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長野県飯田市松尾の龍門寺所蔵「竜門開山再住妙心廿四世勅諡圓照真覚禅師文叔大和尚略伝」(以下「文叔略伝」と略す)によれば、文叔瑞郁(1467~1535)について、「遠州井伊谷城主直平、迎請主自浄院」とあります。文叔瑞郁の伝は、松源寺・龍潭寺に残っていますが、内容は大同小異であるといいます。井伊直平云々は、永正四年(1507)九月十五日付「井伊直平寄進状」2に関わるもので、寄進先は「龍泰寺」です。ところで、先の「文叔略伝」あるいは龍潭寺僧某の「黙宗大和尚行実」では、この寄進状の主井伊直平に請じられたのが「文叔和尚」であり、また和尚が居住したのは「自浄院」であったと書いています。龍泰寺ではありません。しかし、今この件については後回しにして、まず文叔和尚の来住について述べてみたいと思います。「文叔略伝」によれば、文叔瑞...井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔
「開山黙宗瑞淵伝」井伊谷龍潭寺所蔵「開山黙宗大和尚行実」は「往々拠旧記、不下敢以臆断妄有中増損上、其意無他」という姿勢で、享和三年(1803)に、「僧某」によって書かれたものです。多少の間違いはあるとしても、多くは龍潭寺そのほかの黙宗和尚在世時の資料を用いていて、その姿勢は評価に値すると言えるでしょう。「僧某」が誰かはわかりません。龍潭寺にとって、というより戦国期の井伊谷にとって、黙宗和尚は最も重要な人物の一人ですが、意外や、まともに取り上げた伝は管見の限りひとつだけです。たとえば、延宝八年(1680)当住徹叟著「萬松山龍潭寺草創之由来」では、寺宝の扇子にかけて、黙宗が美濃瑞龍寺に何年も参敲していたが、終に信濃松源寺において文叔と出会い、そのもとで修行得法し、帰郷後一禅刹を開き、開山第一祖に文叔を迎えた、という...井伊谷龍潭寺史(5)-開山黙宗禅師伝
辰巳和弘氏は平凡社刊『日本の地名静岡県』における「渭伊神社」の項は誤りで、事実は逆であると言います。『日本の地名静岡県』は、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神「八幡宮」が、享禄のころ、もともと現在地にあった「渭伊神社」の地に移遷してきたというものです。移遷時期はともかく、場所に関しては風土記伝ほか多くが同じ説です。辰巳氏が引用したのは「平井文書」だと言います。この文書は未見ですが、同説は「兵頭文書」・『井伊家伝記』も述べています。『日本の地名静岡県』は「山本文書」を参考にしていると考えられます。幕末から明治にかけて活躍した山本金木には「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」なる文書があります。それには「十二代将軍足利義晴の享禄(1528~1532),天文初メ(1532)八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ...井伊谷渭伊神社と(正)八幡宮(1)