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No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十九
前述の通り、始皇帝は、紀元前212年、蒙恬に命じて、30万の軍勢により、北方遊牧民の匈奴を討伐させた。 匈奴征伐の一つの要因は、『録図書』の「秦を滅ぼす者は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十八
秦の始皇帝は、泰山にて、封禅の儀を行った後、山東半島を巡った。 始皇帝は、神仙思想に染まりつつあり、そこに取り入ったのが、方士と呼ばれる者達あった。 方士は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十七
始皇帝は、中華統一後に国内にある、斉・韓・魏等の長城を取り壊した。 始皇帝の時代の長城は、版築により、粘土質の土を固めて築いた、建造物であった。 高さは、馬…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十六
木材及び、石材は、遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで、掘削した陵の周囲は、銅で固められた。 その中に宮殿及び、楼観が造られた。更に水銀の流れる川が、100…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十七
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。 夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十六
そのため、楚の旧都の郢陳の民が動揺し、楚の公子である、昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。 そして、前述の通り、紀元前225年、李信と蒙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十五
紀元前226年の秦による、燕への総攻撃は、秦の将軍、王翦、王賁、李信が、指揮した。 燕王喜は、趙の亡命政権である、代国の代王嘉と同盟を結び、秦軍と戦ったが、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十四
秦舞陽は、13歳で人を殺しており、壮士として、有名であったが、荊軻は、秦舞陽のことを頼りにならないと見抜き、遠くに住む、旧友を同行者に加えようと待機していた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十参
前述の通り、秦が、趙を滅ぼすと、燕は、秦の隣国になったため、秦は、燕に攻め寄せ、燕は、武力では、対抗できなかった。 太子丹は、軍事力ではなく、非常手段である…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十弐
趙の国都、邯鄲の陥落後、幽繆王は、顔聚と共に東陽へ逃げたが、王翦・羌瘣にその地を平定され、捕らえられた。 その後、幽繆王は、房陵に流され、趙は、遂に滅亡した…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十壱
紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。 紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。 韓王安は、捕虜となり、韓は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十
秦王政は、新政の開始時、李斯や及び、尉繚等の協力の許、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」との策略を立てた。 具体的な措施として、遠国の燕及び、斉は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十九
『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。 韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十八
紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。 その功績によって、秦王政から、昌文君に封…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十七
私は、血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。 そのため、しばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』。 文侯は、『そうか。病が大きく、露…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十六
小国の殷、周、呉の勝利こそ、孫子の『戦わずして勝つは、善の善なる者なり』であり、また、道家思想に言う、『陰経の法・夜行の道・天武の類』です。 現在、百万の屍…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十五
秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。 龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十四
秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。 李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。 李牧は、国境防衛のた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十参
呂不韋は、「仲父」と呼ばれる程の権威を得ると、多くの食客を養い、紀元前239年には、『呂氏春秋』の編纂を完了した。 『呂氏春秋』は、十二紀・八覧・六論から構…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十弐
紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。 曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十壱
兵士の一人、李同が、平原君に「貴方にとって、趙の窮状は、他人事ですか」と聞いた。 平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば、私も滅ぶ」と言ったが、李同は、「…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。 前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十九
当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。 信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
宴席の客達は、侯嬴の言葉の意味が、全く訳が解らなかったため、信陵君をどうでもいい用事で待たせる、失礼な爺だと、侯嬴を蔑す、一方で、嫌な顔をせず、待っていた、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
紀元前250年、孝文王の死後に、太子の子楚が、荘襄王として即位した。 遂に、呂不韋の「奇貨居くべし」が、実を結ぶと、呂不韋は、秦の丞相となった。 荘襄王の義…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十六
しかし、范雎は、重病と称したため、昭襄王は、やむを得ず、范雎を宰相から、免じた。 紀元前251年、昭襄王は、七十五歳で、死去した。 昭襄王の在位期間は、五十…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十五
原泰久氏の漫画、『キングダム』では、昭襄王の時代、白起を含め、秦の「六大将軍」が、存在したとする。 「六大将軍」は、白起、楊摎、王齕、胡昜、司馬錯、王騎の六…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十四
紀元前257年、昭襄王は、趙の邯鄲に援軍を送ったが、勝てないため、王陵を更迭して、王齕に代わらせた。 しかし、邯鄲は、陥落せず、趙の援軍として現れた、魏の信…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十参
趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。 趙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十弐
孝成王は、韓の上党の割譲に対し、悩んだ末、平原君の案を採用して、上党に兵を送ると、上党を接収した。 秦の昭襄王は、激怒し、紀元前260年、王齕を将軍とした、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十壱
范雎は、「黄歇は、人臣として、一身を投げ出して主君に殉じました。 仮に、太子完が、楚の王位に即けば、必ず、黄歇を重用します。 今は、黄歇を罰しないで、帰国さ…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十
魏冄は、宰相として、内政のみならず、自身、将軍として戦地に赴き、軍事に優れていた。 しかし、魏冄自身の封地、華陽君羋戎、高陵君・涇陽君等を富ませるための戦役…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十九
昭襄王は、それを聞き、范雎を迎え入れて、まず、詫びると、「私は、早くから、先生の教えを乞おうと思っていた。 謹んで、主客対等の礼をもって、お話を賜りたい」と…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十八
楚の春申君は、昭襄王の楚の討伐に対し、上書した。春申君は、現在の天下においては、秦と楚より、強い国はない。 昭襄王は、楚を討とうとしているが、秦と楚の戦いは…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十七
楚軍は、秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した。 秦軍は、長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城を攻め取った。 白起は、秦軍を率い、楚の別都である、鄢城へ向かっ…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十六
「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。 この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。 しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十五
藺相如は、終始、上述の様にして、機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで、秦は、趙を格下扱いに出来なかった。 藺相如は、趙へ戻る際も、警戒を怠らなかったの…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十四
藺相如は、胆力と知恵だけを武器にして、強国の秦に対し、一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子を保った、まさしく、「完璧」な対処と言える。 なお、中国語では、「…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十参
繆賢は、藺相如の言が、正しいと考えため、自身の去就に狼狽した。 藺相如は、更に繆賢に対して、自ら、処刑台に乗って、進んで、恵文王に罰を請えば、許されるかもし…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十弐
紀元前285年、昭襄王は、蒙武を登用し、斉に侵攻した。 また、蜀侯の綰に謀反に疑惑が、持ち上がったため、綰を誅殺した。 以降、蜀には、侯を置かず、蜀郡郡守を…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十壱
白起は、伊闕の戦勝の功によって、国尉となった。 同年,白起は、韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用し、兵を率いて、黄河を渡ると、安邑の東側の乾河等の広大な領土を占…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十
その後、前述の通り、孟嘗君は、讒言によって、昭襄王に謀殺されそうになったために、紀元前297年、食客の力を借りて、斉に逃亡した。 その時の逸話が、「鶏鳴狗盗…
指鹿為馬!宦官趙高由来、鹿を指して馬と為す故事意味、史記閻楽解説
故事成語の指鹿為馬は、二世皇帝胡亥を操っていた宦官の趙高が、権力を自負したことを意味しています。 そ ...
奇貨居くべし!呂不韋由来、現代語訳意味あらすじ、使い方背景も解説
故事成語の奇貨居くべしは、文信侯呂不韋が、秦の王族の荘襄王に大投資したことが、由来です。 そして呂不 ...
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十九
甘茂は、斉に出奔する際に、函谷関にて、蘇代に会い、秦に復帰できるように依頼した。 蘇代は、秦に行き、「甘茂は、非凡の士です。 長く、秦に仕えていたために、秦…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十八
燕の昭王は、斉に攻め込む以前に、将軍の秦開を派遣して、北方遊牧民族の東胡を討った。 秦開は、東胡に人質に出されていたが、その元で東胡の信頼を得て、彼等の風俗…