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井伊氏については中世後期の日親上人の口伝や近世大名系図などをもとに、藤原冬嗣の子良門の二男兵衛佐利世の子孫説や、日蓮の徒による三国氏説ほかがあります。しかし、鎌倉時代前後を含め、平安時代に遡る系図については疑わざるを得ないものがあることは、これまでも多くの人が指摘しています。そこで、なにが真実で、何が誤解なのかを考えて見たいと思います。静岡県史編者が康安元年(1361)か貞治元年(1362)のものとする「熊野山新宮造営料所」に、「貫名郷六十九石五升三合」、「井伊郷二十一石ニ斗一升二合」などが割り当てられましたが、これは、これらの地が国衙領であったからです。また、井伊氏は「井伊介」を名乗っています。これは朝廷によって叙任されたものではなく、国衙の「所」の「介」です。つまり井伊氏は鎌倉御家人以前は在庁官人でした。井...井伊氏系図ー貫名氏(1)
最初に断っておかなければならないのは、わたしは仏教信者でも、まして日蓮宗・法華宗の信徒でもありません。目的は「井伊氏系図」の真偽を判断することです。さて次に日蓮の素性を語った早い例であり、同時に井伊氏系譜についての史料上の初見である、鍋かむり日親上人の口伝について考えていきます。そのあとで、日蓮の徒による系譜を追っていきます。久遠上院日親が述べた井伊氏系譜は、同じころに唱えられていた三国説とは明らかに違っていて、しかもかなり整ったものでした。本来なら貫名氏について述べればすむところを、多くを井伊氏に割いています。誰か井伊氏に詳しい人物に聞いたのでしょう。ヒントは口伝の中にあります。『新撰長禄寛正記』寛正四年(1463)八月八日条に、法門流布の禁を破り罪科に処せられたが、この日室町将軍足利義政母勝鬘院逝去により大...井伊氏系図ー日親口伝(1)ー貫名氏(2)
一)「竺雲等連略伝」白石虎月氏は、「竺雲和尚傳」を引いて、「康応元年(1389)生、不詳其本貫」を書きますが、夢想派同門の『臥雲日件録』という日記を残した瑞渓周鳳が、「送竺雲連蔵主東帰幷序」いう偈頌を残していて、そこに「竺雲丈人、将帰遠江」(『臥雲藁』)とあり、明らかに遠江の人であるのは確かです。地名(生地などにちなむ名前)も「遠江(えんこう)」といいます。瑞渓の詩に「蔵主」とあるので、『静岡県史』は、永享七年(1435)八月十一日の相国寺出世以前のものとします。しかし、『東福寺誌』は「京兆萬壽寺竺雲等連」と「竺雲和尚傳」に題していますので、これが永享初年(1429)頃ですが、これは五山出世の最初で、それ以前の応永末年(1428)に諸山摂津広厳寺に住しているので、これ以前の可能性があります。また「文明二年正月七...井伊氏系図ー日親口伝(2)
井伊氏は、宝賀寿男編『日本古代氏族集成』収録の「三国真人」・「北家藤原」・「南家藤原」各氏の項に記載されています。そのうち「三国真人」・「北家藤原」氏に記載の系図は、現在知られている「井伊氏」に関する最古の系譜伝承から採られたものです。これらはいずれも史料的根拠のない系図で、わたしは三者ともに偽作された部分を多く含んでいると思います。とくに「三国真人」「藤原南家」説は取り上げるに値しないできです。それらは、日蓮の徒による宗祖日蓮の系譜の追究がもたらしたもので、いわゆる「貫名氏系図」とも言われているものです。宗祖日蓮が、貫名氏の出身という伝承が流布され、とくに宗勢が拡大した室町時代以降に、その貫名氏のほか、その祖とされる井伊氏についての追究がなされたのです。とくに、「継体天皇裔氏族」の「三国真人」系図(以下宝賀三...井伊氏系図ー貫名氏(3)ー三国氏説
①井伊道政・高顕親子(南北朝時代)歴史学者の小和田哲男氏は南北朝時代の井伊道政・高顕親子を幕末・明治に南朝重視の風潮から、もともと本流でないものが加筆されたものと述べています。南朝関係の書籍での初見は、宝永七年(1704)の書写本が残る『信濃宮伝』(大龍寺蔵)です。浜松市北区三ヶ日町の郷土史家高橋佑吉氏は「道政」を『信濃宮伝』『浪合記』などの俗書で作り上げた虚名としています。しかし、官務家である壬生家文書のなかに年未祥「為次書状」があります。それには遠州井伊輩が安堵綸旨と惣領高顕の申状を持参したとあります。古文書の専門家が「年次未詳であるが、消息と題する本巻物の中に南北朝期のものが含まれている」(静岡県史資料編6)と述べているので、その存在は間違いないでしょう。高顕がいれば父道政もいたでしょうし、「惣領」とあれ...井伊氏系図問題点あれこれ(1)井伊道政ー南北朝