メインカテゴリーを選択しなおす
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・七
当時の松平家康の直臣団は、小領主が主体であり、三河の国衆及び、松平衆と異なり、単独にて、「備」、即ち、部隊等を編成可能な者は、少なかった。 そのため、旗本先…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 18.徳川家康・六
三河一向一揆に味方した、松平氏家臣の中には、主君の松平家康への忠誠心と信仰心の板挟みに合い、苦しんでいる者がいた。 松平家臣の中には、一度は、一揆に加わった…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 17.徳川家康・五
三河国宝飯郡上ノ郷城主の鵜殿長照は、三河国内にて、今川氏真に臣従を続けていた。 同年、松平元康は、軍勢を率いて、上ノ郷城を攻撃した。 鵜殿長照は、戦死して、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 16.徳川家康・四
今川義元の死後、嫡子の今川真が、今川家の家督を継承した。 今川氏真は、織田信長の三河国への侵攻を防ぐため、松平元康が、岡崎城に入ったことを追認したと考えられ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 15.徳川家康・参
1559年(永禄二年)、駿府の松平元康は、七か条の定書を岡崎の家臣団との間で交わした。 松平氏の家臣団は、岡崎城に城代を派遣し、駿府の松平元康を介し、間接支…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・弐
竹千代は、父の松平広忠の死の際、駿府にいたと思われる。 本来、竹千代の継承すべき、岡崎城は、今川義元の派遣した、城代によって、支配された。 竹千代が、父の松…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・壱
徳川家康は、1542年(天文十一年)、松平広忠の嫡男として、岡崎城において、生まれた。 母は、水野忠政の娘、於大の方、家康の幼名は、竹千代である。 無論、家…
徳川家康の父である、松平広忠は、1526年(大永六年)、三河国の岡崎城主、松平清康の息子に生まれた。 当時、松平清康は、十六歳であった。 松平清康には、庶子…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 09.松平清康・参
松平清康は、宇利城攻め以降、桜井松平家の当主で、叔父の松平信定と不仲になったと言われている。 その理由は、宇利城攻略戦において、大手門を攻める、福釜松平家の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 09.松平清康・弐
松平清康は、十四歳~十六歳の間に、足助城の鈴木重政及び、岡崎松平家の西郷信貞に勝利した、軍事的天才であった。 その年齢での軍事的才能の発揮ぶりは、類例を見な…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 08.松平清康・壱
前述の通り、松平長親は、1508年(永正五年)に隠居し、長男の信忠に家督を譲った。 信忠は、永正三河の乱に参戦しているが、確実な戦功及び、軍事的采配の記録は…
松平信光の死後、1508年(永正五年)、今川氏親の名代、伊勢宗瑞の率いる、今川軍が、大樹寺を本陣とし、岩津城を攻めた。 永正三河の乱である。 伊勢宗瑞は、今…
松平信光の死後、家督を継いだのは、三男の親忠であった。 松平親忠は、松平氏の宗家を継いだとされるが、実際には、信光の嫡子は、長男の守家と考えられる。 松平親…
徳川家康の先祖、松平氏の当主として、実在が、確認できるのは、三代目当主とされる、松平信光の代からである。 前述の通り、信光は、親氏の息子、または、泰親の息子…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 04.松平郷松平氏
後世の徳川氏の主張では、松平郷の領主となった、松平親氏は、郷敷城を築き、嫡子の泰親と協力して、「中山七名」と呼ばれる、近隣の領主たちを滅ぼすと、勢力を拡大し…
2013年現在放送中のNHKの大河ドラマ、「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。 本書は、「血脈」、特に、「自称」を重視しているため、本来、本項の題名…
新田氏の項で、述べた様に、新田義兼は、新田本宗家の家督を継承したが、嫡子の義房に先立たれて、嫡孫の政義に家督を譲った。 新田義兼の娘、即ち、新田政義の叔母で…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 13.山名祐豊・弐
山名祐豊及び、甥の山名豊国は、織田信長が、但馬国・因幡国の国主としての山名氏の地位を否認したことに不満を持っていた。 家臣の太田垣氏は、鉱山利権を巡り、織田…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 11.山名祐豊・弐
1560年(永禄三年)、山名祐豊は、弟の山田豊定が死去すると、自身の長男、山名棟豊を因幡守護代として派遣した。 しかし、翌年の月に山名棟豊は、十八歳で、死去…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 11.山名祐豊・壱
但馬山名氏の山名誠豊は、山名豊頼の追放後、豊頼及び、その息子の誠豊を支援した。 その結果、但馬山名氏と伯耆山名氏の対立は、更に、深刻化した。 経緯は、不明で…
山名政豊は、播磨遠征の失敗で、嫡男の俊豊及び、備後国人衆と対立した。 更に但馬国の国人衆及び、叔父の山名時豊が、山名政豊を退けて、俊豊を擁立する動きが強まっ…
西軍の総大将の山名宗全、東軍の総大将、細川勝元の死後、応仁の乱は、続いていたが、翌年、山名政豊と、細川勝元の後継者、細川政元との和睦が、成立したため、応仁の…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 08.山名宗全・参
山名宗全と細川勝元は、対立していたが、二人の地位を脅かす者の排除には、協力した。 1466年(文正元年)、山名宗全は、細川勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 07.山名宗全・弐
その後、赤松氏と山名氏による東播磨を巡る、戦いが、続くことになる。 畠山持国には、嫡子がいなかったため、弟の持富を後継者としていたが、1448年(文安五年)…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 06.山名宗全・壱
山名時熙には、満時、持熙、持豊の三人の息子がいた。 前述の通り、長男の山名満時は、父に先立ち、死去した。 1428年(応永三十五年)、山名時熙は、重病になる…
【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 03. 続・山名時氏
山名時氏は、出雲国へ進攻し、6月には、南朝方の楠木正儀等と共に足利義詮を追って、京を占領するが、7月には、奪還される。 時氏は、領国に撤退後、尊氏の庶子で、…
山名氏の祖、義範が、御門葉に連なるほどの身分であったが、山名義範以降の山名氏の鎌倉時代の事績は、全く、不明である。 義範の家督を継承した、山名重国が、義範の…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
里見義頼の死後、安房里見氏の家督を継承したのは、里見義頼の長男、里見義康である。 1588年(天正十六年)、里見義康は、父の義頼に引き続き、増田長盛の取次の…
北条氏康は、更に、別働隊として、三男の北条氏照及び、原胤貞を里見義堯が詰める、久留里城の攻撃へと向かわせた。 里見義堯は、守りを堅固にし、義弘は、正木憲時と…
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 05.続・里見義堯
翌年の1538年(天文七年)、里見義堯は、第一次国府台合戦では、足利義明を大将とし、北条氏綱と戦った。 しかし、足利義明は、里見義堯の戦略を聞かなかったため…
里見義豊が、安房里見氏の当主になったのは、未だ、五歳であったため、里見義通の弟、叔父の実堯が、義豊が、十五歳になるまで、後見人として、家督を預かることになっ…
里見義実の安房国への入国の経緯については、諸説が存在し、その真偽は、不明である。 里見家兼は、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、永享…
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 02.里見氏の系譜
新田義重は、治承・寿永の乱の勃発前、平賀盛義の息子の義澄、その義澄の息子の義重、源義光の孫の義隆等を猶子に迎えると、広域的に勢力範囲を広げていた。 平賀盛義…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 08.新田本宗家の滅亡
新田義貞の入城後、金ケ崎城は、足利軍の攻撃を受けた。 新田義貞は、一度は、足利軍を迎撃したが、1337年(延元2年)1月18日、足利軍は、再度、金ヶ崎を兵糧…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 07.新田義貞・五
新田義貞の軍勢は、足利尊氏の軍勢に敗北し、楠木正成と共に尊氏を挟撃しようとする。 1336年(/建武三年)5月24日、新田義貞は、楠木正成と合流して、酒を酌…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 06.新田義貞・四
足利尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま、討伐に向かい、中先代の乱の鎮圧後は、鎌倉に本拠を置いた。 足利尊氏は、新田一族とその与党の所領を、北条時行の撃退に…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・参
新田義貞は、鎌倉を陥落させると戦後処理に奔走した。 各々の武将が、義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞は、それに対して、証判を書いた。 しかし、7月に入ると、…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・弐
新田義貞は、碓氷川を渡って、八幡荘に到着すると、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派等の各地から参集した、五千騎と合流して、新田義貞軍は、九千に膨れ上がった…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
京都駅から西に歩いて10分ぐらいのところにある六孫王神社。ここは源氏の祖である源経基の邸宅跡で、清和源氏発祥の地で、多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)と共に「源氏三神社」の一つとされます。あります。六孫王という名は、経基の父が清和天皇の第六皇子だったことに由来し、経基の子・満仲が邸宅跡に霊廟を建て、六の宮と称したのが始まりです。本殿の背後に経基の墓石があり、境内から「満仲の誕生水...