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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 67.徳川家康・五十五
8月8日、吉川広家と安国寺恵瓊が、指揮を執る、約一万の軍勢が、長束正家勢と共に、伊勢へ出陣した。 石田三成は、岐阜城主、織田秀信と相談の上、尾張方面に出陣し…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 66.徳川家康・五十四
7月23日には、徳川家康が、最上義光に対して、石田三成と大谷吉継が、各地に書状を触れ回しているとの「雑説」があるので、会津侵入は、「御無用」とする指示が出さ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 65.徳川家康・五十参
7月15日、毛利輝元は、上坂要請を受けると、広島を出発すると、同日に、加藤清正に豊臣秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送った。 更に、同日、島津義弘は、上杉…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 64.徳川家康・五十弐
1600年(慶長五年)3月、越後国の堀秀治が、会津の上杉景勝の重臣、直江兼続に越後の年貢の下半期分まで持ち出された訴えを起こした。 更に、出羽国の最上義光ら…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 63.徳川家康・五十壱
文治派は、豊臣秀吉の死後、徳川家康の専横に対し、危機感を持ち、抑制しようとした。 しかし、武断派の多くが、徳川家康に味方したのに対して、文治派の中には、徳川…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 62.徳川家康・五十
豊臣秀吉の死の年、後継者の豊臣秀頼は、わずか、六歳であった。 そのため、五大老、五奉行の合議制となっていた。 豊臣秀吉の遺言によって、徳川家康は、三年間は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 61.徳川家康・四十九
豊臣政権を揺るがす、「秀次事件」を受けて、豊臣秀吉は、諸大名に対し、上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。 徳川家康は、豊臣秀吉の命令で上洛した。 以降、開発途…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 60.徳川家康・四十八
豊臣秀吉の直轄領は、太閤蔵入地と呼ばれたが、畿内及び、九州に二百二十万石である。 即ち、徳川家康は、天下人であり、主君の豊臣秀吉を超える、大大名になったと言…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 59.徳川家康・四十七
蟄居中の北条氏直は、富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して、赦免の執り成し依頼を行っている。 翌年の1591年(天正十九年)2月、早々に徳川家康を通して…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 58.徳川家康・四十六
しかし、北条氏政が、講和条件を拒否したために、豊臣秀吉が、黒田官兵衛孝高に命じ、交渉に当たらせた。 6月16日、北条氏政の重臣であった、松田憲秀の長子の笠原…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 57.徳川家康・四十五
浅野長政は、5月20日時点で、豊臣秀吉の命に従って、急ぎ軍を返すと、武蔵国方面に侵攻しており、寿能城及び、岩付城を攻めた。 5月21日時点にて、浅野長政は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十四
松井田城主で、北条氏累代の重臣、大道寺政繁は、北方軍を碓氷峠で、迎え撃ったが、与良が、真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られた。 主力は、真田軍と激戦になった…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十参
北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。 同年の3月1日、豊臣秀吉…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 54.徳川家康・四十弐
11月24日、豊臣秀吉は、北条氏との手切れ書を北条氏及び、諸大名に配布した。 同日の豊臣秀吉から、徳川家康への書状では、来春の出陣決定と陣触れを出したことを…
いつも当ブログ、歴史連載物語をご覧になって頂き、誠にありがとうございます😊『猛将親父』を書き終えて、しばらく経ってるね。こちらが『猛将親父』の目次⬇️『歴史連…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 53.徳川家康・四十壱
豊臣秀吉は、北条氏政、徳川家康から事情聴取を行い、沼田領内の三分の二を北条氏政、三分の一を真田氏とする、譲歩に近い裁定を行った。 豊臣秀吉は、北条氏の当主の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 52.徳川家康・四十
1586年(天正十四年)11月1日、徳川家康は、京へ上ると、11月5日、朝廷に正三位に叙される。 この時、多くの徳川家康の家臣が、叙任されている。 徳川家康…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 51.徳川家康・三十九
1586年(天正十三年)11月29日、日本列島中央部を「天正大地震」が襲った。 被害は、甚大であり、中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。 地震発生の際、豊臣秀…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 50.徳川家康・三十八
1586年(天正十三年)1月2日、徳川家において、主君の徳川家康に次ぐ、筆頭家老の重臣である、石川数正が、出奔し、羽柴秀吉に帰属する、事件が発生した。 石川…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 49.徳川家康・三十七
羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として、浜松城に送り、徳川家康と講和しようと試みた。徳 川家康は、返礼として、次男の於義丸、即ち、結城秀康を秀吉の養子にするために…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 48.徳川家康・三十六
四国では、6月11日、長宗我部元親が、十河存保の十河城を落し、讃岐国を平定した。 第二次十河城の戦いである。 徳川家康は、長宗我部元親に「淡路・摂津・播磨を…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 47.徳川家康・三十五
森長可の討ち死によって、池田・森軍の左翼が、崩れ始めると、徳川軍の優勢となった。 池田恒興は、自軍の立て直しを図ったが、永井直勝の槍を受けて、討死にした。…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 46.徳川家康・三十四
4月7日、徳川家康は、羽柴秀吉の姉の息子、即ち、甥である、羽柴秀次の軍が、上条城・大留城等、篠木周辺に、二泊宿営した頃に、近隣の農民、伊賀衆からの情報で、秀…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 45.徳川家康・三十参
羽柴秀吉は、織田信雄が、津川義冬・岡田重孝・浅井長時を処刑したことに激怒すると、織田信雄に対し、出兵を決断した。 徳川家康は、織田信雄と同盟を結ぶと、紀州の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 44.徳川家康・三十弐
しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 44.徳川家康・三十弐
しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 43.徳川家康・三十壱
前述の通り、織田信長が、本能寺の変によって、明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が、山崎の戦いで、明智光秀に勝利し、主君の仇を討った。 織田信長の嫡男で、織田家の…
平氏と源氏の戦いをわかりやすく解説。平氏源氏の源平合戦とは?源氏物語あらすじわかりやすく徹底解説2
なぜこんなにも人気なのか・・・。現代につながる大ヒットストーリーの内容、主人公の光源氏とはいったい何者なのか・・・。
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 42.徳川家康・三十
しかし、依田信蕃の許に集結するのに反対する、勢力は、北条氏政の信濃佐久郡の岩尾城主の大井氏の許に集まった。 11月、依田信蕃は、信濃国の前山城を攻めて、前山…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 40.徳川家康・二十八
織田信長の領地になった、甲斐国・信濃国・上野国の三カ国が、空白地帯であったのは、畿内において、織田家の内紛があっためである。 本来、織田信長が、死去しても、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 39.徳川家康・二十七
服部半蔵の家臣の芝山小兵衛は、徳川家康に対し、「正成は、討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ると、生きていたため、介抱しながら、共に帰ったと言われ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 38.徳川家康・二十六
徳川家康は、甲州征伐後、駿府において、織田信長を接待した。 徳川家康は、織田信長の接待のために、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営した。 織田信長は…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 37.徳川家康・二十五
阿部勝宝は、敵陣に切り込み戦死した。 武田勝頼の最後の戦いとなった、田野の四郎作・鳥居畑では、織田信長の大軍を僅かな手勢で、奮闘して、撃退した。 しかし、衆…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 36.徳川家康・二十四
仁科信盛等の首級は、織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は、京で晒し首となった。 首を取られ残された、仁科信盛の遺体は、信盛を崇める、地元の領民により、埋葬さ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 35.徳川家康・二十参
1582年(天正十年)2月3日、森長可及び、団忠正の織田軍先鋒隊が、岐阜城を出陣。 若い両将の目付けとして、河尻秀隆が本隊から派遣された。 2月6日、先鋒隊…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 34.徳川家康・二十弐
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。 そして、八年後の1581年…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 33.徳川家康・二十壱
1580年(天正八年)8月までには、徳川家康は、「高天神六砦」と呼ばれる、小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦を完成させ、高天神城への…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 32.徳川家康・二十
高天神城の守将の小笠原信興は、徳川家康を見限り、武田勝頼氏に降ると、駿河国東部に一万貫の高待遇で、移封されている。 松下之綱は、解放されたが、その後、織田信…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 31.徳川家康・十九
武田勝頼は、上杉景勝と同盟したため、北条氏政と対立することになった。 武田勝頼は、織田信長との和睦を模索し、人質の信長の五男、勝長を返還したが、信長は、黙殺…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 30.徳川家康・十八
以上が、『どうする家康』の展開であるが、明らかに、史実を逸脱しており、諸説として、完全に認められない。 通説では、築山殿は、徳川家康と不仲であり、悪女とされ…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 29.徳川家康・十七
織田信長が、長篠の戦いにおいて、武田勝頼に勝利を治めた頃から、信長と徳川家康は、対等な同盟関係ではなくなってゆく。 徳川家康は、「一門に準ずる、織田政権下の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 28.徳川家康・十六
鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。 武田の敗残兵達…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 27.徳川家康・十五
鳥居強右衛門は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、武田勝頼の命令とは、逆のことを大声で叫んだ。 武田勝頼は激怒すると、部下に…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 26.徳川家康・十四
武田氏の西上作戦の頓挫によって、織田信長は、反織田勢力を撃滅して、徳川家康は、勢力を回復して、攻勢に出た。 それに対し、武田信玄の後継者、武田勝頼は、攻勢に…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 23.徳川家康・十壱
徳川家康は、中根正照の二股城の降伏、開城を知らず、二股城に援軍に向かっていた。 そのため、徳川家康は、武田軍と戦闘になると、敗北して、浜松城へ逃走した。 二…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・九
先行していた、本多忠勝及び内藤信成の率いる、偵察隊は、武田軍の先発隊と遭遇する。 偵察隊は、即座に退却したが、武田軍は、素早い動きで、徳川軍を追撃し始め、太…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・九
徳川家康、今川氏真、北条氏康による、武田信玄からの駿河国の奪還は、成就せずに、掛川城の開城と同時に、戦国大名としての今川氏は、滅亡した。 1570年(元亀…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・八
1567年(永禄十年)5月、徳川家康は、清洲同盟の盟約に従い、自身の長男の竹千代と織田信長の娘の徳姫を結婚させた。 竹千代と徳姫は、共に九歳の形式の夫婦であ…