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律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1 kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し...
寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。成人の後に空海は思い出の霊験の...
四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。 五剣...
寺伝によれば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年 – 749年)には行基が巡錫。大同年間には、空海が巡錫中、当寺の門前で身重の婦人が苦しんでいた。空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産した。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る四誓願の護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったとい...
香川県多度津町にある真言宗醍醐派大本山の寺院。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90 cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、...
香川県さぬき市長尾西にある寺院。寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。四国偏礼霊場記(1689年刊)には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている。空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を...
縁起によると、志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子、藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を志度寺に改めたと伝えら...
香川県宇多津町にある時宗と真言宗の寺院。寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55 cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。仁寿年間(851年 – 854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年 – 987年)には恵信僧都が...
香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 – 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 – 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106 cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗し...
四国山は四国八十八箇所巡礼のミニバージョンが楽しめる。 四国遍路は早くても40日、四国山なら1時間で同じ功徳が積めると言 ...
寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年〜824年)には空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。かつては谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。明治初年の頃、神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなり、本札所の大山祇神社を四国遍路としては参拝しなく...
今月、ついに四国車遍路のスポット打ちへ ~輪袈裟?御朱印が納経?
智積院の御朱印 今月の後半に、年齢80歳になる母と二人で四国八十八ヵ所の車遍路の旅を計画しています。 母にとっては、年齢的にも恐らくこれが最初にして最後の四国遍路の体験となります。四国遍路というのは、母が若い頃から抱いてきた漠然とした憧れなのでした。その想いのキッカケには祖母の憧れというのがあって、祖母の口から、「一度でいいから行ってみたい」という言葉を何度も繰り返し聞かされていたから...
四国車遍路から無事に帰宅 ―――それは素晴らしい信仰と奇跡の旅でした...
(其の1/3)結果報告が大変遅くなってしまいました...。四国の車遍路の旅から母と二人して、北海道へと無事に帰って来ることができました。日捲りで出来事や内容を順次、思い出しながら報告させて頂きま~す。 以前から、もしも行くとしたならば四国の紅葉...
四国車遍路から無事に帰宅 ―――それは素晴らしい信仰と奇跡の旅でした...
(其の2/3) 24日(水)、四国巡礼の最終日は、73番札所『出釈迦寺』からです。ここは大師がまだ真魚(マオ)と呼ばれていた7歳の頃に、「仏門に入って人々を救う使命が自分にあるのかどうか」を問うて断崖から身を投じたところ、釈迦如来が出現して奇跡的に無事だったと伝わる神秘スポットです。寺院から見える標高481mの我拝師山の山上には大師が飛び降りた捨身ヶ嶽の断崖があります。 続けて、74番札所の『甲山寺』です。ここは唐の...