chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 悲惨な営巣

    この時期になるとキジバトが玄関先に巣をかけにきます。扉を開けて軒を見上げると、つがいのハトがじっとこちらを見つめます。小枝が散らばっています。しかし御存知のようにフンは異臭を放ち、病原菌をまき散らします。それでほうきで集められた枝を落とすのですが、翌日にはまた素知らぬ顔で枝を軒にかけています。こうして数か月にわたる戦争が始まるのです。悲惨な営巣

  • 遠江の後藤氏

    【後藤氏】太田亮『姓氏家系大辞典』には「遠江後藤氏」は、後藤氏嫡流とする。後藤氏は源頼義の家臣で坂戸判官・後藤内と号した則明を元祖とし、類代河内源氏の家人でした。則明六代の孫基清は、承久の乱で長男基成とともに京方に味方しました。一方二男基綱は幕府軍に就き、結局敗れた父基清と兄基成を六条河原で自ら斬首しました。基清は猶子で、実父は佐藤仲清、同腹の兄は義清すなわち西行法師です。こうした関係から、基綱の家系は鎌倉幕府の評定衆・引付頭を務める武とともに歌の家系でした。ただ遠江後藤氏の室町時代以前の系譜を正確にはたどることはできません。遠江の後藤氏は室町時代における文献上の初見は、文安年間(1444~49)成立した「文安年中御番帳」「二番後藤能登入道」です。また宝徳二年から享徳四年(1450~55)成立の「永享以来...遠江の後藤氏

  • 井伊氏系図ー野辺氏との比較

    井伊氏の初代を含みそれ以前の系譜は神話伝説的でり、おそらく鎌倉以後とくに室町時代に形を整えたものと推定されます。室町時代の15世紀代には藤原北家に出自を求める系図の原型ができています。ところがこれが固定的なものでなく藤原南家に出自を求める系図も存在します。そこで同じ平安時代以来在庁かんじんであり、井伊氏のように「介」という官職をもち、ほぼ確実に南家の出である「野辺氏」を取り上げます。『尊卑分脈』によれば、野辺氏は藤原南家乙麿流時理孫入江惟清弟入江権守清定の子太田権守宗清の子に野辺三郎宗直が出ます。これがおそらく野辺氏祖でしょう。生きた実年代は資料がなく確定できませんが、清定兄船越四郎太夫惟綱の孫岡部泰綱が『東鑑』文治三年(1187)三月条に記載され、ほか『平家物語』『曽我物語』にも出てきます。しかし他方入...井伊氏系図ー野辺氏との比較

  • 岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

    岩水寺は寺伝によると、延暦年間(782~806)創建、最初龍池院と称していましたが、のち般若院に名称が変わります。盛時三百六十坊の塔頭を数える大寺だったといいます。享徳三年(1454)根本中堂が再建され、現在の岩水寺となりました。直接寺の由緒に関係すると思われる遺跡に、寺東の勝栗山古墓軍があり、久安二年(1146)七月廿七日・廿八日に新所(湖西古窯址群)で焼かれた陶製五輪塔が出土しています。結縁者銘があり、伊勢神宮関係者が名を連ねています。また大門西には鎌倉・室町時代の蔵骨器が出土した泉墳墓群があります。つまり、このあたりは古くからの葬地でした。弔い・死体処理を行っていたのは聖でした。つまり岩水寺には受戒の僧のほかに大勢の聖また修験者(山伏)が住んでいたのです。これはおそらく近くに天竜川の渡りがあり、宿が...岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

  • 浜松市北区三ケ日町の中世墓

    三ケ日町の中世の墓については、内山真龍著『遠江国風土記伝』が三ケ日町只木の「公家塚」を「橘逸勢」の墓と推定したのが、この地の古石塔に言及した最初でしょうか。その後1953年刊の『浜名史論』において、三ケ日の郷土史家高橋佑佶氏が同じ「公家塚」を「南朝方某公卿」の墓としましたが、のち「後醍醐天皇皇子尊良親王の一宮」の墓と訂正しました。他方小笠郡の郷土史家西郷藤八は公家塚周辺から採集された数枚の中国銭の年代から時代を室町中期、被葬者は従一位花山院長親であると推定しました。そして愛知県の古石塔の初期の研究家であり、考古学者でもあり、石工製作者でもあった岡崎市の池上年氏が三ケ日町の宇志瓦塔遺跡のレプリカを造ったのですが、三ケ日町の石塔調査には及びませんでした。この段階まではほとんど根拠のない文献資料からの推測にすぎ...浜松市北区三ケ日町の中世墓

  • 雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

    『浜名郡誌』によれば、現在の寺の名「龍泉寺」は慶長十九年(1614)徳川家康の命により改名したといいます。それ以前は洞巌山雲岩寺と号していたのです。明徳二年(1391)豊後国薦福寺(泉福寺)開山無著和尚の嫡子洞巌和尚が後ろの山に入り、石上に安座し、同四年近里の道俗協力して殿堂を建て、のち山を洞巌、寺を雲岩と称したのに始まったと伝えます。雲岩寺所在の赤佐は無文師の開いた方広寺の開基奥山氏の祖赤佐氏の本拠で、所領をのちに奥山氏が継いでいます。そうすると、雲岩寺開創には二つの要因が考えられます。直接的には九州探題今川了俊あるいは養子仲秋の招請、もう一つは間接的ですが無文師の影響ということになります。伝では如仲・無範等がその門に倚るといいます。如仲天誾は森町大洞院開山で、曹洞宗大本山総持寺の住持を二度勤めています...雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

  • 井伊谷八幡宮

    浜松市北区井伊谷所在の八幡宮は龍潭寺と渭伊神社との関係を抜きに語ることはできません。渭伊神社の由緒を記す案内板には、『井伊谷村誌』を引き八幡宮の現在地への移遷が江戸時代の享保年間(1716~36)あるいは南北朝期と言います。後者は全く根拠のない憶説で、前者は間違ってはいますが史料の読み違いによるものです。辰巳和弘は平凡社版『日本の地名静岡県』における「渭伊神社」の項の説明が誤りであって、事実は逆であると断言されました。簡単に説明しておくとこの項には、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神である「八幡宮」が、享禄のころもともと現在地に鎮座していた「渭伊神社」の地に移遷してきて、同じ地に両社が祀られたため、のちに混同されて「渭伊八幡宮」と呼ばれるようになったというものです。これに引用されたのは、幕末明治に生きた山本...井伊谷八幡宮

  • 奥山方広寺開山無文元選

    至徳元年(1384)奥山六郎次郎朝藤が引佐郡奥山に方広寺を開創し、無文元選禅師を招請して開山始祖とします。無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇皇子で、母は昭慶門院と伝えますが、正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二『臨済宗史』(春秋社)によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然として盛んであったのですが、当時の中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、...奥山方広寺開山無文元選

  • 遠州安国寺金剛山貞永寺

    【遠州安国寺金剛山貞永寺】夢窓疎石が後醍醐天皇や南北朝の戦いの戦没者の菩提を弔うために、一国一寺一塔を建てることを将軍足利尊氏提案し、十四世紀半ばには一部を除きほとんどの国で実現したもので、寺のほうを安国寺と名づけられました。そのひとつ遠州安国寺とされたのが掛川市大坂(旧小笠郡大東町)金剛山貞永寺です。このお寺の開山についての詳細は本当のところよくわかっていません。寺伝ほかでは高峰顕日法嗣玉峰殊圭を開山とします。この僧に関する伝はほとんど伝わっていないので、詳細はあまりわかりません。玉村竹二著『臨済宗史』は高峰顕日の弟子の多くは法諱の系字として「妙」を用い、玉峰も「妙圭」を諱とするとします。また『禅学大辞典』も玉峰妙圭をとります。『豊鐘善鳴録』に南溟殊鵬が「京都万寿寺玉峰殊圭に参じ大悟」とあり、これが数少...遠州安国寺金剛山貞永寺

  • 凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

    浜松市北区三ヶ日町平山に中世存在した「凌苔庵」は悟渓宗頓禅師が開いたと伝承されています。しかしこれは全くの早とちりで、「悟渓」という道号であれば「宗頓」という諱が対応するという思い込みによるものです。『禅学大辞典』の法系図などをみると、「悟渓」という道号の僧はたとえば京都東福寺三聖門派だけで三人います。このうち悟渓宗頓と同時代なのは悟渓一鳳(別号悟栖)でしょうか。三ヶ日町は東福寺住持を勤めた仏海禅師一峰明一が同町大谷虎洞山高栖寺を開いたと伝え、一峰明一は三河吉良実相寺五世です。浜松荘は中世吉良氏の所領であり、吉良氏開基実相寺の弟子が住持する寺もあって、そうした関係で東福寺とも関係があり、むしろこの悟渓一鳳が平山悟渓の可能性が高いでしょう。また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があり...凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

  • 津和野町旅行記

    数少ない友人だった人から島根県鹿足郡津和野町の話はよく聞かされていました。一度は訪ねてみたいと思っていましたが、このたび鳥取・出雲・松江の旅行のついでに立ち寄りました。(1)「津和野城址」(三本松城)と乙女峠マリア堂太鼓谷稲荷神社の赤い鳥居の石段をくねくね折れ曲がりながら歩いて上り、上り切ったところに立派な社殿に¥がありました。そこから今来た階段とは違う車用の参詣道路を少し下ったところにリフトがあり、城のすぐ近くまでいくことができます。山頂に石垣だけ残っています。鎌倉時代に吉見氏による創建と伝えますが、実際には戦国時代ころに築かれたのでしょう。城主は吉見氏が戦国時代大内氏のち毛利氏に仕えましたが、江戸時代初め断絶します。その後坂崎出羽神直盛が城主となりますが、大阪夏の陣における徳川家康孫娘千姫に関わる事件...津和野町旅行記

  • 初生衣神社(1 )ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    初生衣神社の御衣祭の起源を久寿三年(1156)とする由緒書がありますが、これは源頼政が「浜名郡岡本村之内伊勢神明為初衣領五町八反黄金壱枚銭拾八貫以焉永代買取令寄附畢」という久寿二年乙亥十一月付頼政寄進状によるといいます。荒唐無稽な話です。これが真実味をもつと地元で信じる人がいるのは、『平家物語』の頼政鵺退治の「鵺」地名の存在と、浜名氏祖先とする同物語の「猪鼻早太」の存在です。前者が戦国末から織豊期にかけて贄代から替えられた地名であり、後者は「井早太」ともいわれ、引佐郡井伊谷では井伊氏とみています。「早太」の「太」は太郎のように長子を指しているものだとすれば、「早」が字でしょう。そうすると渡辺党渡辺早が思い浮かびます。彼は頼政郎党であり、この氏族の元祖は遠江国焼風里と伝承されています。焼風里がどこかはわかり...初生衣神社(1)ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

  • 初生衣神社(2)ー御衣祭

    天長十年(826)編纂『令義解』、貞観十年(868)ころ編纂とされる『令衆解』など養老令の注釈書に、孟夏(陰暦四月)・季秋(陰暦九月)「神衣祭」が記載されています。前者に「謂伊勢神宮祭也。此神服部等、斎戒潔清、以参河赤引神調糸、織ーー作神衣、。又麻績連等、積麻以織敷和衣、以供神明、故曰神衣。」(後者ほぼ同じ)とあり、三河の赤引糸を用い神服部が神衣を織り、神に供えるという形が古くからあったことがわかります。奉祭対象は皇大神宮(内宮)と内宮別宮荒祭宮で、外宮は対象ではありません。それぞれ和妙(絹織物)と荒妙(麻織物)供進します。奉織は神服織機殿および神麻続機殿で行われます。竹内雅之「神衣奉献の意義」でこの記事を注釈とし、『日本書紀』持統六年(692)閏五月丁未(十三日)条「伊勢大神奏天皇曰、免伊勢国今年調役。...初生衣神社(2)ー御衣祭

  • 初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    浜松市北区三ヶ日町岡本にある神社である初生衣神社は祭神天棚ばた姫命です。高橋祐吉著『浜名史論』が述べるように、当社伝承の由来は「殆ど不信のもので恐く室町末期から江戸期に於いて」偽作されたものです。しかし「本社の社歴はこの疑問の記録文書に記載せられてあるより以上にその創始年代は古くその由緒は深嚴なるものがあると考えられる」と続けて述べているように、土地にまつわる歴史は確かに古いのですが、初生衣神社としての歴史は結構新しいものと考えられます。この神社社殿のすぐ側の字楠木遺跡から奈良時代の寺院瓦や同時代の祭祀具である土馬などが出土しています。鎌倉時代にはこの神社の真北に大福寺が創建されたように、確かに古い由緒のある土地ですが、この神社とは直接関係ありません。平安時代の十世紀康保四年(967)施行の「延喜式」記載...初生衣神社(1)のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

  • 浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

    浜名氏は中世浜名神戸(浜松市北区三ヶ日町)を苗字の地とする氏族です。この地に住み着いた年代は不明ですが、おそらく十一世紀後半に浜名神戸司が伊勢神宮により任命されたときに、その神戸支配のために現地に赴任した人々です。神戸司はときの神宮の最高位にいた大中臣氏の一族が任命されました。その大中臣氏の配下には内宮・外宮の祢宜の子息・親族や下級祠官がいましたが、そうした人々やその親族が浜名神戸にやってきたと考えられます。姓は大中臣・荒木田・渡会のほか源・平などさまざまです。やがてかれらのうちに実力を蓄えて「預所」として伊勢神宮から任命されるものがでてきました。その後継が浜名氏です。もともと武力をもって神戸支配の実務を請け負っていたので、鎌倉時代には将軍源頼朝に臣従し、預所兼御家人となりました。御家人としては在鎌倉が多...浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

  • 橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

    承和九年(842)天皇の皇位争いに敗れ、謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となった従五位下・但馬権守橘逸勢は、八月途中遠江国板築駅において病死しました。かれに隠れるように付き添っていた娘はそれを知り、出家し尼妙沖(妙長)となり、その地に草庵を作り菩提を弔っていました。しかし、やがて許され嘉祥三年(850)京に改葬され、正五位下を追贈され、尼妙長(妙沖)は仁寿三年(853)遠江国に剰田七町を与えられます。さらにのちに逸勢は文徳天皇より従四位下に叙されます。斉衡元年(854)怨霊として御霊会の対象となります。(以上日本文徳天皇実録・続日本後紀)その妙沖の草案があった場所が三ヶ日町本坂の橘逸勢神社であり、板築駅がその1キロ弱東の日比沢だといいます。まず妙沖草庵については、逸勢遺骨改葬のおりその場所に銅鏡を埋めたという...橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

  • 大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

    応長元年(1311)十一月二十八日「大福寺御堂供養」が開催されました。第一日「大曼荼羅供」、二日目「御堂供養会」という式次第でした。前者は空海が修したもので、それを見るだけで罪障消滅の功徳があるといわれているので、近隣在郷の住民がこぞって押し掛けた非常に華やいだにぎやかなものだったでしょう。その法会の導師には京都東岩蔵山(大日山)の観勝寺別当浄円が招聘されました。別名東岩蔵寺とも呼ばれた観勝寺(現廃寺)は、文永五年(1268)良胤が再興しました。良胤は字大円、岩蔵上人とも呼ばれ、藤原基輔の子で醍醐寺座主・東寺長者を歴任した大僧正実賢の弟子です。また源頼政裔ともいわれています。浄円は実名良季といい、建長三年(1251)生まれ没年不祥、初め京都池坊不断光院に住し、のち観勝寺に移ったというほかよくわかりません。...大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

  • 瑠璃山大福寺(2)ー浜松市北区三ヶ日町

    〇大中臣時定萩原龍夫は「伊勢神宮と仏教」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣所収)のなかで、大中臣時定の大福寺開基について、神宮と一般神社との同質化、神仏同体観が開基の論理だというようなことを述べています。正六位上大中臣時定は伊勢神宮により任官された神戸司です。任地に屋敷を構えていましたが、必ずしも常在していたわけではなく、代官を派遣していました。法名「定阿(弥陀仏)」といい、この名称は文治二年(1188)東大寺建立祈願のため伊勢神宮参詣を果たした俊乗坊重源の影響によるものでしょう。重源は真言宗醍醐寺で得度し、大峰・熊野などで修業し、また三度にわたり中国留学を遂げています。専修念仏の祖法然上人が、のちの天台座主顕真に招かれて催された京都大原での問答に、重源も弟子を伴い参加しています。したがって、法然の弟子でもありました...瑠璃山大福寺(2)ー浜松市北区三ヶ日町

  • 瑠璃山大福寺(1)ー浜松市北区三ヶ日町

    以下大福寺概略については高橋祐吉『浜名史論』、古文書等の資料は『静岡県史』を用いています。それ以外はその都度資料名を記します。所在地:浜松市北区三ヶ日町福長山号:瑠璃山本尊:薬師如来宗旨:古義真言宗本末:高野山末寺伝では本尊木造薬師如来は理趣仙人作で、参河国鳳来寺薬師と同木だと伝えます。大福寺が鳳来寺とつながりがあったのは確かですが、資料上鎌倉後期以降に現れるのみで、それ以前については不明です。さらに、寺伝によると開山は清和天王貞観十七年(875)三ヶ日町東北にある富幕山にあって幡教寺と称していた。承元元年浜名神戸(現三ヶ日町)荘司大中臣時定が先祖相伝の地北原御園荒野一処を施入し、寺門を建て仏像数体を安置し、明証阿闍梨を請じて住持としたのが始まりと伝えます。富幕山は浜名湖西に展開する弓張山系に属し、この山...瑠璃山大福寺(1)ー浜松市北区三ヶ日町

  • 鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

    strong>一第一アメナルヤ。ヤカリガナカナルヤ。ワレヒトノコ。サアレドモヤ。ヤカサガナカナルヤ。ワレヒトノコ。第二ミチノベノ。コダチハナヲ。フサヲリモツハ。タガコナルラン。第三トウタヲミ。ミナサノヤマノ。シイカヘタヲ。イマロモトル。第四イヨヨトゾ。イフキミガヨハ。チヨトゾイフ。ムラサキノオビヲタレテ。イザヤアソバム。第五オロノミヤノ。マエノヲラレズ。タレアラレムカ。カヨヘバゾツマモソロフ。第六オロノミヤノ。マヘノカハノゴト。カワノナガサ。イノチモナガリトミモシタマエ。第七ヤマカハニハ。ムマタシノトリマシヤ。コノヨニナガクヒツマコヒヤス。第八ヤマカハニ。タテルクロメスコメマサフクヤ。ヨキコニテヲトリカケテ。イザヤアソバム。第九ミナミナキトリバカリニゾアル。アラレフリ。シモヲクヨモ。ヨトモサダメズ。第十オ...鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

  • 金剛寺ー浜松市北区三ヶ日町

    金剛寺所在地浜松市北区三ヶ日町三ヶ日曹洞宗本寺愛知県宝飯郡伊奈東漸寺本尊地蔵菩薩創建寺伝文和二年(1353)浜名清政が近江国三井寺の僧を招聘し開創と伝えます。金剛寺を末寺とする東禅寺の本寺宇宙山乾坤院(愛知県東浦町)は、文明七年(1475)尾州緒川城主水野貞守が創建し、遠州一雲斎(現磐田市豊岡)川僧慧濟を勧請第一祖、実質開山はその法嗣逆翁宗順です。長享元年(1487)、そのたった一人の嗣法の弟子芝崗宗田に席を譲り、翌年逆翁は示寂しました。川僧慧斎は遠江国森大洞院如仲天誾法嗣真巌道空から法を受け近江国洞寿院住持を勤め、後遠州一雲斎を開き、能登総持寺住持にも就任した僧です。金剛寺開山の乾坤院四世享隠慶泉は芝崗宗田に嗣法しました。享隠慶泉は「金剛寺歴代統系図」で永正元年(1504)正月五日寂とありますが、『東浦...金剛寺ー浜松市北区三ヶ日町

  • 細江神社ー浜松市北区細江町

    浜松市北区細江町所在「細江神社」は、気賀七ケ村総産土神と言われます。主祭神は素戔嗚命です。また奇稲田姫命も同時に祀られています。創建年代は不祥ですが、明応八年(1499)の大津波により浜名湖糊口の神角避比古神社が流され、最初村櫛に漂着し、そこに御仮屋を建て、のち再び伊福郷吉部赤池に漂着しまた御仮屋を建てて祀りました。のち、永正七年(1510)あるいは天正二年(1574)八柱神社境内(現在地)に移遷したと伝えます。最初「牛頭天王社」でしたが、のち「細江神社」と改名されました。その時期は江戸時代前・中期を通じて旧名でしたが、末期天保年間には「細江神社」を名乗っています。細江町気賀七ケ村の総産土神です。牛頭天王については中国・朝鮮の牛頭山との関係などが考えられていますが、現在では日本独自の神だとする説が有力です...細江神社ー浜松市北区細江町

  • 浜名郡の式内社ー猪鼻湖神社

    奥浜名湖の歴史からすると、この神社は浜名湖南現湖西市新井町在とするものもあり、微妙です。新井町は古代猪鼻駅家があったので、その説が立てられたのですが、延喜式神名帳記載の並びからは現猪鼻湖の周辺にあったとしてよいでしょう。神社名は「猪鼻湖神社」ですので、ここでは」ありません。また、この並びから、大知波八幡宮(湖西市)に比定する説もありますが、ここは「猪鼻」地名はありません。やはり浜松市北区三ヶ日町内だと考えて間違いないでしょう。『引佐郡誌』は古老の話として、本社はその位置が海辺故、台風などにより何度か流され、創立及び再建の日時不明と言いますが、むしろ神社の原位置がわからないと言ったほうが正しいでしょう。『遠江国風土記伝』には、下尾奈村神明社が後進であるとし、迫戸(せと)明神と称したと述べています。社地は猪鼻...浜名郡の式内社ー猪鼻湖神社

  • 浜名郡の式内社ー英多神社

    式内英多神社は、写本のうち現存最古といわれる「高山寺本」での訓は「ヱタ」です。これが確認できる最古の訓となります。江戸時代寛政年間に書かれた内山真龍著『遠江風土記伝』は「アカタ」と訓じますが、これはおそらく他例からの類推と、なによりも大字三ヶ日にある惣社神明宮旧神官家縣氏の存在によっています。真龍の英多神社比定地はその神明宮で、縣氏旧記を引き、弥和と英多と両社を同地に祀ったと述べています。しかし何か特段の根拠があったわけではありません。「英田」という小字は、現在東名高速三ヶ日バス停のある付近大字岡本に残っています。同地の初生衣神社神主家でも、そのあたりを古くから「ヨウダ様」と呼んでいました。その小字英田の東の台地下の田が小字「陽田」です。つまり「アガタ」という名称はなく、平安末期から鎌倉初期以来「ヱタ」や...浜名郡の式内社ー英多神社

  • 浜名郡の式内社ー弥和山神社

    式内弥和山神社寛政風土記伝は「只木村神明宮、号弥和山、俗曰弥也山、檜山也」と述べています。しかしおそらく、逆で「ミヤ(宮)山」と呼んでいるのを「ミワ(弥和)山」と聞き違えたのだと思います。内山真龍は遠州各地を実地踏査した学者です。しかし、以前にも書きましたが、『日本三大実録』遠江国稲佐郡蟾渭神を式内渭伊神と間違えています。これは同時代に歴史的仮名遣いの研究が低調だったことも一因でした。蟾渭神は「ひきぬま」神と読みます。長上郡ひきぬま郷の神で、式内社に推薦されなかったか、天竜川の洪水で跡形もなくなったのでしょう。このほかにもいくつかの誤りを指摘できます。そこで、真龍の書は必ずしもすべて正しいわけではありません。話を「弥和山神社」に戻します。この神社の山容は三輪山型ではありません。山塊の一つが麓に降りてきた河...浜名郡の式内社ー弥和山神社

  • 遠江の後藤氏ー浜松市北区三ヶ日町

    【後藤氏】太田亮『姓氏家系大辞典』には「遠江後藤氏」は、後藤氏嫡流とする。後藤氏は源頼義の家臣で坂戸判官・後藤内と号した則明を元祖とし、類題河内源氏の家人でした。則明六代の孫基清は、承久の乱で長男基成とともに京方に味方しました。一方二男基綱は幕府軍に就き、結局敗れた父基清と兄基成を六条河原で自ら斬首しました。基清は猶子で、実父は佐藤仲清、同腹の兄は義清すなわち西行です。こうした関係から、基綱の家系は鎌倉幕府の評定衆・引付頭を務める武とともに歌の家系でした。遠江後藤氏の室町時代以前の系譜を正確にはたどることはできません。遠江の後藤氏は室町時代の文献上の初見は、文安年間(1444~49)成立した「文安年中御番帳」「二番後藤能登入道」です。また宝徳二年から享徳四年(1450~55)成立の「永享以来御番帳」(以上...遠江の後藤氏ー浜松市北区三ヶ日町

  • 縣氏系図ー浜松市北区三ヶ日町

    【縣氏系図の検所済浜松市北区三ヶ日町の旧家「縣氏には、①物部・穂積・采女氏の租とされる宇麻志麻遅命から始まる「縣家系図」参照;浜名史論所載改訂系図)と、②南北朝期には成立していたと思える「大中臣系図」(群書類従)に、大宮司大中臣茂生、その子祭主永頼(正暦二年<991>補任)五男岩崎大夫宣成、その長男散位成助六男佐実とあり、佐実に「遠江住」とあります。この佐実の子孫が三ヶ日町「縣氏」(百家系図稿所収、以下「英多神社祠官縣系図」)という二種類の系図があります。①縣氏については、高橋佑吉著『浜名史論』が①に対して検討を加えていて、「上古以来の旧族浜名縣主の子孫であり、鎌倉期浜名氏興起してより、その重臣として現れた」と述べています。しかし古代・中世を通じて現三ヶ日町「縣」名字は、諸史料に出てきません。高橋氏が同名...縣氏系図ー浜松市北区三ヶ日町

  • 都田御厨

    「都田御厨」は『兵範記』裏文書仁安二年(1167)八月「大中臣公宣申状」によれば「先祖三代の領地」であり、永保(1081)以前の成立と言われます。この時は在庁官人の濫訴により廃退したが、伊勢斎宮寮中院を造進するのは、神祇大副が受領を募って行うことが慣例であるとして、復活したといいます。公宣は父親が祭主大副従五位で、保延四年(1138)薨去ですが、実は系図上の公宣子伊勢守公隆の嫡子です。その公隆は公宣祖父公定弟大宮司公義二男といわれるように複雑な家系です。公宣は少副従五位下で、仁安(1166~69)造内宮使、建久(1190=99)造外宮使を務め文治四年(1188)に卒去しました。その三代前は祖祖父公兼で、第六十九代大宮司従五位下です。公兼は万寿元年(1024)十二月九日任翌年着任し、在任六ケ年でした。つまり...都田御厨

  • 井伊谷 渭伊神社と(正)八幡宮(1)

    辰巳和弘氏は平凡社刊『日本の地名静岡県』における「渭伊神社」の項は誤りで、事実は逆であると言います。『日本の地名静岡県』は、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神「八幡宮」が、享禄のころ、もともと現在地にあった「渭伊神社」の地に移遷してきたというものです。移遷時期はともかく、場所に関しては風土記伝ほか多くが同じ説です。辰巳氏が引用したのは「平井文書」だと言います。この文書は未見ですが、同説は「兵頭文書」・『井伊家伝記』も述べています。『日本の地名静岡県』は「山本文書」を参考にしていると考えられます。幕末から明治にかけて活躍した山本金木には「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」なる文書があります。それには「十二代将軍足利義晴の享禄(1528~1532),天文初メ(1532)八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ...井伊谷渭伊神社と(正)八幡宮(1)

  • 井伊氏系図ー築山殿=直平孫娘説

    「築山御前は井伊直平の外孫か」これについては黒田直樹氏が『井伊直虎の真実』で築山殿が直平娘の可能性がほとんどないことを証明していますが、いま異なる視点からこれを考えていきます。(ⅰ)『井伊年譜』の説『井伊年譜』を引いた煎本増夫著『幕藩体制成立史』の「家康と井伊氏は、築山殿を介在として姻戚関係」であったので、「この事情に通じていた家康有力家臣が、直政の抜擢を不満としなかった」とし、小和田氏もまた「おそらく、煎本氏の推論の通りであろう」と述べています。煎本増夫氏の論文に記載された『井伊年譜』とは、彦根藩士功刀君章が六代藩主井伊直惟の命により、それまで彦根藩で書かれた、井伊家の歴史を描いた諸書をまとめたものです。したがって、作成のための原資料は別にあったわけです。成立は享保十五年(一七三〇)で、奇しくも井伊谷で祖山和...井伊氏系図ー築山殿=直平孫娘説

  • 龍潭寺史参考文献

    (註)桂峰玄昌文叔と同じ悟渓宗頓を派祖とする東海派の一派である仁済宗恕の法を嗣いだ。玉浦宗珉住持後、妙心寺二十三世となり、退院後尾張瑞泉寺に住し、ここに示寂した。[参考文献]「井伊家遠州渋川村古跡事」『引佐町資料』第4集所収『五山禅僧傳記集成』玉村竹二著講談社一九八三年「明叔慶浚等諸僧法語雑録」(妙心寺派語録二)『瑞泉寺史』「香村書状」(記事諸余龍潭寺文書)『静岡県史資料編中世4』所収「国人領主井伊氏と戦国争乱」『西遠江の争乱』小和田哲男永正四年「井伊直平寄進状」(龍潭寺文書)『静岡県史資料編7中世三』静岡県編・刊平成四年「開山黙宗瑞淵大和尚行実」(龍潭寺所蔵)享和三年(一八〇三)僧某著同右所収『日本人の仏教史』五來重著角川書店平成元年「日本浄土教成立史の研究」『井上光貞著作集』第7巻岩波書店一九八五年『高野聖...龍潭寺史参考文献

  • 井伊谷龍潭寺史(5)-開山黙宗禅師伝

    「開山黙宗瑞淵伝」井伊谷龍潭寺所蔵「開山黙宗大和尚行実」は「往々拠旧記、不下敢以臆断妄有中増損上、其意無他」という姿勢で、享和三年(1803)に、「僧某」によって書かれたものです。多少の間違いはあるとしても、多くは龍潭寺そのほかの黙宗和尚在世時の資料を用いていて、その姿勢は評価に値すると言えるでしょう。「僧某」が誰かはわかりません。龍潭寺にとって、というより戦国期の井伊谷にとって、黙宗和尚は最も重要な人物の一人ですが、意外や、まともに取り上げた伝は管見の限りひとつだけです。たとえば、延宝八年(1680)当住徹叟著「萬松山龍潭寺草創之由来」では、寺宝の扇子にかけて、黙宗が美濃瑞龍寺に何年も参敲していたが、終に信濃松源寺において文叔と出会い、そのもとで修行得法し、帰郷後一禅刹を開き、開山第一祖に文叔を迎えた、という...井伊谷龍潭寺史(5)-開山黙宗禅師伝

  • 井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔

    長野県飯田市松尾の龍門寺所蔵「竜門開山再住妙心廿四世勅諡圓照真覚禅師文叔大和尚略伝」(以下「文叔略伝」と略す)によれば、文叔瑞郁(1467~1535)について、「遠州井伊谷城主直平、迎請主自浄院」とあります。文叔瑞郁の伝は、松源寺・龍潭寺に残っていますが、内容は大同小異であるといいます。井伊直平云々は、永正四年(1507)九月十五日付「井伊直平寄進状」2に関わるもので、寄進先は「龍泰寺」です。ところで、先の「文叔略伝」あるいは龍潭寺僧某の「黙宗大和尚行実」では、この寄進状の主井伊直平に請じられたのが「文叔和尚」であり、また和尚が居住したのは「自浄院」であったと書いています。龍泰寺ではありません。しかし、今この件については後回しにして、まず文叔和尚の来住について述べてみたいと思います。「文叔略伝」によれば、文叔瑞...井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔

  • 井伊谷龍潭寺史(2)ー八幡宮と御手洗の井<ⅱ>

    井伊直平が井料田三反寄進した「龍泰寺」も、どういった寺院であったのかは明らかではありませんが、妙心寺派でなかったことだけは確かでしょう。問題は、この寄進の対象は「龍泰寺」なのですが、その「井」を管掌していたのは、支院「某」(地蔵寺または自清院)であったのかどうかもまだわかりません。なにしろ、龍泰寺の規模が不明なのですから。私見では、この寄進は領主直平が、井伊氏出誕の象徴的な「井」の祭祀をおもねたことを意味するわけです。さらにこの永正以前、明応七年(1489)七月の大地震、また今川氏親の遠江侵攻により、文亀年間(1501=1504)斯波氏との戦いが浜名湖周辺を含む天竜川西所々で行われ、井伊氏も相当の打撃を被ったはずです。今川氏親が遠江を一応手に入れ、三河進攻に向かっていた数年の安息時に、この寄進が実施されたわけで...井伊谷龍潭寺史(2)ー八幡宮と御手洗の井<ⅱ>

  • 井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅰ>

    イ)「井伊八幡宮と八幡宮寺」八幡宮について語ることは、むしろ八幡宮寺について語ることと同義だと思っていてください。「阿弥陀如来伝記」(東光寺所伝・『遠州渋川古跡事』所引)です。これによると、東光寺阿弥陀如来は、平安時代中期藤原共資代に、細江湖中で夜光を放っていたのを拾い上げられ、井伊八幡宮社中に安置されました。応永年中(1394~1428)井伊匠作、藤原直秀霊夢を感じ、一宇を建ててこの地に勧請したというものです。また渋川八幡宮の棟札に、「応永三十一年(1424)霜月十三日奉修造八幡宮本地阿弥陀如来藤原直貞法井道賢」があり、同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、また応永三十二乙巳年年記銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」と...井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅰ>

  • 井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後

    至徳元年(一三八四)奥山六郎次郎朝藤が奥山に方広寺を開創し、無文元選を招請して開山始祖とします。無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇第六皇子で、母は昭慶門院と伝えますが正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二氏によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然盛んであったのですが、当時中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法...井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後

  • 井伊谷龍潭寺史(1)ー方広寺以前<ⅱ>

    【中尾寺・勝楽寺・明圓寺ほか】浜松市天竜区春野町大智寺所蔵「大般若波羅蜜多経」奥書に、引佐郡内の幾つかの寺院名が載っています。貞治二年(1363)から翌年に至る間ですが、井伊郷では「中尾寺」が出てきます。寺内の南谷宝聚坊、西谷月前坊などの子坊を持つ書写の道場でもありました。この寺の遺称地及び規模はわかりませんが、多少なりとも寺観を整えた寺であったと思います。祖山和尚筆「井伊系図」中、奥山朝清の子の寂佛に「太夫坊・中尾寺別当」とあり、所在地は不明ですが、奥山氏の檀那寺だった可能性があります。ただ史料に乏しく、詳細は不明です。ほかに細江「長楽寺」などの寺院が同書に記載されています。長楽寺は納骨や埋経の霊地です。刑部「光永禅寺」という禅寺も、五日三時理趣三昧道場とあるように、禅密兼修の道場です。同じく井伊谷「勝楽寺」...井伊谷龍潭寺史(1)ー方広寺以前<ⅱ>

  • 井伊谷龍潭寺史(1)-方広寺以前<ⅰ>

    龍潭寺についての歴史は、享保年間に書かれた祖山和尚の『井伊氏伝記』によれば、往古地蔵寺、のち自浄院、龍泰寺と改名され、永禄三年炎上ののち龍潭寺となったといいます。自浄院は井伊氏祖共保出誕のとき産湯の古跡と述べています。これが事実であれば、地蔵寺は「井伊氏系図」共保の十一世紀後半以前には既にあり、自浄院が十一世紀後半までに建てられたということになります。他方寛政三年(1791)に『遠江風土記伝』は元中二(1385)年八月十日井伊館で薨かった後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火の地であり、その法号冷湛殿を以て冷堪寺とした。のち荒廃していたのを、井伊直平・同直宗・直盛が黙宗禅師を懇請して自浄院に住せしめた。この地は井伊氏祖の香火のちでしたが、狭隘でしたので、天文年間(1532~1555)井伊信濃守直盛が龍泰寺に改め、禅師を...井伊谷龍潭寺史(1)-方広寺以前<ⅰ>

  • 遠江国引佐郡式内社(4)大煞神社(「さつ」の「れんが」無、以下同)

    『遠江国風土記伝』は御嶽山権現社が大煞神社旧地か、と書きます。禁足地で、里人は昔大蛇が住んでいて、多知須というと述べた。正保(1644~48)図牒には蛇王山とあります。その山麓に滝沢村があり、訓は太都佐で大日堂を祀る。これは神社が廃れて堂としたのか、と述べています。また滝沢村に洞窟があり容易にはいれず、尋常の地ではないことをにおわせています。つまり、御嶽山権現社と滝沢村大日堂と二つの候補(論社)をあげているのです。「御嶽」は修験の聖地大和国吉野の金のミタケからとったものです。この神社の谷を挟んで東3,4百メートルに奇岩重なるタチスの峰があります。ここからは遠く富士山も見え、三方原台地が一望できます。いわば、太陽祭祀の場でもあり、国見の場でもあります。「タチス」はおそらく古くは「タツサ」で、「龍佐」、「サ」は社あ...遠江国引佐郡式内社(4)大煞神社(「さつ」の「れんが」無、以下同)

  • 遠江国引佐郡式内社(3)蜂前神社

    『風土記伝』に「祝田村羽鳥大明神(二社坐)蜂前、祝田之旧名也、三代実録貞観八年遠江国鳥飼神授従五位下」とあります。刑部は五世紀中頃允恭天皇妃忍坂大中姫の御名代として設定されたとされます。御名代は在地首長の子弟が選ばれ、都に上り舎人・靫負・膳夫として一定期間勤めます。ただこの地がその時代に設置されたかどうかは不明です。また前身とされる鳥飼神=鳥飼部の設置も記紀では雄略期です。ただこのころ五世紀後半雄略天皇期には、人制による養鳥人が定められたとします。ちょうど、この地域を見下ろす東の台地上に、突然引佐郡最大全長55メートルの前方後円墳陣座ケ谷古墳が造られた時代に当たります。しかし、部民制にしても屯倉にしても、地方への普及は6世紀に入ってからです。この世紀の初めころには都田と祝田の境の川に近い谷あいに郷ケ平に前方後円...遠江国引佐郡式内社(3)蜂前神社

  • 遠江国引佐郡式内社(2)三宅神社・須部神社

    ②三宅神社『風土記伝』は井伊谷村二宮大明神とします。井伊谷城の東麓にあり、祭神は初め田道間守、のち宗良秦王を合祀したといいます。後者は別にして、三宅神社に田道間守を祀るのは珍しい例です。記紀に田道間守の伝承があり、天日鉾(新羅王子)の後で垂仁天皇の命で非時香菓」(ときじくのかくのみ)すなわち橘を探しに常世の国に行ったひとです。三宅連祖とあります。これと、新撰姓氏録などから逆に三宅神社の祭神を、国学の隆盛であった江戸時代に入って決めたのではないでしょうか。また現在地の比定も問題があります。「三宅」に関わる痕跡はこの井伊谷にはまったく存在しません。「三宅」はむしろ、辰巳和弘氏の言うように都田の旧名を「ミヤケダ」と考えれば、そこにあったとしたほうが良いでしょう。だとすれば、上都田の川前遺跡を見下ろす川西の独立小丘が候...遠江国引佐郡式内社(2)三宅神社・須部神社

  • 遠江国引佐郡の式内社(1)渭伊神社

    延喜式神明帳遠江国には「引佐郡六座並小」とあり、渭伊・乎豆・三宅・蜂前・須部・大煞(れんが無)格神社が記載されています。全体として比定を試みているのは寛政元(1780)年完成の『遠江国風土記伝』が早い例です。①渭伊神社井伊郷神宮寺村正八幡宮。これとは別に、南の他の中にある湧水を井大神として祀る。この井が地名の由来とします。三代実録、貞観八年十二月二十六日、従五位を授けられた「蟾渭神」もこの神だとします。この「蟾渭神」は渭伊神社の神ではありません。第一に、「蟾」は月(ニクヅキ)ではなく、虫偏ですので訓は「ヒキ」(ヒキガエルの意)、音は「セン」で「イ」ではありません。この「イ」は当時の発音では「ウィ」で、「伊」は「イ」で異なるもので、「渭伊」は「ウィイ」です。ところが、「渭」は「ウィ」ですので「渭伊」とは平安時代の...遠江国引佐郡の式内社(1)渭伊神社

  • 井伊氏系図問題点あれこれ(1) 井伊道政ー南北朝

    ①井伊道政・高顕親子(南北朝時代)歴史学者の小和田哲男氏は南北朝時代の井伊道政・高顕親子を幕末・明治に南朝重視の風潮から、もともと本流でないものが加筆されたものと述べています。南朝関係の書籍での初見は、宝永七年(1704)の書写本が残る『信濃宮伝』(大龍寺蔵)です。浜松市北区三ヶ日町の郷土史家高橋佑吉氏は「道政」を『信濃宮伝』『浪合記』などの俗書で作り上げた虚名としています。しかし、官務家である壬生家文書のなかに年未祥「為次書状」があります。それには遠州井伊輩が安堵綸旨と惣領高顕の申状を持参したとあります。古文書の専門家が「年次未詳であるが、消息と題する本巻物の中に南北朝期のものが含まれている」(静岡県史資料編6)と述べているので、その存在は間違いないでしょう。高顕がいれば父道政もいたでしょうし、「惣領」とあれ...井伊氏系図問題点あれこれ(1)井伊道政ー南北朝

  • 井伊氏系図ー貫名氏(3)ー三国氏説

    井伊氏は、宝賀寿男編『日本古代氏族集成』収録の「三国真人」・「北家藤原」・「南家藤原」各氏の項に記載されています。そのうち「三国真人」・「北家藤原」氏に記載の系図は、現在知られている「井伊氏」に関する最古の系譜伝承から採られたものです。これらはいずれも史料的根拠のない系図で、わたしは三者ともに偽作された部分を多く含んでいると思います。とくに「三国真人」「藤原南家」説は取り上げるに値しないできです。それらは、日蓮の徒による宗祖日蓮の系譜の追究がもたらしたもので、いわゆる「貫名氏系図」とも言われているものです。宗祖日蓮が、貫名氏の出身という伝承が流布され、とくに宗勢が拡大した室町時代以降に、その貫名氏のほか、その祖とされる井伊氏についての追究がなされたのです。とくに、「継体天皇裔氏族」の「三国真人」系図(以下宝賀三...井伊氏系図ー貫名氏(3)ー三国氏説

  • 井伊氏系図ー日親口伝(2)

    一)「竺雲等連略伝」白石虎月氏は、「竺雲和尚傳」を引いて、「康応元年(1389)生、不詳其本貫」を書きますが、夢想派同門の『臥雲日件録』という日記を残した瑞渓周鳳が、「送竺雲連蔵主東帰幷序」いう偈頌を残していて、そこに「竺雲丈人、将帰遠江」(『臥雲藁』)とあり、明らかに遠江の人であるのは確かです。地名(生地などにちなむ名前)も「遠江(えんこう)」といいます。瑞渓の詩に「蔵主」とあるので、『静岡県史』は、永享七年(1435)八月十一日の相国寺出世以前のものとします。しかし、『東福寺誌』は「京兆萬壽寺竺雲等連」と「竺雲和尚傳」に題していますので、これが永享初年(1429)頃ですが、これは五山出世の最初で、それ以前の応永末年(1428)に諸山摂津広厳寺に住しているので、これ以前の可能性があります。また「文明二年正月七...井伊氏系図ー日親口伝(2)

  • 井伊氏系図ー日親口伝(1)ー貫名氏(2)

    最初に断っておかなければならないのは、わたしは仏教信者でも、まして日蓮宗・法華宗の信徒でもありません。目的は「井伊氏系図」の真偽を判断することです。さて次に日蓮の素性を語った早い例であり、同時に井伊氏系譜についての史料上の初見である、鍋かむり日親上人の口伝について考えていきます。そのあとで、日蓮の徒による系譜を追っていきます。久遠上院日親が述べた井伊氏系譜は、同じころに唱えられていた三国説とは明らかに違っていて、しかもかなり整ったものでした。本来なら貫名氏について述べればすむところを、多くを井伊氏に割いています。誰か井伊氏に詳しい人物に聞いたのでしょう。ヒントは口伝の中にあります。『新撰長禄寛正記』寛正四年(1463)八月八日条に、法門流布の禁を破り罪科に処せられたが、この日室町将軍足利義政母勝鬘院逝去により大...井伊氏系図ー日親口伝(1)ー貫名氏(2)

  • 井伊氏系図ー貫名氏(1)

    井伊氏については中世後期の日親上人の口伝や近世大名系図などをもとに、藤原冬嗣の子良門の二男兵衛佐利世の子孫説や、日蓮の徒による三国氏説ほかがあります。しかし、鎌倉時代前後を含め、平安時代に遡る系図については疑わざるを得ないものがあることは、これまでも多くの人が指摘しています。そこで、なにが真実で、何が誤解なのかを考えて見たいと思います。静岡県史編者が康安元年(1361)か貞治元年(1362)のものとする「熊野山新宮造営料所」に、「貫名郷六十九石五升三合」、「井伊郷二十一石ニ斗一升二合」などが割り当てられましたが、これは、これらの地が国衙領であったからです。また、井伊氏は「井伊介」を名乗っています。これは朝廷によって叙任されたものではなく、国衙の「所」の「介」です。つまり井伊氏は鎌倉御家人以前は在庁官人でした。井...井伊氏系図ー貫名氏(1)

  • イナサの国(2)ー遠江国引佐郡

    イナサについて考えてみます。【肥前国稲佐神社】『日本三代実録』貞観三年(八六一)従五位下、仁和元年(885)には従五位上に昇った肥前国杵島郡「稲佐神社」があります。『大日本地名辞書』は稲佐神社を西彼杵郡悟真寺の項に載せ、「是は長崎の稲佐村の神にやあらん」としていますが、長崎の稲佐は豪族の名にちなむといい、もっと新しい地名です。長崎の稲佐山にあるのは淵神社です。同書が引く「筑前志摩郡今津寿福寺弘安三年旧記」に、権現は七歳の時五島に浄土会の観音として現れ、それより平戸の郡安満嶽の主持の権現、肥前後藤山御正体黒上法身権現となり、それよりイナサ大明神と現れ、竜王崎のかふめの島に留まります。今これを彦島といい、竜王崎より舟に乗せ、寺井の津より上がるという記事に続きます。これが杵島郡稲佐山神社のことです。竜王崎はこの神社の...イナサの国(2)ー遠江国引佐郡

  • イナサの国(1)ー浜松市北区旧引佐郡

    それでは「イナサ」とは何を意味するのでしょう。辰巳和弘氏のいうように「イナサ」は「イナ+サ」と考えられます。しかし意味は全く違います。「サ」については後で述べることにして、まず「イナ」について考えることにします。【イナ=稲説】永留久恵氏は対馬上県の「伊奈」鎮座の式内伊奈久比神社由緒(神社明細帳)を引用して、白鶴が稲穂をくわえ来てこれを落とした時、鶴は大歳神という稲作の神に変じ、稲穂を榎田に植えて神饌を得。これが対馬の稲作の初めで、それゆえ伊奈の地名の由来は稲からきていると述べています。永留は、伊奈の地そのものには稲作の遺跡はないが、隣の志多留には石包丁が出土し、榎田もここにあると言います。それから考えれば「伊奈久比とは稲喰であろう。それは、新穀の稲米を神(稲魂)に供える新嘗の古俗を思わせる。『延喜式』に伊奈久比...イナサの国(1)ー浜松市北区旧引佐郡

  • オロ(於呂)の神-龍蛇神(水神)の国「遠江」

    「筑前国風土記」逸文「怡土郡」条に、仲哀天皇に対し、ある男が「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日鉾の苗裔、五十跡手是なり」と答える記事があります。天日鉾は新羅の王子で、(『日本書紀』垂仁朝に来朝(『紀』)、では神代渡来(「播磨国風土記」))それゆえ「意呂山」は新羅にあることになります。岩波書店版古典全集『日本書紀』の本文上欄の註に、「朝鮮東南海岸の蔚山。新羅と高麗」三国時代の高句麗)との境の地方であるから高麗といったのである」とあり、「意呂山」は蔚山のこととしています。『三国史記』「雑志第四地理」によれば、蔚山は紀元五百年ころ新羅に帰属し、それ以前の小国名は于尸山(우러산ウロサン)です。これにたいして、鮎貝房之は神功紀摂政四十九年「意流村」(オルノスキ)も似た音で、百済王都所在地「尉禮」と日本音としても朝鮮音...オロ(於呂)の神-龍蛇神(水神)の国「遠江」

  • 最強のパワースポット イナサの神たち

    わたし自身はパワースポットなど全く関心ありません。しかし世間の人が言うようなものがそうであるなら、ここが最強でしょう。立須の峰・天白磐座遺跡・白岩水神社のトリオです。「立須」は式内「大煞」故地で、「煞」は殺と同義です。つまりこの神は寿命を司り、御神体は奇岩重々たる峰から「龍」です。これが里に下ると「蛇」になり、天白磐座に鎮座することになります。それはちょうど冬至の日の落ちる方角にあり、太陽の死(陰)を意味すると同時に生(陽)へ転換するいわば再生の地なのです。この磐座自体は陽神(男性器)ですが、ちょうどほぼ真北に白岩神社=うなぎ井戸があります。「う」は烏で黒を象徴し、方位で言えば北、象意は水、すべて陰に属します。しかし「なぎ」はサンスクリット「ナーガ」の転化、すなわち蛇です。蛇は陰陽五行では南を指します。つまりこ...最強のパワースポットイナサの神たち

  • 遠州は水の国、富士の国ではない

    静岡県は公的に「富士の国」と宣言していますが、西部遠江は「富士の国」ではありません。富士山は確かに所々で見えますが、東京・横浜あたりで見るのと大して変わりません。東京・横浜を富士と関連付けないのと同じく、旧遠江も「富士の国」と関係ありません。旧国名からは「水の国」といったほうが良いと思います。富士と関連付けられ個性を喪失していると思われることも多々あります。このブログは遠江の一部ですが、西部の西部を対象に「水」に関係する何気ない日常を取り上げていきたいと思っています。面白くも美しくもないでしょうが、気長に続けます。遠州は水の国、富士の国ではない

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、kagokatugiさんをフォローしませんか?

ハンドル名
kagokatugiさん
ブログタイトル
gooブログはじめました!
フォロー
gooブログはじめました!

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用