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#80sのブログ記事
  • 2024/04/17 12:37

    ’80s ある旅の情景21

    ⒗ニューヨーク到着 手足が痺れる感覚で目が覚めた。見るとフリーウエイの路肩にバスが止まっている。バスが故障したので代わりのバスが来るのを待っていると、隣の席の男性が教えてくれた。暖房も停止しているようで凍える程の寒さだ。手足の痺れは寒さのためだったようだ。時計を見ると、朝の5時。 すっかり目が覚めた僕に、どこから来たのかと隣の男性が話しかけてきた。30代半ばぐらいだろうか、カジュアルではあるがきちんとした身なりの白人だ。日本から来てアメリカ一週旅行をしていると言うと、ボストンには行ったか、ボストンは非常に美しい町なので是非行くべきだ、と薦めてくれた。ボストンの話や旅の話で盛り上がり、僕らはすっかり意気投合した。そして、僕がいかにも貧乏旅行の学生に見えたのであろう(本当にそうなのだが)、「自分はボストンに住んでいる。家には寝室が5つあるので、ボストンに来たら遠慮せず泊まってくれ」と言い連絡先をくれた。 こちらに来て何人ものアメリカ人に、家に泊まりに来いと誘ってもらった。初対面の人間をこうも気安く自宅に招待するなんて、日本ではちょっと考えにくいことだ。よほど親切でオープンなのか。それとも恵まれた住環境の故なのか。日本も住宅事情がもう少しよければこうなるのだろうか・・・ 30分ほどして代わりのバスが来た。乗客はみんな順序良く乗り換え、新しいバスでもそれぞれ全く同じ席に座った。アメリカ人もこういうところはちゃんとしてるんだなと思うと親近感がわいた。 マンハッタンに入るとバスは摩天楼の間を縫うように進んだ。ビルに日の光が遮られて道が薄暗い。思わずバスの窓から巨大なビル群を見上げた。やっぱりニューヨークはすげぇなー。バスは約1時間遅れで朝10時半にミッドタウンのデポに着いた。ロサンゼルス以上に巨大で、沢山のバスが行き来しており、多くの乗客でごった返していた。外は高いビルが建ち並ぶ、映画やテレビで見るまさにあのニューヨークだった。クリスマスシーズンを迎えた街は活気があり、エネルギーに溢れているように見えた。

  • 2024/04/16 09:57

    ’80s ある旅の情景20

    ⒖ナイアガラ シカゴを夜出発して早朝バッファローに着いた。ここはナイアガラの滝へ行くためのアメリカ側の起点となるデポだ。洗面所で顔を洗って歯を磨いた。凍えるような寒さだがお湯が出るので助かる。アメリカで驚くのはどんな田舎の洗面所でも必ずお湯が出ることだ。こんなときアメリカの豊かさを実感する。日本もいつか各家庭や公衆便所の水道の蛇口からお湯がいくらでも出る日が来るのだろうか。 バスは朝6時半に出発して、真っ暗な道を走り出した。ここから国境を越えてカナダへ入る。カナダとの国境の小さな街中を走っていると道沿いの家が皆クリスマスの飾り付けをしていた。シンプルではあるが各家庭それぞれが趣向を凝らした電飾がとてもきれいで、幻想的な光景だった。いつの間にか12月になっていた。 バスのなかで簡単なパスポートチェックを受けて国境を越えた。いよいよカナダに入国だ。途中「ワォー!」という歓声ともどよめきともつかない声が沸き起こった。窓の外を見ると、川が溢れて道が水浸しだ。大丈夫なのだろうか。真っ暗な中、水浸しの道を進むというのは結構恐ろしい光景だ。 7時半にナイアガラのデポに着いた。約1時間かかった。外は猛烈な吹雪だ。真っ白で何も見えない。ナイアガラの滝までは徒歩で10分ぐらいなのだが、恐ろしく長い道のりだった。本当に遭難するんじゃないかと思ったほどだ。雪に覆われた滝はきれいだった。苦労した甲斐があった。吹雪の中で滝を見たあとミノルタタワーに上ってみた。ここは滝を正面から見ることができるビューイングスポットで、滝を見るには最適な場所のひとつだ。吹雪は2時間ほどで止み、先ほどと打って変わった青空の下で見る滝はきれいだった。 滝の周りの遊歩道を歩き回った後、夕方もう一度ミノルタタワーに上った。せっかく日本から来たのだからカクテルライトに照らされた滝を是非見ていくべきだと、土産物屋のおばさんに勧められたからだ。夕方6時半ごろタワーに行くと、おばさんが席に案内してくれた。そこは滝の真正面の特等席だった。ライトに照らされたナイアガラは本当にきれいだった。僕はコーヒーとサラダを食べながら飽きることなく滝を見ていた。 ナイアガラ公園内にあるアメリカ橋という橋を渡って国境を越えることができる。滝を見た後、ここで入国審査を受け、歩いてアメリカへ再入国した。わずか半日のカナダ滞在だった。バッファローのデポへは夜9時に着いた。ここで今夜12時15分発のバス

  • 2024/04/15 10:07

    ’80s ある旅の情景19

    ⒕シカゴ(2) やっとシカゴに着いた。長く寝たおかげで体調は万全だといいたいところだが、やはり何となく体が重い。外に出ると高層ビルが立ち並んでおり、その陰で薄暗いほどだ。シカゴは歴史的な建造物が多く、凝ったデザインのビルが多いことで有名だ。建築好きにはたまらなく魅力的な場所だそうだ。素人の僕が見てもかっこいいと思う建物が多い。しかしここもとにかく寒い。歩いていると、そこかしこでマンホールの蓋から真っ白い湯気が立ち上っている。またビルの至るところから蒸気が立ち上るのが見える。空は灰色でどんよりと曇っている。雪こそ降っていないがソルトレイクシティを上回る寒さだ。 シカゴでは是非行ってみたいところがある。世界一の高層ビル、シアーズタワーだ。なんと120階建だ。早速チケットを買いエレベーターで最上階へ上った。しかし残念なことに最上階の展望ルームからは何も見えなかった。窓の外は真っ白だった。曇り空の為ビルに雲がかかっていたのだ。残念ではあったがビルが雲を突き破っているとはさすがだ。こんなのは日本ではお目にかかれない。これはこれでいい経験ではある。記念に近くにいた観光客にシャッターを押してもらい写真を1枚とった。背景の窓は真っ白だ。 今日の宿は「トーキョーホテル」、1泊20ドル。真っ黒のかなり年季の入った建物だが、街の中心にあり立地がいい。エレベーターは古く、驚いたことにドアが手動だ。オペレーターがいて開け閉めをしてくれる。こんなのに乗ったのは初めてだ。さらに驚いたことには運転も手動だった。行先を告げるとオペレーターがエレベーターの内側に付いたハンドルをぐるぐる回して運転するのである。どういう仕組みなのか分からないがハンドルを回している間は動き、回すのをやめると停止した。ここまで完全マニュアル式のエレベーターに乗ったのは後にも先にもここでだけだった。 部屋は15階の2号室だった。窓からの景色が抜群で、真正面にビッグジョンが見える。長いバス旅の果て、シャワーを浴びて、ビールを飲みながらきれいな夜景を見る。思いがけない贅沢な時間になった。このときの景色は僕の心に長く焼きついた。ぼろぼろだった部屋の記憶はすぐに薄れたが、この夜景の美しさはずっと覚えている。

  • 2024/04/13 10:51

    ’80s ある旅の情景18

    ⒕シカゴ(1) その日夜8時20分のバスでソルトレイクシティを後にした。この町には13時間滞在した。朝から降り続いた雪はいつのまにか霙に変わっていた。シカゴまで37時間。途中休憩を挟みながらではあるがこんなに長くバスに乗るのは初めてだ。この旅のハイライトのひとつといえるかもしれない。 このルートの大半は、西部劇に出てくるような砂漠の中を延々と走る。アメリカの中部は思った以上に田舎で何もない。途中通ったデポのいくつかはまさにバス停で、無人の待合所だった。こんなところには二度と来る機会がないかもしれないから降りてみたいという誘惑に駆られたりもした。が、ガイドブックにも載ってない、右も左もわからない小さな町で降りたら、帰れなくなるんじゃなかろうか。そもそもホテルもなさそうだしと思い、考え直したりした。通路の向こう側のおじさんに、ここはどんなところなのかと尋ねてみたが、「見た通り。何もないよ。」とそっけない。そりゃそうだろう。窓の外は見渡す限りの砂漠で他には何も見えない。 旅程には3時間おきの休憩が組み込まれている。食事の時間は休憩が長めにとられる。さすがに1日半も座りっぱなしだと体がガチガチになる。腰や背中のストレッチをする人も多い。何回か一緒に食事をしている間に乗客同士仲よくなり会話もはずむ。長い移動であればあるほど貴重な時間だ。長いバス旅の間いろんな人と話をした。途中で降りた人や乗ってきた人もいたが、シカゴに着いた時にはみんな顔見知りになっていた。

  • 2024/04/12 10:29

    ’80s ある旅の情景17

    ⒔ソルトレイクシティ(3) 町中の店が閉まっていたのは感謝祭の為だったようだ。雪の為歩き回ることもできないので、パイプオルガンの演奏を聴いた後、結局デポにもどった。電光掲示板の前でバスの時間をチェックしていたとき、学生風の東洋人がおどおどとこちらの様子を窺っているのに気付いた。何だろうと思っていると、「あの~・・・、日本人ですか・・・」と、おそるおそるという感じの小声で話しかけてきた。そうですと答えた瞬間、打って変って彼の態度はなれなれしいと言っていいほど親しげになった。久しぶりに日本人に会えてよほどうれしいのだろうか。 二言三言ことばを交わした後突然、「ちょっと荷物を見ててもらえない?」と彼は言った。そして自分のスーツケースを僕の前に押し出すが早いかどこかに行ってしまった。トイレにでも行ったのだろうと思っていたのだが、いつまでたっても戻ってこない。僕は、何かあったのかと心配になったがその場を動くわけにもいかず寒いロビーで彼を待ち続けた。結局彼が戻ってきたのは1時間後だった。そして、悪びれる風でもなくごく簡単な礼を言うと、荷物をもってあっという間に消えた。 せめて理由を説明して納得させて欲しかった。何とも言えない空しい思いが後に残った。僕は不快な気持ちを振り払うため、よほどの事情があったのだろうと思うことで自分を納得させようとした。 こんなにひどいのは後にも先にもこの1回きりだったが、旅行中に出会った日本人の中には、こんなところまで来て日本人に会いたくないといわんばかりに露骨に嫌な顔をする者、妙に馴れ馴れしくあつかましい者、が少なからずいた。身内意識が強い故だろうか。それとも旅慣れていないせいなのだろうか。いずれにしても日本人同士とはいえ他人であることに変わりはない。過度な甘えは慎むべきだろう。外国人、日本人を問わず誰に対しても敬意と節度をもって接することを心がけようと強く思った。

  • 2024/04/11 09:39

    ’80s ある旅の情景16

    ⒔ソルトレイクシティ(2) ソルトレイクシティはユタ州の州都で、キリスト教の一派であるモルモン教の本拠地として有名だ。見どころは、その名前の由来となった巨大な塩湖と、モルモン教総本山の大聖堂だ。夏場であれば塩湖も魅力的だったのかもしれない。が、とにかくめちゃくちゃ寒い。とても湖に行こうという気は起こらなかった。よって、もうひとつの見どころである大聖堂に向かった。デポからそう遠くないところにあるとのことなので、歩いて行ってみることにし、雪の中を歩きだした。 ソルテレイクシティはサンフランシスコとはまた違った意味で美しい町だった。清潔で引き締まった感じがある。静謐といった表現が適切かもしれない。雪の中を歩いている人はもちろん誰もいない。がそれにしても静かすぎる。なぜか商店も全て閉まっている。どうしたことなのだろう。 どれくらい歩いただろうか。大聖堂のあるテンプルスクェアについた時には体が冷え切っていた。大聖堂はその名の通り巨大な教会で、威厳を感じさせる佇まいだった。中に入ると丁度パイプオルガンの演奏が始まるという。僕は多くの人たちに交じって教会の椅子に座った。演奏は荘厳で美しく、心が洗われる気がした。感謝祭の特別演奏だそうだ。 ちょっと得した気分だった。

  • 2024/04/11 09:39

    ’80s ある旅の情景15

    ⒔ソルトレイクシティ(1) サンフランシスコを夜9時に出発して翌朝7時40分にソルトレイクシティに到着した。雪が降っている。温暖なカリフォルニアから一転して真冬の雰囲気だ。サンフランシスコ--ソルトレイクシティ間は最短ルートをとれば8時間程度の行程だ。しかしサンフランシスコで懲りたので、おかしな時間に到着しないよう、あえて遠回りであるデンバー経由のルートをとった。 この旅の基本方針として、 ⒈バスはなるべく夜行を使いホテル代を節約する ⒉できるだけ午前中に到着するスケジュールを組む という2つの方針を立てていた。午前中到着は治安と時間を有効に使うという、2つの目的からだ。知らない街で暗い夜間にホテルを探すことは危険だし精神的な負担も大きい。 このような理由から選んだこのルートは幹線道路からはずれた道を多々通り、なかなか見ごたえのある興味深い景色にあふれていた。とくにロッキー山脈を越えるデンバー近辺はいかにも西部劇に出てきそうなアメリカの砂漠を見ることができて面白かった。星空の下で見た景色は美しく、幻想的だった。夜行バスならではの体験だ。ただ、大半寝ていたため見逃した風景もたくさんあっただろうことは残念だが・・・。

  • 2024/04/09 12:30

    ’80s ある旅の情景14

    ⒓サンフランシスコ(2) 幸い寒い季節に朝っぱらから歩き回るワルもいないようだ。7時頃から明るくなり始めたので、とりあえず地図を見ながら安いホテルが集まっているあたりへ向かった。夜が明けるとサンフランシスコは美しい港町だった。瀬戸内で生まれ育ったせいか、僕は海沿いの町が好きだ。 公園でしばらく時間をつぶした後、ダメもとであらかじめ目星をつけておいたホテルへ行ってみた。朝8時頃だった。チェックインは当然無理だろうが、バックパックをフロントに預けて身軽になりたかった。ホテルのフロントは感じのいい中年の女性で、意外なことにあっさりチェックインさせてくれた。6時にバスで着いて歩いて来たというと、親切にも朝食を勧めてくれた。コーヒーとトーストのシンプルなものだったが本当においしかった。冷え切った体が温まった。 部屋を確保するとそのまま観光に出かけた。チェックインした「ウエスタンホテル」はユニオンスクェアに近い便利な場所にあった。まず市バスでゴールデンゲートブリッジに行った。霧でところどころ覆われてはいるが、サンフランシスコのシンボルである赤い橋はきれいだった。次にケーブルカーに乗ってフィッシャーマンズワーフに行った。この頃には霧はすっかり晴れていた。埠頭に座って屋台で買ったクラッカーとクラムチャウダースープを食べ、遅い昼食をとった。今日はサンフランシスコの名物に3つ触れられた。明日はチャイナタウンに行ってみよう。観光気分が俄然盛り上がってきた。 サンフランシスコは坂が多いことで有名だ。しかも勾配が半端じゃない。その為ケーブルカーがこの町になくてはならない交通機関として長い間親しまれてきた。近年効率性から自動車に取って代わられているとのことで残念だ。 坂とケーブルカー以外で印象に残ったのは花屋と大道芸人だ。街の至るところで花屋を目にする。坂道の途中に点々とある小さな花屋が街をいっそう美しく見せている。また、人が集まるところには必ずといっていいほど大道芸人がいる。1人で複数の楽器を演奏する者、人形劇をする者、歌を歌う者、と様々だ。皆楽しそうにやっていて、つられてこちらも明るい気分になる。 サンフランシスコは美しく楽しい町だった。ここには1日半滞在し、翌日の夜グレーハウンドで旅立った。最悪のスタートだったサンフランシスコはアメリカで1番好きな町のひとつになった。

  • 2024/04/08 15:04

    ’80s ある旅の情景13

    ⒓サンフランシスコ(1) 出発まで1時間半。長い待ち時間ではあるが物珍しさできょろきょろしているうちに意外に早く出発時間になった。サンフランシスコ路線は人気のようで乗客は多い。乗り切れなくなったらどうするんだろうと思ったが、乗客が溢れた場合は何便でも増便を出すそうだ。乗れないという事態は決して起こらないとのこと。予約不要でいつでも乗れるのはありがたい。さすがアメリカは豊かだ。 車内は広くて結構きれいだ。座席もゆったりしていて乗り心地は悪くない。いよいよアメリカ一周の旅が始まる。バスはゆっくりとロサンゼルスの街を抜けて行った。バスから見る街は静かできれいだった。フリーウエイをしばらく走るとあたりは真っ暗になった。逆に、街中で真っ黒に見えた空は群青色を濃くした色に変わった。10月下旬の空は澄み渡り一面星に覆われている。バスは真直ぐにどこまでも続く道を延々と走った。 目が覚めるとバスは深い霧の中を走っていた。窓の外は真っ白で何も見えない。しばらくするとサンフランシスコのデポに着いた。ここはロサンゼルスと比べるとかなり小ぶりだ。腕時計を見ると6時少し前だった。あたりは真っ暗だ。途中のバス停で降りたのか乗客は10人程に減っていた。それぞれ行先が決まっているのだろう降車すると皆すぐにいなくなってしまった。 ターミナルの建物は閉まっており中に入れない。僕は真っ暗なダウンタウンのど真ん中に1人取り残されてしまった。最初に頭に浮かんだのは、バスターミナルの周りはどこも治安が悪いという言葉だった。右も左もわからない治安の悪い場所で早朝路頭に迷う。旅の第1歩としては強烈だ。街は静かで、霧に覆われていた。僕はデポのベンチで明るくなるのを待つことにした。おかしな人が通りかからないことを祈りながら・・・。

  • 2024/04/06 08:32

    ’80s ある旅の情景12

    ⒒LAデポ 出発前は危険なエリアを夜歩くと思うと緊張したが、バス停からの距離も思ったほど遠くなく、あっけなくデポについた。時間は6時過ぎだった。グレーハウンドのターミナルはこちらではデポと呼ばれている。ロサンゼルスのデポはニューヨークと並び最大級の規模だ。多くのバス乗り場があり、たくさんの人が待合室で待っていた。日本で購入したアメリパスをカウンターに渡してサンフランシスコまでの乗車券を発行してもらった。アメリパスは外国人向けの期間内乗り放題の周遊券で使用開始から一カ月間有効だ。アメリカ全土とカナダの一部で使用可能だ。このパスをカウンターで見せて乗車券を発行してもらう仕組みになっている。チケット発行時に窓口で“インシュアランスはどうするか?”と聞かれた。はて、どこかで聞いたことがある言葉だが何だっけ?僕はその言葉の意味が分からずしばしのやりとりになった。窓口の人は何度か言い換えながら説明してくれた。アメリカに来て2週間、僕の英語はいまだに“保険”という単語さえ分からないレベルだった。保険は8ドル95セントだった。 ロサンゼルスのデポは規模も最大級だが治安の悪さも最高レベルのようで、この時も銃を持ったガードマンが待合所周辺をガードしていた。待合所はデポの中にある柵で囲まれたエリアで周辺の天井に防犯用監視カメラがいくつか設置されている。ここには乗車券を持っている者しか入れないので一応安全地帯といえる。待合所の椅子に座っていると、柵の外で、ヒスパニック系だろうか、汚い身なりの男が監視カメラの真下の床に横になろうとしていた。何度か体の位置を少しずつずらしながら寝そべった。どうやらいくつかある監視カメラの死角を探して寝るつもりのようだ。暖房が利いて暖かく安全な24時間オープンのデポはダウンタウンのホームレスにとって格好の避難所であるようだ。 当然ながらその男はほどなく現れたガードマンに連れ去られた。

  • 2024/04/05 10:39

    ’80s ある旅の情景11

    ⒑アメリカ一周の旅へ 英語を勉強しながら楽しく気楽な生活をここで満喫することにももちろん意味はある。特定の街に定住し周りの人間と深く付き合うという生活からも学ぶべきことは多い。しかし、それは僕がアメリカに来た目的とは違う。僕は少しでも多くのものを見、多くの人と出会うことにより、広い世界を肌で感じるために旅へ出た。結局僕は、いろいろ理屈をつけて楽な道に逃げようとしているではないか。そう考えると、居ても立っても居られなくなった。今すぐ出発しなければだめだ。ぐずぐずしていては決心が鈍る、と思った。 翌日、ホテルをチェックアウトすると、フロントへ荷物を預けてアダルトスクールへ最後の授業を受けに行った。授業終了後、先生に今までのお礼と今夕グレーハウンドバスで出発すると伝えた。先生は、せっかく授業に馴染んできたところなのに残念だ。でも、すばらしいことだからがんばれ。旅行が終わったらまた学校に戻って来なさいと言った。30代後半ぐらいのちょっときれいな優しい先生だった。クラスメートも口々に応援してくれた。このアダルトスクールに通ったのは1週間強だったが、みんなと別れると思うと少しさびしかった。 その後しばらく街を散歩してから預けた荷物を受け取りにホテルへ戻った。4時頃だった。事前に確認したバスの出発時間は夜8時だ。時間があったのでとりあえずロビーで時間をつぶすことにした。そこへ何度か話したことがある日本人の泊り客がやって来た。30歳前後の痩せ型の男性だ。茶色の革ジャンとサングラスが遊び人っぽい。ロサンゼルスが好きで会社の休暇を利用して遊びに来ているらしい。一週間程度の予定でここに滞在中とのことだ。今夕グレーハウンドでサンフランシスコに出発するというと、バスターミナルの周りは治安が最悪だからタクシーで行ったほうがいいよと教えてくれた。確かにグレーハウンドのターミナルは基本的にダウンタウンの中心にあり、大概そこはその街で最も治安が悪い。ガイドブックにも気をつけようと書いてあった。 とはいっても、この先のことを考えるとできるだけ出費は押さえたい。僕はタクシーを避け、ターミナルの近くを通るローカルバスで行くことにした。安全を考え少し早目の5時半頃ホテルを出た。

  • 2024/04/04 10:28

    ’80s ある旅の情景10

    ⒐森田 ホテルへ移ってからも森田はなにかと気にかけてくれた。現地の情報や心得を教えてくれ、ロサンゼルスにいた2週間強のあいだ週末ごとに車で迎えに来て面白そうな場所を案内してくれたりした。最初の土曜日はホテルニューオータニのロビーで落ち合いハリウッドへ向かった。フリーウエイを走ってしばらくすると、「おっ、あれあれ!」と森田が窓の外を見るよう促した。そこには山並みに立てられた〝HOLLYWOOD〟の白い文字看板があった。見たことのある景色だ。Billy Joelのアルバムのジャケットだったか・・・。 本当にアメリカに来たんだなと思った。チャイニーズシアターで有名人の手形を見た後UCLAへ行き、夜はリトルトーキョーでかつ丼を食べた。森田は日本食が恋しくて毎週末リトルトーキョーへ通っているそうだ。 翌週は金曜日と土曜日の2回出かけた。金曜日はアナハイムのディズニーランドへ行った。意外に来園客は少なかった。そのためかどうか多くのアトラクションが中止となっていた。スペースマウンテンが止まっていたのは少し残念だった。 土曜の夜はサンタモニカへ飲みに行った。この辺りは治安が良いみたいで、日本と変わらぬ賑わいようだ。みんな楽しそうに騒いでいた。パブを2軒はしごした後ディスコへ行った。まるで映画サタデーナイトフィーバーのような大変な盛り上がり方だ。超満員でとても長くいられる状態ではない。早々に店を後にした。 夜のビーチに座ってビールを飲んでいると、「おいおい、本当にここはアメリカなんか?日本と全然かわらんがな。皆がおったら今頃焚き火を始めるとるんじゃねえか」と森田が笑いながら言った。海を見ながら飲むビールはうまかった。その夜ホテルに帰ったのは午前2時半だった。

  • 2024/04/03 12:37

    ’80s ある旅の情景9

    ⒏ロサンゼルスでの日常 ロサンゼルスに来てからアダルトスクールをはじめとして多くの知り合いができた。ホテルでの自炊にも慣れてきたし生活は快適だった。こちらは食料品等の生活必需品も安いしホテルも1週間、1ヵ月と長期のディスカウント料金の設定がある。日本人コミュニティもあり、飲食店の店員を中心とする日本人向けのアルバイトも充実している。日本人が長期滞在をするには非常に楽な場所である。事実、なんとなく住み着いている日本人が大勢いた。そのころの僕の平日は大体こんな感じだった。 8時頃 起床、洗顔・歯磨き、テレビのニュースを見ながら朝食 9時~14時半 アダルトスクール 14時半~18時 街をぶらぶら、市場等で買い物、読書 19時~20時 シャワーの後、自炊による夕食 食パン、ビール、ステーキ 20時~24時 テレビ、読書等、たまにホテルのロビーで宿泊客と談笑 24時頃 就寝 自炊の食材は大体市場で買った。こちらは牛肉が驚くほど安いのでほぼ毎日大きなTボーン・ステーキを食べていた。調理器具、食器はホテルが無料で貸してくれた。自炊をしている分には食費はかなり低く抑えられた。生活も安定し、毎日楽しく過ごしているうちに、このまま英語の勉強をしながらここに留まるのもいいかな、などと思い始めた。

  • 2024/04/02 12:16

    ’80s ある旅の情景8

    ⒎アダルトスクール 日米文化会館の英語講習で知り合った現地のおばさんにアダルトスクールというものがあることを教えてもらった。アダルトスクールとは、州や市の税金・援助で運営される政府公認の語学学校で、英語を母国語としない移民のためにESL(ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE)クラスを安価(年50セント)で開講しており、読む、書く、聞く、話す、の英語四技能を総合的に学べる。学校自体は月曜日から金曜日の週5日制で、9時から14時半くらいまでの開講らしい。入学は随時認められ、受講時間・期間とも各自の都合に合わせてかなり柔軟に対応してくれる。僕も、行ったその日に簡単なクラス分けテストを受け、そのまま授業を受けた。クラスは基礎から上級まで八段階ぐらいあり、僕は中級クラスに入った。 アダルトスクールは日本人にあまり知られていない為、語学学校と違ってほとんど日本人がいない。僕が行ったところはロサンゼルスのダウンタウンという場所柄か中南米からの移民が大半を占めていた。クラスメートの年齢は10代から60代ぐらいと幅広く、国籍も多様だった。彼らは、とても積極的に授業に参加する。ブロークンイングリッシュを駆使して発言しまくる。そのため授業はにぎやかで活気があった。これだけ積極的に話せば上達は早いだろう。人懐っこい人が多く、ここでもたくさんの人と知り合った。校舎は平屋の簡素な建物で、校庭にあった卓球台が休み時間に生徒の人気を集めていた。 通学の為、アダルトスクールへ歩いていける「ブランドン」というホテルへ移った。ここも地球の歩き方で紹介されていたところだが、加宝と比べると日本人は少なく、部屋にキッチンがついていたこともあり、ロビーに行くこともぐっと少なくなった。ここに来てから人と話す時間は激減した。

  • 2024/04/01 10:49

    ’80s ある旅の情景7

    ⒍治安 こちらに来て数日後の出来事だった。初めてダウンタウンのブロードウェイに行ったとき、前から来たホームレスの黒人が、ギミーアダラーと声をかけてきた。僕は「ノー」と小声で言ってかぶりを振り、通り過ぎた。日本ならまず何も起こらないだろう。しかしこのときはいつもと随分違った。まず背後で大きなブレーキ音がなった。そして、なんだろうと振り返ると、ドラマでよく見たことのある光景が目に飛び込で来た。それは、「急停車したパトカーから警官が2人降りてきて、黒人をホールドアップさせ、壁に押し付ける」 という一連の逮捕劇で、一瞬の早業だった。何が起こっているのかすぐにはわからなかったが、どうやら、その黒人が僕を狙っているのを、たまたまパトロール中の警官が見つけて助けてくれた、ということらしい・・・ やはり、ここは日本ではないのだ。 こちらではよく、ギミーアダラーだとかワンダラープリーズと声をかけられる。このような場合の対処法として”地球の歩き方”には、「相手の目を見て、毅然とした態度で”ノー!”と言おう」と書いてある。しかしこれをすると、恐ろしい目でにらまれたり、きたない言葉を投げつけられたりすることがままある。特に、低い声で威圧的にお金をくれという相手の場合は、そうなることが多かった。やばい雰囲気になって、走って逃げたこともある。日本人同士の会話に置き換えて考えれば分かることだが、同じギミーアダラーにも「お金を恵んでください」と「金をよこせ」には大きな違いがある。両者に同じ対応をすればどうなるかは想像に難くない。相手が外国人だからといって違いはないだろう。やはり何事も常識に照らして考えてみることが大事だ。ちなみに他の多くのガイドブックには、「安全の為、絡まれた時すぐ渡せる少額のお金を用意しておこう」と書かれていることを帰国後知った。 単独行動は同行者がいる場合に比べて犯罪等のターゲットになる確率が圧倒的に高い。これはひとり旅の大きなデメリットだろう。旅行者にとって最も大切なのは安全対策だ。土地勘がないよそ者が正しく判断し対処することはとても難しい。危険の度合いがわからないからだ。地元の人がもつ“どこがどの程度危険か”といった情報や知識がないし、馴染みのない土地では危険を察知する嗅覚が働かない。そのためこのあたりは治安が悪いといわれると、過度に恐れるかたいしたことはないだろうと高を括るか、という極端な反応をしがちだ。前者の場合は行

  • 2024/03/31 11:56

    ’80s ある旅の情景6

    ⒌ヤオハン決死隊 ホテル加宝のリビングに座って5~6人で話していたときのことだ。「18時30分か、どうする?」とヤナギさんが言った。「じゃんけん?」「前回負けたもんは除いてくれんか。わし、この前命がけで行ったんやで」「毎回が勝負だよ。新しい参加者もいるし」「じゃあ、今日は負けた2人が行こうか」ということでじゃんけんが始まった。19時過ぎるとヤオハンの弁当が半額になる。そこで、彼らはこうして決死隊を組んでヤオハンに買い出しに行くのである。 当初どちらかというと和やかに感じたこの界隈は、実はあまり治安のよくないエリアであることがだんだんわかってきた。リトルトーキョーだけは安全だとのことだが、そもそもリトルトーキョー自体がスラムに囲まれているというひどい立地だ。こちらに来てから、街を歩いていた知り合いが突然背後から撃たれただとか、わずか一ブロック歩く間に女性が2度襲われた、といった恐ろしい話をいくつも聞かされた。車に乗ってるときさえ安心できない。ダウンタウンでは、深夜は赤信号でも決して停車してはならないと言われたりもした。 というわけで、夜暗くなってからこの辺を歩き回るには、それなりの覚悟を要する。しかし日本食の誘惑には抗いがたく、ついつい決死隊を組んでまでもヤオハンに通ってしまうのである。幸い買い出しの途中で不幸な目にあった人はまだいないようだ。

  • 2024/03/30 19:35

    ’80s ある旅の情景5

    ⒋日米文化会館の英語講習 今日はリトルトーキョーの日米文化会館での日本人向け英語講習に来てみた。ここのことはホテルの宿泊客であるヤナギさんに教えてもらった。日本人が集まるホテルに泊まるいちばんのメリットは、なんといってもこういった日本人向けの情報が入手しやすいことだろう。 この講習会は月~木夕方、3時間、18時から21時まで開かれている。17時40分ごろに着くと、集会室のドアの前で開場時間を待っている人が2人いた。開始10分前にドアが開くとのことだ。前に並んだ女の人は語学留学の学生で、ここには時々来ているそうだ。けっこうかわいい。ロサンゼルスに来て1年らしい。待ってるうちに人数が増えてきて10人以上になった。 名前を登録しただけで簡単に受講が認められた。特別な入会制限はなく、受講費は年会費50セントのみという安さだ。日本人の話し相手を求めて参加する人もいれば、英語習得の必要に迫られた真剣な人まで受講者は様々だ。学生から老人まで年齢も幅広い。メンバーの入れ替わりは激しいようだが、気が向いたときだけたまに参加するというスタイルで、長く通っている人も少なくないようだ。しばらく来ていなかった人が久しぶりに顔をだすといったことも珍しくないそうである。 先生は日系アメリカ人のリチャード塩田さん。50歳前後だろうか。ボランティアで教えているようだ。隣人と英語で挨拶したあと、順番に自分の相手をみんなに向かって紹介するという形で授業が始まった。内容は会話の練習、基本的なフレーズの習得、リスニングの基礎等多岐にわたった。夜、日本から遠く離れた場所で、知らない人達と英語の授業を受けていると思うと、何だか不思議な気がした。途中15分間の休憩があった。いろんな人の話が聞けて面白かった。日本人との会話を求めて受講している日系人のおじさんやおばさんは、地元の方ならではの現地情報や変わった経験談をいろいろ教えてくれた。全体を通して和やかで明るい雰囲気の授業だった。

  • 2024/03/29 14:38

    ’80s ある旅の情景4

    3.映画館 遅めの朝食を済ませて、ダウンタウンのブロードウェイへ出かけた。映画館や商店などが集まるにぎやかな通りだが、同じブロードウェイでもニューヨークのとは違いすさんだ雰囲気だ。 ここに来たのはポルノ映画を見るためだ。これはアメリカへ行ったらやってみたいと思っていたことのひとつだ。僕は〝ⅩⅩⅩ(トリプルエックス)〟の看板を掲げた映画館のうちの一つに入った。館内は真っ暗だったが、足元の明かりを頼りに席に座った。初めのうちこそ、日本では見れないノーカット映画を大画面で見ているんだ、という感動めいたものもあったが、ストーリーがあるわけでもなし、しばらくすると飽きてきた。やはり何事も実現するまでが楽しいのだろう。 目が慣れてきたので周りを見渡してみた。平日の昼間のせいもあるだろうが客はあまりいないようだ。床にはごみがころがっており薄汚いという表現がピッタリだ。なにやらごそごそと客席も落ち着かない雰囲気だ。 館内がどうなっているのか興味がわいたので、トイレにでも行ってみようと席を立った。通路への出入口に背の高い人が1人立っていた。非常灯の明かりでちらっと見ただけなので、顔はよくわからなかったが黒人のようだ。190センチぐらいはあっただろうか。トイレは汚かった。出口に向かうと、さっきのでかい黒人が立っていた。こちらを見ている。ショッキングピンクのピタッとしたワンピースを着ている。 どうやら女性(女装した男性?)のようだ。後をつけてきたのだろうか・・・ と思った瞬間、そのでかい女はおもむろにミニスカートをたくし上げて下着をこちらに見せた。それから自分の股間を指さしながら、「○○ダラー、○○ダラー」(○○は金額。いくらだったかは忘れた)と大きな太い声で連呼し始めた。まさに「ヒェ~」で、必死の思いで彼女の横を駆け抜けた。席へ戻ってしばらくの間、ふ~ん、こっちではああいうのは違法じゃないのか・・。とか、日本では中々できない経験ではあったなぁ。などと、どうでもいいことをぼ~っと考えた。

  • 2024/03/28 16:09

    ’80s ある旅の情景3

    ⒉リトルトーキョー(2) ロサンゼルスの中心街は高層ビルが立ち並ぶ都会で活気がある。街の中心と思われる辺りでバスを降りて歩いてみた。店舗のウインドウに映ったリュックを背負う自分の姿は見るからに旅行者で景色に馴染んでいない。自分は本当によそ者なんだと感じた。 街の中心部にある公園を抜けてしばらく行くと大きな市場があった。衣類、生活雑貨をはじめとして、肉、野菜、果物、乳製品、パンなどさまざまな食料品が売られている。しかも安い。地元の特産品と活気があふれている。ここにいると自分も元気になる気がする。 市場で食パン一斤、洋ナシ数個、〝トロピカーナ〟というブランドのオレンジジュース、バドワイザー3缶を買いホテルに向かった。バドワイザーと値段が安いトロピカーナのジュースは、アメリカ滞在中の定番品になった。 ホテルに着いたのは午後1時を回ったころだったと思う。「ホテル加宝」は街の中心部からからはずれた閑散とした場所にあった。日当たりはよさそうだ。歩いている人はほとんどいない。どちらかというと和やかな雰囲気に思えた。建物自体はなかなかきれいだ。入口は小さなホテルに似つかわしくない頑丈そうな鉄の扉だった。この扉はいつも鍵がかかっており呼び鈴を押すと中から開けてくれる。宿泊客には合鍵を渡してくれるようだ。宿泊料金は朝食付き週93.5ドル。1ドル204円だから19,074円。ダブルルームしか空きがなかったのでしかたない。シングルルームは週71ドルなので、空いたらすぐに移してもらうことにした。しかし長期滞在者が多く中々空きは出なさそうだ。 チェックインを済ませると部屋に荷物を置いて周辺の散策に出かけた。数ブロック先にホテルニューオータニがあった。ロビーには、スタッフや宿泊客など多くの日本人がいた。なんか安心する。ホテルでタウンマップをもらいリトルトーキョーへ行ってみた。何軒かの店と小さなホテルが通りを挟んで立ち並んでいる。思ったより小さなエリアだ。 どこに行ってもチャイナタウンを造る中国人をはじめ、一か所に集まって街を造ることが多い他国人に比べ、日本人がこのような街を造るのは珍しいようだ。以前見た映画ゴッドファーザーで、移民が力を合わせて生き抜く手段として、リトルイタリーを建設する過程が描かれていたことを思い出した。リトルトーキョーを建設した日本人移民にもいろんな思いや歴史があったのだろう。 夕方ホテルへ帰った。共同のシャワーを浴びて、

  • 2024/03/27 14:34

    ’80s ある旅の情景2

    ⒉リトルトーキョー(1) シャワーの後、”地球の歩き方”を広げてみた。ロサンゼルスの項をみると日本人が集まるホテルがいくつか紹介されている。リトルトーキョーの近辺に多くあるようだ。やっぱり最初は日本人街の近くがええか。僕はいくつかの紹介文を読み、「加宝」というホテルに目星を付けた。心が決まると眠くなってきた。いつのまにか夜11時を過ぎていた。 朝起きるとシャワーの音が聞こえた。朝シャワーを浴びるんか・・・。森田はここでの生活にすっかり馴染んでいるようだ。シャワー室から出てきた森田に、「今日からホテルに泊まるわ」と告げた。 「何でぇ?えれぇ急じゃなぁ。」「そがん急がんでももうちょっとおったらええが。」「大家のおばはんもええ言うとるでぇ。」「遠慮せんでもええのに。」 森田はしばらくの間引き留めてくれたが、僕の気持ちが変わらないと知ると学校が終わったら送ると言ってくれた。でも僕はバスで行こうと決めていた。迷惑をかけたくないのもあったが、ここから先は自力でやりたかった。 朝8時頃家を出て、大通りのバス停で待っているとロサンゼルス市街行と思われる大型のバスが来た。路線番号頼りなので少し不安だ。バスに乗るとすぐに運転手にたどたどしい英語でロサンゼルスの中心街に行くか、と尋ねた。イエスと言ったのは聞き取れた。ほかにもいろいろしゃべっていたがさっぱりわからない。とりあえず空いている席に座った。乗客は10人ぐらいだった。老人と黒人ばっかりだ。バスは結構きれいだった。 しばらくして日本のバスには必ずある、降車を知らせるための呼び鈴がないことに気付いた。どうやって降りるんだろうと周りの様子を窺っていると、斜め後ろのおばあさんが窓の下の黒いベルトを押した。すると次のバス停でバスが停車。おばあさんはよたよたと降りて行った。どうやらこちらの呼び鈴のボタンは窓の下に張り付けられたゴムベルトのようだ。右も左もわからない状況では、「その場でいちばん頼りになりそうな人に聞く。」「周りの人がどうしているか見て真似る。」のが1番いい。それから後、僕はずっとそうした。

  • 2024/03/26 16:13

    ’80s ある旅の情景1

    1.アメリカ入国 1980年代半ばの10月。大学を休学した僕はカリフォルニアに向かう飛行機の中にいた。長いフライトの後やっと到着したロサンゼルスの街を窓から見おろしたとき、これから始まる旅への期待で胸が高鳴った。 12時過ぎに空港に着いて飛行機を降りると長い行列に並んだ。税関を抜けるのに1時間以上かかった。聞きしに勝る混雑だ。個人旅行者に厳しいといわれる入国審査では案外すんなり四ヵ月の滞在許可を出してくれた。インドで懲りて代表的な問答を事前に予習した成果だろうか。本当はもう少し長く滞在したいと思ったのだが、昨年より観光ビザでの滞在に対する規制が厳しくなり(原則3ヵ月、長くて4ヵ月)、かなり厳格に運営され始めた。4ヵ月を認めてもらえただけでもよしとすべきなのだろう。時間は14時になっていた。 空港を抜けると森田に電話した。地元の友人である森田は、家業を継ぐためサンタモニカに留学して宝石鑑定の勉強をしていた。僕は待ち合わせ場所のタクシー乗り場へ歩いた。そして歩道にバックパックを置いて、その上に座った。少し眠くなり始めたころ、ねずみ色の車が目の前で急停車した。15時を少し過ぎていた。「わりぃ、わりぃ。待った?道がでぇれえ混んどったんじゃ~」と言いながら車から降りてきた森田は、あいかわらず人懐っこい笑顔で「時差ボケ大丈夫?」と聞いた。 日本からの乗換地であるソウルを出発した後すぐ時計を17時間遅らせた(19時発のとき午前2時にした)ためか時差ボケは特に感じなかった。時差のある場所へ行くときは常に出発直後に時計の針を現地時間に変えて眠ることにしている。この時差ボケ対策はかなり効果的だと思う。ソウルで乗り換えたのは格安航空便の大韓航空で来たからだ。日本航空は高根の花だった。 荷物をトランクに入れて車に乗りこんだ。森田が椅子に転がっているラジカセのスイッチを入れると聞いたことのある英語の曲が流れてきた。カーステレオはついていないようだ。フリーウエイに入ると車はどんどん加速した。スピードメーターはやっぱりマイル表示なんだな・・・などと妙なことに感心した。 途中スーパーで買い物をして森田のホームステイ先へ行った。サンタモニカの閑静な住宅街にある大きな一戸建だ。あたりのどの家も芝生の庭に木が植えられていた。大家の奥さんは愛想よく出迎えてくれた。今日はここに泊めてもらうことになっている。 夕食は2人で料理したおでんだった。先ほどスーパ

  • 2023/12/07 18:52

    「リプレイスメント」に元気をもらう… (DVDで鑑賞)

    キアヌ・リーヴス主演のスポコンもの。アメフトが題材になっている。学生時代に「フットステップファルコ」の二つ名で活躍したシェーン・ファルコだったがある試合でのミスをトラウマに抱え、現在はクルーザーなどの船底を清掃しながらその日暮らしの生活を続けていた。ジミー・マクギンティーも過去に偉大な功績を残した監督だったが、スター選手と喧嘩になりチームをクビになった。そんなある日。ジミーはストライキで空いた穴を...

  • 2023/05/28 20:58

    去り際の美学~ユーミンと中島みゆき

    古より、ライバルとあちこちで言われてきた、ユーミンと中島みゆき。 90年代までは、レコードのセールスだけ見ると、ユーミンの圧勝だが、2000年代に入って逆転したのではと思う。 2000年代に入ってからこれといったヒットのないユーミンに対し、

  • 2023/05/21 20:41

    オムニバス「HOP STEP JUMP vol.3」

    みなさん、こんにちは、 YANO-T です。 今日もYANO-T's blogへお越し頂き、 ありがとうございます。 感謝感謝。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle []).push({}); オムニバスシリーズは 毎回たくさんの★★★をいただき、 そして日に日に増えていってます。 本当にありがとうございます。 感謝感謝。 そこで、今回は 久しぶりに オムニバス「HOP STEP JUMP vol.3」 (天気のいい日にウキウキの気分で外出したくなったり、ドライブのお供にあうような曲を選曲しました) のテーマで、洋楽80’sに絞ってお届けします。 最後まで…

  • 2023/05/20 05:20

    あの頃のワキ少年には想像もしなかった未来

    Vynilって言うんだ。海外生活を始めたころ、アナログレコードを Vinyl って言うの知らなくて、始めはなんのこっちゃ?とか思っていたものです。よく考えると、確かにビニール盤とか言った気もしますが、ビニールっていうと、なんかビニール袋を想像しちゃうんです、しかし!一方でビニール袋はプラスチックだし、日本にいたら分からない事ばっかりと言いますか、学校では教えてくれない英語ってたくさんありますよね。そんなビニー...

  • 2023/04/19 08:41

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち⑨USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are the World)」

    あなたが始めて意識して聴いた洋楽は何だろうか?私は、中学校の英語の授業で聞いた「イエスタディ」がそれである。その後、やはり英語の授業で聞いたのが今回紹介する「ウィ・アー・ザ・ワールド」である。このように、私はロックが人を救うことが出来る素晴

  • 2023/03/18 12:32

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち⑥フォリナー「アイ・ウォナ・ノウ(I Want to Know What Love Is)」

    突然だが、私はゲンの悪い人間である。例えば、通い始めた店がすぐにつぶれるとか、趣味の同好会が自分が入ったとたん活動縮小⇒解散など、1度や2度のことではない。そういう巡り会わせなのだろうか?実は、このシリーズで取り上げているアーティストの中に

  • 2023/03/18 12:31

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち⑤ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「パワー・オブ・ラヴ (The Power of Love) 」

    1985年はまさにバブル景気前夜。私の1985年で一番の思いでは、『スーパーマリオブラザーズ』が発売されたことだろうか。日本全体が理由もわからない期待感にソワソワしていた。この頃の日本人が写った写真をよーく見てると、地面から足が数ミリ浮いて

  • 2023/03/18 12:30

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち④ダイア―・ストレイツ「マネー・フォー・ナッシング(Money for Nothing )」

    本来は、④でホール&オーツ「アウト・オヴ・タッチ」について書く予定だったのだが、wikiを見てみると1984年発売で、ナンバーワンになったのも1984年の12月ということであった。そこで、ダイア―・ストレイツ「マネー・フォー・ナッシング」に

  • 2023/03/18 12:29

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち③ティアーズ・フォー・フィアーズ(Tears for Fears)「シャウト(Shout)」

    エビスが洋楽聞き始めたのは、1985年だった。 当時、弟たちの家庭教師に来ていた従姉妹の影響で聞き始めた何事も始めた頃のことはよく覚えているもので、この年に聞いた曲たちは今でも私のお気に入りで折につけ聞いている。その中でも特に印象深い10曲

  • 2023/03/18 12:28

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち②ホイットニー・ヒューストン「すべてをあなたに(Saving All My Love For You)」

    誰が読んでいるともわからないほど過疎化している当ブログである。モチベーション維持のために管理人のエビスが洋楽を聞き始めた年である1985年のヒット曲を紹介しようというだれ得な企画である。日本はバブルが始まった頃で、いわゆる大物外タレがジャパ

  • 2023/03/18 12:26

    Go Back To 1985 :思い出の曲たち⑦REOスピードワゴン「涙のフィーリング(Can’t Fight This Feeling)」

    かつて、洋画や洋楽のタイトルを原題とは似ても似つかないものにすることが多かった。また、似ていないわけではないが、余計なものがついていることも多かった。映画の邦題でよく使われたのが「愛は~、愛の~」だろう。最も驚いたのは『Gorillas i

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    1969年に『クリムゾンキングの宮殿』(通称宮殿)で鮮烈なデビューを飾り、未だに現役というから恐れ入る。もちろん、もっと長きにわたる現役バンドもあるけど。キング・クリムゾンの音楽は時期により全く異なっていることは周知のことだが、改めて聞き直

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    オールカラーの美しい1枚絵のイラストを見ているようなわたせせいぞうの絵を、誰でも一度くらいは目にしたことがあるのではないだろうか?とにかく、美麗な絵で、特に色彩の素晴らしさには目を見張る。カラーインクを使っているらしいのだが、印刷するときの

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