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以前、拙ブログで紹介した箇所だけれども、栄西禅師の『興禅護国論』には、常に自戒の範とすべき一文がある。『大智度論』に云く「自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と。「世人決疑門第三」これは、『大智度論』から引用されたものであり、該当箇所は「初品第二」になる。いわば、『大般若経』の「如是」という語への註釈が示された箇所に該当している。そして、栄西禅師は偈を引用しただけだが、その前後の文脈をも引用すると以下のようになる。復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の...『大智度論』の「自法供養」批判について
「廻向」という言葉がある。開くと「廻らし向ける」という意味である。良く、我々自身が行う修行の過程でこの語を用いる場合には、我々が読経などの善行を行い、積んだ功徳を、仏・菩薩などに「廻らし向ける」時「廻向」という。或いは、自らの行いとして、行為の方向を変えていくこと、「振り向ける」事を「廻向」といったりする。以下のような用例はどうか。釈迦牟尼仏、すでに十二年中頂戴して、さしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する頂門を、いま仏衣頂戴に迴向せん、よろこぶべき大慶なり。『正法眼蔵』「伝衣」巻これは、「伝衣」巻にある一節であることからもお分かりいただけるように、「御袈裟」について述べている。つまり、釈迦牟尼仏は、出家してからというもの、十...頭を下げる先を廻向してみる
今日、11月8日は語呂合わせから「いい歯の日」とされる。さて、今回のタイトル「「いい歯の日」と『弁道法』」だが、おそらく日本の僧侶で、「歯磨き」について、詳細な説示を行ったのは、曹洞宗の高祖であり大本山永平寺を開いた道元禅師(1200~53)が最初であろうと思われる。主著とされる『正法眼蔵』には、「洗面」巻があり、「洗面」と歯磨きについて書かれたものである。同巻では歯磨き法について、以下のような記述が見られる。よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろえ、きよくあらふべし。漱口たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。『正法眼蔵』「洗面」巻当時の誰に対して...「いい歯の日」と『弁道法』
維摩経 - 現実生活の肯定。在家仏教=家に在る人々の仏教を学ぶ。
世俗の生活の中で仏教を打ち立てるという動き。家庭を大切にし、世俗の職業を追及しながら仏教の精神を活かし、行動する。その代表的な経典が維摩詰所説経です♪♪ 維摩経(ゆいまきょう) NHKこころを読む 仏典 第13回 講師: 中村元(なかむら はじめ) 夏ぐらいから時々この「維...
道元禅師が、日本に帰ってきて最初に行った正式な説法(=上堂)について、卍山本『永平広録』、或いは『永平略録』の冒頭に出る上堂が最初であると考えられた時代もあってか、「眼横鼻直」と並んで「空手還郷」は、道元禅師の「あるがままの禅境」を示す好語であるとして理解されてきた。ところが、既に祖山本『永平広録』の研究から、道元禅師の「最初の上堂」とは、興聖寺開堂のものであり、いわゆる「眼横鼻直」については、いつの頃に付加されたものか不明であるという事態に至った(詳細は【眼横鼻直-つらつら日暮らしWiki】参照のこと)。しかし、「空手還郷」は祖山本にも残っていて、今日はその語について考えてみたい。この語が出ているのは以下の箇所である。上堂に、云く。山僧、是、叢林を歴ること多からず。只、是、等閑に先師天童に見えしのみなり...「空手還郷」について
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)は以前【『永平広録』敷衍の様子】という記事でも書いた通りで、道元禅師の語録である『永平広録』の参究を行い、更に周囲の僧達に提唱までしていた様子が明らかにしたが、面山禅師が編まれた『永平祖師家訓綱要(以下『永平家訓』と略記)』(上下巻)という文献がある。これは、『永平広録』を以下の八章に分けて本文を抽出したものである。各章のタイトルと、簡単な解説を付しておきたい。・第一発心出家訓『永平広録』の中で、特に、「発心」そして「出家」に関わる小参・上堂語を集めたものである。発菩提心の難得なる様子や、無上菩提を学ぶということの方法、或いは道心について説かれている。・第二仏祖正宗訓仏法について示された上堂語を中心に集められ、さらにそれが、祖師方によってどのように伝えられ...面山瑞方禅師『永平祖師家訓綱要』と体系的宗乗
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)には、多くの著作が残されたが、生前に刊行されなかった文献や、上堂語・法語・詩偈などを集めて死後に刊行されたのが、『永福面山和尚広録』(全26巻)である。そして、第26巻には面山禅師の年譜が収録されているが、今日はそこから、面山禅師によって、当時の宗侶に対し、如何にして『永平広録』が説かれていたかを見ておきたい。理由は、現代に於いても『永平広録』の敷衍は十全とはいえず、在家の方に対しては、市場に幾つかの書籍が見られるくらいで、宗侶向けの専門書もまだ揃わない状況である。よって、今から250年近く前に、どのように学ばれていたのか、その一端を見て行きたい。なお、面山禅師には『永平広録』の上堂語や小参などを適宜抽出して、更に分類を行った『永平家訓綱要』(上下巻)とい...『永平広録』敷衍の様子
みなさん、こんにちはごきげんはいかがですか 沖縄県在住のやましたひでこ公認断捨離Ⓡトレーナー・インターンの『ちばたくみ』です 訪問してくださいましてありがと…
この記事では、道元禅師と、他宗派の方々との繋がりを確認することで、いわゆる初期曹洞宗僧団の「多様性」を見ておきたいと思う。●達磨宗(ただの禅宗と区別するために「日本達磨宗」ともいう)の関係永平懐奘禅師(1198~1280)永平寺2世※元々は日本達磨宗で、仏地覚晏の弟子であった。弟子入りの経緯は『伝光録』第52章に詳しい。『正法眼蔵随聞記』の筆録者、『正法眼蔵』『永平広録』の編者。・懐鑑上人(?~1251?)※達磨宗で、能忍―覚晏と続いた系統を受け嗣いだ。なお、道元禅師に対し、先師・覚晏上人への追悼の上堂を請うた(『永平広録』巻3-185上堂)。後に、弟子である義準は、懐鑑上人に対しての上堂を道元禅師に請うた(『永平広録』巻7-507上堂)。その他達磨宗から来た者。徹通義介禅師(永平寺3世)・義演禅師(永平...道元禅師の僧団に見える雑居性
今日は11月2日である。ところで、元亨元年(1321)にこんな出来事があったとされる。元亨元年〈辛酉〉本願の主、海野三郎〈信濃国に住す〉滋野信直、十一月二日、受戒して法名は妙浄とす。『洞谷記』海野三郎とは、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師に、永光寺を建てるべき土地を寄進した女性(黙譜祖忍尼)の夫である。元々妻が信心深く、夫も続けて瑩山禅師の下で授戒し、仏縁を繋いでいる。『洞谷記』を見ると、この夫妻が熱心に瑩山禅師にお仕えする様子が分かるが、瑩山禅師も可能な限りこの夫妻の願いを叶えるべく御尽力された。無論、その願いとは、現当二世を祈ることであり、菩提を得ることこそがその願いになるが、この夫婦を以下のように讃えたこともある。然る間、瑩山の今生の仏法修行は、此の檀越の信心に依って成就す。故に尽未来際、此を以て本願主の...11月2日或る人の受戒
神様、仏様の「 神 」は如来の仕組みの内ですし、ユダヤ教、キリスト教の 神 も同じです。 目次神の字義如来とは神は如来に含まれる如来は物と事の相対性を言い表している”神”は人が持つ価値観の表れ信仰は絶対ではないならば、全 … 続きを読む →
今日から11月である。和名では「霜月」などとも呼称するが、先月の「神無月」に比べると、その理解は極めて容易である。◎十一月和名を霜月と云は、霜ふり月を略せると也。三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫、54頁まぁ、何の感想も無いくらい明確で、霜がよくふる月になるから、「霜月」である。いよいよ冬も真ん中である(旧暦の「冬」は、10~12月と決まっていた)。それで、以前はこの日に、「10月1日と迷うんだよなぁ」とかいいながら、「開炉」の話をしていたと思う。要するに、叢林の主要な伽藍に炉(ストーブ)を入れ、用い始めることなのだが、何故迷うかというと、旧暦と新暦で扱いが違うからである。そういえば、この辺、余りちゃんと記事にしていなかったので、まとめておきたい。◎瑩山紹瑾禅師『瑩山清規』「年中行事」1324年成立1...洞門行持に於ける旧暦と新暦の11月1日
笑い飯の哲夫さんが仏教好きというのは、なんとなく知っていましたが、まさかこんなにガチだったとは。やはり本業がお笑い芸人さんなので、文章のリズムがよく、難しい説法も身近なもので例えるのでわかりやすい仏教本です。そんな身近だけれど、詳しいことは
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、前回の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今回からはその一々の項目について学んでいく。大科第七問遮(続き)七定業とは、一は、悪心出仏身血の罪、戒師、受者に問うて曰く、汝等、過去無数劫より、乃至今身まで、仏身生身より血を出さざるや、否や。答えて曰く、否なり。私に問うて曰く、出仏身血の罪は、如来の在世に限る。末代には之れ有るべからず。何等の罪を以てか、之の罪に同ぜんや。答えて曰く、仏宝に就...『浄土布薩式』「大科第七問遮」②(『浄土布薩式』参究9)
「第一官律名義弁」其十七(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・17)
ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。現在は日本での僧侶の役職となっている。一、国博士孝徳天皇の紀に云く、天豊財重日足姫天皇〈皇極〉四年六月庚戌云云、沙門旻法師を以て、国博士と為す〈類史〉。『緇門正儀』9丁裏、訓読は原典を参照しつつ当方上記一節だが、項目の通り、「国博士(国の博士)」というのに、沙門旻法師が充てられたという。年代は皇極天皇4年(645年)6月...「第一官律名義弁」其十七(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・17)
この記事は、【前回の記事】の続きに当たる。江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、『過去現在因果経』などの典拠を踏まえてではあるが、釈尊伝を篤胤目線で講釈しているのだが、その中に弟子達との関わりがある。前回は特に実質的な釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者出家時の様子を確認したのだが、今日は更にその続きを見ておきたい。ところで、前回の記事で、迦葉尊者が釈尊のことを、「年少沙門」と呼んでいたことを採り上げたが、篤胤は両者の年齢の違いを、以下のように論じている。さて釈迦が迦葉を骨折て伏させたる事は、先にもいふ如く此者は年といへば釈迦よりは四さうばいで百二十歳、家柄もよく富栄へ其眷属も多く、修行は八十年して釈迦の出ぬまへは神通広大で中々其時には右にたつ者なく、国々の王共を始め世には大...釈尊と摩訶迦葉尊者について②(拝啓平田篤胤先生32)
Buddha(仏)と如来の関係をわかりやすく説明するに苦心しています。仏も如来も”量れない”という意味では同じですが、そのわからなさ(量れなさ)には、決定的な違いがあります。 如来のわからなさは、論理的な結論として決して … 続きを読む →
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。永久岳水先生『曹洞宗法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一...道元禅師の安名観について
戒名について、ちょっと思うところがあったので、雑考的な記事にしておきたい。以前、とある方のご葬儀に列席したときのこと、ウチの宗派のご葬儀だったのだが、とても良い戒名が付いていた。明らかにその人のお仕事やお人柄が偲ばれるものであった。それで、拙僧つらつら鑑みるに、なるほど確かに「戒名」は「仏弟子の名前」であるとはいうが、もう一つ死後永年経っても、家族に人柄や生前の生業を伝えられるという意味合いがあるなぁ、と思ったのであった。これがもし、生前の俗名そのままだと、結局その人本人を知っている人が生きている間は良いけれども、そういう繋がりが絶えてしまうと、生業などは全く分からなくなってしまう。無論、記録を残しておけば別だけれども、そういう記録だって、永年の間には参照されなくなるものだ。その点、戒名の場合は、(付け方...「戒名」に関する雑考
近世江戸時代の曹洞宗教団は、徳川幕府の宗教政策の中で、いわゆる「本末関係」を徹底することとなった。「本末関係」の徹底はは、曹洞宗に限ったことではないが、とにかく、江戸時代には各宗派の本山(総本山・大本山等)が定められ、その下に末派寺院を組み込むという上下関係が常態化したのであった。もちろん、それは一朝一夕に確立されたわけではなく、幕府の法度を見ていくと、繰り返し本寺を尊重する見解を発していることから、全国では一悶着では済まないような闘諍があったことを想起させるのである。そこで、今回は関連する法度の条文を見ておきたい。なお、典拠は文部省宗教局編『宗教制度調査資料』巻16「江戸時代宗教法令集」(大正14年)から引くこととしたい。本書は横関了胤先生『江戸時代洞門政要』でも繰り返し引用されているため、その見解との...近世曹洞宗教団の本寺による末寺の住職選定への優越性について
江戸時代、曹洞宗では乱灯を改めんがため、幕府寺社奉行を巻き込んだ運動が行われ、それは「宗統復古運動」として知られており、その後、曹洞宗の寺院相続法は、様変わりした。結果的にその後また変更され、現状の相続法があるが、江戸時代の中間的状況について書かれた文献を紹介したい。一師印証の正法、遂に以て古に復し、粤を以て中古の、院に因って嗣を換え、屡ば本師を捨てるの弊、扶桑に一時止む。既に、自法を以て、他山に住し、則ち他山開祖の法孫、暫く断絶するに似たり。所以に、重ねて他山開祖の戒脈・大事の二物を嗣ぐ。之を重受と名づく。之を伽藍相続と号す。蓋し、仏在世の重受戒に擬する者か。然りと雖も、いわゆる他山開祖の法孫、亦移って、他山に住す。則ちここに嗣いで彼に住して、彼に嗣いでここに住する。各々土地の縁に任す。法法連綿にして、...江戸時代「宗統復古運動」後の伽藍相続法
臨済宗黄竜派の明庵栄西禅師(1141~1215)について色々と見ていくと、鎌倉時代初期の僧侶としては、おそらく当代きっての有名人であったことは疑い無い。栄西禅師は、専修思想に不当に毒された「鎌倉新仏教」というカテゴリーで、仏教思想・行法の改革が不十分であったような印象を持たれたこともあるが、昨今では当代の改革者として燦然たる地位にあったという評価を得つつあるように思う。ところで、曹洞宗と栄西禅師については、高祖道元禅師(1200~1253)との関わりもあり、また、道元禅師は栄西禅師の弟子である仏樹房明全和尚(1184~1225)から菩薩戒を受けていたこともあってか、曹洞宗では洞済両聯の『血脈』を用いる場合もある。そして、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が行われた、建仁寺での「伝戒会啓...江戸時代の洞門学僧による栄西禅師への評価について
『洞上規縄』とは、江戸深川増林寺に住持していた寂堂呑空禅師(生没年不詳)が、『永平清規』の『弁道法』及び『赴粥飯法』に拠って、叢林に於ける日分行持の弁道の規矩・規縄を記した文献である。享保18年(1733)に刊行された。今日はその一節を学んでみたい。いわゆる仏法僧を求めず、福智知解等を求めず、垢浄情尽も亦、此の無求を守りて是と為さず。亦、尽処に住せず、乃至、河沙戒定慧門無漏解脱、都て未だ一毫にも渉らず在る等は、此れは是れ大小僧衆の受戒護戒、日夜進取的の規式なり。『洞上規縄』「附録」問題は、最後の「受戒護戒」の話である。ここでは、いわゆるあらゆる事象への「不求・無求」を前提にしつつ、そこにも安住をしないで、戒定慧などにも拘らない様子こそが、「大小僧衆の受戒護戒」であるとしているのである。一見すると、何を示そ...『洞上規縄』に見る受戒護戒の問題について
禅僧にとって、戒法とは何だったのだろうか?このような見解がある。今この戒を仏祖正伝ととけば、戒法をいやがる禅宗僧の云様は、禅宗は悟りの宗旨なれば、なにの戒法と云ことがあるべきと、亦書冊のはしのよめる僧は、其上に証拠を引て云は、伝灯録及び諸家の録にも、授戒と云ことは見へず、後人の初めたることと云、これ大邪見、愚妄の至なり。面山瑞方禅師『若州永福和尚説戒』(宝暦9年版)乾巻・2丁表、カナをかなにするなど見易く改めるこの説示を見て、拙僧は今でも同じなのではないか?と思うようになった。いや、この見解が現代の現場にまで反映しているのかもしれない、ということだ。しかし、何故、禅宗の悟りと、戒法とが対立するのだろうか?拙僧にはそれが解せない。例えば、道元禅師は禅の悟りと、釈尊の教えとが矛盾しないことを論じている。或いは...禅僧にとっての戒法
おゆずりというのは、経帷子などとも呼び、我々の記憶の中では、お遍路さんが身に着けているイメージがあると思う。そこで、現在の授戒会では、正授道場に於いてこれを身に着け、その上で登壇するという。しかし、このような授戒の際におゆずりを身に着けるというのは、何を根拠にしている威儀なのだろうか?この辺を簡単に調べてみたい。まず、現今の作法の基準となる『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(昭和63年)では、この件についての指摘が無い。併せて、近現代の授戒会作法の多大なる影響をもたらした、石川素童禅師御提唱『戒会指南記』(昭和7年)を拝読したが、おゆずりなどは出てこない。もう一つ参照したのが、江戸時代末期の戒会作法を伝える『尸羅会中内口伝』だが、こちらについても、特に出てこない。ただし、記戒会作法書の中で、戒弟の服装などについて...授戒会・正授道場時の「おゆずり」について
歴史風に大和民族というべきなのか、あるいは現代風に日本国民というべきなのか、 そのへんのことはよく分かりませんが、ともかくこの列島に棲む民族には、いわゆる 「窮屈」を無意識に敬遠する向き、あるいは、それらに対する「苦手意識」もどきの 感情があったように感じられます。 でもそ...
江戸時代の洞門学僧・一丈玄長禅師『禅戒問答』に、以下のような文脈があることを紹介しておきたい。当代諸道ともに、其廃を起すといへども、戒学のみ未だ競わず。ねがはくは国家、令を下して、諸宗の僧徒をして、三所の戒壇に登らしめ、一へに毘尼を厳浄にして、先受戒・後受戒、専ら戒臘に依て、仏制の次第に負かずんば、庶幾は仏日の新なるを看むことを。若ししかあることを得ずんば、唯吾洞門のみなりとも、衆議を一同にして、永平・大乗・總持の祖山に於て、戒壇を建立し、年年受戒の期を定め、一門の僧徒をして、剃染の日、各各其の師の許にして、沙弥戒を受けしめ、其後に、祖山の戒壇に上りて、比丘戒と、菩薩戒とを得て、すなはちこれを江湖乍入の初年とし、二十の臘を歴て、一会の首版を領し、有縁の知識の許にして、受法伝戒し、勅に応じて出世して、各所に...洞門禅戒復古への願いについて
江戸時代に曹洞宗が輩出した最大の学僧である面山瑞方禅師は、当時宗門内で所伝されていた切紙(面山禅師は「断紙」と呼称)について批判し、『洞上室内断紙揀非私記』(ただし、本書の場合は当時の永平寺室中に伝えられていた切紙を批判)を著した。しかし、そうなると儀礼的な空白が生まれる可能性があったため、面山禅師自身は仏祖の経論・語録に従って改めて口訣を作り直した。それを総称して『洞上室内訓訣(ただし、写本によって総称は異なる)』という。今日はその中から、『仏祖血脈訓訣』を紹介し、我々の『血脈』に関する観念を改めておきたい。仏祖血脈訓訣壇経に曰く、五祖血脈図。法灯の年譜に云く、天童浄和尚従りの相伝の血脈なり。自家の訓訣に曰く、血脈頂上の円相、是れ箇の血脈、歴代相承の職由有る所以なり。則ち其の旨、大事と同じなり。いわゆる...面山瑞方禅師『仏祖血脈訓訣』について
江戸時代中期の学僧・一丈玄長禅師(1693~1753)の戒論は、宗派内に於ける独自性などから注目されるべきであるが、『律』の基本を学んだ人という評価は間違っていないように思う。行脚の僧、路費を帯、夜禅の僧、薬石を用るが如きは、律制に背に似たりといへども、元と法の為に開するが故に、全く破戒なるべからず。只だ宜しく慚愧を知るべきなり。『禅戒問答』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・303頁下段これは何を意味しているかといえば、江戸時代の曹洞宗侶は、夏冬二安居の間は一寺院に留まるが、それ以外の時には基本行脚をして、全国各地を旅していた。そして、僧侶といえど、旅費を要するためそれを持ち歩いているわけだが、それは個人的な財産を持つことを禁止した律制に背くというのである。また、薬石とは中世の日本禅宗でも採用された、夜の軽い食...一丈玄長禅師『禅戒問答』に見る随方毘尼
今日は10月15日であるが、我々曹洞宗の僧侶からすると、高祖道元禅師(1200~1253)が、宇治・興聖寺で開堂されたことを忘れてはならない。寛喜3年(1231)『弁道話』執筆天福元年(1233)深草の極楽寺旧址(観音導利院)に落ち着く(『伝光録』第51祖章)文暦元年(1234)懐奘禅師、観音導利院で道元禅師に弟子入り(『伝光録』第52祖章)嘉禎2年(1236)10月15日、興聖寺を開堂して集衆説法(『永平広録』巻1冒頭)『弁道話』について、江戸時代の面山瑞方禅師は安養院での執筆を主張しておられるが、現在の『弁道話』流布本では、執筆場所を示さない。陸奥正法寺に伝わる草案本では、興聖寺だとするが、それは間違いである。それから、1233年に極楽寺旧址に入ったことは、瑩山紹瑾禅師『伝光録』など、古伝が等しく認め...10月15日興聖寺開堂の日
「講戒」という作法がある。詳しいことについて、拙僧はよく分かっていない。多分、今はそれが残っていない(のかどうかもよく分からない。説戒のことではない)からなのかもしれないが、それで、定義というか、典拠というか、基本は以下の文脈で知られる。講戒と受戒とは、その儀、別なり。これを詳らかにする者、少かなり。何に況んや大僧菩薩の戒相、これを明かにする者、多からず。今、撰する所は、講戒の流なり。しかも菩薩戒の儀式、これを伝授する者、稀なり。今、聊か略作法を存して、受授の儀を示す。諸の阿笈摩教、及び諸の教家に云うところと同じからず。若し、この儀によって受授すべくんば、得戒すべし。唐土・我朝、先代の人師、戒を釈するの時、詳しく菩薩の戒体を論ずるは、甚だ以て非なり。体を論ずる、その要、如何。如来世尊、唯だ戒の徳を説き、得...面山瑞方禅師が説く「講戒の流」について
実世界の研究でも丘宗潭老師による『教授戒文』提唱を学んだことがあったのだが、丘老師は禅戒論を論じるに当たり、ご自身が改正された万仭道坦禅師『仏祖正伝禅戒鈔』よりも、同じ万仭禅師による『禅戒本義』を尊重していることが分かった。それも含めて、『禅戒本義』自体を学んでみたいと思い、今日はこんな記事を書いてみようと思う。禅戒本義序戒学に幼くして戒師と作り、禅学に少くして禅師と称するは、古今の仏祖の呵する所、其の罪免るべからず。如来の在世、二歳の沙弥有り、一歳の弟子を将ち仏処に往く。仏、呵責して言わく、汝の身未だ乳を離れず。応に人の教授を受るべし、云何が人に教えんや、云云。吁、夫れ、戒学多般なり、今人何ぞ罄くさん、況んや亦禅戒は宗門の一大事、具眼底の舌頭在りても、輒く教授すべからず。古に曰く、説戒は仏法の大綱なり、...万仭道坦禅師『禅戒本義』序に見る苦言
実世界での論文も書いているので、その中でのメモ程度ではあるのだが、とりあえず記事にしておきたい。それで、現在の曹洞宗の「教義」には、「禅戒一如」という語句が入っている。ところが、この用語については、それほど古くないのである。なお、成立経緯などは既に、【禅戒一如―つらつら日暮らしWiki】を書いているので、そちらを見ていただければと思うのだが、概念の成立については書き切れていない。そこで、この記事で補おうと思うのである。まずは、現状の「教義」について見ておきたい。第5条本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大網とする。『曹洞宗宗憲』以上の通り、「禅戒一如」という言葉が見える。それで、教義にこの語が入った経緯については、特に人権の問題から論じられた報告が存在しているもの...「禅戒一如」の成立について
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?②」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART12[次第説法45 色(物質、容姿)の危難]
↑ 前回の続きです。 今回も、「色(物質、容姿)の危難②」についてです。 パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P24~から引用 「また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、死後一日、...
ちょっとした雑考である。曹洞宗で用いる「施財の偈」について、以下のように唱える場合がある。財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界、平等利益。ところが、こちらの「施財の偈」は本来、以下のように唱えられている。維那聖僧の帳の後より身を転じ、首座に問訊す。乃ち首座に施財を請するなり。却りて槌の本位に帰り、槌を打つこと一下す。首座施財して曰く、財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満。『赴粥飯法』このように、僧堂で食事をいただく前に、首座がその食が施された意義を「施財の偈」を通して示したのである。そして、基本的に江戸時代までの各種清規も、明治期以降の『行持軌範』でも、同じ唱え方となっている。そして、道元禅師が参照された『禅苑清規』とは少し異なっている。首座施財、喝して云く、財法二施、等無差別、檀波羅蜜、具...「乃至法界平等利益」への雑考
今日は目の愛護デーらしい。一〇月一〇日、この「一〇」を縦にすると、眉毛と目に見えるので、「目の愛護デー」になったとのこと。一一〇〇こんな感じ。以前なら、この日に「体育の日」もあったが、「ハッピーマンデー」になり、更には「スポーツの日」になり、ということで、大分変わってしまった。そのため、今日に残った「目の愛護デー」を記事にしようと思う。早速、以下の一節をご覧いただきたい。五葉華開けて六葉を重ぬ、青天白日明無きに似たり、若し人我れに問わん何色を看ると、此れは是れ瞿曇の老眼睛。道元禅師『永平広録』巻10-偈頌88、雪頌六首の一つ五葉の華というのは、五つの葉っぱがある華、という意味ではなくて、五つの花弁を持つ花の意味であり、梅華などに譬えられる。そして、仏法の悟りにも譬えられる。達磨大師の伝法偈に「一華開五葉」...10月10日「目の愛護デー」
足立区の住職殺害、容疑者は墓地の販売先巡り対立…石材会社役員の女は「出入り禁止」(YomiuriOnline)石材会社社長ら男女2人逮捕納骨堂に大量練炭、住職殺害容疑―警視庁(時事通信)霊園運営巡り、住職と対立逮捕の男、事前に練炭購入(共同通信)上記報道の通りですが、今年7月22日に、東京都足立区内の寺院住職が、一酸化炭素中毒で殺害された事件があり、その容疑者が逮捕されております。それで、動機などが徐々に明らかになってきている状況ではありますが、どうも、霊園の運営をめぐり、対立していたという話になっているようです。詳細はまだ分かりませんので、後は個人的な雑感ではあります。確かに、霊園運営の場合、例えば「宗派・宗旨は問いません」みたいな宣伝をする場合があります。その場合は、文字通り霊園に遺骨を入れてあげるだ...足立区内の寺院住職の殺害について報道
同じ家族でも 異なる宗教を選択・・・わが家の場合(日本&ドイツ)
こんにちは Megumi Piel(ドイツ在住)です。今日は ちょっと個人的な宗教トピックを お送りしたいと思います。 一般的に、公の場で政治と宗教の話はしな…
今日、10月5日は中国に禅宗を伝えた菩提達磨大和尚が御遷化された日だとされる。曹洞宗も世間的な分類では「禅宗」に入るため、達磨大師のことを重んじているが、色々と調べると高祖道元禅師(1200~1253)は「達磨忌」に応じて、上堂や法要をした記録は無いようである。一方で、道元禅師より数えて4代目の祖師となる太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の時代には、叢林での修行の軌範となる清規の整備も進み、「達磨忌」が法要として行われたことが記録されている。十月五日、達磨忌。公界は力に随って供を弁ず。伝供、焼香、礼拜し、主人跪炉す。維那、宣疏して云く・・・『瑩山清規』「年中行事」達磨忌の執行に先立ち、修行僧達は力の及ぶ限りで供物を揃え、そして主人(導師)を中心に伝供して、焼香礼拝するなどして、お供えする。更に、導師...今日は達磨忌(令和5年度版)
『寿昌清規』というのは、曹洞宗関連の清規である。然るに、我々曹洞宗道元派ではない、別系統の曹洞宗であり、江戸時代初期に中国から伝来した曹洞宗寿昌派における清規である。しかし、大きく見れば曹洞宗系だというので、『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録されているのである。今日はそこから、「開壇弘戒」という項目の一部を見ていきたい。開壇弘戒凡そ仏子、受戒を欲せん時は、作梵作白等の書式、具に『壇戒羯磨』に載せる。故にここに録せず。参学人、叢林に入り、依止を求めん者は、先ず須く禁戒を受持し、威儀を厳蕭すべし。近世の愚徒、罪福を明めず、戒相を知らず、仏経・祖録これを置いて学せず。競いて俗士に従い、学を外書に求む。白衣の上座ならば恕すべし、無智の僧侶行列して殊に慚色無く、仏祖を毀辱す。此に於いてか過無き有智これを聞きて切に宜し...『寿昌清規』「開壇弘戒」に見る江戸時代初期の僧侶について
道元禅師に、次のような教えがある。曩祖道、我説法汝尚不聞、何況無情説法也。これは、高祖、たちまちに証上になほ証契を証しもてゆく現成を、曩祖、ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず、無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず、と証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず。『正法眼蔵』「無情説法」巻この「曩祖」というのは、中国曹洞宗の先駆的立場としてある雲巖曇晟禅師のことである。その雲巖禅師が、洞山良价禅師と「無情説法」について問答をした際の言葉について、道元禅師が提唱されたのが上記一節である。それで、この一節とは無情説法そのものよりも、それをどのようにして「得聞」するかが問われている。そもそも無情説法と...十月二日『正法眼蔵』「無情説法」巻参究(令和5年度版)
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?①」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART11[次第説法44 色(物質、容姿)の危難]
↑ 前回の続きです。 今回は、「色(物質、容姿)の危難」についてです。 パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P243~から引用 色の危難 「つぎに、比丘たちよ、もろもろの色の危難とは何か。ここに...
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART10[次第説法43 色(物質、容姿)の楽味]
↑前回の続きです。 今までは↓ 一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。 すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。 世尊は、ポッカラサーティ・バラモンが従順な心になり...
「第一官律名義弁」其十六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・16)
ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。なお、前回までは『大宋僧史略』を典拠に、中国での事例を検討していたが、今回からは日本となるようである。よって、登場する人物名は、日本史などで見たことがある人かもしれないので、読者諸賢にとっては中国仏教の記事より親しみやすいだろうか。一、三宝棟梁推古天皇三年五月丁卯、高麗僧・慧慈、帰化す、則ち皇太子、之を師とす。是の歳、百...「第一官律名義弁」其十六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・16)
今日は秋分の日。二十四節気は秋分となりました。秋分の初候は雷乃収声。(かみなりすなわちこえをおさむ)夏の間ゴロゴロ鳴っていた雷がおさまる頃です。雷雲、入道雲…
ところで、曹洞宗の彼岸会について調べてみると、意外と資料的には少ない。明治時代に入ってからは、以下の文脈などから知られる。彼岸会の事は諸清規に見る処なし。故に本規も亦之を掲載せず。然れども朝廷已に春分秋分を以て皇霊祭を修し玉ふことなれば、僧侶は無論、旧慣に拠て二期の彼岸に臨時の法会を営み、開山世代及び檀越の亡霊を普同供養し、且つ毎日説教を修して可なり。「春秋二季彼岸会」、『洞上行持軌範』「年分行持」項ただし、冒頭であるように、「諸清規」に見るところはないわけである。明治時代に入り、国が「皇霊祭」を行うようになってから、この時期に儀礼を行うことに対し、積極的になったと思われるわけである。そんな中、以前【『彼岸之弁』参究】で採り上げた『彼岸之弁』については、江戸時代に曹洞宗関係者によって学ばれた彼岸会に関する...彼岸会の話(令和5年度・秋の彼岸会)
『彼岸之弁』の連載が終わったので、残り2日は、関連する事柄を学んでみたい。よって、かつての彼岸会の様子を探るために、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編・朝倉治彦校訂、中公文庫・昭和56年)に基づいて、記事を書いておきたい。本書には全部で15編の江戸における年中行事に関する文献が収録されている。それを見ていると、「彼岸会(ひがん)」に関する記述があることが分かったので、関連する文脈のみを抜き出し、備忘としておきたい。なお、この15編の文献だが、元禄3年(1690)から、安永6年(1859)までに開版(刊行)されたものであり、江戸時代のごく初期はやや不明瞭ながら(とはいえ、都市としての江戸を造営中であり、記録されるまでも無かろう)、江戸時代中期から末期にかけてよく知られるものといえる。それから、確認しておくが、今...江戸時代の彼岸会の様子(令和5年度・秋の彼岸会)