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透明にきらきらと光る水面でしずかに波は寄せて返している。後悔が繰り返し胸のなかで行きつ戻りつするように。いつか潮が引いたとき、その向こうへとわたることはできるだろうか。その先にはなにがあるんだろう。「腹が減ったな」 物思いに耽りながらぼんやり海を眺めていると、ふいに生絹が言った。時計を見るとお昼どきを過ぎている。急に空腹を覚えた。 昼めし食いに行くか、という生絹にうなずいて立ちあがり、護岸ブロッ...
「きれいだな」 ふっと洩れたような生絹の言葉に碧生はうなずいた。「大人になっても、きれいなものをきれいと言える人でいたかったんだ」 かすかに肩を揺らした生絹がぽつんと言葉を落とす。碧生から視線を外して、海を見遣った。俺、さんざん汚いことしたけどな、と言って軽く笑う。 碧生はちらりと海を映すその目を見た。すこし苦しそうな灰色がかった瞳がきれいだと思う。 まっすぐ海を見たままの生絹に碧生は問うた。「……...
優介の手からペットボトルを攫う。「え?」飲みきるが、ほとんど残ってなかった。少ないが、それでもなんとか治まった。「ちょ、ちょっと悟さん。俺の」「ご馳走様」「俺の-」「お、耳、治った」「耳?」徹がこんなことを言ってくる。「治ったって何が?」ユウマが声を掛けてくる。「サトル、なにやってるんだ」「ユウマ、一緒にやるか?」「どうしたの、サトル君。水分補給したかったのか? 余裕だねえ」「あいつらのヌルくてな...
車を発進させた生絹に「どこへ行くの?」と訊ねると「海にでも行くか」と返ってきた。 あぶなげなく車を走らせながら、生絹は楽しそうに話している。アスファルトが白っぽく光を跳ね返して、その先へと生絹は車を進めていく。「碧生とこんなふうに出かけられるなんてな」「そうだね」「返信読んだとき、うれしかったよ」 碧生が首をかしげると「『会えるよ』じゃなくって『会いたいな』って送ってくれたろ。俺のこと、好きでい...
薄手の白いニットと細身のジーンズ、黒いスニーカーのうえにコートを着て、つぎの日の昼前に自宅の最寄り駅で生絹を待っていた。よく晴れた日で、頬に冬の風が痛いくらいだった。 駅前では、たくさんの人待ち顔のコートやジャケットがそれぞれの相手を探している。 生絹は約束の10時半ぴったりに、黒いヴィッツを慣れた様子で碧生のまえに停めた。助手席側のドアを開けて「碧生、待ったか?」と言う。「ちょっとだけ。僕がはや...
生絹からLINEのメッセージが届いたのは、東京に帰って二週間後の土曜日の朝のことだった。一日の仕事にとりかかろうと背もたれに寄りかかって背伸びをしていたところで、スマホがふるえた。 『あした会えないかな?碧生の都合がついたらでいいんだけど』という文面に素直に心が躍った。すこし考え、シンプルに『会いたいな』と返信して、急いで頭のなかで仕事の予定を組みなおす。きょうを詰めてがんばれば、あしたは一日ゆっく...
ふるさとを発つ電車に乗ったのは、翌日の朝早くのことだった。生まれたばかりの朝の光がプラットホームに降り注いでいる。 コートの裾をつめたい風に煽られながら碧生はちいさくため息をついた。 後ろ髪を引かれる。もっとこの地で生絹と話をしてみたかった。おなじ東京住まいだと聞いたから会えないわけではないだろう。むしろ、連絡をくれると言っていた。 けれど、生絹が、碧生が、それぞれ傷を負ったこの土地で話すことに...
生絹の告白が耳に心地いい。けれど。手紙を手にしたまま、ぎゅっと握った碧生のこぶしがひざの上でさらにきつく握りこまれた。単純に喜びに身をゆだねるのはまだ早い。重ねて訊ねる。それなら、と切り出した声がみっともなく掠れた。「いまなら、僕への気持ちを恋って呼べる?和夏さんとのこと、すこしは薄れた?」「正直に答えていい?」 うなずくと、生絹は考え考え、まるで散らばった細かいビーズに糸を通していくように、き...
途中から、手紙を持つ碧生の手はふるえた。悪い魔法のからくりを教えてもらったようだった。和夏さんとのことが、生絹をこんなに縛りつけていたなんて。そして。「僕たち、ちゃんと通じ合っていたんだね」 碧生の口からほろりと砂糖菓子のような言葉がこぼれた。 碧生の一方的なはじめての深い片想いなのだと思っていた。けれど、こんなに想っていてもらえていただなんて。 もう一度目を通そうとすると、伸びてきた生絹の手に...
『でも、正直なところ、金はどうでもいいんだ。たぶん、なんとかはなっているんだろうし。 いま気になっているのは、碧生のこと。二十歳の碧生は、俺のそばにいてくれているか。そばで笑っているか。 いまの俺は碧生を大事にしたいけれど、うまくできないでいる。たくさん、数え切れないほどたくさん傷つけて、それでも碧生が俺から離れていかないのを見て安心してる。何様だよって俺自身思うのに、碧生がひと言も責めないからこ...
つたない手紙に思わず笑みがこぼれる。17歳とはこんなにやわらかな生きものなのか。 なんどか繰り返して読むうちに、けさ、ふるさとに帰ってきてから今夜ここまで、とてつもなく長い旅をしてきたような錯覚に陥った。ふと見遣ると、生絹も自分の手紙から顔をあげていて視線がかちあった。「碧生の手紙、読みたい。よかったら、読ませてくれないか」 生絹の言葉に手のなかの17歳の想いを差し出した。タイムカプセルが見つからな...
食事をとりながら碧生は昼間受け取った封筒の存在を思い出した。かばんから、ひょんなことから過去の自分から届いた手紙を取り出す。血の通わない封筒が、ほのかにあたたかい気がした。「そうだ。生絹、手紙。まださっきの手紙を持ってる?」 うなずいた生絹が端が黄色っぽく褪せた封筒を碧生とおなじようにかばんから取り出した。まだ読んでないんだけど、と言いながら碧生のものよりほんのすこし厚い封筒を照明に翳すようにし...
「僕にはずっと生絹がまぶしくて、ずっと生絹の言葉がうれしかった。ほかにどんな出会いがあったとしても生絹だけがほしかったと思うよ」生絹が戸惑ったようなまばたきをふたつする。「まぶしくて……ってどうして」「生絹はいつだって僕の気持ちを軽くさせてくれた。大切な約束をしてくれた。生絹が好きだから、ひとつひとつがすごくうれしかったんだよ。きっとなにもかも、生絹といっしょにいれば叶う気がした」 ともにあれば、ど...
「ありがとう。……変わったな、生絹」「いやー、17歳のころの俺のまんま、なんにも変わってなかったら相当やばくない?」「そうかな……そうかも」 碧生がすこし笑うと、日本酒を口に運んでいた生絹はくらりと真顔になった。そのまま、杯を置きすっと碧生に頭を下げてくる。「あのころ、ほんとに碧生だけが俺の支えだった。出会ってすぐわかったよ。碧生は健やかで優しくてまっすぐな若木みたいなやつだって。そばにいたら俺まで正し...
黙り込んだ碧生を生絹が「現在進行形で腹減ってねえ?冷めるまえに食おう」と促した。箸をつけると、たしかに海鮮の味が活きた料理はおいしくて、ふたりしてしばらく食事に没頭した。えびの天ぷらを口に運びつつ、生絹が訊ねる。「そうだ、そういや碧生、インテリアコーディネーターの仕事やってるんだって?有名だよな。ときどき雑誌で顔を見ることがあるよ」 碧生にとって働くことは帰りたい家を探すようなものだった。 ああ...
生絹の戸惑ったような沈黙に「合わないって、実の親子にもあるんだね」と苦笑交じりに言った。そう、笑える。これはもう、笑ってしまってもいいことなんだ。もう遠い昔に過ぎ去ったこと。望まないと決めたこと。 幼少期、食事も睡眠も充分に与えられた。暴行を加えられることも、罵られることもなかった。 けれど、抱きしめられたり、愛情を示す言葉をかけてもらったりしたこともない。みんなが親に手をつないでもらっていた幼...
「碧生だけがいればいいんだ、って何回も言いつづけてくれただろ。それがすごくうれしかった。それでかな、生絹のことを特別に想うようになっていったのは。そのあと、進路希望調査票が配られて僕が悩んでいたときに、将来はふたりで、大学に行くよりもっとおもしろいことをするって……なんだってできるって、生絹が言ったんだ。そのときはっきり自覚した。生絹に恋をしているって。一生この気持ちを抱えていくんだろうな、って。生...
「恋愛という意味では、これっぽっちも好きじゃなかったよ。だけど、ずいぶんと間違ってはいたけど、すごく優しい人だったとは思う。やりかたが根本からまずかったけど、俺のこと、それでもちゃんと大事にしてくれたしな。正しい人ではなかったけど、あのころの俺はなにをしてでも、正しい大人より優しい大人にそばにいてほしかった。そう、うん、優しい人だったよ、すごく」「そっ、かぁ……」 吐き出した相槌が淡く溶ける。 和...
料理が運ばれてくるまでのあいだ、ぽつぽつと近況を報告しあう。 生絹も碧生とおなじく東京暮らしで、大学卒業後は都心にある企業で働いているらしい。高校生のときに大幅にまっとうな軌道から逸れた生絹の人生が、どんどん脱線していかなかったことに碧生は胸を撫で下ろした。 踏みとどまったのは、生絹の努力と忍耐のたまものだろう。そのなかで、どれだけつらい思いをしてきただろう。きっと碧生には想像も及ばないものなの...
スマホの振動は、生絹からのメッセージの着信を伝えるものだった。 『連絡が遅くなってごめんな。駅前で待ってる。気をつけてこいよ』 生絹からのメッセージに急いで返信しながら、「ちょっと出てくる。遅くなるかも」とリビングに短く声をかけた。玄関を出るとき、リビングから聞こえるか聞こえないかの声量で届いた「……ほんっと、かわいげのない子」という声が、ちくりとちいさな針のように背中に刺さった。 バス停に着いた...
同級会が終わって、バスで実家へとむかった。ちいさな門をくぐる。薄闇に沈んでいる真冬のいまはからっぽの植木鉢に埋め尽くされた庭も、すこしくすんだ白い外壁も、駅前以上になにも変わっていないように思えた。玄関ポーチの照明が碧生を察知し、ぽうっと灯る。 玄関の扉を開けて、碧生は一瞬だけ言葉に詰まった。それでもすぐに、あたりさわりのない「ただいま」を投げかけるとキッチンから「おかえりなさい」と返ってきた。...
「汚い手で触るな!」 最後に生絹に浴びせてしまった言葉を悔やんでも悔やみきれない。どうして、どうしてよりによって。 せめてもう一度会いたい。謝りたい。いままでありがとうと言いたい。好きだったと、大切だったと伝えたい。叶わない願いが碧生の後悔を深めていく。まるで、暗くて深い洞窟の中にふらふらとさまよいこんでいくような後悔だった。明けない夜はある。 取り返しのつかない後悔を抱えて、碧生はそれでも生き...
事件のあと、碧生にとっては地獄のようだった冬休みがあけると、碧生たちの高校は異様としか言いようのない雰囲気に包まれていた。 生絹の名はタブー視され、みんなが「あいつ」とか「あの子」とか遠回しな言いかたをしながら、それでも校内のあらゆるところが事件のうわさ話で持ちきりだった。生絹の名前からどうやって出身校にまで辿りついたのか、学校のホームページのメールフォームや掲示板には『風紀の乱れた高校』とか『...
どれくらいのあいだうねる感情の渦に互いに心をゆだねていただろう。 ぶつけるようなまなざしになっているに違いない、生絹を見つめる。探すまでもなくいくつもの面影を見出すことができる、相変わらず整った顔立ち。 「会いたかった」ともう一度、言葉にしようとしたそのとき、生絹の我に返ったような声にはっとした。「いっけねぇ!俺、仕事相手を待たせてるんだった」「えっ、あっ、ごめん」「碧生、スマホ出して。LINE交換...
「……はい、はい、すみません。すぐにもど、うわっ!」 碧生が黒いコートの背中を掴んだ瞬間、おどろいた声をあげて生絹が通話中だったスマートフォンを取り落とした。すぐに拾い上げて「すみません。戻ったら現在の状況の説明をいたしますのでいましばらくお待ちください」と言う。 通話を切って、ぱっと振り返った生絹が碧生を見て笑いだした。碧生の好きなあの透き通った笑いかただった。いたって普通に、まるであのころ冗談を...
「園田くん!園田碧生くん、いますかー?」 楽しげな声が自分を呼ぶ声にはっとする。封筒をひらひらさせながら幹事の男が碧生の名を呼んでいる。 軽く片手を挙げると前に進み出て、過去からの、生絹と口論になった翌日の自分からの手紙を受け取った。かさりと右手のなかで、想像を裏切ってそれはとても軽かった。自分の気持ちのすべてを込めて生絹宛てに書いたはずなのに、こんなに軽いなんてあり得るんだろうか。「つぎは、えー...
報道を目にしながらほろほろと涙をこぼす碧生をいちばん打ち据えたのは高校二年の春……まだ書かれてから一年も経っていない、ついこのあいだ過ぎ去った季節……のこの記述だった。『aoと大学に行く約束をした。母親の婚約者に相談したら、好きなときにもっと抱かせてくれるんだったら学費を出してあげると言われた。そのくらいのことでaoとの約束を守れるならべつにかまわないと思う。大学を卒業したらaoともっとおもしろいことをた...
生絹の、清らかな水の流れのような清冽な文字で記された心情や事実は、けれど目を逸らしたくなるくらい残虐で凄惨だった。『殴りかえそうと思えばできる、でもそれをしてしまったら自分の何かが壊れる気がする。きっともう、殴られるほうが殴るより楽なんだと思う』『給食のない冬休みはほんとうにつらい。空腹と寒さで死にそうになる』『勝手に炊飯器をつかったのがばれた。もう二週間も家で食べものを口にしていない』 そんな...
事件はすぐにテレビで取り上げられるようになった。 和夏さんと生絹は警察が生絹の家に踏み込んだ際、蒼白な顔で立ち尽くす母親の目のまえ、生絹の部屋のベッドのうえで一糸まとわぬ姿だったという。話題性には充分すぎた。 大仰なコメントや性的マイノリティがどうのという専門家の見解、未成年者でしかも婚約者の息子に手を出した和夏さんへの因果応報だという糾弾。 第一報で報じられてしまった生絹の名前は一応伏せられて...
口論のあと、生絹はいっさい碧生に話しかけなくなった。それでもよかった。生絹のあんなふうに傷ついた瞳を二度と見なくてすむのなら。ぞっとするような、底冷えのする心持ちにならなくてすむのなら。 生絹を失ってひとりぼっちになった教室がつらくて、実験棟や図書館に逃げ込んで時間をやり過ごすことが増えた。生絹と碧生を断絶に追い込んだ言い争いの翌日に書き、タイムカプセルに託した手紙がだれ宛てなのかという話題で盛...
周囲が急にざわつき、長い長い回想から碧生は引き戻される。まるで海からひきあげられるグロテスクな深海魚のように。きょうの幹事の男女がタイムカプセルの蓋に手をかけたところだった。「では、開けまーす!」 凛とした声が冷え込んだグラウンドに響き、碧生は急いであたりを見渡す。そうだ、生絹を探さなければ。この同窓会に来た理由は、もう一度生絹に会いたいという、ただそれだけなのだから。こんなふうに記憶に溺れてい...
「そっか、わかった」 ふっ、とみじかく息を吐き、かばんを掴むと生絹が教室を出ていく。毅然とした背中に、碧生より先に出ていくのが生絹なりの矜持の保ちかたなのだとわかったとたん、碧生はその場にうずくまってこぶしで床を叩いた。 もっとほかにやりかたはあっただろう、と思う。よくないことだと諭すとか、やめなよと忠告するとか。こともあろうに僕が選んだのは最悪のやりかただった。 かたかたとふるえる手が痛い。そう...
なんて言ったの?と促すように生絹は碧生を見ている。おだやかに話そうと思うのに、だんだん語気が荒くなるのをどうしようもない。「最低って言ったんだよ。そもそも和夏さんは生絹のお母さんの恋人じゃないのかよ」 あぁ、と生絹がさらりとうなずいた。あいかわらず、薄い笑みを浮かべて。「そうだよ。和夏さんは俺の母親の恋人で婚約者。だけど、和夏さんはいま、俺のことのほうが母親より好きみたいだね」「なに、それ……なに...
一方、こちらは俊平。初日から攻防のラリーが続き息をつく暇もない。これはヤバい。柔道は級持ちだけど、空手や少林寺の人達が相手だとすぐに負けてしまう。1本を取るのが難しい。今までは遊び半分で学生相手にチンタラとやっていたが、危機感を持ったことはなかったからな。中級者担当は2人居て、小早川一樹さんと、岡崎徹さん。岡崎徹さんは、この間のクリスマスの時に相手をしてくれた人だ。それに対して、中級者は65人という...
射貫かれた、碧生の心のいちばんやさしい場所が血を流している。生絹への純粋な恋情のある場所。それなのに、こんなに痛いのに、碧生の口からはすらすらと言葉が紡がれる。まるで事実にすぎない言葉を読み上げる機械のように。「いちどだけ、生絹に用事があって和夏さんといっしょに帰るところを追いかけたんだ。飲み屋街の端っこのホテルに入っていくのを見た」 無表情のままだった生絹がかすかに唇の両端を持ち上げ、うっすら...
ついに決定的な言い争いをしてしまったのは、窓の外に細かな雪がちらつく、凍てつくほどに寒い日の放課後のことだった。この冬一番の冷え込みだといって朝からテレビがにぎやかに騒いでいたあの日。 教室に最後までふたり居残って、碧生の家で売り出されたばかりのゲームソフトで遊ぼうと攻略法を話し合っていた。生絹はいつになくよく笑っていた。めずらしく生絹が見せた年相応の子どもっぽい笑顔が碧生にはうれしかった。 教...
和夏さんとのことが日常茶飯事だということ、そしてふたりがつきあっていることを碧生が知っていることに生絹は気がついてもいないこと、さらには碧生の気持ちにのほうには生絹が気がついていることをすこしずつ碧生は察していった。 放課後に和夏さんと帰っていく生絹の背中から、生絹の言葉の隙間から、態度にちらちら垣間見えるものから、自分にむけられるまなざしから。生絹の言動のあいだからそっと生絹の心をうかがってい...