「言葉に関する性善説」によって「ネトウヨプロパガンダ」を放置してきたことが「ネトウヨという架空の存在」をデッチ上げた。河野太郎の「ネトウヨ呼ばわり」は、世間によってデッチ上げられた「架空の存在」を刷り込まれていることに他ならない。
国防の観点から「鋭敏な言語感覚」の重要性を訴える。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。
国民よ、ネトウヨ呼ばわり河野太郎批判するなら語義に無頓着な己を恥じて絶滅を受け入れよ
「言葉に関する性善説」によって「ネトウヨプロパガンダ」を放置してきたことが「ネトウヨという架空の存在」をデッチ上げた。河野太郎の「ネトウヨ呼ばわり」は、世間によってデッチ上げられた「架空の存在」を刷り込まれていることに他ならない。
可能性の誤用からカンタンに脱却する方法|可能性の多用は無自覚な暴言である
テレビ/ラジオ/新聞/ウェブサイトなどの「可能性」の用い方には首を傾げることが多い。 疑わしいことにも「可能性」危険な対
「民主主義」という宗教|ザイム真理教は分派に過ぎない|民主主義に埋め込まれた三つの爆弾
「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている。それは非常に喜ばしいことだ。この点においては森永卓郎氏に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい。ただし、私はこうも申し上げたい。「ザイム真理教」は派生宗教でしかないと。何故なら、民主主義そのものが宗教だからだ。派生宗教はカルト化するのが常。
「民主主義」という宗教|ザイム真理教は分派に過ぎない|民主主義に埋め込まれた三つの爆弾
民主主義は最良の制度であるという不可解な教義 [jin-yohaku50] 「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている
ラサール石井よ「インボイス制度導入」は身から出た錆だと自覚しろ
「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
殺害予告が犯罪ではなくなる日|言葉は時代の気分で変化するという観念の落とし穴
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
コスパは「PB」に殺された|コスパという用語が信頼をなくした原因|撲滅のすゝめ
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
私がキチガイと揶揄される理由。そしてブチ殺してやろうかと言いたくなる理由
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
国民がマヌケなほど「語彙力」が増える|「語彙力」は悪質な概念詐欺
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「感」を多用する人ほど「感受性」が鈍い|「~感を感じる」という重言に何ら抵抗がないヘボライターは自害せよ
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
あなたは関係を進展させたいと思っている女性と話していてこう感じたことはないだろうか。「言葉の意味を間違ってるんだけどな」「その意見はちょっとおかしい」。受け流すのも一つの手だ。だが、どうしても訂正したくなったり、反論したくなったりすることもあるだろう。そんなときには次の方法を試してみてほしい。
本気で身体作りに励む男性は知っている。筋肉を増やすことがいかに大変か。女性となるとその大変さが跳ね上がることも理解している。身体作りに励む男性の全てとは言わないが、生活リズムや食事に気を使っている。暴飲暴食もしない。アルコールに溺れない。遊興にも関心が薄い。どうせ寄ってくるならまっとうな生活を心掛けている男性のほうが良いに決まっている。
あなたは目上の人に対してこんな返答をしていないだろうか。「していない」と思っている人でも、よく自分を観察してほしい。つい「あ」と入れてしまっているかも知れない。この「あ」は、潜在的な謙虚さや向学心からくるのかも知れないが、目上の人の印象は悪く「頼りない」というマイナス点しか残らない。
今回は「テンション」の誤訳・誤用について持論を述べたい。 話は日本国憲法や主権にまで広がるが、全て繋がっている。 誤訳に
「保守派ではない」と表明する三橋貴明氏にあえて申し上げたい。言語も「保守」の対象に含めよ
三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。日常会話でやたら言葉に定義にこだわるやつ嫌でしょ。この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。しかし私は、ここに合成の誤謬の
「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。笑ったことを意味しているなんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。
語義用法変化肯定論者はよく「道具」という認識で言語を扱う。その認識は「道具は使いよう」という粗雑な方向に進みやすい。実際、気紛れで無自覚に語義や用法を変えてしまう奴らは、好ましい言葉選びを提案した私のような者に「道具は使いようだ」と対抗する。その裏にはこんな感情がある。
今回は「女子力」なる謎の言葉について。もしあなたが、このあまりにも抽象的な言葉に疑問を持たないなら気を付けたほうが良い。男性からはいずれ粗末に扱われることになりかねない。
あなたは「てかつか病」かも知れない。「てかつか病」とはすぐ「てか」「つか」などの言葉を頭に付けてしまうことだ。一度患ったらなかなか治らない「てかつか病」について解説する。対処法も書いておこう。
【気軽に転載してください】「言葉は時代で変わる論者」「言葉は生き物信者」の正体・実態のまとめ
当ブログで主張している考えをまとめた。もし、好ましい表現の提供に対して「言葉は時代で変わる」「言葉の本質は変化」「言葉は生き物」などと見苦しく反論する人間がいれば、積極的に転載してほしい。文言の細部はあなたの性格に合わせて修正していただきたい(例:奴→人)今後の日本を楽観視し、言語を蔑ろにする輩に反撃しよう。
「個人的保守」と「国家的保守」の両方を持っている人もいれば、そうでない人もいる。核武装と原発再稼働に反対する人は、これらを「個人的保守」の視点から論じている。「何となく怖い」「軍事国家になるみたいで嫌」「だから今のままが良い」といった近視眼的かつ情緒的な側面から価値判断をしているのだ。
本当に「言葉の変化」を無批判に肯定して良いのか。「言葉の変化」を全肯定する人が多数を占める日本というのは好ましいのか。私はもちろん好ましくないという意見を持っている。変化を良きものとできたのはひとえに「ラッキー」だったからだ。
「がっつり」この言葉が下品だと気付かない女性が何故か多い。バカ製造機のテレビや雑誌、軽薄な情報サイトなどからの影響を受けているのだろう。
「じゃね?」「くね?」とやたら遣う人間に対し私はこう呼んでいる。「じゃねくね」族と。
世の男性を見ていて「もったいない」「惜しい」と思う言葉遣いが少なくない。そのひとつが「とか」を付ける癖。「えっ何かマズいの?」と思った男性は要注意。「とか」にどんなマイナス面があるのか、また「とか」をやめることで女性にどんな印象を与えるのかを解説する。
「言葉は時代に応じて変える」という堤防破壊行為は占領状態を更に強固にする恐れがある。「言葉は時代に応じて変えて構わない」というのを国防の立場から観れば「空想的平和主義」の色合いが濃い。その理由は「言語が持つ三つの性質」を知れば容易に導き出せる。では、その「言語が持つ三つの性質」とは何なのか。
結局のところ「最強」を掲げるのは、アクセスアップや収益アップという個人的かつ利己的な目的なのだろう。まことに陳腐である。
「神~」をやたら遣う奴らを見ていてつくづく思う。「オナニー/自慰」だなと。「神回」「神曲」「神対応」などと発言することで、脳内から快感物質でも出ているのだろう。「神」でオナニーをしているというわけだ。これぞまさに「神オナニー」。ところ構わず「神~」を連呼し自慰に耽り絶頂する。これでは猿と大差ない。「神オナニー猿」とでも言っておこう。
【衝突語】「難易度が高い」高いのは難しさ?易しさ?一体どっちなのさ
「ご安全に」なる言葉がある。これは、製造業・建設業の現場での安全意識高揚のために掛け合う言葉だ。だが、この「ご安全に」は世間全体に浸透していない。あくまでも「製造・建設界隈」でキッチリ収まっている言葉である。他方「難易度」や「課金」は「ゲーム界隈」のみならず広い分野に浸透し、世間で当たり前の表現としてのさばっている。
逆説的だが「核兵器廃絶」という主張には「核兵器保有」の前提が必要なのだ。「発言の効力」がなければ「なんちゃって」で終わるだけだ。核兵器を持たない国が核兵器廃絶を訴えても「内政干渉」と一蹴されるのがオチ。だが、核兵器を持っている国が核兵器廃絶を訴えるのは一応筋が通る。
習うより慣れろという訓は、まさにプラグマティズム、実践の中にあるのだからそれで話は終わり、とするのが、あるべき大人の態度なのかも知れない。それでも私は拭い去れない。「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と。
くだんの人は「響け! ユーフォニアム」がベッドの下に隠すべきモノなのに、勉強机の上に置いているとはケシカラン!と怒り「白ポスト」に投げ込みたいのだろう。危機意識そのものは私に近い。私は「時代の気分で言葉と遣い方を変えようが構わない」という意見に対して危機意識を持っている。とは言え「響け! ユーフォニアム」を「白ポスト」
もし、保育所・幼稚園で保育士や教諭が「ワンオペ」と言っていたらどうだろう。良い気分にならないのが親として真っ当な心理なはず。その一方で、我が子との暮らしを「ワンオペ」と言ってのける親がいる。あなたがどう思うか訊きたいところだ。もし「ワンオペ」と言い放つ保育士や教諭に不快感を抱きながら、自身が「ワンオペ育児」と
「普通においしい」「普通におもしろい」「普通にかわいい」などの言い回しは、田舎の小中学生のセンスに似ている。自転車にアッパーハンドルやバイクのフロントカウルなど、何でもかんでも好き放題に取り付けて喜ぶような。アホである。私も似たようなことをしていたので、未熟な彼らにはまだ可愛げを感じる。「普通に~」も不適合なパーツと同じ。
「言葉を変えて何が悪い」とぬかすバカへ告ぐ。不完全なくせにこれ以上自由を望むな
既存の語義と用法で申し分ないほど自由な表現が可能にも関わらず、更なる自由と制限の解除を求める。これは人間に高い理性が「恒常的」にあるという条件を必要とする。しかし、そんなものは二千年以上前に否定されている。条件は満たされない。飽きっぽいから定義や基準を変えたがる。恒常的に高い理性を保てない奴らには土台無理な話だ。
「普通においしいはOKだよ♡」平野啓一郎の正体は二枚目気取りの三枚目
平野啓一郎よ。各々が語義や用法をいじくり回して変化させるという多様性をお前は支持している。ならば「普遍」「普通」なるものにズレが生じ多様性に富むことを認めたことになる。では「普遍的に通じる」という論理は否定されるのではないのか?お前は、頭の中がバランバランに分裂した統合失調なのだ。
大手新聞社やテレビ局といった企業、個人ブログ、まとめブログなどへ意見を届けた。しかし、その殆どが提案を受け入れることなく現在も活動している。防犯の知識を悪用した「可能性」の誤用に関しては惨敗だ。よって「実績」とは言い難い。私が不適切と感じる表現はこの他に多数ある。随時更新していくつもりだ。
「防犯」大切ですよ!「対策」重要ですよ!「防犯」と「対策」共に強調したいので「防犯対策」になってしまうのだ。これを親切心や配慮と捉えたあなたはすっかりコントロールされている。企業や組織が「対策」を付けたがるのは「お前らはバカだ」ということの裏返し。「防犯」だけでは注意喚起として弱いと判断しなければ
目下のイベントにしか興味がないソーシャルゲームのアホプレイヤー共が「納金」の対義語であるはずの「課金」で上書きセーブをやらかしている。その上書きセーブのデータは各分野でコピーされ世間に蔓延した。その蔓延ぶりは手の付けられないところまできており、愛国心の塊のような桜井誠氏でさえ「納金」のことを「課金」と言っている始末。
前項で例に出した表現に共通するのは、内(思考)と外(言葉)がバラバラな状態ということ。内と外がバラバラな状態を続けているとどうなるか。「徐々に無思考へと至る」のだ。「女子力」と「草」は既に「思考を放棄している域」に達している「無思考状態」なので救いようがない。まさに「一億総ボケ社会」だ。まったく、日本人は「再考」だぜ!!
「人類が携えるべき七教訓」なる大それた記事を投稿する。 タネを明かすと私が考えたのではない。 古今東西の先人が残した教訓
「親日韓国人」という腰抜け|「~ですが何か?」と尋ねるお前は何様だ
「親日韓国人」と称する人間がいる。今回はその彼についての印象論だ。 印象論なので全体像は知らない。知る気もない。 [ji
当の水島氏はたまたま観た討論番組内で「意外と」を連発していた。その討論番組は「意外と、が嫌い発言」の約十一年前だが、上島氏も参加している。その時の上島氏はどんな気持だったのだろうか。やるせない。水島氏は今でも「意外と」のおかしさに気付いていない様子だ。
「言葉は変化して構わない」と信じて疑わない人が気付かない矛盾
「言葉をできるだけ保守せよ」と主張する私に対して「言葉は変化して構わない」と反発されることが多い。ただ、ここで一つの疑問に突き当たる。
日本は大東亜戦争に敗北し、すぐさま米国によるショック・ドクトリンが施された。その結果、日本社会に浸透したのは個人主義や空想的平和主義や自虐史観である。これこそ進歩的で文化水準が高いと言わんばかりに。この言論を仮に「属国パラダイム」と名付けよう。インターネットの普及で、その「属国パラダイム」の胡散臭さに気付き反発する動きが活発になった。日本が正常なパラダイムや言論を取り戻す、至極当然の現象に見えるのは私だけではないだろう。「属国パラダイム」の胡散臭さに気付く割合がインターネットの普及に比例するならば、言論が多発するのも必然というもの。
こうやって書き出すと私も話し言葉では時折やらかしてしまう。だが、ブログ記事ではかなり慎重にチェックしている。と言いつつも、数カ月後に気付くこともあるのでやっかいだ。
商品レビューかブログ記事は忘れたが「多少少ない」と書いている人がいた。何がなんだかさっぱりわからない状態だ。文意を汲み取らないお前が悪いと反論するのも結構だが、この稚拙さにも苦言を呈してもらいたい。
私は自虐史観に否定的だし外国人参政権や移民にも反対の立場だ。ではどこが「反日」なのか。言語をないがしろにしている日本人や日本社会を批判しているところが「反日」なのだ。
確かに「かわいいは引力」よりも「かわいいは正義」の方が言葉としての面白みはあるが、見聞きする度にやはり「正義」と形容するのはおかしいなと感じてしまう。因みに的確な表現だなと私が思うのは「差別の当たり屋」と「パチンカス」だ。
俯瞰的な視点を持ち平衡感覚があると自負しているインテリ気取りの人間ですら「言葉は変化するんだ!」「言葉は生き物なんだ!」といった主張をするので、その時期は憤りすら感じていたものだ。だが、ようやく自分なりの論理を得たので言語化できるようになり、ブログで発信しようと思い立ったのである
日本人よ、気概があるなら社会を食い荒らす「自称フェミニスト」なる害虫を駆除せよ
言語について書きたいことは山ほどあるのだが今回もブログの主旨と少し逸れた「身体性を無視し社会を食い荒らす害虫」である「自
よく「新年明けましておめでとう」という表現を見聞きする。これ書いているのは一月七日だが、改めて変な表現だなと感じた。変な表現の原因は「新年」の部分である。では、その理由について書いていこう。
日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。ただ言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる
「人権屋」よ、小山田圭吾をなぶり殺しにして己の不始末にケリをつけろ
小山田はお約束通り「人権」の面から人権屋のみならず多くの国民から批判と非難を浴びた。その「人権」という綺麗事を押し通してきたことこそ、小山田のようなふざけた奴を生み出す一因であることは誰も指摘しない。つまり「人権」なる嘘くさい理想主義に染まりきってしまった者全員が「障害者生殺し予備軍」になる恐れがあるのだ。
「リベンジの誤用を擁護するお前たちを焼き殺してリベンジしてやる」と言っても罪に問われない理由
語義が多数派により置き換えられるという現象は相対化を経て新たに語義が絶対化されることを意味する。つまり、語義の変化は「相対化の絶対化」を繰り返し行う運動というわけだ。「いや、リベンジの語義を拡張しているのだから制圧じゃないだろ」「復讐、仇討、怨恨の意味も残しているのだから寧ろ合理的だろ」と考える人もいるだろう。だが、
褒め言葉として「クソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい
言語の観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも寛容でも無い。不寛容で古臭いと呼ばれるべきなのは本来そいつらである。何故なら「大衆の気分で選んだ価値判断は失敗だらけだった」という例を現代人は沢山知るっているはずだからだ。もし、それを知らないならば情報化社会に生きている現代人とは言えないただのパッパラパーである。
言葉の正誤や好ましい表現について語る媒体は沢山あるだろう。しかし、当ブログと決定的な違いがある。それは「六つの視点」を持
漸く適切な日本語表現を考えるブログを開設した。ここでは好ましい言葉選びとは何かを綴っていきたい。 ただ、文法や辞書に厳格
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「言葉に関する性善説」によって「ネトウヨプロパガンダ」を放置してきたことが「ネトウヨという架空の存在」をデッチ上げた。河野太郎の「ネトウヨ呼ばわり」は、世間によってデッチ上げられた「架空の存在」を刷り込まれていることに他ならない。
テレビ/ラジオ/新聞/ウェブサイトなどの「可能性」の用い方には首を傾げることが多い。 疑わしいことにも「可能性」危険な対
「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている。それは非常に喜ばしいことだ。この点においては森永卓郎氏に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい。ただし、私はこうも申し上げたい。「ザイム真理教」は派生宗教でしかないと。何故なら、民主主義そのものが宗教だからだ。派生宗教はカルト化するのが常。
民主主義は最良の制度であるという不可解な教義 [jin-yohaku50] 「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている
「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
あなたは関係を進展させたいと思っている女性と話していてこう感じたことはないだろうか。「言葉の意味を間違ってるんだけどな」「その意見はちょっとおかしい」。受け流すのも一つの手だ。だが、どうしても訂正したくなったり、反論したくなったりすることもあるだろう。そんなときには次の方法を試してみてほしい。
本気で身体作りに励む男性は知っている。筋肉を増やすことがいかに大変か。女性となるとその大変さが跳ね上がることも理解している。身体作りに励む男性の全てとは言わないが、生活リズムや食事に気を使っている。暴飲暴食もしない。アルコールに溺れない。遊興にも関心が薄い。どうせ寄ってくるならまっとうな生活を心掛けている男性のほうが良いに決まっている。
あなたは目上の人に対してこんな返答をしていないだろうか。「していない」と思っている人でも、よく自分を観察してほしい。つい「あ」と入れてしまっているかも知れない。この「あ」は、潜在的な謙虚さや向学心からくるのかも知れないが、目上の人の印象は悪く「頼りない」というマイナス点しか残らない。
「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表