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映画『十一人の賊軍』☆絶賛!終盤もっていく仲野太賀さん(*^^)v
アメーバブログ『yutake☆イヴのモノローグ』の 映画記事です。登録・関連TBご自由にど~ぞ♪警告出てブログ訪問できない方ごめんなさい。
薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る”というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。本来、徳川慶喜が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。...明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争
『会津藩はなぜ「朝敵」か幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)にも、薩長史観に基づいているといえる日本の歴史教科書では取り上げられていない様々な事実が書かれています。そしてそれは、著者の単なる憶測や思い込みではなく、多くの歴史学者や歴史家の研究の積み重ねに基づいて書かれていることが明らかです。京都が、長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロによって荒らされていた1862年(文久二年)、藩兵およそ八百人とともに、京都東山の山麓に本陣を置いたのは、幕府から「京都守護職」に任ぜられた松平容保を中心とする会津藩でした。でも容保は病弱で、禁門の変の直前には寝込んでおり、会津の医師団や幕府の侍医に看病されるような状態でした。そんな容保を心配した孝明天皇は、「朕が最も信頼するのは容保である」というような「御宸翰」を、一度...偽勅、朝敵、毒殺と尊王攘夷急進派