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モデル水野しず「明治政府がやったやつが全部ヤバい。どんな差別も発信源そこなんで、一旦我に返った方がいい」ひろゆき「本質的には正しい事言ってる」
モデル水野しず「明治政府がやったやつが全部ヤバい。どんな差別も発信源そこなんで、一旦我に返った方がいい」ひろゆき「本質的には正しい事言ってる」「根本的な話なんですけど、私が言うのは明治政府じゃない?って話なんですけど。 大体明治政府がやった
津田左右吉は「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”今日では維新を一種の社会革命と見なす考え方があって、それが明らかな事実のように思われているらしいが、こういう見方が正しいかどうかは、後にいうところによっておのずからわかろう”と自らの著書の内容を暗示しています。私は、「明治時代」は、確かに、それまでの封建的な幕藩体制を改め、私たちが暮らす「現代」の礎を築いた時代であるとは思います。現代の私たちにとって当たり前の「制度」や「生活」の多くは、明治時代から始まっているからです。でも、それを明治の元勲の功績によるとして、明治の時代を高く評価する一般的な歴史認識は誤りであると、私は思います。津田左右吉が、下記に明らかにしているように、幕府は「新国策」を定め、「開国」をはじめとする...倒幕の理由を示せない歴史教育
津田左右吉「明治維新の研究」孝明天皇は、”王政復古を欲せられなかった”
私は、現在の日本の歴史教育には問題があると思っています。特に近現代の歴史、すなわち明治維新からアジア太平洋戦に至る歴史が、一部の勢力によって、歪められていると思うのです。学校で日本の歴史を学んだ人たちは、薩摩藩が1863年(文久3年)、イギリス艦隊と戦った薩英戦争で敗北し、また、1864年(元治元年)、長州藩が、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊を砲撃した下関戦争で敗北し、欧米の軍事力を実感していたにもかかわらず、薩長が「攘夷」をかかげて幕府を倒したことを、そして権力を手にするや、直ぐに幕府の政策を引き継いで開国に転じたことを納得できているでしょうか。すでに、開国政策を進めていた幕府が「大政奉還」をし、諸侯会議で話し合いが進んでいたにもかかわらず、その諸侯会議の話合いを無視して、討幕の密勅(偽...津田左右吉「明治維新の研究」孝明天皇は、”王政復古を欲せられなかった”
津田左右吉は、「明治維新の研究」 木戸、大久保、岩倉の立憲政体に関する意見
津田左右吉は、「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の、”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”維新の変革は民衆の要望から出たことではなく、民衆の力なり行動なりによって実現せられたものでもなく、また民衆を背景にしたり基礎にしたりして行なわれたものでもない。一般の反幕府的空気が背景とも地盤ともなってはいるが、当面のしごとは、主として雄藩の諸侯の家臣のしわざであり、そうしてすべてが朝廷の政令の形において行なわれた。”と書いています。私自身は、津田左右吉のいう、この”雄藩の諸侯の家臣”を、当初から”尊王攘夷急進派”としていろいろ書いてきたように思います。今回は、同書の「第六章明治憲法の成立まで」のなかの、”キド、オオクボ、イワクラ、三人の立憲政体に関する意見”に関する文章の一部を抜萃しましたが、尊王攘夷急進派を主導...津田左右吉は、「明治維新の研究」木戸、大久保、岩倉の立憲政体に関する意見
津田左右吉「明治維新の研究」王政の復古は、”実現せられず、また実現し得られることでもなかった”
前稿で、尊王攘夷急進派を主導し、明治の元勲された木戸、大久保、岩倉らが、当時のヨーロッパにおける「民権論」を受け入れようとしなかったことを、津田左右吉の「明治維新の研究」で、確認しました。彼らは、国王が、国家統治の実権をもたないイギリスなどの制度は”学ぶべからず”とし、天皇を現人神(現御神)として、”天皇自ら政治の実務を執られることが国体の精神である”としたのです。そして、王政復古の目標であった「天皇親政」を装い、「大日本帝国憲法」や「軍人勅諭」、「教育勅語」などを発布するとともに、諸制度を整えて、自らに都合のよい国家主義的な日本を確立したということです。しかしながら、国王や天皇の”御一存”で、国家統治ができるものではないことは、津田左右吉のいう通りだと思います。そして何より、現実に、明治維新以後の日本の政治は...津田左右吉「明治維新の研究」王政の復古は、”実現せられず、また実現し得られることでもなかった”