明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争
薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る”というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。本来、徳川慶喜が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。...明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争
2022/03/14 19:08