「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。言語を守ることは国防。
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
私がキチガイと揶揄される理由。そしてブチ殺してやろうかと言いたくなる理由
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
国民がマヌケなほど「語彙力」が増える|「語彙力」は悪質な概念詐欺
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「感」を多用する人ほど「感受性」が鈍い|「~感を感じる」という重言に何ら抵抗がないヘボライターは自害せよ
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
あなたは関係を進展させたいと思っている女性と話していてこう感じたことはないだろうか。「言葉の意味を間違ってるんだけどな」「その意見はちょっとおかしい」。受け流すのも一つの手だ。だが、どうしても訂正したくなったり、反論したくなったりすることもあるだろう。そんなときには次の方法を試してみてほしい。
本気で身体作りに励む男性は知っている。筋肉を増やすことがいかに大変か。女性となるとその大変さが跳ね上がることも理解している。身体作りに励む男性の全てとは言わないが、生活リズムや食事に気を使っている。暴飲暴食もしない。アルコールに溺れない。遊興にも関心が薄い。どうせ寄ってくるならまっとうな生活を心掛けている男性のほうが良いに決まっている。
あなたは目上の人に対してこんな返答をしていないだろうか。「していない」と思っている人でも、よく自分を観察してほしい。つい「あ」と入れてしまっているかも知れない。この「あ」は、潜在的な謙虚さや向学心からくるのかも知れないが、目上の人の印象は悪く「頼りない」というマイナス点しか残らない。
今回は「テンション」の誤訳・誤用について持論を述べたい。 話は日本国憲法や主権にまで広がるが、全て繋がっている。 誤訳に
「保守派ではない」と表明する三橋貴明氏にあえて申し上げたい。言語も「保守」の対象に含めよ
三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。日常会話でやたら言葉に定義にこだわるやつ嫌でしょ。この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。しかし私は、ここに合成の誤謬の
「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。笑ったことを意味しているなんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。
語義用法変化肯定論者はよく「道具」という認識で言語を扱う。その認識は「道具は使いよう」という粗雑な方向に進みやすい。実際、気紛れで無自覚に語義や用法を変えてしまう奴らは、好ましい言葉選びを提案した私のような者に「道具は使いようだ」と対抗する。その裏にはこんな感情がある。
今回は「女子力」なる謎の言葉について。もしあなたが、このあまりにも抽象的な言葉に疑問を持たないなら気を付けたほうが良い。男性からはいずれ粗末に扱われることになりかねない。
あなたは「てかつか病」かも知れない。「てかつか病」とはすぐ「てか」「つか」などの言葉を頭に付けてしまうことだ。一度患ったらなかなか治らない「てかつか病」について解説する。対処法も書いておこう。
【気軽に転載してください】「言葉は時代で変わる論者」「言葉は生き物信者」の正体・実態のまとめ
当ブログで主張している考えをまとめた。もし、好ましい表現の提供に対して「言葉は時代で変わる」「言葉の本質は変化」「言葉は生き物」などと見苦しく反論する人間がいれば、積極的に転載してほしい。文言の細部はあなたの性格に合わせて修正していただきたい(例:奴→人)今後の日本を楽観視し、言語を蔑ろにする輩に反撃しよう。
「個人的保守」と「国家的保守」の両方を持っている人もいれば、そうでない人もいる。核武装と原発再稼働に反対する人は、これらを「個人的保守」の視点から論じている。「何となく怖い」「軍事国家になるみたいで嫌」「だから今のままが良い」といった近視眼的かつ情緒的な側面から価値判断をしているのだ。
本当に「言葉の変化」を無批判に肯定して良いのか。「言葉の変化」を全肯定する人が多数を占める日本というのは好ましいのか。私はもちろん好ましくないという意見を持っている。変化を良きものとできたのはひとえに「ラッキー」だったからだ。
「がっつり」この言葉が下品だと気付かない女性が何故か多い。バカ製造機のテレビや雑誌、軽薄な情報サイトなどからの影響を受けているのだろう。
「じゃね?」「くね?」とやたら遣う人間に対し私はこう呼んでいる。「じゃねくね」族と。
世の男性を見ていて「もったいない」「惜しい」と思う言葉遣いが少なくない。そのひとつが「とか」を付ける癖。「えっ何かマズいの?」と思った男性は要注意。「とか」にどんなマイナス面があるのか、また「とか」をやめることで女性にどんな印象を与えるのかを解説する。
「言葉は時代に応じて変える」という堤防破壊行為は占領状態を更に強固にする恐れがある。「言葉は時代に応じて変えて構わない」というのを国防の立場から観れば「空想的平和主義」の色合いが濃い。その理由は「言語が持つ三つの性質」を知れば容易に導き出せる。では、その「言語が持つ三つの性質」とは何なのか。
結局のところ「最強」を掲げるのは、アクセスアップや収益アップという個人的かつ利己的な目的なのだろう。まことに陳腐である。
「神~」をやたら遣う奴らを見ていてつくづく思う。「オナニー/自慰」だなと。「神回」「神曲」「神対応」などと発言することで、脳内から快感物質でも出ているのだろう。「神」でオナニーをしているというわけだ。これぞまさに「神オナニー」。ところ構わず「神~」を連呼し自慰に耽り絶頂する。これでは猿と大差ない。「神オナニー猿」とでも言っておこう。
【衝突語】「難易度が高い」高いのは難しさ?易しさ?一体どっちなのさ
「ご安全に」なる言葉がある。これは、製造業・建設業の現場での安全意識高揚のために掛け合う言葉だ。だが、この「ご安全に」は世間全体に浸透していない。あくまでも「製造・建設界隈」でキッチリ収まっている言葉である。他方「難易度」や「課金」は「ゲーム界隈」のみならず広い分野に浸透し、世間で当たり前の表現としてのさばっている。
逆説的だが「核兵器廃絶」という主張には「核兵器保有」の前提が必要なのだ。「発言の効力」がなければ「なんちゃって」で終わるだけだ。核兵器を持たない国が核兵器廃絶を訴えても「内政干渉」と一蹴されるのがオチ。だが、核兵器を持っている国が核兵器廃絶を訴えるのは一応筋が通る。
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「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら
あなたは関係を進展させたいと思っている女性と話していてこう感じたことはないだろうか。「言葉の意味を間違ってるんだけどな」「その意見はちょっとおかしい」。受け流すのも一つの手だ。だが、どうしても訂正したくなったり、反論したくなったりすることもあるだろう。そんなときには次の方法を試してみてほしい。
本気で身体作りに励む男性は知っている。筋肉を増やすことがいかに大変か。女性となるとその大変さが跳ね上がることも理解している。身体作りに励む男性の全てとは言わないが、生活リズムや食事に気を使っている。暴飲暴食もしない。アルコールに溺れない。遊興にも関心が薄い。どうせ寄ってくるならまっとうな生活を心掛けている男性のほうが良いに決まっている。
あなたは目上の人に対してこんな返答をしていないだろうか。「していない」と思っている人でも、よく自分を観察してほしい。つい「あ」と入れてしまっているかも知れない。この「あ」は、潜在的な謙虚さや向学心からくるのかも知れないが、目上の人の印象は悪く「頼りない」というマイナス点しか残らない。
今回は「テンション」の誤訳・誤用について持論を述べたい。 話は日本国憲法や主権にまで広がるが、全て繋がっている。 誤訳に
三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。日常会話でやたら言葉に定義にこだわるやつ嫌でしょ。この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。しかし私は、ここに合成の誤謬の
「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。笑ったことを意味しているなんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。
語義用法変化肯定論者はよく「道具」という認識で言語を扱う。その認識は「道具は使いよう」という粗雑な方向に進みやすい。実際、気紛れで無自覚に語義や用法を変えてしまう奴らは、好ましい言葉選びを提案した私のような者に「道具は使いようだ」と対抗する。その裏にはこんな感情がある。
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
「キチガイ」言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりに背景があるのだ。
「豊富な語彙」という表現に示されるように「語彙とは、一定の領域に蓄えられた言葉たち」なのだ。もっと簡潔に述べれば「倉庫の荷物」のようなものが「語彙」の実態である。「語彙=倉庫の荷物」に「力」という文字を足すとどうなるか。とたんに意味がボヤケてしまう。倉庫の荷物の力?荷物そのものの力?何じゃそれといった具合に。
「観」という文字が含まれている表現は概ね「何者か」がいるのだ。観察や観賞はまさに人の視点抜きでは表せない。「客観」に関しては、あらゆる主観を排除する意味合いがあるので例外と言えなくもない。だが、やはり「観察者/観測者」を必要とするので人の意思を排除できない。
「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないなら