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  • 初生衣神社(2)ー御衣祭

    天長十年(826)編纂『令義解』、貞観十年(868)ころ編纂とされる『令衆解』など養老令の注釈書に、孟夏(陰暦四月)・季秋(陰暦九月)「神衣祭」が記載されています。前者に「謂伊勢神宮祭也。此神服部等、斎戒潔清、以参河赤引神調糸、織ーー作神衣、。又麻績連等、積麻以織敷和衣、以供神明、故曰神衣。」(後者ほぼ同じ)とあり、三河の赤引糸を用い神服部が神衣を織り、神に供えるという形が古くからあったことがわかります。奉祭対象は皇大神宮(内宮)と内宮別宮荒祭宮で、外宮は対象ではありません。それぞれ和妙(絹織物)と荒妙(麻織物)供進します。奉織は神服織機殿および神麻続機殿で行われます。竹内雅之「神衣奉献の意義」でこの記事を注釈とし、『日本書紀』持統六年(692)閏五月丁未(十三日)条「伊勢大神奏天皇曰、免伊勢国今年調役。...初生衣神社(2)ー御衣祭

  • 初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    浜松市北区三ヶ日町岡本にある神社である初生衣神社は祭神天棚ばた姫命です。高橋祐吉著『浜名史論』が述べるように、当社伝承の由来は「殆ど不信のもので恐く室町末期から江戸期に於いて」偽作されたものです。しかし「本社の社歴はこの疑問の記録文書に記載せられてあるより以上にその創始年代は古くその由緒は深嚴なるものがあると考えられる」と続けて述べているように、土地にまつわる歴史は確かに古いのですが、初生衣神社としての歴史は結構新しいものと考えられます。この神社社殿のすぐ側の字楠木遺跡から奈良時代の寺院瓦や同時代の祭祀具である土馬などが出土しています。鎌倉時代にはこの神社の真北に大福寺が創建されたように、確かに古い由緒のある土地ですが、この神社とは直接関係ありません。平安時代の十世紀康保四年(967)施行の「延喜式」記載...初生衣神社(1)のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

  • 浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

    浜名氏は中世浜名神戸(浜松市北区三ヶ日町)を苗字の地とする氏族です。この地に住み着いた年代は不明ですが、おそらく十一世紀後半に浜名神戸司が伊勢神宮により任命されたときに、その神戸支配のために現地に赴任した人々です。神戸司はときの神宮の最高位にいた大中臣氏の一族が任命されました。その大中臣氏の配下には内宮・外宮の祢宜の子息・親族や下級祠官がいましたが、そうした人々やその親族が浜名神戸にやってきたと考えられます。姓は大中臣・荒木田・渡会のほか源・平などさまざまです。やがてかれらのうちに実力を蓄えて「預所」として伊勢神宮から任命されるものがでてきました。その後継が浜名氏です。もともと武力をもって神戸支配の実務を請け負っていたので、鎌倉時代には将軍源頼朝に臣従し、預所兼御家人となりました。御家人としては在鎌倉が多...浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

  • 橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

    承和九年(842)天皇の皇位争いに敗れ、謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となった従五位下・但馬権守橘逸勢は、八月途中遠江国板築駅において病死しました。かれに隠れるように付き添っていた娘はそれを知り、出家し尼妙沖(妙長)となり、その地に草庵を作り菩提を弔っていました。しかし、やがて許され嘉祥三年(850)京に改葬され、正五位下を追贈され、尼妙長(妙沖)は仁寿三年(853)遠江国に剰田七町を与えられます。さらにのちに逸勢は文徳天皇より従四位下に叙されます。斉衡元年(854)怨霊として御霊会の対象となります。(以上日本文徳天皇実録・続日本後紀)その妙沖の草案があった場所が三ヶ日町本坂の橘逸勢神社であり、板築駅がその1キロ弱東の日比沢だといいます。まず妙沖草庵については、逸勢遺骨改葬のおりその場所に銅鏡を埋めたという...橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

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