メインカテゴリーを選択しなおす
下記は、「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)の「巻七慶応三年四十七品川弥二郎宛書簡慶応三年十一月二十二日」に書かれている文章です。私は、薩長など尊王攘夷急進派による明治維新との関わりで、この文章は、極めて重大だと思っています。これは、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章ですが、尊王攘夷急進派の本音をうかがい知ることが出来る文章だと思うのです。それは「乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候」とあることからも察せられますが、熟読語は”火に投げて然(シカ)るべしと奉(タテマツ)り候(ソウロウ)”というのですから、他人に知られてはいけない内容であるということだと思います。次のような内容です。”…此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今...統帥権の独立と薩長政権の策謀
薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る”というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。本来、徳川慶喜が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。...明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争