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延喜式神明帳遠江国には「引佐郡六座並小」とあり、渭伊・乎豆・三宅・蜂前・須部・大煞(れんが無)格神社が記載されています。全体として比定を試みているのは寛政元(1780)年完成の『遠江国風土記伝』が早い例です。①渭伊神社井伊郷神宮寺村正八幡宮。これとは別に、南の他の中にある湧水を井大神として祀る。この井が地名の由来とします。三代実録、貞観八年十二月二十六日、従五位を授けられた「蟾渭神」もこの神だとします。この「蟾渭神」は渭伊神社の神ではありません。第一に、「蟾」は月(ニクヅキ)ではなく、虫偏ですので訓は「ヒキ」(ヒキガエルの意)、音は「セン」で「イ」ではありません。この「イ」は当時の発音では「ウィ」で、「伊」は「イ」で異なるもので、「渭伊」は「ウィイ」です。ところが、「渭」は「ウィ」ですので「渭伊」とは平安時代の...遠江国引佐郡の式内社(1)渭伊神社
②三宅神社『風土記伝』は井伊谷村二宮大明神とします。井伊谷城の東麓にあり、祭神は初め田道間守、のち宗良秦王を合祀したといいます。後者は別にして、三宅神社に田道間守を祀るのは珍しい例です。記紀に田道間守の伝承があり、天日鉾(新羅王子)の後で垂仁天皇の命で非時香菓」(ときじくのかくのみ)すなわち橘を探しに常世の国に行ったひとです。三宅連祖とあります。これと、新撰姓氏録などから逆に三宅神社の祭神を、国学の隆盛であった江戸時代に入って決めたのではないでしょうか。また現在地の比定も問題があります。「三宅」に関わる痕跡はこの井伊谷にはまったく存在しません。「三宅」はむしろ、辰巳和弘氏の言うように都田の旧名を「ミヤケダ」と考えれば、そこにあったとしたほうが良いでしょう。だとすれば、上都田の川前遺跡を見下ろす川西の独立小丘が候...遠江国引佐郡式内社(2)三宅神社・須部神社
『風土記伝』に「祝田村羽鳥大明神(二社坐)蜂前、祝田之旧名也、三代実録貞観八年遠江国鳥飼神授従五位下」とあります。刑部は五世紀中頃允恭天皇妃忍坂大中姫の御名代として設定されたとされます。御名代は在地首長の子弟が選ばれ、都に上り舎人・靫負・膳夫として一定期間勤めます。ただこの地がその時代に設置されたかどうかは不明です。また前身とされる鳥飼神=鳥飼部の設置も記紀では雄略期です。ただこのころ五世紀後半雄略天皇期には、人制による養鳥人が定められたとします。ちょうど、この地域を見下ろす東の台地上に、突然引佐郡最大全長55メートルの前方後円墳陣座ケ谷古墳が造られた時代に当たります。しかし、部民制にしても屯倉にしても、地方への普及は6世紀に入ってからです。この世紀の初めころには都田と祝田の境の川に近い谷あいに郷ケ平に前方後円...遠江国引佐郡式内社(3)蜂前神社
遠江国引佐郡式内社(4)大煞神社(「さつ」の「れんが」無、以下同)
『遠江国風土記伝』は御嶽山権現社が大煞神社旧地か、と書きます。禁足地で、里人は昔大蛇が住んでいて、多知須というと述べた。正保(1644~48)図牒には蛇王山とあります。その山麓に滝沢村があり、訓は太都佐で大日堂を祀る。これは神社が廃れて堂としたのか、と述べています。また滝沢村に洞窟があり容易にはいれず、尋常の地ではないことをにおわせています。つまり、御嶽山権現社と滝沢村大日堂と二つの候補(論社)をあげているのです。「御嶽」は修験の聖地大和国吉野の金のミタケからとったものです。この神社の谷を挟んで東3,4百メートルに奇岩重なるタチスの峰があります。ここからは遠く富士山も見え、三方原台地が一望できます。いわば、太陽祭祀の場でもあり、国見の場でもあります。「タチス」はおそらく古くは「タツサ」で、「龍佐」、「サ」は社あ...遠江国引佐郡式内社(4)大煞神社(「さつ」の「れんが」無、以下同)