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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十五)
児童養護施設『チャイルドケアホーム』は上條のアパートからほど近いところにあった。アパートを出た二人は一応上條のアリバイを確認するためにこの施設を訪ねていた。 児童養護施設とは保護者のいない子供や親と暮らすことのできない子供たちが生活するために設置されている施設で全国に五百以上設置されており、二万人を超える子供たちがそこで生活していた。そして、その半数以上の子供が親からの虐待を受けて保護されてきたものたちだった。 「お待たせしました」 そう言って応接室に入ってきたのは紺野千恵子という五十代半ばの女性だった。彼女が差し出した名刺には所長という肩書が記載されていたが、エプロン姿の紺野は少しも施設の責…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十四)
「宮城さん、あなたが何のために僕を尋ねてきたのか薄々は分かっています。そしてそんなあなたにこんなことを言うのは少しおかしいですけど、あなたは僕たちと同じです。そして、僕はあなたと話をするのは、そんなに悪い気分じゃないです」そう言って上條も静かに微笑んだ。 「さきほど、あなたはツァラトゥストラの思想は真理ではないんじゃないかと言いましたね。それも又あなたが生きてきた中で得た悟りです。それは誰がなんといおうがあなたにとって一つの真実なんだと思います。何が正しいことなのか、それは誰にも分からないし、そんなに大したことじゃない。本当に大事なことは、僕たち一人一人が正しいと思えることを追い求め続けること…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十三)
上條は初めて会った時と同じような穏やかさで二人を中に招き入れた。 「汚いところですが、どうぞ中へ」その声には警察に対する怯えとか恐怖といった反応は一切感じられなかった。桜は室内に入ると、ざっと部屋を眺め渡した。シンプルな木製のテーブルが部屋の中央に置かれ、その脇には一人掛けのソファーが据えられていた。他には小さなテレビとオーディオコンポが目につくくらいで、室内は綺麗に片づけられていた。 「どうぞ、ここに座ってください」上條は置いてあったソファーをどけると浩平と桜に声をかけた。 浩平は軽く礼をいいながらその場に座り、今日の来訪の用向きを話し始めた。 「お時間をとらせてしまってすいません。御存じの…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十二)
陽射しが強く照りつける中、今日もたくさんの人が街を歩いていた。バッグを下げて町を闊歩するサラ―リマン、ウィンドーを眺めながら楽しそうに談笑するカップル。リュックサックを背負って軽快に自転車を走らせる学生。いつもと変わらぬ風景がそこにあった。 「不思議ですね」車を運転しながら桜がなんとなしにつぶやいた。 「何が」窓の外を眺めていた浩平が無造作に答えた。 「だって、テレビや新聞はツァラトゥストラ一色だってのに、街は平穏そのものだなと思って」 「あいつらが異常なんだよ」浩平が苦々しく言い放った。 「先輩は大のメディア嫌いですからね」桜は苦笑した。 「褒めてもらって光栄だね」浩平は嫌味を込めてそう言う…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十一)
翌日の各紙の朝刊はどれもこれもツァラトゥストラの文字がでかでかと躍っていた。ツァラトゥストラの箴言と題された昨日の声明文の全文が掲載され、これまでの事件の経緯も事細かに記述されていた。それだけにとどまらず、ニーチェの思想や『ツァラトゥストラはかく語りき』に関する詳細な解説や論評も長々と書きたてられていた。 各局のニュース番組では西洋哲学を専攻している教授や研究者たちが次々と登場し、我こそツァラトゥストラの真の理解者であるかのように得意げに自説をひけらかし、警察OBや心理学者たちは犯人像について喧々諤々の議論を繰り広げていた。 だが、それ以上にすさまじいのはインターネットであった。ツァラトゥスト…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十)
『ツァラトゥストラの箴言』 お前たちは腐りきっている。なんのためにこの世に生を受けたのかその意味も知らず、学ぼうともしない。お前たちは己のことしか考えず、他者を思いやることもなく、自己の権利ばかりを声高に主張する。そのくせ大衆の中に群れていないと不安でしょうがないひ弱な連中ばかりだ。己を克己することもなく、偉大な挑戦に立ち向かう勇気もなく、ただぬるま湯のような日々を漫然と送る虫けら以下の生物だ。しかもそんなおぞましい環虫のようなお前らが、我が物顔でこの大地を闊歩し、一秒ごとにこの世界を汚している。 お前たちは覚えているか。二千年前、偉大な魂が生まれ、人間の生きるべき道を説いたことを。そして人間…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十九)
「なんだと!」 電話を手にした近藤管理官の怒鳴り声が室内に響いた。「おい、テレビつけろ! 帝都テレビだ!」壊れんばかりに受話器を置いた近藤が叫んだ。 桜が急いでテレビのリモコンのスイッチを押すと、室内にいた全員がテレビの周りに集まってきた。テレビに映った番組は桜も知っていた。芸能界や社会のゴシップ情報を中心に扱う番組で、メインキャスターがニュースを一刀両断するやり方がうけていた。 『皆さん、こんにちわ。今日は予定を変えてこのニュースから始めます。皆さんは今、都内で奇妙な事件が起こっているのをご存知でしょうか。帝都大学の元教授と元学生が相次いで不審な死を遂げているのです。現在、警視庁はこの事件を…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十八)
翌日、定時の捜査本部会議が開催されたが状況は芳しいものではなかった。内藤ゼミのOB全員から聞き取りした結果、宮澤や内藤に恨みをいだくような人物は見当たらず、殺人を想起させるような事実は何一つ浮かび上がってこなかった。 上條和仁に関しては例外なく好印象の人物として捉えられており、殺人を犯すというイメージからは縁遠い人物に思えた。佐々木や田口についても、現在はごく普通のサラリーマンとして働いており、事件前後から最近の動向についても綿密な調査がなされたが、特に不審な点は見当たらなかった。 内藤教授については、最近めっきり老けたとか元気がなかったという報告はあったが、これとても、末期癌に侵され余命いく…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十七)
「ところで、佐々木さんは上條さんが指輪をしているのをご存知ですか?」浩平が話題を変えた。 「指輪? 上條がですか? いや、あいつはそんなものしてませんよ」佐々木はきっぱりと否定した。 「じゃ、二十四日の晩も指輪はしてなかったんですね」 「あたりまえじゃないですか。一体、なんのことを言ってるんですか」 「いや先日上條さんにお会いした時、左手の薬指に指輪をしてましてね。聞くと、これは大事な人にもらったものだと言ってたんで」 「どんな指輪ですか?」 「それがですね、鳥が翼を広げたようなデザインの指輪で」 それを聞いた途端、佐々木の眼が大きく見開いた。 「何か、ご存じなんですか」浩平が探るように尋ねた…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十六)
「上條は――いや、拓己と上條は本当の天才でしたよ。自分でこんなこと言うのもなんですけど、僕だって地元では常に一番だったし、入学が決まった直後は周りから散々誉めそやされて、自分は天才だなって思ったこともありました。だけど上には上がいるんですよね――ねえ刑事さん、本当の天才ってどんな奴だか分かります。テストの点数がいいとか記憶力がいいとかそんなことじゃないんですよ。本当の天才っていうのは、ものごとの本質を把握する能力が桁違いに優れている人間のことをいうんですよ」 「ものごとの本質?」浩平が不審げな顔をするのを楽しむかのように、佐々木が言った。 「例えば社会ってどんな形をしているか分かりますか?」 …
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十五)
翌日、浩平と桜は御茶ノ水駅から歩いてわずか十分のところにある宮澤の同級生の佐々木隼人という男のアパートを訪ねていた。来る途中上條と田口が買い出しに行ったというコンビニにも寄ってきたが、そこは佐々木のアパートから五分足らずで行ける距離だった。 佐々木の部屋は宮澤ほどではないにしても二十五歳のサラリーマンが住むには少し贅沢過ぎるように桜には思えたが、佐々木が務めている大手商社の名前を聞くと最高学府を卒業したエリートたちの生活はこんなものかと妙に納得した。だが目の前に座っている男は見るからに体育会系というような体つきで、肌も浅黒く、桜が思い描く帝都大学というイメージからはかけ離れていた。 「佐々木さ…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十三)
だいぶ利用者も減ってきたが浩平と桜の作業は続いていた。二人は積み上げられた本に付けられた付箋を一つ一つ確認していた。 「へえ、そうなんだ」桜が声をあげた。 「この本によると、ニーチェはザロメに振られたあと、失恋の痛みや病気を癒すためにイタリアに行くんですけど、そこで書かれたのが何を隠そう『ツァラトゥストラはかく語りき』なんですって」 「失恋のショックの中で『ツァラトゥストラはかく語りき』は書かれたってことか。この中にニーチェの女性観がかなり色濃く表現されているのはそういうことが原因なのかもな」浩平が納得したように言った。 「えっ、どんなことが書かれているんですか」 浩平は目の前に置いてあったニ…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十四)
窓の外はすっかり暗くなっていた。学生たちの姿もまばらになり、たまに聞こえてくる咳払いの音が異様なほど館内に響いた。既に九時を過ぎていたが、まだやるべき作業は残っていた。桜は気分を新たに話し始めた。 「永劫回帰についてはさっき言ったとおりですが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で語られるもう一つの中心思想が超人思想です。えっと『人間は橋を渡る過程の存在であり超克されるべき単なる中間者であるにすぎず、超人はその対極にある概念として、肉体を持った意志決定者として生を肯定し、新しい価値を示すものであり、現代文明に毒された人々や神と対極をなすものである』――だそうです」 「ここで重要なのは、肉体を持っ…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十二)
浩平は呆けたように固まっていた。かつてはそのビジョンに陶然と酔いしれたこともあったが、今の浩平にとってそのビジョンは粟立つような恐怖を感じさせるものでしかなかった。だがもし今回の犯人がニーチェに共感したかつての自分と同じようなことを夢想していたとしたら、今回の犯行の動機が既存の価値観の破壊、現在の社会制度に対する挑戦だとしたら――考え過ぎだ、浩平は何度も自分に言い聞かせようとしたが十数年ぶりに甦ったそのビジョンは脳内からなかなか消えようとはしなかった。 「――先輩!」 耳元で大きな声がした。浩平は慌てたように振り向いた。 「大丈夫ですか、顔色悪いですけど」桜が心配そうにこちらを覗きこんでいた。…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十一)
真っ赤な巨大な太陽がジリジリとアスファルトを照り付けていた。至る所で湯気のように陽炎が立ち昇り、べとべとした大気が重苦しく沈滞する中、この東京の都心のいったいどこにいたのか、油蝉の鳴き声だけが異様なほど辺り一面に響いていた。海外の有名ブランドショップが立ち並ぶこのあたりは、普段であれば多くの買い物客や観光客でにぎわうのだが、今日に限ってはなぜか人一人見当たらず、車一台走っていなかった。 そんな中、何か異様な音が蝉の声に交じって聞こえてきた。怒号、悲鳴、ガラスが割れる音、金属がへこむ音、禍々しい地鳴りのような鳴動が大気を震わせ押し寄せてきた。それは、何とも形容しがたい人間たちだった。全身にピアス…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十)
『新しい偶像』 国家は全ての冷酷なる怪物のうちで最も冷酷なるものである。それはまた冷酷に嘘をつく。「わたしは民族そのものである」と。 それこそが嘘である。民族を創造し、一つの信仰、一つ愛を彼らの上に掲げたものは創造者たちである。こうして彼らは人生に奉仕した。 多くの者のために罠を仕掛け、それを国家と名付けるものは破壊者である。彼らは一つの剣と百の渇望を多くの者の上にかけるのだ。 民族がまだあるところでは、国家は理解などされず、むしろ邪まなるものとして、また風習及び律法に対する罪悪として憎悪される。 民族とはいかなるものかを私はあなたたちに教える。各々の民族は善悪についての各々の言葉をもつ。その…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(九)
太陽が西の空に落ちかかり、街中がオレンジ一色に包まれる頃、浩平と桜はまちの図書館に来ていた。 「うわ~涼しい!」図書館に入ると桜が大声をあげた。その言葉どおり、天上から吹き付ける涼気が肌にべとついていた湿気を一瞬のうちに追い払った。 「確かに、ここは別世界だな」昼の暑さに閉口していた浩平も一息ついたように笑顔を見せた。厳しい残暑が続いていることもあり、他の利用客もみな一様にほっとしたような顔つきで自分の時間を思い思いに過ごしていた。 「私、図書館ってあんまり来たことないんですけど、結構、雰囲気いいですよね」桜が少し浮かれた調子で周りを見渡した。 「お前な、本読まないのかよ」浩平があきれ顔を桜に…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(八)
今年は残暑が厳しく、もう九月になろうとしているのに今日も真夏日を記録したようで、この時間になっても肌に粘着するようなべとついた熱気が辺りに漂っていた。浩平は開襟シャツを着ているにも関わらず暑さに辟易したように悲鳴を上げた。 「しかし暑いな。東京に来てから十年になるけど、東京の夏の蒸し暑さだけはいまだに耐えられないわ」 「このくらいなんともないですよ。先輩は東北出身だから暑さに弱いんじゃないですか?」 全く暑さを感じさせず涼やかに笑う桜の姿が、浩平には少しまぶしく感じられた。 「関西で育ったお前がうらやましいよ。とにかく早く帰ってキンキンに冷えたビールを飲みたいわ」浩平の一言に桜は笑った。 二人…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(七)
「一体どうしたんですか?」車に乗り込むや桜は浩平に噛みついた。今まで何度も一緒に聞き込みをしてきたが、大事なところでは浩平が常に合いの手を入れて、それが絶妙のコンビネーションとなり、思わぬ一言を聞き出したことは一度や二度ではなかった。それが今回に限っては、浩平は最初に質問したきり結局最後まで黙ったままであった。 桜は不平顔で浩平を睨みつけていたが、浩平は口を閉じて前を見つめるだけだった。文句が口から出かかったがなんとか喉に押し込むと桜はギアを入れて車を走らせ始めた。人が往来する夕暮れの街並みを横目に見ながら、桜はさきほどのことを思い返していた。確かに不思議な雰囲気を持った青年であった。 上條和…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(六)
上條和仁の住まいは帝都大学から歩いて十分ほどの集合住宅が密集している一角にあった。浩平と桜は築三十年は経っているかと思われるような古めかしい二階建てのアパートの錆びついた階段を上っていった。 二人は通路の一番奥の部屋の前に立った。玄関の脇には小さなプランターが置かれていてペチュニアが綺麗な薄紫色の花を咲かせていた。浩平は本当にこの部屋かと確かめるように桜の方を向いたが、桜はドアに203号室と書いてあるのを見ると間違いないとばかりにコクとうなずいた。浩平はそれを見ると気を取り直して玄関脇の旧式のインターホンを押した。ブザー音が室内でも響いているのが外からもはっきりと聞こえた。すると中で人が動く気…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(五)
浩平と桜は宮澤の大学時代の同級生やゼミの後輩を片っ端からあたっていたが、手掛かりになりそうなことは何一つ聞き出せないでいた。ただ宮澤の同級生で同じ内藤ゼミに所属していた高橋という男が語った言葉が妙に浩平の頭に残っていた。 「宮澤はほんと頭良かったですよ。それに生まれつきリーダーシップがあるっていうのか、後輩とかの面倒見も良かったですね。責任感も強いし実行力もあって、なんていうか完璧なやつでしたよ。完璧すぎるっていうか。あいつはニーチェに心酔していたから、ニーチェが説いた生き方みたいなものを実践しようと気張ってたんじゃないかな。でもそういうことを言ったら、うちらのゼミ生みんな多かれ少なかれそうい…
はじめに 本編 (一) (二) (三) (四) 読者さまからいただいたコメント あとがき はじめに この作品はある日突然、小説を書きたいと思い立って書き始めた作品です。それまで小説など書いたことなどなかったから、完成させるのに本当に苦労したし、その後も、何度も手を入れて直してきました。 処女作にはその作者の全てが詰まっていると言います。その言葉通り、この作品には僕の全てが詰まっています。 20万字を超える大長編ですが、最初の二話だけでも読んでいただければうれしいです。 本編 (一) 映画史に残る名作『2001年宇宙の旅』のオープニングにも使われた交響曲『ツァラトゥストラはかく語りき』。 新時代…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(四)
死体が発見された翌日、捜査本部で第一回目の捜査会議が行われ、それぞれの担当から現在の捜査状況が報告された。 検死解剖の結果では、死亡後三十時間程度経過しており、死亡時刻は八月二十五日、日曜日の午前三時前後と推定された。死因は右側頭部から撃ち込まれた銃創によるものであり、硝煙反応が頭部からのみ検出されたことから、ほぼ銃を押し付けられた状態で犯人に撃たれたものと断定された。頭蓋骨内に残された銃弾を調べた結果、3Dプリンタで作られた銃から発射されたものであることが判明した。銃弾にはエアガンに使われる薬莢を少し加工したものに火薬を詰めたものが使われており、科捜研が同じものをつくって実験したところ、至近…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(三)
八月二十六日の午前十一時、青梅街道沿いの山林で男の死体が発見された。死因は頭部への銃創によるものであったが、現場付近には凶器は残されていなかった。被害者のズボンには財布が残されており中に入っていた会社の社員証から、死亡した男性は東京都港区在住の宮澤拓己二十五歳であることが確認された。財布には手を付けられた形跡もなく、現金三万円とカード一式が残されていた。 現場は奥多摩の山林の中を走る国道から百メートルほども離れた林の中で、死体が発見されたのは偶然ではなく警視庁へ郵送された匿名の手紙のおかげであった。そこには死体の位置をマークした地図が印刷されており、余白に『ここに死体がある』とだけ印字されてい…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二)
私は人間を信じていた。人間とは高い理想をもち、理想を実現するために己を克己し、そして他者の痛みを自らの痛みとして分かち合う、そういうものであると固く信じていた。私はそういう生き方を自らに刻み付け、微々たる歩みであったとしても生きることに価値を見出せる社会の実現のために努力してきた。しかしそれは無意味な行動であったとついに悟った。なぜなら私の周りにいたのは人間の名に値しない芋虫の群れだったのだ。向上する意志を持たず、食って寝てまぐわるだけ、己の欲望のままに行動することしか頭にない、そういうおぞましい環虫の群れだったのだ。 これが人間なのか。これがともに歩もうとしたものたちの真の姿なのか。こんな吐…
【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(一)
映画史に残る名作『2001年宇宙の旅』のオープニングにも使われた交響曲『ツァラトゥストラはかく語りき』。 新時代の到来を予感させるようなトランペットの吹鳴、新しい世界の創造に大地が慄くかのようなドラムの振動、偉大な存在の誕生を言祝ぐかのように鳴り響く楽器たちのハーモニー。オーストリアの作曲家、リヒャルト・シュトラウスが、ドイツの哲学者ニーチェによって書かれた同名の著作に喚起されて作り上げた至極の名曲。 男はこの曲を聞くといつも考える。シュトラウスはニーチェの書から何を感じ、何を思い、この曲を作ったのだろうか。歓喜か希望か興奮か、確かにニーチェが生み出したこの偉大な書には人間の魂を強くゆさぶる何…
【ダークファンタジー小説】『リバイアサン』(第一部 完) 残されたものたちの決意
雨はまだ降り続いていたが、いつの間にか雷鳴は止み、今は糸のように細い雨が静かに降っていた。それは天が涙しているような、あるいは大地に染まった血を洗い流しているかのようでもあった。あれだけいた群衆はいつの間にか誰一人いなくなっていた。アインやジュダたちの姿も今はなかった。その中でリュウはたった一人、雨に濡れながら広間に佇んでいた。リュウの前には数え切れないほどの矢を浴びた男が横たわっていた。それは千人力のマッテオだった。リュウはマッテオの脇にかがみこんでその顔を見た。マッテオの顔もまたレインハルトと同じく穏やかな笑みを湛えて、まるで眠っているようですらあった。 ――おい、リュウ。今のは完全にやら…
処刑人は両足を切り落とすと、そのまま去っていった。それと入れ替わるように一人の少年が王宮から出てきた。リュウだった。リュウは胡散臭げな眼で群衆たちを見渡すと、ずかずかと広間の方に向かっていった。そして、剣を抜いて、十字架に架けられた男に近づいた。その男を切り殺すつもりだった。大事なリオラを誘拐した大悪人、自分の手で地獄に送り込んでやるつもりだった。だが、その男に近づくにつれて、剣を持つリュウの手は震えてきた。 リュウは自分の目が信じられなかった。十字架に架けられ両足を切られた男は、リュウがよく知っている男だった。リュウが心から尊敬し、父とも慕う男だった。リュウはその男の前に立つと、震える手で血…
広場は静まり返っていた。マッテオの壮絶な死は、まるで祭りを楽しむかのように浮かれ騒いでいたウルクの民の心に深刻な打撃を与えた。誰も彼も、自分たちがマッテオにしたことに言い知れぬ後味の悪さを感じていた。 ジュダは、人の心の機微を測ることに長けていた。ジュダはこの雰囲気の中でさらにレインハルトに向かって石を投げさせれば、ウルクの民衆はそのことに嫌悪を感じ、その嫌悪の念がそれを命じる自分たちに反感として跳ね返ってくることを一瞬にして悟った。ジュダは利口であった。ジュダは民に向かって、こう語り始めた。 「背教者レインハルトの仲間であった人殺しのマッテオは今まさに神の手によって、罰せられた。ウルクの諸君…
【ダークファンタジー小説】『リバイアサン』(六十四) 聖騎士
ラッパが響き渡った。 その途端、群衆の騒ぎは一瞬にして静まった。そして、大きな声が轟いた。 「アイン国王の御出ましてある」 その声とともに王宮の中から、威風に満ち、花のように美しき若き王が現れた。それを見た群衆の間から天を突くような喝采の声がうなりのように沸き起こった。アインはその声を当然の如く受け流しながら、静かに一番高い座についた。その横にはあのジュダが悠然と控えていた。ジュダはアインが王座に座るのを見ると、ゆっくりと口を開いた。 「これより、長年神を欺き、国を欺き、民を欺いてきた極悪人の処刑を始める。このものは、長年、聖騎士などと称してきたが、その実、異教の神を崇拝し、幼い少年少女たちを…
リオラはうっすらと目をあけた。天井が見えたが部屋は薄暗かった。リオラは周りを見渡したが、そこは見知らぬ部屋だった。ベッド以外なにもなく、窓もテーブルも何もなかった。 リオラはどうして自分がこんなところにいるのか思い出そうとした。レインハルトとリュウを迎えに街道に出向いたのだった。そこで今にも倒れそうな老婆に会い、その人の家まで送ってあげた。部屋の中に入り、窓をあけようとした……覚えているのはそこまでだった。 突然、ドアをとんとんと叩く音がした。 リオラの全身が凍ったように固まった。リオラは息を殺してドアの方をじっと見た。すると、ガチャガチャと鍵を外す音がしたかと思うと、ゆっくりと扉が開き、男が…
店に戻ってきたマッテオは、店の扉を締め切ると、弟子たちに集まるように言った。そして、みんなの顔を見ると、ゆっくりと話し始めた。 「ブラム、レビ、メースよ。俺は良い師匠ではなかったが、お前たちは今日まで頑張って俺についてきてくれた。もう俺がお前たちに教えることは何もない、お前たちはもう一人前の立派な鍛冶職人だ。これからはみんな一人でやっていけるだろう。だから、お前たちは今日で俺のもとを去るがいい」 マッテオの言葉にびっくりしたブラムが叫んだ。 「師匠、私たちはまだまだいたらない弟子です。どうして、急にそんなことを言われるのですか……まさか、レインハルトさんを!」 マッテオは驚く弟子たちの顔を見る…
翌朝、憔悴しきった顔でぼんやりと庭先を眺めていたマッテオのもとに、弟子のブラムが血相を変えて駆け込んできた。 「お、親方! 大変です! レインハルトさんが、レインハルトさんが!」 「レインハルトが戻ってきたのか!」マッテオはレインハルトがリオラを連れて帰ってきたのだと思い、うれしそうに腰を上げた。 「い、いや、そうじゃなくて……レインハルトさんが大変なことに……高札があちこちに立てられて、レインハルトさんが背教の罪で処刑されると……」 「なんだと! そんな馬鹿なことがあるか! どこだ、その高札はどこにある!」 「この先の四つ角のところにも立っていて、その前はえらい人だかりで……」 マッテオはブ…
かつてマナセが大公時代に臣下と謁見した場所だけあって、その場は広く、絢爛豪華極まりなかった。だがそこにいるのはひじ掛けに肘をついて軽く頭を傾げながら、優雅にこちらを眺めて座っている金髪の男とさきほどの執事だけであった。 リュウは金髪の男の方に向かって、ゆっくりと進んでいった。だが金髪の男はリュウを恐れる様子はまったくなく、まるで楽しんでいるようにその動きを見ていた。あまりに無防備な様子を逆に警戒したリュウは高座の一歩前で止まった。そして、人質がいることなど、まるで見えていないかのように微笑みを浮かべる金髪の男に向かって声を掛けた。 「……てめえがジュダか。やっぱり、親子は親子だな、あのカイファ…
豪奢な部屋の一室で、ジュダはゆっくりとブランディを飲みながら、アモンの報告を聞いていた。 「……そうか。レインハルトは承知したか」ジュダがつぶやくように言った。 「はい。いささか拍子抜けするほど、あっさりと承諾しました」アモンが囁くように言った。 「何か、言いはしなかったか」 「……たいしたことは何も……」アモンが少し口ごもった。 「構わん。言え」ジュダが言った。 「はっ、……恐れながら、彼奴め、こんなことを言っておりました。『神の御心は測り知れない。お前たちの策謀が成功したなどとはゆめゆめ考えぬことだ。神はお前たちの不実をよくご存じでいられるのだ。お前たちの破滅のときは迫っているのだ。それを…
【ダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十八) それぞれの想い
急に目の前が開け、小さな小屋が見えてきた。カーテンは閉められていたが、中で明かりが灯されているのがカーテン越しに分かった。レインハルトはゆっくりと小屋に近づき、扉を開けた。そして何の恐れもなく小屋の中に入っていった。 部屋の中には年老いた老婆とちょび髭を生やした執事のような男と数人の兵士が立っていた。 「ようこそ、いらっしゃいました。レインハルト様」ちょび髭を生やした男は、いかにも芝居がかったようにレインハルトに声をかけた。レインハルトはその男を覚えていた。その男はジュダの執事、アモンであった。 「……お前か……リオラはどこだ。お前たちの言う通り私は一人でここに来たぞ。さあ、リオラを返してもら…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十八) 父親
「おい、ブラム、お前はいったい全体覚える気があるのか! そんなこっちゃ、お前は一生、俺のとこで冷や飯食う羽目になるぞ!」 相変らず、マッテオの大きい声が表通りにまで響き渡っていた。その声を聞いたレインハルトとリュウは苦笑いしながら、それでも何かほっとするような思いで店に入っていった。 「マッテオ、今帰ったぞ!」 レインハルトがマッテオに負けじと大きな声を張り上げると、一瞬物音が静まり、次の瞬間には、どたばたと走ってくる音が聞こえ、マッテオと弟子たちが店に飛び出してきた。 マッテオはレインハルトとリュウの顔を見ると口をあんぐりあけ、そして、いきなりレインハルトに抱きついた。 「……よく帰ってきた…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十七) 罠
「マッテオ、じゃあ、出かけてくるね!」 「リオラ、今日もいくのか? そんなに慌てなくたって、レインハルトたちはそのうち帰ってくるさ」 「だって、ここでじっと待っているなんて耐えられないわ! レインハルトもリュウもきっと疲れているに違いないから、早く、美味しいお茶を飲ませてあげたいの」 リオラはそう言うと紅茶葉にビスケットに湯沸かし用のポットやカップをいっぱいに詰め込んだバスケットを肩にかついで、表に飛び出していった。 マッテオはその後姿を見て苦笑したが、これまでどんな思いでリオラが日々を過ごしてきたかを思えば、一刻も早くレインハルトたちに会いたいというリオラの気持ちは分からなくもなかった。リオ…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十六) 神を殺すものたち
アインは可愛がっているエルに餌を与えていた。 国王になってもこれだけはやめる気はないようで、手ずからぶら下げてきた肉を地面に置くと、近寄ってきたエルの顔を優しくなでた。ある意味アインにとっては恐れて誰も入ってくることのない、このエルと過ごすひと時が、唯一、素の自分になれる貴重なひと時なのかもしれなかった。 だが最近、この貴重なひと時が別な目的のために利用されるようになっていた。エルを恐れぬもう一人の男、アインの腹心となった司法大臣のジュダが今日も少し離れたところに立ち、アインとエルの様子を眺めていたが、アインが自身よりはるかに大きい虎に肉を与えるのを見て感嘆するように言った。 「しかし、そのよ…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十五) たくらみ
レインハルトがイラル軍を打ち破ったという知らせは既にウルクにも届いており、街中が沸き立っていた。人々は口々にレインハルトの名を讃え、国境の方を向いて祈りを捧げた。それはまるで神を讃えるごとくですらあった。 そんな中、王宮にあってマナセだけが一人憂鬱な時を過ごしていた。二万の大軍であればレインハルトとても適うはずがない、あの生意気なレインハルトも無様な死に様を晒すことになるだろうとほくそ笑んでいたのに、いまやレインハルトの名は神にも匹敵せんばかりに高まり、国王であるマナセのことなどすっかり忘れ去られていた。 だがマナセの心を不安にしているのは、そのことばかりではなかった。司法大臣のジュダがこのと…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十四) 託されたもの
目を開けると天井が見えた。あたりを見渡したが、そこは見たこともない部屋で、リュウは自分がベッドの上に寝ているのをようやく知った。体が鉛のように重かった。体を動かそうとしたが力が入らず、リュウは諦めたように頭を枕に沈めた。 いきなり扉が開いて誰だか知らない女が部屋の中に入ってきた。だがその女はリュウが目を覚ましていることに気づくと、びっくりしたような顔をしてすぐに出ていってしまった。 リュウはなんで自分がここにいるのか思い出そうとした。確か、自分はイラルの勇者イロンシッドと戦っていたはずだった。危うく死にかけたがなんとか相手の肩を貫いたはずだった。膝をついたイロンシッドは負けを認め、首を刎ねろと…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十三)館での虐殺
どこか知らない館にいた。 目の前に妙なやつらがいた。一人、二人……六人か、そいつらは変な仮面をつけて、何か低い声で呪文のようなものを唱えていた。その声は重苦しく、そして何か禍々しく、聞いているだけで心がざわざわと嫌な感じがした。そいつらは部屋の中央の大きなテーブルを囲んで呪文を唱えているのだが、どうもそのテーブルの上には、子どもが一人いるようだった。 仮面のやつらの影でよく見えなかったが、まだ小さい子どもがその上に寝かされていた。そいつは、なんとかそこから逃れようともがいていたが、縄か何かで手足を縛られているのか、逃げ出すことができないようであった。ふと自分も同じように手足を縄で縛られているの…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十二) 神の怒り
レインハルトはイロンシッドの死を見届けると、リュウを見た。 「リュウよ、お前は神の試練に打ち勝った。お前は神に選ばれた聖騎士としての一歩を歩み始めた。だから、神がお前を死なせるはずがない。今はゆっくりと眠れ」 レインハルトは、そう言うと、軽く微笑みながらリュウの頬を触った。そして、レインハルトは立ち上がった。目の前には、侮りの眼でこちらを眺めるタルタンと、たった一人になったレインハルトを嘲笑う二万の軍勢が取り囲んでいた。 二万の軍勢に囲まれたレインハルトにタルタンが声を掛けてきた。 「レインハルトよ、予定が少し狂ったが、これも余興だ――イロンシッドは口ほどにもなかったが、まあ、勇者などこんなも…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十一) 勇者の死
イロンシッドは冷静だった。右腕は切り落とされたが、イロンシッドは意に介する風もなかった。断面から血がだらだらと溢れ出ていたが、それはかえって血がのぼったイロンシッドの頭を冷ましているようにさえ感じさせた。 これだけの血が流れているのだから、普通であればイロンシッドの方が焦るはずなのに、焦っているのはリュウの方だった。どうにも飛び込む隙がなかった。下手に飛び込んだら、あの長大な剣で真っ二つにされそうな気がした。 少しづつ足を動かしながら、イロンシッドの隙を伺っていたリュウだったが、ふっとイロンシッドが動いた。そう思った瞬間、既にイロンシッドは目の前に迫っていた。 巨大な剣がリュウの眼前に振り下ろ…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(五十) 死闘
イラルの兵二万が見守る中、リュウとイロンシッドが対峙していた。イロンシッドは既に二メートルを超える長大な剣を抜いて軽々と振り回していた。だがリュウはそんなイロンシッドに惑わされることなく、冷静にイロンシッドとの距離だけを測っていた。 イロンシッドはかなり熱くなっていた。レインハルトと戦うことだけを考えていたイロンシッドにとっては、こんな若造と戦うなど思いもしていなかったし、自身への侮辱であると感じた。加えて、この戦いを見つめている兵士から憧憬の眼差しで見られているイロンシッドにとっては、こんな戦いは一瞬で終わらせねばならなかったし、誰もがそれを期待していよう。そうした自身の思いや周囲の期待に満…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十七) 戦士としての歩み
レインハルトとリュウは街道を何事もない様子で歩いていたが、その道の両脇にはイラルの兵士がずらりと並び、レインハルトとリュウを取り囲んでいた。さきほど使者が現れ、イラルの将、タルタンがレインハルトと面会したいとの向上が伝えられたが、レインハルトは「分かった。伺おう」とだけ言い、そのまま、使者に案内されるようにその後ろを歩いているのだった。 リュウは、時折、自分たちを凝視しているイラルの兵士たちをじろりと見渡したが、誰も彼も体が大きく、獰猛な顔つきをしていた。イラルの兵士からすれば、レインハルトは憎んでも殺しても飽き足らない男であった。レインハルトの鬼神のごとき活躍のせいで、イラルは先の大戦で百万…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十六) 勇者イロンシッド
ダンの街を包囲するイラル軍の幕屋の中で、全軍を率いるタルタンが椅子に寄りかかりながら一人の偉丈夫を引見していた。その偉丈夫は二メートル近い大男で、筋骨たくましく精悍な顔立ちをして、タルタンの前に傲然と立っていた。 「イロンシッドよ、ウルクが寄こしてきた報告によると、レインハルトは従者を一人連れて、こちらに向かっているそうだ。おそらく一両日中にもこの地に現れることになろう。我が軍の目的はレインハルトを抹殺することだが、二万の兵をもって、たった一人をなぶり殺しにするなど恥知らずもいいところだ。よってイラル一の勇者であるお前にレインハルトとの決闘を命じたい。あのレインハルトを討ち取れば、そなたの名は…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十六) 若き日のレインハルト 2
雨が降っていた。 その雨はレインハルトの体を濡らしたが、レインハルトは雨が降っていることすら気づいていなかった。レインハルトは、自分が目にしているものが信じられなかった。レインハルトの前には小さな墓石があり、そこにはエリザと刻まれていた。 あの美しい、可愛らしい、エリザはもうどこにもいなかった。食事の後には美味しい紅茶をいれてくれた。エトや神の御使いのもとで学ぶ自分をいつも温かい眼で見守ってくれた。たまの休日に二人だけで出かけていき、匂い立つような花畑の中で抱きすくめると、エリザは恥じらいながらも身を任せてくれた。その彼女はもうすでにこの世にはなく、こんな小さな墓石の下で眠っているのだ。レイン…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十六) 若き日のレインハルト
月明かりがあたりを照らす中、リュウとレインハルトは国境の街ダンを目指して裏街道を急いでいた。王宮に入った報告によると、イラルの軍勢は一万の大軍をもってダンを包囲し、もはや猫の子一匹這い出る隙間もなく、いまやダンの住民はイラルの総攻撃は今日か明日かと生きた心地もせず、ただひたすら中央の援軍を待っているとのことであった。おそらくイラル軍も至る所に斥候を放ち、ウルクの動向を探っていると思われたので、レインハルトとリュウは目に付きやすい表街道は避けて裏道を進んでいた。 山々を超えるうちに、次第に峰は厳しくなり、国境の山脈が見え始めた。目指すダンの街は山脈の切れ目にある交通の要衝であり、あと一日もあれば…
【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十五) ジュダとアイン
ジュダは王宮の中を歩いていた。 このエリアは、王家のプライベートな空間なのだが、ジュダはそんなことを全く気にすることもなく優雅に歩いていた。女官たちはジュダの姿を見ると脇に下がり深々と頭を下げたが、ジュダが通り過ぎるとその美しさに魅入られたようにその後姿をいつまでも見つめていた。ジュダは中庭に出ると、そこに立っていた執事に声を掛けた。 「アイン皇子は、いつものところか」 執事は突然のことに慌てたが、それでも礼を失せぬように頭を下げ、「はい、少し前に入っていかれました」と答えた。 ジュダは、その言葉を聞くと、あとはもう無用とばかりに鼻歌を口ずさみながら、奥の方に歩きだそうとした。それを見た執事は…