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血相を変えて駆け込んできた2人の部下にぞんざいに押しのけられたハインリヒは、「自分は彼らの上司のはずなのだが」と肩を竦めた。だが、咎める気にならないのは、彼らとは単純な主従関係で結ばれているわけではないからで。何よりも、普段は己の影に徹している彼らのなりふり構わない様子はそれだけ心を動かされたということで。かつての彼らを知っているからこそ、その変化が微笑ましくも見える。口先だけの心配でも気遣いでも...
空に近い場所。そんな言葉がふと思い浮かんだ。市内の数ある高層ビルの中でも群を抜いて存在感を放つマンションの最上階。そこはワンフロアすべてが居住空間として設計されている。ゆとりをたっぷりと持たせた贅沢な居室はしかし、徹底的に無駄を排したシンプルなもので。機能美を追求した直線的なラインが品格を際立たせ、計算され尽くした美意識が随所に光っている。もはやこの場所はただの住まいではなく、選ばれた者だけが手に...
仕事に使用しているメールアドレスは名刺にも記載されており、知ろうと思えば誰でも手に入れられる情報で。プライベートのものと使い分けていたとしても個人情報であることに変わりはなく、それが悪用される懸念点がある以上、公開しないことが最善だろう。しかし、アトリエや事務所を構えていない以上、それはどうしても必要になる。SNSのプラットフォームを活用すればダイレクトメッセージで交流することもでき、Webサイトに問い...
バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する歴史的な町、ジンデルフィング。その名前が登場する最も古い文書は神聖ローマ皇帝が記したもので、ミュンヘンが歴史的に記録された年の83年前の1075年のこと。ミュンヘンからは車でおよそ2時間弱の場所にあり、アルプスから吹き降ろす清かな風が丘陵地帯を越えたその先にあるこの町を包む。交易路の一部としても栄えたこの町は、巡礼者や商人たちが行き交う場所でもあった。その名残りは今...
最初のメールは、ごくごく普通のファンレターだった。作品に対する称賛とデザイナーとしての在り方に対する好意の言葉が並んでいた。その中に違和感はなく、活動を認められることは嬉しいなと純粋な気持ちで読んでいた。次に届いたメールも、その次に届いたメールも似たような文面で。どこそこで展示されたあの作品のあの部分が、使われたあの生地が、選んだあの材質が、とメール毎に違う作品を褒めちぎるもので。熱心に見てくれて...
いつも通りに目が覚めれば、いつもより爽快感があって。ぐっすりと眠った感覚に足取りも軽やかになり、「今日の朝食は何にしようか」と鼻歌を口遊みながらリビングに向かったアルフレードを迎えたのはエプロンを身に着けたハインリヒとダイトだった。泊まって行ったダイトと明け方まで書斎にいたハインリヒがキッチンの中から「おはよう」と声を揃える穏やかな様子に相好を崩し、朝の挨拶とハグをして。過保護を公言している彼らが...
エントランスで見送るフルアとグラースに手を振り別れを告げて。すっかり顔馴染みになったコンシェルジュと夜の挨拶を交わして。エレベーターに乗り込めば、最上階の自宅まではあと少し。セキュリティの関係上、他の住民と顔を合わせることがないように居住階まで直通になっているそれの利便性をしみじみと実感しながら、アルフレードはハインリヒをちらりと見上げた。彼の端整な顔立ちは力強さや凛々しさを感じさせるもので、しか...
ドイツの警察は連邦制を採用しており、各州に独自の機関が置かれている。空港や主要な鉄道駅の警備を担う連邦警察の他に、地域の交通管理や飲酒運転の取り締まりを行う交通警察、河川や湖の安全を維持する水上警察、アルプス地域での救助活動を担う山岳警察など地域の特性に合わせた組織があるのだ。特にミュンヘンは国内有数の国際都市で、その治安を維持するために高度に組織化された警察機構が存在している。その最たるものが、...
湖に張った薄い氷の上に立っているかのような緊張感の中、紙の擦れる音が響く。プロジェクターの映像をスクリーンに投影するために窓にはブラインドが下ろされ、天井の照明も落とされる。暗がりの中、鋭く浮かび上がるプロジェクターの光はまるで白夜の月明りのようで。冷ややかで清冽なその輝きが壁や机の表面に淡く映り込み、悠然と玉座に腰掛けるハインリヒを照らす。オートクチュールのスーツは適度に鍛えられた彼の肢体を包み...
これぞ文明の利器と言うべきか。技術の進歩や発明によって人々の生活はより便利になり、新しい仕組みがつくられていく。インターネットの発展やコンピューター技術、ソフトウェアの進化はそれこそ目覚ましく、今では地理的な制約を超えてコミュニケーションを効率的に行えるようになった。世界中のどこからでもインターネットさえあれば簡単に交流ができるため、個々が移動する必要がなく、時間やコストの削減という経済的なメリッ...
遠くの森の中でフクロウがホゥと一声だけ鳴く。風はなく、凍った葉を揺らす微かな音さえもない静寂がすぐに戻ってくる。湿地帯の広がる平野を覆う雪が吐息も食み、耳鳴りがするほどの静けさは恐ろしさを感じるほどで。空気は凛と澄み渡り、この世界そのものが人間の介在を拒むかのような冷たさを持っている。いや、それが自然の本来の姿なのかもしれない。始原の地球の姿。「吸い込まれそうな星空…」コテージの庭にあった木製のベ...
通話を終えてアプリを閉じれば、必要最低限のショートカットキーが整列するデスクトップ画面に切り替わる。無駄を省き、効率を重視する彼らしいすっきりとしたデスクトップだ、とアルフレードはほくそ笑んだ。執務机の上も整理整頓されており、パソコンのモニターが2台とキーボード、今は閉じられているノートパソコンが1台、書類ケースと電話機…そして、フォトフレームが3つ並んでいるだけ。彼にとって本当に必要なものだけがそこ...
不安はある。怖くないはずがない。それでも前向きでいられることは自信となる。臆病は簡単に治るものではないけれど、それでも。それを言い訳にして蹲っていたあの頃とはもう違うのだから、とアルフレードは軽やかな足取りのままベッドに近付く。こちらに向かって無言で両腕を差し出しているその人の随分と無防備な行動に小さく笑いながら。「ふふ、可愛いことしてる」昼間見せていた“王”の顔とは全く違う。それは1人の人間として...
夜が明けるように、静かにその映像は始まった。モノクロームのそれに最初に映し出されたのは、古い本が山積みになっている書斎。徐々にクローズアップされていく書斎机の上には使い込まれた万年筆と開かれたままのノートがあり、カメラの焦点はそのノートに合わせられる。それには持ち主の思考がぎっしりと書き込まれており、いくつかの文字にスポットライトが当てられていく。滅んでしまった文明の名前、革命を主導した人の名前、...
創りたいのは、学術的な出版物ではない。歴史学者ベルナルド・エンツィオの情熱を、歴史というものに命を注いで向き合っていた友の人生そのものを形にしたいのだ。彼自身は見ることのできなかった未来を…“いま”を生きる人々にこそ知ってもらいたい。歴史とは、偉大な王や英雄が残した断片を繋いだものではなく、その全てが延長線上にあるもので。今、自分たちが歩いている道も、飲んでいる水も、語っている言葉も、数え切れない人...
想像していたよりもやることが多い、とアルフレードは目の前にずらっと並ぶ書類を前に後退ってしまう。専門的な単語で埋め尽くされた書類の数々は読むだけでも一苦労で、それを正しく理解しなければならないとなると容易にはいかない。全ての判断に責任が伴い、承諾のサインをする手が震えてしまう。(こんな毎日を当たり前のような顔で乗り切っているのだから、やっぱりこの人は“選ばれた人”なのだろうな)向かい側のソファに腰を...
来訪者を告げるブザーの音に起こされ、ハインリヒは気怠さを隠すことなく乱れた前髪を掻き上げた。朝早くから一体何だ、と思いながら時間を確認するために枕元のモバイルに手を伸ばす。その拍子に、腕の中に抱え込んでいたアルフレードの柔らかな金糸の髪が頬に触れる。擽ったいそれにそっと口許を緩ませ、心地良さそうな寝息を立てて眠っている彼の額に唇を落とす。その間もブザーの音は止まず、小さく舌打ちをしながら手にしたモ...
広告とは何か。それは、商品やサービス、イベントや情報などを広く一般に知らせ、消費者や特定のターゲット層に対して行動を促すための情報伝達手段である。具体的には、テレビやラジオの放送媒体、新聞や雑誌、屋外の看板やポスターなどの印刷物がそれだ。現代においてはデジタル広告も重要な存在で、ソーシャルメディアや検索エンジンを通じて何千何万の人々に今この瞬間も膨大な量の情報が発信されている。だが、闇雲に情報を流...
ミュンヘンから高速鉄道に乗り、約3時間。アルフレードはドイツ帝国時代の壮大なクラシック建築様式が今も色濃く残る駅舎に降り立った。名前は、フランクフルト中央駅。1888年にヨーロッパ最大の駅として、このヘッセン州フランクフルトに開業した。古典的なデザインと機能的な構造が調和した美しい建築物として広く知られており、中でも中央ホールのガラスと鉄で構成されたドーム天井は特徴的で映画やドラマの撮影場所としても度...
ドイツは人類の進歩に大きな影響を与えた発明や技術革新が生まれた場所である。それは“三大発明”と呼ばれ、1つは自動車。1886年にカール・ベンツが発明したガソリンエンジンを搭載した三輪車は現代の自動車の始まりとされ、彼の発明はその後の自動車産業の基盤を築き、現代の交通と産業社会の発展に不可欠な役割を果たした。もう1つが、X線。1895年にヴィルヘルム・レントゲンによって発見された物体を透過する未知の放射線は医療...
バイエルン州の州都であるミュンヘンの南側にはアルプス山脈が控えており、標高1000メートルを超える山々にも近い。街自体も海抜500メートルの位置にあり、周辺地域と比較すると若干高めの地形にある。そのため、北西ヨーロッパからの冷たい大陸性の空気が山を越えて流れ込み、ミュンヘン周辺に留まって冷気が蓄積されることで急激に冷え込む特徴を持つ。特に夜間や早朝は厳しい寒さになり、気温が氷点下を下回ることも多い。降雪...
20年振りの再会を喜び、互いの近況を語り合う時間はいくらあっても足りないくらいで。しかし、アルフレードが言った通り迎えはあっという間にやって来た。それが、この見本市の会場となっているフランクフルトメッセの管理部門に属していると名乗った職員だったことにも十分驚かされたが、「これはこれで」とファビオは瞬きも忘れた。恐らく管理部門のそれなりの地位に就いているのであろうその職員に案内されるまま足を踏み入れた...
太陽を輝かせる舞台となるセルリアンブルーの空。あらゆる生命の出発点であるコバルトグリーンの海。風に乗って姿を変えながら旅をするパールホワイトの雲。大地に根を張り季節と共に生きるジャスパーグリーンの木々。溢れんばかりの色彩を纏い歌う小鳥の声は軽やかで、波が喝采を送る。どこを切り取ったとしても美しい世界が、そこにはあった。時間の流れすら穏やかに感じるのは気のせいではないだろう。フィレンツェからほど近い...
細く均一なラインで構成されたシルバーフレームの眼鏡は余計な装飾を一切排したシンプルなもので。機能や用途に完全に適応し、効率的かつ合理的な構造の中に宿る美しさは純粋だ。故に、もはやそれはただの道具ではない。身に着ける者に寄り添い、引き立てる。そして、「本当に必要なものを選び取る」という所有者の確固たる美意識を静かに語る。まるで彼の在り方が結実したような眼鏡だと思いながら、それを外して満足そうにふぅと...
“手当て”という言葉がある。怪我や病気に対して治療や応急処置を施すことを指しており、これは「手を当てる」という物理的な行為から派生した言葉だ。人類は古代から、傷付いた部分に手を当てる行為は心理的に安心感を与え、実際に痛みを和らげる効果があることを本能的に知っていた。現代においては化学的にも証明されており、人の肌に触れる行為は脳内でホルモンや快楽物質の分泌を促し、それらはストレスを軽減してリラックス状...
現代の大聖堂、とでも表現しようか。ミュンヘンの中心地に青空を切り取るように聳え立つそのビルは一際目を引く。外壁にはガラスが多用され、鏡のように周囲の景色を映し出して輝いている。圧倒されるまま見上げれば、それの最上部に堂々と鎮座しているエンブレムが見えた。月桂樹の冠を被った狼の横顔。洗練されたそのフォルムと力強い意志を感じさせる精悍な狼は、知恵やリーダーシップの象徴だ。そして、月桂樹は勝利と栄光を意...
窓から吹き込む海風の心地良さに瞳を細めれば、それを眩しいからだと思ったのかハンドルを握るハインリヒから「大丈夫か?」と声が掛けられる。限りなく黒に近いが、サファイアブルーを持つ彼の瞳は光に弱いようで、今も濃い色のサングラスをしている。それが妙に様になるのだから、同性が羨むのも分かる、と思いながらアルフレードは笑みで返した。「風が気持ちいいなぁって思って」「ダッシュボードの中にアルのサングラスも入っ...
潮風が頬を擽る。砂浜を素足で歩いていたアルフレードは探していたものを見つけ、それを拾い上げて満足そうに口端に笑みを乗せた。親指と人差し指の間に挟み、それを空に翳す。“シーガラス”と呼ばれるその小さなガラス片。それは、ジュースやワインの瓶や漁具などのガラス製品が海に投棄されたり何らかの理由で波に攫われたことで割れ、その破片が長い時間をかけて自然の中で摩耗や風化することで出来る。海底の石や砂にもまれるこ...
思い返してみれば、違和感はいくつもあった。3ヵ月前からスケジュールに組み込まれていた“会談”は「最優先事項」として位置付けられていながら、その詳細は一向に不明のままで。どこで、誰に会うのか。何を目的としているものなのか。一向に知らされる気配がなく、痺れを切らしてフルアに詰め寄ったのは1ヵ月前のこと。COO専任秘書である彼は単純にスケジュールを組むことだけが仕事ではない。たとえば会談ならば、その目的や議題...
魅力溢れる海岸都市アルゲロで過ごした2日間は短くも濃厚なものだった。サルデーニャ島でも特にスペイン文化の影響が強く残る町で、料理にもその特色が表れていた。地元のワインで煮込んだ豚肉料理の「アリスタ・アル・ヴェルメンティーノ」は肉の旨味とワインの香りが絶妙に調和した一皿で、サルデーニャ特有の小粒パスタ「フレゴラ」を使った料理も絶品だった。伝統的なスイーツも多く、揚げたパスタ生地にチーズを詰めてはちみ...
古代ヌラーゲ文明の遺跡、透明度が抜群の海と真っ白な砂浜、サルデーニャ島最大の湖、豊かな海産物…小さいながらも魅力の尽きない町、カーブラス。別れを告げるにはあまりにも惜しい美しい景観だが、しかし別れを告げなければいけないときが来て。早朝の柔らかな光が大地を金色に染め始めた頃、「行こうか」というハインリヒに促されてアルフレードは車に乗り込んだ。猟師たちはすでに海に出ているようで、遠くに漁船の影が見える...
首都カリアリから国道で北へ約1時間。古代の火山地帯であるモンテ・アラジン自然保護区の看板が見えてくる。ハイキングや自然観察が楽しめるスポットであり、決して大きな町ではないが観光地としての人気は高い。だが、まだ時刻は商店やカフェがオープンする前で。人通りの少ない町の景観だけを楽しみ、ハインリヒが運転する車はさらに北上する。そうして直線が続く国道を20分ほど走った頃。オレンジ色の屋根の家々が見えてきた。...
「あぁ、天使か…」ぽつり、と。欠伸交じりの声が聞こえ、夢現の場所を彷徨っていたアルフレードはまだ重たい瞼を押し上げた。ふわり、と舞う白いレースカーテンが視界の端に入る。と同時に見えたのは、半身を起こし、気だるげに前髪を掻き上げているハインリヒの横顔。くぁ、と狼や獅子のように大きく口を開けて欠伸をしている無防備な姿に思わず笑む。普段は気配に聡い人だが、見られていることに気付いていない。朝陽に促されて...
好奇心を選んだ猫はどうなったのか。9つある命を全て使い切ってしまったか、それとも、満足感に生き返ったか。前者が教訓として語られることが多い諺だが、どちらかと言えば後者の気分だなとアルフレードはそっと口端を緩めた。過ぎる快感は、身体にとっては負担にしかならない。そもそも受け入れる構造になっていない身体を開く行為なのだから、無理が生じるのは当然のこと。関節も腰も鈍く重たい。酷い熱を出したときのように全...
地中海の中央部に位置する島、サルデーニャ島。現在はイタリア領となっているが、その何千年もの歴史は実に複雑だ。様々な勢力に支配されたことでこの島にしかない独自の伝統や習慣が今も根付いており、20世紀初頭のイギリス文化における重要な人物の1人に数えられているD.H.ローレンスはこう言い表した。「この地は他のどこにも似ているところがない」、と。彼のその言葉はサルデーニャ島を世の中に広く知らしめるきっかけとなり...
波の音。それは、幼い頃を過ごしたあの美しい港町の音。朝の爽やかな潮風は遠い記憶を引き寄せる。瞼の裏に感じる陽光の気配は、「おはよう」と髪を撫でてくれた母の手の温もりを、「よく眠れたようだね」と抱き上げてくれた父の腕の優しさを呼び起こした。まだ眠気はあるが、睡魔にしがみつきたいほどのものではなく。アルフレードはぬくく柔らかな記憶に包まれた多幸感の中で、手足を伸ばした。全身に感じる微かな倦怠感は、情交...
空腹、とは違う。だが、限りなくそれに近い感覚が消えない。胃よりももっと、ずっと下。そして、もっと奥。そこが、足りない。胃が固形物を求めているせいだと言い聞かせて果物を食べたが、一度自覚してしまったそれはなかなか頑固で。身体の奥にじわじわと熱が溜まっていき、同時に不足感が募っていく。臍の下辺りを掌で摩りながら、アルフレードはプールサイドに置かれている椅子に腰掛けて空を仰いだ。そこには雲ひとつない突き...
ローテーブルに整然と並べられた白い封筒が10枚。宛名も封蝋もされていない、無地のそれ。一体これは何だろう、と首を傾げながらアルフレードはコーヒーカップを両手に持ったままハインリヒの姿を探した。と、バルコニーへ続く窓が開いていることに気付く。風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れる。その拍子にハインリヒの後ろ姿が見え、風に乗って彼の声が聞こえてきた。話している内容までは聞き取れなかったが、口調と声音は穏...
「次の休日は朝から遊びに行こうか」アルフレードがハインリヒにそう誘われたのが先週のこと。いよいよ明日がその日だ、といつもよりも早い時間に鳴るようにアラームをセットして。気分が高揚して寝付けないなんて子供のようだ、と笑って。それでもいつもより早い時間に眠りについた。そして、朝。身支度を済ませて早々に家を出た2人は市内のカフェで軽い朝食をとり、「どこに行くの?」「まだ秘密だ」というやり取りを何度か繰り...
24時間に動いている空調システムのおかげか、3日間留守にした部屋の中にも常に新鮮な空気が送り込まれていたようで。特に換気の必要はなく、これが普通のマンションならそういうわけにはいかなかっただろうな、とアルフレードは感心しながら冷蔵庫を開けた。ハインリヒの実家で休暇を過ごすことが決まったあの日、生ものや日持ちのしない食材を無駄にしてはいけないと保冷バックに詰め込んで持って行った。冷蔵庫には瓶詰のピクル...
オーバーシュライスハイムからミュンヘンまでは車でおよそ40分。3日間の休暇の余韻に浸りながら残りの時間を惜しむようにゆっくりとティータイムを楽しんだ後、ハインリヒとアルフレードはグラースの運転で陽が暮れる前にはマンションに帰り着いた。顔馴染みのコンシェルジュがわざわざカウンターから出て迎えてくれたのを嬉しく思いながら、留守を預かってくれた彼に礼と帰宅の挨拶を交わす。事故のニュースを知った彼は、あの日...
目の前に並ぶ皿の量に、アルフレードは丸い瞳を更に丸くして。次いで困ったように眉を下げ、ハインリヒを見上げた。縋るような、助けを求めるその眼差しに苦笑し、ハインリヒも次から次へと出てくる料理に肩を竦める。「これはさすがに食い切れないだろ」「アルちゃんがお泊りしていってくれるのが久しぶりで嬉しくなっちゃったのよ」「まだ時間も早いからな、ゆっくり食べればいい」父のフリッツに促され、並んで椅子に腰を下ろす...
身じろぎひとつしないで眠り続けているハインリヒの髪を梳き、アルフレードはその手で前髪を払って彼の額に触れた。まだ目の下に隈はあるが、熱はないな、とほっと安堵の息を吐いてから少し伸びてきた襟足を指に絡める。その拍子に、項にある小さなホクロが見えた。普段は髪に隠され、近付いただけでは見ることができないもので。無防備な彼の姿に独占欲と優越感が充たされていることに気付いてしまい、オレも大概だなと小さく肩を...
ミュンヘン北部に位置する、オーバーシュライスハイム。自然豊かな小さな町で、歴史的な建造物や観光名所も数多い。1912年に設立された国内最古の現存する飛行場は今でも現役で、その敷地内にはドイツ博物館の分館にあたる航空宇宙博物館がある。展示場はコンパクトだが、第二次世界大戦に実際に使用された戦闘機や近代の航空機やロケットが展示されていることで有名だ。この博物館の隣にはバイエルン公ヴィルヘルム5世の隠遁の場...
熱を奪い合うように。一方で与え合うように。そして、共有するように。体温も鼓動もどちらのものか分からなくなるまで重なり、心の充足感がもたらした優しい微睡みに身を委ねて。睡眠時間は到底足りていないが、軽やかな気持ちで目覚めて。そうして、ベッドの上から見送ったハインリヒを玄関で出迎えたアルフレードはその早過ぎる帰宅に目を丸くした。彼を送り出してから、時計の針はまだ2周しかしていないのだ。そして、彼の後ろ...
ワイドキングサイズのベッドに敷かれているシーツの色は、ミッドナイトブルー。白やアイボリーなどの淡く柔らかな色を好んで使うアルフレードが選んだものとしては珍しい。それも無地で、寝室に相応しい落ち着きはあるが、一見すると地味な印象を抱かせる。寝室の四方ある壁のひとつは全面ガラスで、2面は白い壁紙だがベッドの頭側の壁はチョコレート色に塗られている。そのためシーツを暗色にすると寝室全体が遊び心のない空間に...
すごい1日になっちゃったね、と苦笑するアルフレードに淹れたてのミルクティーを差し出しながら、ハインリヒも肩を竦めた。「疲れただろう」「ハインもね、お疲れ様でした。さっきまで電話鳴りっぱなしだったけど、ひとまずは落ち着いたみたいだね」「あぁ、やっとだ。そろそろ叩き壊すところだった」「ホテルから病院に向かう前からすごかったもんね。あれってどこから情報が伝わるの?」事故のニュースの速報は出たかもしれない...
鼓動が煩い。息が切れる。指先は冷え、血の気が引く。擦れ違った看護師が「廊下を走らないでください」と叱責する声を背中に聞きながら、ダイトは処置室と書かれているプレートの中から目的の番号を探す。本来は静かなはずの廊下にも人が溢れ、ざわざわと空気が落ち着きない。だが、それに構う余裕もなく、ダイトは見つけ出した番号の部屋のドアを勢いよく引いた。「無事か!?」ノックもなく突然開いたドアとそこから転がるように...
「今回もカマーバンドじゃなかったかぁ…」ぽつり、と零されたアルフレードの声は周囲の音に搔き消されるほど小さなものだったが、ハインリヒの耳には届けられた。足を止め、どうしたと問う。「え?」「今、カマーバンドがどうのと言っていただろう?」「あ、口に出ていた…?」はっとした顔をして口許を手で隠すアルフレードにハインリヒは口端を緩めた。随分と幼い仕草だが、どうしてこうも艶っぽく見えるのか。その柔らかな金糸の...
ビジネスやネットワーキング、文化的な交流を目的とし、特定の社会的な階層や特権階級のメンバーが集まるイベント。それらを一般的に、社交パーティーと呼ぶ。親しい友人や家族とカジュアルな雰囲気の中で気軽な会話や交流を楽しむこともまたひとつの社交パーティーではあるが、それとは何もかもが違う、とアルフレードは煌びやかな会場を見渡した。所謂、上流階級と呼ばれる人間たちによるそれはまさに“社交”と呼ぶに相応しい。会...