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時には言葉をゆっくり味わう時間を持ってほしいですね。 本をたくさん読むのもいいで~大西寿男の言葉
にほんブログ村 もっと言葉を大切にして欲しい、、、。 ブログ訪問ありがとうございます。夢を実現させるために常にあなたと向き合っていくコーチング Tête à …
2021年12月に発売になった「三省堂国語辞典 第八版」から消えた言葉に、「MD」「コギャル」「スッチー」「企業戦士」などがあります。一方追加された言葉に「ソーシャルディスタンス」「人流」「黙食」「社畜」などがあります。言葉は生き物、時代を映す鏡です。 面
昨晩のこと、家内が例の栗を売ってたスーパーにまた行ってきました。 そしたら栗のパックが全部箱から出されて「バラ」で売られていたんだとかw。 油断のならないアタシたちみたいなのがいると売り方を直したのでしょうw。 狩りは獲物の方だって命懸けですw。 さて、前にお話したことですが、家内は味噌汁をアタシとは別に自分のタイミングでよそってくるようになりました。 そのタイミングは完全にご...
「感」を多用する人ほど「感受性」が鈍い|「~感を感じる」という重言に何ら抵抗がないヘボライターは自害せよ
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
本当に「言葉の変化」を無批判に肯定して良いのか。「言葉の変化」を全肯定する人が多数を占める日本というのは好ましいのか。私はもちろん好ましくないという意見を持っている。変化を良きものとできたのはひとえに「ラッキー」だったからだ。
「言葉は時代に応じて変える」という堤防破壊行為は占領状態を更に強固にする恐れがある。「言葉は時代に応じて変えて構わない」というのを国防の立場から観れば「空想的平和主義」の色合いが濃い。その理由は「言語が持つ三つの性質」を知れば容易に導き出せる。では、その「言語が持つ三つの性質」とは何なのか。
商品レビューかブログ記事は忘れたが「多少少ない」と書いている人がいた。何がなんだかさっぱりわからない状態だ。文意を汲み取らないお前が悪いと反論するのも結構だが、この稚拙さにも苦言を呈してもらいたい。
当の水島氏はたまたま観た討論番組内で「意外と」を連発していた。その討論番組は「意外と、が嫌い発言」の約十一年前だが、上島氏も参加している。その時の上島氏はどんな気持だったのだろうか。やるせない。水島氏は今でも「意外と」のおかしさに気付いていない様子だ。
私は自虐史観に否定的だし外国人参政権や移民にも反対の立場だ。ではどこが「反日」なのか。言語をないがしろにしている日本人や日本社会を批判しているところが「反日」なのだ。
「リベンジの誤用を擁護するお前たちを焼き殺してリベンジしてやる」と言っても罪に問われない理由
語義が多数派により置き換えられるという現象は相対化を経て新たに語義が絶対化されることを意味する。つまり、語義の変化は「相対化の絶対化」を繰り返し行う運動というわけだ。「いや、リベンジの語義を拡張しているのだから制圧じゃないだろ」「復讐、仇討、怨恨の意味も残しているのだから寧ろ合理的だろ」と考える人もいるだろう。だが、
言霊言霊 [社会・政治・時事] 私のアメブロの詩を朗読しました。ちなみに詩はフィクションです。アメブロ「とりあえず詩集という...nico.mshttps:…
もし、保育所・幼稚園で保育士や教諭が「ワンオペ」と言っていたらどうだろう。良い気分にならないのが親として真っ当な心理なはず。その一方で、我が子との暮らしを「ワンオペ」と言ってのける親がいる。あなたがどう思うか訊きたいところだ。もし「ワンオペ」と言い放つ保育士や教諭に不快感を抱きながら、自身が「ワンオペ育児」と
「普通においしい」「普通におもしろい」「普通にかわいい」などの言い回しは、田舎の小中学生のセンスに似ている。自転車にアッパーハンドルやバイクのフロントカウルなど、何でもかんでも好き放題に取り付けて喜ぶような。アホである。私も似たようなことをしていたので、未熟な彼らにはまだ可愛げを感じる。「普通に~」も不適合なパーツと同じ。
「言葉を変えて何が悪い」とぬかすバカへ告ぐ。不完全なくせにこれ以上自由を望むな
既存の語義と用法で申し分ないほど自由な表現が可能にも関わらず、更なる自由と制限の解除を求める。これは人間に高い理性が「恒常的」にあるという条件を必要とする。しかし、そんなものは二千年以上前に否定されている。条件は満たされない。飽きっぽいから定義や基準を変えたがる。恒常的に高い理性を保てない奴らには土台無理な話だ。
「普通においしいはOKだよ♡」平野啓一郎の正体は二枚目気取りの三枚目
平野啓一郎よ。各々が語義や用法をいじくり回して変化させるという多様性をお前は支持している。ならば「普遍」「普通」なるものにズレが生じ多様性に富むことを認めたことになる。では「普遍的に通じる」という論理は否定されるのではないのか?お前は、頭の中がバランバランに分裂した統合失調なのだ。
褒め言葉として「クソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい
言語の観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも寛容でも無い。不寛容で古臭いと呼ばれるべきなのは本来そいつらである。何故なら「大衆の気分で選んだ価値判断は失敗だらけだった」という例を現代人は沢山知るっているはずだからだ。もし、それを知らないならば情報化社会に生きている現代人とは言えないただのパッパラパーである。
前項で例に出した表現に共通するのは、内(思考)と外(言葉)がバラバラな状態ということ。内と外がバラバラな状態を続けているとどうなるか。「徐々に無思考へと至る」のだ。「女子力」と「草」は既に「思考を放棄している域」に達している「無思考状態」なので救いようがない。まさに「一億総ボケ社会」だ。まったく、日本人は「再考」だぜ!!
言葉の正誤や好ましい表現について語る媒体は沢山あるだろう。しかし、当ブログと決定的な違いがある。それは「六つの視点」を持
日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。ただ言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる
俯瞰的な視点を持ち平衡感覚があると自負しているインテリ気取りの人間ですら「言葉は変化するんだ!」「言葉は生き物なんだ!」といった主張をするので、その時期は憤りすら感じていたものだ。だが、ようやく自分なりの論理を得たので言語化できるようになり、ブログで発信しようと思い立ったのである
「言葉は変化して構わない」と信じて疑わない人が気付かない矛盾
「言葉をできるだけ保守せよ」と主張する私に対して「言葉は変化して構わない」と反発されることが多い。ただ、ここで一つの疑問に突き当たる。