とは関係ないのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『「失楽園」のその後』――痴の虚人渡辺淳一直伝(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。それは突然にやって来た。ある意味で、来るべくして来たと言ってもよかろう。本年の四月三十日に亡くなられて十日余りで私のところにやって来た。生前に面識があったわけではないが、宗教の伝統的価値観とは対立し、説得する気持ちを持ち続けておられたに違いない。渡辺淳一氏は、作家としては有名で、様々な文学賞や勲章まで手に入れられた方である。小説『失楽園』は、二百五十万部以上の売れ行きだったといわれており、そ...失楽園って?
13年ぶりのブログ再開だ!(52)広目天立像(西) 快慶作 を描いてみました。(高野山 金剛峯寺 霊宝館の四天王 鎌倉時代 重要文化財)仏教がインドで成立する以前に現地で行われていたバラモン教などの既成信仰の中の神々を、 仏教は巧みに取り入れて、仏教を護る護法神としている。天部である。 中でも四天王は須弥山 (しゅみせん) の中腹に住して、 頂上にある帝釈天 (たいしゃくてん) の喜見城を守る天部の四人の天...
以前、【「居家」という表現】という記事を書いたときに、いわゆる仏教の在家信者を示す表現として「居家」があることを示した。ところで、そうなると、例えば「居家戒」という表現があるのかどうかが気になったので、ちょっとだけ調べてみた。問うて曰く、若し居家戒ならば天上に生ずることを得て、菩薩道を得る。亦た涅槃に至ることを得るは、復た何ぞ出家戒を用いんや。答えて曰く、倶に度を得ると雖も、然し難易有り。居家、業に種種の事務生ず、若し道法に専心せんと欲すれば、家業、則ち廃すべし。若し家業に專修せんと欲すれば、道事、則ち廃る。取らず捨てず、乃ち応に法を行ずるは、是れを名づけて難と為すべし。若し出家して俗を離れれば、諸もろの紛乱を絶して、一向に專心して、行道、易きと為す。『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」す...「居家戒」という表現について
悟りを開いた「仏陀(ぶっだ)」が、この現代日本で、衆生に教えを説いておられるんでしょ。なんでマスコミは、話題にしないの?なーんて真っ直ぐな疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『逆境の中の希望』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。日本国民は、まだまだ、本当の意味でスピリチュアルに啓蒙されてはいません。まだ、スピリチュアルなものを「際物だ」と思っているでしょうし、霊的なものを本心から信じてはおらず、個人的な趣味のレベルのものだと思っています。「少なくとも、公のメディアで流すようなものではないし、新聞等、公の活字に出るようなものではない。お好きなら、各個人で勝手にどうぞ」という程度にしか見ておらず、公的なものだとは思っていないのです。この点が、国営放送等で私の説法を流している国との違...仏陀が法を説いているって?
以前アップした【「三蔵」概念の成立について】の続きのような記事なのだが、その記事を書いた時には調べなかった一節があるので、紹介しつつ、リンク先の記事を補完しておきたい。なお、リンク先の記事では、『大智度論』を引用しつつ、「修多羅」について、『阿含経』と「大乗経典」に加えて、「二百五十戒、是の如き等を、名づけて修多羅と為す」としており、何故か、本来は「律蔵」に係る文献も含めていたことに、違和感を感じていたのである。そうしたら、その辺のことが同じ『大智度論』に書いてあったので、確認しておきたい。先説す、「尽く十方諸仏の説く所の法を聞かんと欲する者は、当に般若波羅蜜を学すべし」と。説く所の法とは、即ち此れ十二部経なり。諸経中、直に説くものは、修多羅と名づく。いわゆる四阿含、諸摩訶衍経、及び二百五十戒経なり。三蔵...『二百五十戒経』の話
時代劇ファンなら、一度くらいは「善光寺参り」という単語を聞いたことがあるでしょう。江戸の人々にとって、善光寺は「一生に一度は参詣したい」場所だったそうです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』シリーズ(続膝栗毛)でも、例の弥次喜多コンビが参詣する描写が書かれています。僕も一時代劇ファンとして、江戸の文化に思いを馳せつつ、長野県長野市にやってきました。もちろん、これから善光寺に行くためです。▲閑散とした土...
12月の和名について、「師走」という表現だというのは、よく知られていると思う。ついでに、これが「僧侶が走るさま」という話も知られていると思う。この辺、以前、当ブログでは【「師走」という言葉と仏教との関係について】という記事を書いて、一応までの見解を申し上げた。今回は、改めて資料などを検討してみたいと思い、記事にしている。今月はこれまで、臘八摂心などに因んだ記事ばかりだったので、今日は以下の記事を採り上げてみたい。【六十】師来事△十二月をしはすと云は何事ぞ、文字如何ん、師走月と書てしはす月とよむ、又は師来月共も書く也。諸寺諸山の、師僧檀主の許へ年中の祈祷の巻数を捧て来る故也。月追の態なれば、いそがはしく走廻る心也。『塵添壒嚢鈔』巻3、カナをかなにするなど見易く改めるこの文章は、まさに「師走」とは何か?につい...「師走と師来」考
本日は中国禅宗二祖慧可大師が、達磨大師の下で断臂した日として伝えられている。その様子については、既に【本日は慧可断臂の日(令和3年度版)】という記事で見たところである。そこで、今年は、あくまでも「断臂」という言葉が、その後の禅宗でどのように用いられたか、その一端を見ておきたい。上堂に云わく、黄梅の夜半、伝心の偈、少室巖前に断臂する時、肉剔りて瘡を作すも痛みを知らず、直に至り今の如きは是非を成ず、払子を以て禅床を撃ちて、下座す。『黄龍慧南禅師語録』中国臨済宗黄龍派の黄龍慧南禅師の語録から、上堂語を引用してみた。慧南禅師が上堂されていわれるには、黄梅山での夜半に、伝心の偈が詠まれた。それは、嵩山少林寺の少室峰の達磨大師が面壁九年していた巌前で、二祖が断臂したためであった。その時、肉を剔って、傷が出来ても、二祖...今日は慧可断臂の日(令和4年度版)
今日、12月8日は、中国以東の仏教に於いて、釈尊が成道した日(釈尊成道会)であるとされる。十九年癸亥、年三十、二月八日の明星出づる時、朗然として覚悟し、無上道を成ず。『歴代三宝記』巻1・・・あれ?「2月8日」になってるぞ。ということで、実は、釈尊の成道の日付は、良く分かっていなかったようなのだが、中国でも、特に宋代以降の禅宗が「臘月八日」説を取り入れ、その影響からか、禅宗が本格的に伝来した鎌倉時代以降、日本でも12月8日の成道会が行われていくようになるのである。そこで、今日は釈尊の成道に即して、興味深い言葉を伝えている禅僧がいたので、見てみたい。釈迦老子の如きは、初め正覚山前に在りて、挙頭し、明星の出現を見て、忽然として悟道す。遂に、乃ち歎じて曰わく、「奇なる哉、一切の衆生、如来の智慧徳相を具有す。但だ妄...今日は釈尊成道会(令和4年度版)
『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)
令和4年度臘八摂心7日目である。明日は成道会の記事なので、この記事が今回の短期連載、最後の記事となる。『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』の末尾の文章を見ておきたいと思う。生死永く息み、一粒の還丹、金を点じて汁を成し、身心客塵、透漏無門なり。迷悟且く説き、逆順論を休む。細に昔日を想い、冷坐尋覓すれば、然も不別なりと雖も、也た大狼藉なり。刹那の凡聖、人の能く信ずること無し。匝地忙忙にして、大に須らく謹慎すべし。如し其れ知らずんば、端坐思惟、一日築著す。伏惟伏惟。『緇門警訓』巻上以上が、今回見ている『坐禅銘』の末尾の部分である。意味としては、前回の記事をご覧いただきつつ学んでいただければ良いのだが、心の働きにとらわれがなく、自由自在であれば、生死輪廻が長く止まり、水銀から戻った丹薬が、わずか一粒でも金の汁を出す(この辺は...『緇門警訓』に見る坐禅の説示7(令和4年度臘八摂心短期連載7)
怒りは、貯まった廃油に火がつくようなもの 今日はまず、サッカーワールドカップ日本代表チームに深く感謝したいと思います。 クロアチア戦は、本当に残念でしたが…
『緇門警訓』に見る坐禅の説示6(令和4年度臘八摂心短期連載6)
令和4年度臘八摂心6日目である。一昨日から、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ているので、続けて見ていきたいと思う。初心鬧乱、未だ回換することを免れず。所以に多方渠を教えて静観せしむ。端坐し神を収め、初則ち紛紜して久久なれば恬淡なり。六門を虚閑すれば、六門稍や歇す。中に於いて分別す、分別、纔かに生ずれば、已に起滅を成す、起滅、転変し、自心より現ず。還た自心を用いて反観一遍す。一反不再、円光頂戴し、霊焔騰輝して、心心無礙、橫ままに該竪に入る。『緇門警訓』巻上まず、この文章は、仏道修行の初心者から、徐々に坐禅に慣れて境涯が深まる様子を示している。つまり、初心者は心が混乱することを改めることが出来ないので、その者を指導し、静かに観察させるという。そして、端座し、外に向かいがちな心の働きを内に収めれば、最初は混乱してい...『緇門警訓』に見る坐禅の説示6(令和4年度臘八摂心短期連載6)
『緇門警訓』に見る坐禅の説示5(令和4年度臘八摂心短期連載5)
令和4年度臘八摂心2日目である。昨日から、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ているので、続けて見ていきたいと思う。禅、何ぞ不坐ならん、坐、何ぞ不禅ならん。了得すること是の如くなれば、始めて坐禅と号す。坐する者何人ぞ、禅是れ何物ぞ。而も之に坐せんと欲せば、仏を用って仏を覓む。仏、用覓せずんば、之を覓むるも転た失す。坐、我観せず、禅、外術に非ず。『緇門警訓』巻上坐禅というと、どこか一体のものだと思っているが、どうやら、禅と坐とで分ける考えがあったらしい。とはいえ、上記の文章では、それを批判し、むしろ、禅が坐で、坐が禅であるという考えを推し進め、了得すれば「坐禅」になるとしている。その上で、坐と禅とが一体となった「坐禅」から、続けて「坐する者」が何者で、「禅」とは何者か?と尋ねている。これは、坐とは人が行うべきもので...『緇門警訓』に見る坐禅の説示5(令和4年度臘八摂心短期連載5)
皆さん、おはようございます😆昨日は早く意識がなくなり。ただ単に寝てしもただけなんですけど(笑)早く起きてしまいました。💦今。3時💦早い💦いつも見ていた…
ご覧頂き有り難うございます😆人生がいつ終わるか。わからない。全て、殆どは、予定していない。でも、気持ちを持ちその日のために今日一日何をするべきか考えることは…
『緇門警訓』に見る坐禅の説示4(令和4年度臘八摂心短期連載4)
令和4年度臘八摂心3日目である。今日からは、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ていきたいと思う。なお、この著者は仏眼清遠禅師(1067~1120、臨済宗楊岐派・五祖法演禅師の法嗣)という禅僧である。『勅修百丈清規』を見ていると、五祖法演禅師が仏眼清遠禅師を書記に任命した話などが載っている。また、同じ『緇門警訓』には、「三自省」という偈頌も載っているのだが、それも機会があれば見ていきたいと思う。しかし、今回からは『坐禅銘』である。心光虚映にして、体、偏円を絶す。金波匝匝、動寂常に禅なり。念起念滅、用いずして止絶す。任運滔滔、何ぞ曾て起滅せん。起滅寂滅、大迦葉現ず。坐臥経行、未だ嘗て間歇せず。『緇門警訓』巻上この「心光虚映」というイメージが、実は捉えにくいと思う。我々自身の意識とは、それこそ現象学で解明したように、...『緇門警訓』に見る坐禅の説示4(令和4年度臘八摂心短期連載4)
世の中に変わらぬモノはあるか サッカーワールドカップでの日本の活躍は多くの日本人に大きな力を与えてくれています。 どうか、ベスト8の目標を達成し、超え…
『緇門警訓』に見る坐禅の説示2(令和4年度臘八摂心短期連載2)
令和4年度臘八摂心2日目である。今日も、仏心本才禅師『坐禅儀』を見ていきたいと思う。今、学家を見るに、力めて坐しても不悟の者は、病、依計に由り、情、偏邪に附き、迷て正因に背き、枉て止作に随う。不悟の失、其れ斯に在るなり。若し也、一念を斂澄して、密に無生に契は、智鑑廓然として、心華頓に発し、無辺の計執、直下に消磨し、積劫の不明、一時に豁現す。忘を忽ちに記するが如く、病の頓に癒えるが如し。内に歓喜の心を生じ、自知、当に作仏すべし。即知、自心の外に別仏無きことを。然る後に悟に順いて、増修し修に因て、而も証す。証悟の源、是の三別無し、名づけて一解一行三昧と為し、亦た無功用の道と云う。『緇門警訓』巻上今回は、仏心本才禅師『坐禅儀』を3つに分けてみたので、中間の部分である。まず、本才禅師は、当時の学人に対して苦言を呈...『緇門警訓』に見る坐禅の説示2(令和4年度臘八摂心短期連載2)
『緇門警訓』に見る坐禅の説示1(令和4年度臘八摂心短期連載1)
「この坐より摂心」ということで、今日12月1日から7日までは「臘八摂心」となる。当方も、普段は中々坐禅できていないが、この一週間はしっかりと坐る時間を得たいと思っているし、今朝は既に坐ってきた。そこで、例年この機会に、坐禅に関する祖師方の教示を拝受するように心掛けているが、今年は『緇門警訓』を選んだ。本書は、元代の皇慶2年(1313)に、臨済宗破庵派の永中という僧侶によって編集された文献で、元々存在した『緇門宝訓』(編者等不明)を増補したものである。本書には、禅僧達による様々な教誡が収録されているが、坐禅に関する教えも複数確認される。よって、7日間で少しでも読み進めてみたい。また、漢文だけで良いのであれば、『大正新脩大蔵経』巻48に収録されているので、ネット上で本文を見ることも容易であるから、参照していた...『緇門警訓』に見る坐禅の説示1(令和4年度臘八摂心短期連載1)
仏教には究極の幸福論がある 日本人には日常に宗教が染みている 仏陀が悟りをとおして教えてくれること 一瞬一瞬をていねいに生きたい 日本人には宗教が…
本文の締めくくり(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・16)
16回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、本文の締めくくりである。律に云く、秉羯磨有れば、我が法未だ滅せず。若し秉持せずんば、我が法、便ち尽く。又、曰く、戒住すれば我れ住す。理、虚説に非ず。既に深旨有り、誠に敬すべき歟。重て曰く、大師影謝して、法将に随て亡ぶ邪山峻峙して、慧巘にして綱に隤う、重て仏日を明す、寔に賢良に委くす、若し小径に遵はば、誰か大方を弘めん、幸に通哲に垂る、力を勉めて宣揚せよ、冀は之を紹隆し...本文の締めくくり(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・16)
僧侶がいなくなった寺、全員が薬物検査陽性タイ(AFPBB)詳細は上記報道の通りなのですが、何か、残念な報道でした。タイ中部の仏教寺院で、僧侶全員がいなくなったという報道がありました。その理由ですが、薬物検査で陽性となり、薬物依存のリハビリ施設に送られたそうです。また、この僧侶たちは還俗したとも報じられています。以前から、東南アジアの仏教寺院では、戒律に無いという理由で結構な喫煙率だったという話を聞いたことがあったのですが、他にも薬物の問題もありそうですね。#ニュースタイの仏教寺院で僧侶が全員いなくなった理由に驚き
中国の工業化は、チベットの生態系に大きな打撃を与え続けている。 なぜ、ここまで破壊し続けるのか。 それを考えてみよう。 三峡ダム問題 一番わかりやすいのはこの問題であろう。 三峡ダムは長江の上流に建設された中国最大級の巨大ダムである。 1994年から1995年にかけて着工さ...
中国の水を兵器化するアジア戦略(4)~チベットの制圧と水資源の奪取~
中国のダムプロジェクトの背景をみるため チベットに関して簡単に見ていきたい。 1950年、中国共産党はチベットを支配した。 この時、チベットの人口は600万人であったが、 支配政策のため150万人近くが虐殺された。 この事は、毛沢東がチベットと新疆を制圧し、 7000万人に...
人は何度も同じ過ちを繰り返す。 そういう言葉を聞いた事はないでしょうか。 DVをした血統はDVをしてしまう傾向にある。 宗教闘争は周期的に繰り返しれる。 など、社会学的にもその傾向は検証されております。 近頃、はメディアも発達し 芸能人の浮気や女性問題などが取り上げられ ...
今日は11月29日だが、語呂合わせで「いい肉の日」らしい。とはいえ、国内の全般的な値上がり傾向から、食肉も高騰しているという。今日はその辺、どうなるのだろうか?様々な企業が、セールや、特別な企画を打ち出して対応するような感じだろうか。それで、仏教では一般的に、肉を食べることは禁止されていると思われていることだろう。色々と調べると、釈尊自身が食肉を明確に禁止したかどうかは微妙なようだが、どちらにしても、インド自体の宗教界の食肉忌避傾向から、仏教も食肉が禁止されたようである。そのためか、中国成立の菩薩戒の文献『梵網経』巻下では、「食肉戒第三(四十八軽戒)」が定められ、軽戒とはいえ実質的には食肉出来ないようになっている。よって、『梵網経』の影響が強い東アジア地域では、全般的に仏教の食肉が否定されているように見え...江戸時代の浄土真宗に於ける肉食論について(1)
前回の記事は、「篤胤が語る役小角論」と題して、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)が修験道の行者として著名な役小角について語る様子を見たが、今回はその続きで、釈尊が修行する時に、神通を得るばかりだった苦行を止めて、別の道に進もうとした経緯を説明している。さて悉多はかく坐禅観想をして神通の修行工夫に苦行を致しつゝ、月お経年お経て殆んど身も枯木の如くに痩衰たが、老病死苦は解脱すること能はず、只修しゑたる者は神通ばかり。こゝに思ふやうは我かばかりの苦行をして已に六年に垂とするが、未だ生老病死を解脱するの道を得ず、さすれば真の道ではなかつたと見へる〈以下略〉『平田先生講説出定笑語(外三篇)』49頁、漢字などは現在通用のものに改める結局、神通力ばかりは得ることになったが、生老病死の苦悩の解脱は出来な...釈尊が苦行を止めた経緯について(拝啓平田篤胤先生22)
本はいくらでも積んで良いのだ!「犀の経典を読む」「ピアノでコードを覚える方法」
こ~んに~ちは~!一笑仏工房のあんどうななせです(*^◯^*) 当ブログにようこそお越しくださいました!初めての方はこちらをご覧ください。 『一笑仏工房(…
ここ数回、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。一尼僧正并びに尼都維那・尼統宋の大始二年、尼宝賢に勅して、尼僧正と為す。又、法浄を以て京邑の尼都維那と為す。梁・陳・隋・唐、其の事少しなり。偏覇の国には往々、尼統・尼正の名を聞く。『緇門正儀』3丁表、訓読は原典を参照しつつ当方いわゆる女性僧侶である比丘尼についての僧官について述べたものだといえる。なお、上記一節の典拠は『大宋僧史略』巻中「二...「第一官律名義弁」其六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・6)
13年ぶりのブログ再開だ!(51) 深沙大将(じんじゃだいしょう) 快慶作
13年ぶりのブログ再開だ!(51)深娑大将(じんじゃだいしょう) 快慶作を描いてみました(鎌倉時代 高野山、霊宝館、重要文化財)「西遊記」に出てくる玄奘三蔵(602~664・インドに経典を求めて旅をした僧)が、旅の途中、一滴の水を得ることができず、息絶えようとしているとき、流砂の中より現れて守ったのがこの天部神「深娑大将」(じんじゃだいしょう)と言われています。(物語、西遊記ではカッパ姿の沙悟浄として登場) 深...
人間関係で、嫌な思いをした。 それを相手に伝えることもできず、かと言って自分の中で消化もしきれず、ついには左の顔面がピクピク痙攣するようになり、これはまずいと思った。 仕事のストレスが限界に来ていた時と同じ症状である。「少し」嫌なことでも繰り返し思い出していると、いつの間にか「大きな」負担となってしまうようだ。 人間関係でのストレスというのは、大なり小なり誰もが抱えているありふれた問題かもしれない。そういう人っているよね、という一言で済ませてしまいがちなことでもある。 どうにかできたらどうにかするけれど、糸口が見つからない。 そんな時、ふと目に止まった本。 反応しない練習 あらゆ
とりあえず、【(1)】をご参照いただいた上で、『真宗百通切紙』巻2「卅九妻帯の事」の前回に続く以下の記事をご覧いただければと思う。問ふ、楞厳経に云く、縦ひ多智禅定現前すること有ども、婬を断ぜざるが如きは必ず魔道に落つ、といへり、如何、答ふ、是れ人に随ふ説なり、問ふ、大集経に八重無価を説に、九十五種の異道に比し第一と為と云ふ、見よ、持戒より浅劣なり、如何、答ふ、上来八重の無価は、制教に約して福田の勝劣を分別す、若し化教に約せば、設ひ無戒なりと雖も、所行の法に依て、世の福田と為るなり、世に持戒の人無きこと面面知るべし、問ふ、寺院に妻子あるは見苦敷なり、如何、答ふ、仏、妻子を制するこヽろは広く衆生を化せん為めなり、末法に妻子を許すは邪婬を離れしめんが為めなり、羅什妻子有りと雖も賤劣と云はず、太子に妻子有りと雖も...江戸時代の浄土真宗に於ける妻帯論について(2)
今日11月23日は、「勤労感謝の日」となっている。制定の理由について、この日の由来は元々「新嘗祭」だったそうである。だが、GHQにより国の行事ではないと判断されたため変更が余儀なくされ、労働者に対し、その一年の勤労を感謝する日となった。ところで、元々の新嘗祭について、こんな記述を見付けた。新嘗祭十一月二十三日に行はせらるゝ新嘗祭は、皇孫尊が降臨あらせられたる時に縁由し、神武天皇元年に行はせ給ひたるより歴朝継続して変易あらせらるゝ事なく神嘗祭と共に宮中の祭儀式多く有るが中に最も厳儀と称し奉る御祭典にして、御親祭の御準備の鄭重なるは申すに及ばず供御の新穀を民間有志者より献納する特例の設けられたるあり。勝山忠三編『祭儀類典』神職合議所・明治39年、42頁・・・この記述によれば、新嘗祭は神武天皇の時から行われてい...「勤労感謝の日」と仏教
オンライン開催です^^ 「十牛図」ってご存知でしょうか? 「十牛図」は、中国の宋の時代に描かれた、禅宗の書。ひとりの牧人が、失った牛を探し求める様子を10枚の絵で表したもので、人間が仏門に入ってから真の悟りに至るまでの過程を表していると言われています。 わたしと「十牛図」との出逢いは、認定心理士の資格を取るために、40代で編入した、二度目の大学生活においてでした。 学んだ大学は、専攻に関わらず、仏教が必修となっていました。最初は、「めんどくさいな~」と思っていましたが、学び始めたら、まあこれが、すごく面白くて! 中でも、この「十牛図」には、多くの気づきを得ました。人生の羅針盤・・とでも言ったら…
今日、11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」らしい。まぁ、現代の日本では、婚姻関係も多様化が進んだのかどうかも分からないけれども、どちらにしても、もし夫婦になったのであれば、夫婦なのであれば、それは世界平和のためにも、「いい夫婦」であって欲しいと勝手に願ってしまう。世界の平和は、まず家庭から、ということになるだろうか。そこで、例年この日には「「いい夫婦の日」と仏教」などと題して記事を書くようにしているのだが、今年度はどうしたものか?仏教というのは本来、出家者の結婚などについては否定されているが、実は在家者に対する態度についても、結構微妙なこととなっている。例えば、以下のような記載はどうか。媒人戒五三時を具するに犯す。三時とは、一には此の家〈男、或いは女の家〉にして語を受け、二には彼の家に往て告〈男意を...「いい夫婦の日」と仏教
観自在菩薩って、聞いたことあるんだけど、そんな菩薩さまがいるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内なる潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ちあがり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり...観自在菩薩って?
戦場で百万の敵に勝利するより… 仏陀(ブッダ)の遺言を破った弟子たちあなたという日本人の仏教 なぜ仏教が「努力論」なのか 仏陀(ブッダ)の遺言を破った弟…
何となく、色々と文献を読んでいたが、興味深い一節があったので、学んでみたい。是の故に瓔珞経に云わく、始め具縛の凡夫より、未だ三宝を識らず、善悪の因と之の果とを知らざるに、初めて菩提心を発すは、信を以て本と為し、仏家に住在し、戒を以て本と為す。菩薩戒を受けて、身身に相続し、戒行闕かさずして一劫・二劫・三劫を経て、始めて初発心住に至る。『浄土十疑論』「第五疑」ということで、『浄土十疑論』である。『大正蔵』などでは、天台智顗の著作となっているが、既に先行研究で、それは否定されている。むしろ、単純に中国浄土教の文献として見るべきで、特にこの場合は自力・他力の問題を扱っている文脈である。それで、上記は自力の文脈である。自力なので、上記の通り『菩薩瓔珞本業経』から引用して、菩薩戒を持ち、そこから菩提心に至る状況を記し...『浄土十疑論』に見える菩薩戒の意義について
【和歌山県伊都郡高野町】高野山に行ってきました⑤ 高野山真言宗の総本山『金剛峯寺』
高野山編は今回で最終回になります。日帰りで高野山に行ってきましたが時間が経つのが早く、あっという間に夕方になりました。最後に訪れた『金剛峯寺』は、全国に末寺が3,600社ある高野山真言宗の総本山として知られている大きなお寺です。金剛峯寺では・豊臣秀次自刃の間・
なんか、日本の場合、猫は仏教伝来とともに、鼠害対策として連れて来られたという話を聞いたことがあるのだが、犬について、古来よりお寺で飼っていたという話があるらしい。とりあえず、以下の一節などはどうか。寺院に狗を養ふ薩波多律摂に曰く、大寺の内には犬を養て防ぎ守らしむべし。子登『真俗仏事篇』巻6ということで、わざわざ以上の記事があるということは、お寺で犬を飼っていたという話が伝わっているらしい。しかも、典拠らしき文献名も挙がっているので、それを見ておきたい。蔵門鑰の時、応に私記を作すべし、防守の為の故に随意に狗を養うべし。其の狗を畜うるは、須らく行法を知るべし。若しくは窣覩波及び房院の地なれば、狗の爮爴する所、応に平填すべし、若し不浄を遺せば即ち応に除去すべし。若し修治せざれば、並びに悪作を得ん。勝友造・義浄訳...お寺で犬を飼う話
まずは以下の一節を読んでいきたい。云何が菩薩の戒清浄なるや。若し菩薩摩訶薩、声聞・辟支仏心及び諸破戒、仏道を障げるの法を念わざれば、是れを戒清浄と名づく。『摩訶般若波羅蜜経』巻6「発趣品第二十」、原漢文最初、漢文を読んだ時、「菩薩戒清浄」とあったので、菩薩戒の清浄なる様子かと思いきや、そうではなくて、菩薩にとっての戒清浄を論じる文脈であった。つまり、菩薩にとっての持戒のあり方を示す文脈だとも理解出来ると思うのだが、その意義については、声聞や辟支仏(縁覚)の心を思うべきでは無く、また、諸々の破戒も思うべきでは無く、仏道を妨げる法を思うことが無ければ、戒清浄と名づけるという。よって、やはり菩薩としての生き方に反する事柄を思わなければ、戒清浄だということになる。基本的に『般若経』に於ける戒本は、十善戒である場合...菩薩の戒清浄について