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龍潭寺についての歴史は、享保年間に書かれた祖山和尚の『井伊氏伝記』によれば、往古地蔵寺、のち自浄院、龍泰寺と改名され、永禄三年炎上ののち龍潭寺となったといいます。自浄院は井伊氏祖共保出誕のとき産湯の古跡と述べています。これが事実であれば、地蔵寺は「井伊氏系図」共保の十一世紀後半以前には既にあり、自浄院が十一世紀後半までに建てられたということになります。他方寛政三年(1791)に『遠江風土記伝』は元中二(1385)年八月十日井伊館で薨かった後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火の地であり、その法号冷湛殿を以て冷堪寺とした。のち荒廃していたのを、井伊直平・同直宗・直盛が黙宗禅師を懇請して自浄院に住せしめた。この地は井伊氏祖の香火のちでしたが、狭隘でしたので、天文年間(1532~1555)井伊信濃守直盛が龍泰寺に改め、禅師を...井伊谷龍潭寺史(1)-方広寺以前<ⅰ>
【中尾寺・勝楽寺・明圓寺ほか】浜松市天竜区春野町大智寺所蔵「大般若波羅蜜多経」奥書に、引佐郡内の幾つかの寺院名が載っています。貞治二年(1363)から翌年に至る間ですが、井伊郷では「中尾寺」が出てきます。寺内の南谷宝聚坊、西谷月前坊などの子坊を持つ書写の道場でもありました。この寺の遺称地及び規模はわかりませんが、多少なりとも寺観を整えた寺であったと思います。祖山和尚筆「井伊系図」中、奥山朝清の子の寂佛に「太夫坊・中尾寺別当」とあり、所在地は不明ですが、奥山氏の檀那寺だった可能性があります。ただ史料に乏しく、詳細は不明です。ほかに細江「長楽寺」などの寺院が同書に記載されています。長楽寺は納骨や埋経の霊地です。刑部「光永禅寺」という禅寺も、五日三時理趣三昧道場とあるように、禅密兼修の道場です。同じく井伊谷「勝楽寺」...井伊谷龍潭寺史(1)ー方広寺以前<ⅱ>
至徳元年(一三八四)奥山六郎次郎朝藤が奥山に方広寺を開創し、無文元選を招請して開山始祖とします。無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇第六皇子で、母は昭慶門院と伝えますが正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二氏によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然盛んであったのですが、当時中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法...井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後
イ)「井伊八幡宮と八幡宮寺」八幡宮について語ることは、むしろ八幡宮寺について語ることと同義だと思っていてください。「阿弥陀如来伝記」(東光寺所伝・『遠州渋川古跡事』所引)です。これによると、東光寺阿弥陀如来は、平安時代中期藤原共資代に、細江湖中で夜光を放っていたのを拾い上げられ、井伊八幡宮社中に安置されました。応永年中(1394~1428)井伊匠作、藤原直秀霊夢を感じ、一宇を建ててこの地に勧請したというものです。また渋川八幡宮の棟札に、「応永三十一年(1424)霜月十三日奉修造八幡宮本地阿弥陀如来藤原直貞法井道賢」があり、同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、また応永三十二乙巳年年記銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」と...井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅰ>
井伊直平が井料田三反寄進した「龍泰寺」も、どういった寺院であったのかは明らかではありませんが、妙心寺派でなかったことだけは確かでしょう。問題は、この寄進の対象は「龍泰寺」なのですが、その「井」を管掌していたのは、支院「某」(地蔵寺または自清院)であったのかどうかもまだわかりません。なにしろ、龍泰寺の規模が不明なのですから。私見では、この寄進は領主直平が、井伊氏出誕の象徴的な「井」の祭祀をおもねたことを意味するわけです。さらにこの永正以前、明応七年(1489)七月の大地震、また今川氏親の遠江侵攻により、文亀年間(1501=1504)斯波氏との戦いが浜名湖周辺を含む天竜川西所々で行われ、井伊氏も相当の打撃を被ったはずです。今川氏親が遠江を一応手に入れ、三河進攻に向かっていた数年の安息時に、この寄進が実施されたわけで...井伊谷龍潭寺史(2)ー八幡宮と御手洗の井<ⅱ>