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  • 悲惨な営巣

    悲惨な営巣

    この時期になるとキジバトが玄関先に巣をかけにきます。扉を開けて軒を見上げると、つがいのハトがじっとこちらを見つめます。小枝が散らばっています。しかし御存知のようにフンは異臭を放ち、病原菌をまき散らします。それでほうきで集められた枝を落とすのですが、翌日にはまた素知らぬ顔で枝を軒にかけています。こうして数か月にわたる戦争が始まるのです。悲惨な営巣

  • 遠江の後藤氏

    遠江の後藤氏

    【後藤氏】太田亮『姓氏家系大辞典』には「遠江後藤氏」は、後藤氏嫡流とする。後藤氏は源頼義の家臣で坂戸判官・後藤内と号した則明を元祖とし、類代河内源氏の家人でした。則明六代の孫基清は、承久の乱で長男基成とともに京方に味方しました。一方二男基綱は幕府軍に就き、結局敗れた父基清と兄基成を六条河原で自ら斬首しました。基清は猶子で、実父は佐藤仲清、同腹の兄は義清すなわち西行法師です。こうした関係から、基綱の家系は鎌倉幕府の評定衆・引付頭を務める武とともに歌の家系でした。ただ遠江後藤氏の室町時代以前の系譜を正確にはたどることはできません。遠江の後藤氏は室町時代における文献上の初見は、文安年間(1444~49)成立した「文安年中御番帳」「二番後藤能登入道」です。また宝徳二年から享徳四年(1450~55)成立の「永享以来...遠江の後藤氏

  • 井伊氏系図ー野辺氏との比較

    井伊氏系図ー野辺氏との比較

    井伊氏の初代を含みそれ以前の系譜は神話伝説的でり、おそらく鎌倉以後とくに室町時代に形を整えたものと推定されます。室町時代の15世紀代には藤原北家に出自を求める系図の原型ができています。ところがこれが固定的なものでなく藤原南家に出自を求める系図も存在します。そこで同じ平安時代以来在庁かんじんであり、井伊氏のように「介」という官職をもち、ほぼ確実に南家の出である「野辺氏」を取り上げます。『尊卑分脈』によれば、野辺氏は藤原南家乙麿流時理孫入江惟清弟入江権守清定の子太田権守宗清の子に野辺三郎宗直が出ます。これがおそらく野辺氏祖でしょう。生きた実年代は資料がなく確定できませんが、清定兄船越四郎太夫惟綱の孫岡部泰綱が『東鑑』文治三年(1187)三月条に記載され、ほか『平家物語』『曽我物語』にも出てきます。しかし他方入...井伊氏系図ー野辺氏との比較

  • 岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

    岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

    岩水寺は寺伝によると、延暦年間(782~806)創建、最初龍池院と称していましたが、のち般若院に名称が変わります。盛時三百六十坊の塔頭を数える大寺だったといいます。享徳三年(1454)根本中堂が再建され、現在の岩水寺となりました。直接寺の由緒に関係すると思われる遺跡に、寺東の勝栗山古墓軍があり、久安二年(1146)七月廿七日・廿八日に新所(湖西古窯址群)で焼かれた陶製五輪塔が出土しています。結縁者銘があり、伊勢神宮関係者が名を連ねています。また大門西には鎌倉・室町時代の蔵骨器が出土した泉墳墓群があります。つまり、このあたりは古くからの葬地でした。弔い・死体処理を行っていたのは聖でした。つまり岩水寺には受戒の僧のほかに大勢の聖また修験者(山伏)が住んでいたのです。これはおそらく近くに天竜川の渡りがあり、宿が...岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

  • 浜松市北区三ケ日町の中世墓

    浜松市北区三ケ日町の中世墓

    三ケ日町の中世の墓については、内山真龍著『遠江国風土記伝』が三ケ日町只木の「公家塚」を「橘逸勢」の墓と推定したのが、この地の古石塔に言及した最初でしょうか。その後1953年刊の『浜名史論』において、三ケ日の郷土史家高橋佑佶氏が同じ「公家塚」を「南朝方某公卿」の墓としましたが、のち「後醍醐天皇皇子尊良親王の一宮」の墓と訂正しました。他方小笠郡の郷土史家西郷藤八は公家塚周辺から採集された数枚の中国銭の年代から時代を室町中期、被葬者は従一位花山院長親であると推定しました。そして愛知県の古石塔の初期の研究家であり、考古学者でもあり、石工製作者でもあった岡崎市の池上年氏が三ケ日町の宇志瓦塔遺跡のレプリカを造ったのですが、三ケ日町の石塔調査には及びませんでした。この段階まではほとんど根拠のない文献資料からの推測にすぎ...浜松市北区三ケ日町の中世墓

  • 雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

    雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

    『浜名郡誌』によれば、現在の寺の名「龍泉寺」は慶長十九年(1614)徳川家康の命により改名したといいます。それ以前は洞巌山雲岩寺と号していたのです。明徳二年(1391)豊後国薦福寺(泉福寺)開山無著和尚の嫡子洞巌和尚が後ろの山に入り、石上に安座し、同四年近里の道俗協力して殿堂を建て、のち山を洞巌、寺を雲岩と称したのに始まったと伝えます。雲岩寺所在の赤佐は無文師の開いた方広寺の開基奥山氏の祖赤佐氏の本拠で、所領をのちに奥山氏が継いでいます。そうすると、雲岩寺開創には二つの要因が考えられます。直接的には九州探題今川了俊あるいは養子仲秋の招請、もう一つは間接的ですが無文師の影響ということになります。伝では如仲・無範等がその門に倚るといいます。如仲天誾は森町大洞院開山で、曹洞宗大本山総持寺の住持を二度勤めています...雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

  • 井伊谷八幡宮

    井伊谷八幡宮

    浜松市北区井伊谷所在の八幡宮は龍潭寺と渭伊神社との関係を抜きに語ることはできません。渭伊神社の由緒を記す案内板には、『井伊谷村誌』を引き八幡宮の現在地への移遷が江戸時代の享保年間(1716~36)あるいは南北朝期と言います。後者は全く根拠のない憶説で、前者は間違ってはいますが史料の読み違いによるものです。辰巳和弘は平凡社版『日本の地名静岡県』における「渭伊神社」の項の説明が誤りであって、事実は逆であると断言されました。簡単に説明しておくとこの項には、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神である「八幡宮」が、享禄のころもともと現在地に鎮座していた「渭伊神社」の地に移遷してきて、同じ地に両社が祀られたため、のちに混同されて「渭伊八幡宮」と呼ばれるようになったというものです。これに引用されたのは、幕末明治に生きた山本...井伊谷八幡宮

  • 奥山方広寺開山無文元選

    奥山方広寺開山無文元選

    至徳元年(1384)奥山六郎次郎朝藤が引佐郡奥山に方広寺を開創し、無文元選禅師を招請して開山始祖とします。無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇皇子で、母は昭慶門院と伝えますが、正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二『臨済宗史』(春秋社)によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然として盛んであったのですが、当時の中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、...奥山方広寺開山無文元選

  • 遠州安国寺金剛山貞永寺

    遠州安国寺金剛山貞永寺

    【遠州安国寺金剛山貞永寺】夢窓疎石が後醍醐天皇や南北朝の戦いの戦没者の菩提を弔うために、一国一寺一塔を建てることを将軍足利尊氏提案し、十四世紀半ばには一部を除きほとんどの国で実現したもので、寺のほうを安国寺と名づけられました。そのひとつ遠州安国寺とされたのが掛川市大坂(旧小笠郡大東町)金剛山貞永寺です。このお寺の開山についての詳細は本当のところよくわかっていません。寺伝ほかでは高峰顕日法嗣玉峰殊圭を開山とします。この僧に関する伝はほとんど伝わっていないので、詳細はあまりわかりません。玉村竹二著『臨済宗史』は高峰顕日の弟子の多くは法諱の系字として「妙」を用い、玉峰も「妙圭」を諱とするとします。また『禅学大辞典』も玉峰妙圭をとります。『豊鐘善鳴録』に南溟殊鵬が「京都万寿寺玉峰殊圭に参じ大悟」とあり、これが数少...遠州安国寺金剛山貞永寺

  • 凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

    凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

    浜松市北区三ヶ日町平山に中世存在した「凌苔庵」は悟渓宗頓禅師が開いたと伝承されています。しかしこれは全くの早とちりで、「悟渓」という道号であれば「宗頓」という諱が対応するという思い込みによるものです。『禅学大辞典』の法系図などをみると、「悟渓」という道号の僧はたとえば京都東福寺三聖門派だけで三人います。このうち悟渓宗頓と同時代なのは悟渓一鳳(別号悟栖)でしょうか。三ヶ日町は東福寺住持を勤めた仏海禅師一峰明一が同町大谷虎洞山高栖寺を開いたと伝え、一峰明一は三河吉良実相寺五世です。浜松荘は中世吉良氏の所領であり、吉良氏開基実相寺の弟子が住持する寺もあって、そうした関係で東福寺とも関係があり、むしろこの悟渓一鳳が平山悟渓の可能性が高いでしょう。また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があり...凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

  • 津和野町旅行記

    津和野町旅行記

    数少ない友人だった人から島根県鹿足郡津和野町の話はよく聞かされていました。一度は訪ねてみたいと思っていましたが、このたび鳥取・出雲・松江の旅行のついでに立ち寄りました。(1)「津和野城址」(三本松城)と乙女峠マリア堂太鼓谷稲荷神社の赤い鳥居の石段をくねくね折れ曲がりながら歩いて上り、上り切ったところに立派な社殿に¥がありました。そこから今来た階段とは違う車用の参詣道路を少し下ったところにリフトがあり、城のすぐ近くまでいくことができます。山頂に石垣だけ残っています。鎌倉時代に吉見氏による創建と伝えますが、実際には戦国時代ころに築かれたのでしょう。城主は吉見氏が戦国時代大内氏のち毛利氏に仕えましたが、江戸時代初め断絶します。その後坂崎出羽神直盛が城主となりますが、大阪夏の陣における徳川家康孫娘千姫に関わる事件...津和野町旅行記

  • 初生衣神社(1 )ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    初生衣神社(1 )ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    初生衣神社の御衣祭の起源を久寿三年(1156)とする由緒書がありますが、これは源頼政が「浜名郡岡本村之内伊勢神明為初衣領五町八反黄金壱枚銭拾八貫以焉永代買取令寄附畢」という久寿二年乙亥十一月付頼政寄進状によるといいます。荒唐無稽な話です。これが真実味をもつと地元で信じる人がいるのは、『平家物語』の頼政鵺退治の「鵺」地名の存在と、浜名氏祖先とする同物語の「猪鼻早太」の存在です。前者が戦国末から織豊期にかけて贄代から替えられた地名であり、後者は「井早太」ともいわれ、引佐郡井伊谷では井伊氏とみています。「早太」の「太」は太郎のように長子を指しているものだとすれば、「早」が字でしょう。そうすると渡辺党渡辺早が思い浮かびます。彼は頼政郎党であり、この氏族の元祖は遠江国焼風里と伝承されています。焼風里がどこかはわかり...初生衣神社(1)ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

  • 初生衣神社(2)ー御衣祭

    初生衣神社(2)ー御衣祭

    天長十年(826)編纂『令義解』、貞観十年(868)ころ編纂とされる『令衆解』など養老令の注釈書に、孟夏(陰暦四月)・季秋(陰暦九月)「神衣祭」が記載されています。前者に「謂伊勢神宮祭也。此神服部等、斎戒潔清、以参河赤引神調糸、織ーー作神衣、。又麻績連等、積麻以織敷和衣、以供神明、故曰神衣。」(後者ほぼ同じ)とあり、三河の赤引糸を用い神服部が神衣を織り、神に供えるという形が古くからあったことがわかります。奉祭対象は皇大神宮(内宮)と内宮別宮荒祭宮で、外宮は対象ではありません。それぞれ和妙(絹織物)と荒妙(麻織物)供進します。奉織は神服織機殿および神麻続機殿で行われます。竹内雅之「神衣奉献の意義」でこの記事を注釈とし、『日本書紀』持統六年(692)閏五月丁未(十三日)条「伊勢大神奏天皇曰、免伊勢国今年調役。...初生衣神社(2)ー御衣祭

  • 初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

    浜松市北区三ヶ日町岡本にある神社である初生衣神社は祭神天棚ばた姫命です。高橋祐吉著『浜名史論』が述べるように、当社伝承の由来は「殆ど不信のもので恐く室町末期から江戸期に於いて」偽作されたものです。しかし「本社の社歴はこの疑問の記録文書に記載せられてあるより以上にその創始年代は古くその由緒は深嚴なるものがあると考えられる」と続けて述べているように、土地にまつわる歴史は確かに古いのですが、初生衣神社としての歴史は結構新しいものと考えられます。この神社社殿のすぐ側の字楠木遺跡から奈良時代の寺院瓦や同時代の祭祀具である土馬などが出土しています。鎌倉時代にはこの神社の真北に大福寺が創建されたように、確かに古い由緒のある土地ですが、この神社とは直接関係ありません。平安時代の十世紀康保四年(967)施行の「延喜式」記載...初生衣神社(1)のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

  • 浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

    浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

    浜名氏は中世浜名神戸(浜松市北区三ヶ日町)を苗字の地とする氏族です。この地に住み着いた年代は不明ですが、おそらく十一世紀後半に浜名神戸司が伊勢神宮により任命されたときに、その神戸支配のために現地に赴任した人々です。神戸司はときの神宮の最高位にいた大中臣氏の一族が任命されました。その大中臣氏の配下には内宮・外宮の祢宜の子息・親族や下級祠官がいましたが、そうした人々やその親族が浜名神戸にやってきたと考えられます。姓は大中臣・荒木田・渡会のほか源・平などさまざまです。やがてかれらのうちに実力を蓄えて「預所」として伊勢神宮から任命されるものがでてきました。その後継が浜名氏です。もともと武力をもって神戸支配の実務を請け負っていたので、鎌倉時代には将軍源頼朝に臣従し、預所兼御家人となりました。御家人としては在鎌倉が多...浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

  • 橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

    橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

    承和九年(842)天皇の皇位争いに敗れ、謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となった従五位下・但馬権守橘逸勢は、八月途中遠江国板築駅において病死しました。かれに隠れるように付き添っていた娘はそれを知り、出家し尼妙沖(妙長)となり、その地に草庵を作り菩提を弔っていました。しかし、やがて許され嘉祥三年(850)京に改葬され、正五位下を追贈され、尼妙長(妙沖)は仁寿三年(853)遠江国に剰田七町を与えられます。さらにのちに逸勢は文徳天皇より従四位下に叙されます。斉衡元年(854)怨霊として御霊会の対象となります。(以上日本文徳天皇実録・続日本後紀)その妙沖の草案があった場所が三ヶ日町本坂の橘逸勢神社であり、板築駅がその1キロ弱東の日比沢だといいます。まず妙沖草庵については、逸勢遺骨改葬のおりその場所に銅鏡を埋めたという...橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

  • 大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

    大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

    応長元年(1311)十一月二十八日「大福寺御堂供養」が開催されました。第一日「大曼荼羅供」、二日目「御堂供養会」という式次第でした。前者は空海が修したもので、それを見るだけで罪障消滅の功徳があるといわれているので、近隣在郷の住民がこぞって押し掛けた非常に華やいだにぎやかなものだったでしょう。その法会の導師には京都東岩蔵山(大日山)の観勝寺別当浄円が招聘されました。別名東岩蔵寺とも呼ばれた観勝寺(現廃寺)は、文永五年(1268)良胤が再興しました。良胤は字大円、岩蔵上人とも呼ばれ、藤原基輔の子で醍醐寺座主・東寺長者を歴任した大僧正実賢の弟子です。また源頼政裔ともいわれています。浄円は実名良季といい、建長三年(1251)生まれ没年不祥、初め京都池坊不断光院に住し、のち観勝寺に移ったというほかよくわかりません。...大福寺(3)修験のネットワークー浜松市北区三ヶ日町

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    瑠璃山大福寺(2)ー浜松市北区三ヶ日町

    〇大中臣時定萩原龍夫は「伊勢神宮と仏教」(『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣所収)のなかで、大中臣時定の大福寺開基について、神宮と一般神社との同質化、神仏同体観が開基の論理だというようなことを述べています。正六位上大中臣時定は伊勢神宮により任官された神戸司です。任地に屋敷を構えていましたが、必ずしも常在していたわけではなく、代官を派遣していました。法名「定阿(弥陀仏)」といい、この名称は文治二年(1188)東大寺建立祈願のため伊勢神宮参詣を果たした俊乗坊重源の影響によるものでしょう。重源は真言宗醍醐寺で得度し、大峰・熊野などで修業し、また三度にわたり中国留学を遂げています。専修念仏の祖法然上人が、のちの天台座主顕真に招かれて催された京都大原での問答に、重源も弟子を伴い参加しています。したがって、法然の弟子でもありました...瑠璃山大福寺(2)ー浜松市北区三ヶ日町

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    瑠璃山大福寺(1)ー浜松市北区三ヶ日町

    以下大福寺概略については高橋祐吉『浜名史論』、古文書等の資料は『静岡県史』を用いています。それ以外はその都度資料名を記します。所在地:浜松市北区三ヶ日町福長山号:瑠璃山本尊:薬師如来宗旨:古義真言宗本末:高野山末寺伝では本尊木造薬師如来は理趣仙人作で、参河国鳳来寺薬師と同木だと伝えます。大福寺が鳳来寺とつながりがあったのは確かですが、資料上鎌倉後期以降に現れるのみで、それ以前については不明です。さらに、寺伝によると開山は清和天王貞観十七年(875)三ヶ日町東北にある富幕山にあって幡教寺と称していた。承元元年浜名神戸(現三ヶ日町)荘司大中臣時定が先祖相伝の地北原御園荒野一処を施入し、寺門を建て仏像数体を安置し、明証阿闍梨を請じて住持としたのが始まりと伝えます。富幕山は浜名湖西に展開する弓張山系に属し、この山...瑠璃山大福寺(1)ー浜松市北区三ヶ日町

  • 鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

    鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

    strong>一第一アメナルヤ。ヤカリガナカナルヤ。ワレヒトノコ。サアレドモヤ。ヤカサガナカナルヤ。ワレヒトノコ。第二ミチノベノ。コダチハナヲ。フサヲリモツハ。タガコナルラン。第三トウタヲミ。ミナサノヤマノ。シイカヘタヲ。イマロモトル。第四イヨヨトゾ。イフキミガヨハ。チヨトゾイフ。ムラサキノオビヲタレテ。イザヤアソバム。第五オロノミヤノ。マエノヲラレズ。タレアラレムカ。カヨヘバゾツマモソロフ。第六オロノミヤノ。マヘノカハノゴト。カワノナガサ。イノチモナガリトミモシタマエ。第七ヤマカハニハ。ムマタシノトリマシヤ。コノヨニナガクヒツマコヒヤス。第八ヤマカハニ。タテルクロメスコメマサフクヤ。ヨキコニテヲトリカケテ。イザヤアソバム。第九ミナミナキトリバカリニゾアル。アラレフリ。シモヲクヨモ。ヨトモサダメズ。第十オ...鳥名子舞の遠江の歌と「イナサ」の意味

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