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糖度高めなオリジナルBL小説(短篇~長篇)を扱っています。 ドイツ人広告代理店社長×イタリア人家具デザイナーが美味しいもの食べたり困難を乗り越えたりいちゃついたりする日々の物語。 #溺愛攻め #トラウマ持ち受け

受け溺愛主義かつ強火担の攻めが何が何でもハピエンにします。

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愛知県
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愛知県
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2011/01/01

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  • 翡翠色のアヴァロン 8

    一戦、と言い出したのは誰だったか。ローテーブルの上に出したままになっていたチェス盤にはみな気付いており、ヨハンネがそれを片付けようと動く前にハインリヒとフルアは駒を並べ始めた。アルフレードはタルトを頬張りながらも、盤に近付くためにラグの上に座り直して。グラースは茶器や皿を端にまとめて。誰かが指示をしたわけでも、誰かが先導したわけでもないが、彼らの呼吸は自然と嚙み合っていた。そして、コイントスで決め...

  • 遍く充ちる

    柔らかな朝の光が街を包み始めた頃。ミュンヘンを一望することのできる最上階の寝室の窓の向こうでは、雲ひとつない澄んだ青空がゆっくりと目覚めていく。湿度の低い空気は透明度が高く、アルプス山脈の淡い青灰色の稜線や雪を残している山頂が放つ純白の光も見渡せるほど視界は良好。赤茶色の瓦屋根が幾重にも連なる美しい景色も、深い緑の樹冠が朝露を受けてキラキラと輝く様子も見て取れる。遠くには、2本の尖塔を持つフラウエ...

  • 翡翠色のアヴァロン 7

    ミュンヘンの初夏の朝はまだ春の名残を少しだけ抱きながらも、光の色が変わり始めている。寝室の一面を占める大きな窓から淡い金色の朝陽がゆっくりと差し込み、白いカーテンを透かす。部屋の空気を柔らかく染めていき、その優しい空間の中で目が覚める。だが、身体を起こさずに。シーツのゆったりとした皺の中に身を委ね、特に言葉を交わすでもなく、身を寄せ合う。急ぐ理由のない休日の朝特有の、静けさ。今日が何時に始まるかな...

  • 翡翠色のアヴァロン 6

    どれほど上等な茶葉であっても、淹れ方を間違えれば本来の味を引き出すことができない。湯の温度、抽出の時間、茶器との相性。それらを見極め選んでこそ、茶葉本来が持つ香りや旨味を最大限に生かすことができるのだ。どれか1つでも間違えれば、繊細な甘味や余韻は雑味となってしまう。逆を言えば。街のスーパーで売られている安価なティーパックであっても、その茶葉を正しく見極めれば驚くほど豊かな香りと味わいを生み出すこと...

  • 翡翠色のアヴァロン 5

    ガラスのティーカップに注がれているのは、夕暮れの光を溶かしたような深い琥珀色。赤い水面の奥からは、柔らかな甘さとほのかな土の香りが立ちあがる。それは焚き火の名残と、乾いた大地に降ったばかりの雨を思わせる匂い。ひと口含むと、刺激はなく、ただ丸みのある甘みが舌の奥に広がる。喉を通る頃には張り詰めていた神経が解け、内側に押し込んでいた疲労感が洗われていくのが分かった。呼吸をすれば、喉に痞えていた何かが落...

  • 翡翠色のアヴァロン 4

    最上階にたった1つだけ。選ばれた者のために誂えられた特別なその空間の中心に据えられているリビングルーム。広々としたそこには、空間を仕切る壁がない。扉もない。だが、見えない何かが境界線を引き、それぞれのスペースが確立している。ダイニングスペースからミニバーへ。ミニバーからリビングへ。そして、部屋の隅に設えられたシアタースペースへ。それぞれは緩やかに繋がりながらも、決して混ざり合わない独立した領域とし...

  • 翡翠色のアヴァロン 3

    強化ガラス扉で隔たれた、あちら側とこちら側。夏の湿った空気も冬の凍てつく冷気も完璧に断ち切るそちら側にあるのは、まさに別世界。エントランスの空気は澄み切り、わずかに白茶の香木が漂っている。それは国内の老舗香料工房がこのマンションのために調香したもので。季節ごとに種類や濃度が変えられ、選ばれた者だけが辿り着けるこの場所を気品高く演出している。足元にあるのは、ベルギー産の深いグラファイトグレーの大理石...

  • 翡翠色のアヴァロン 2

    ショッピングカートを引く姿を、彼を知る者たちが見たら何と言うだろうか。普段の姿からかけ離れたそれに唖然とするか、微笑ましく思うか。理想とのギャップに憤るか、人間らしさを嬉しく思うか。「アル、それは重たいからこっちにしろ」駅前の大型スーパーで買ったのは主に食料品。マーケットで手に入れた生鮮食品もあるが、しかし、2人分だ。大した量ではなく、1つ1つの紙袋の重さも知れている。だが、運転席から慌てて下りてき...

  • 翡翠色のアヴァロン 1

    佇まい、というものがある。それは、姿勢、所作、視線、歩き方の質。人間の細部にして深部の情報。それはその人の自覚の有無に関わらず、滲み出る。故に、演出できるものではない。一瞬は取り繕えても、偽れない。立ち止まるときの迷い、他者とすれ違う際の身の引き方、視線を向ける角度や留める時間に。その人の思考の癖や価値観、他者への敬意が染み込んでいるのだ。だから人は、佇まいから人となりを読み取れる。言葉を交わすよ...

  • ヘルメスと語る 15

    聞き慣れたノックの音に応え、ハインリヒは手にしていた木製のオブジェを元の場所に置いた。その隣には、新しく増えたフォトフレーム。中に収まっているのは、“戦友”たちと撮った写真。創業40周年という重要な節目の祝祭を迎えたあの日から、3週間が経った。思い出を振り返るには記憶はまだ新しく、喝采の余韻が耳の奥に残っている。だが、それをじっくりと味わっている時間を現実は許さず、慌ただしい日常に思い出は少しずつ追い...

  • ヘルメスと語る 14

    ほのかに残る花の香りと冷えた鉄と木材の匂いが混ざり合う。天井に吊られていたリグも降ろされ、取り外された照明を専門スタッフが丁寧に梱包している。高所作業車や資材を積んだ大型のトラックが出ていくと、途端にホールががらんとしてしまう。細々としたものはまだ残っているが、パーティションやモニター類の撤去も終わり、外部の業者の姿も減った。社内の人間と分かる腕章を付けた者たちもセットの解体が進むにつれて次第に減...

  • ヘルメスと語る 13

    夜明け前。空はまだ群青と灰色の狭間。東の地平線だけが薄っすらと白んでいる。ミュンヘン・メッセの巨大なガラスファサードはその僅かな光を鈍く映し返し、静寂の中で輝く。都会の真ん中にありながら、まるで森の中の湖のように凪いだ空気に包まれて。「くしゅん…っ」空調の効いていた車内と外の寒暖差に刺激されたアルフレードの小さなくしゃみの音が、ひんやりとしたその静けさを小さく揺らす。ドイツの冬は長いのだ。日中の陽...

  • ヘルメスと語る 12

    ここはかつて、“想い”が集った場所。制服の襟を正し、インクの匂いを纏った郵便局員たちが静かな使命感を胸に働いていた場所。彼らの手は、愛の言葉を、別れの決意を、遠く離れた大切な人への祈りを届け続けた。躊躇いながら書かれた言葉もあれば、一気にしたためられた情熱もあっただろう。紙の端には、迷い、涙、あるいは微笑みの影が残っていたかもしれない。その重さや温度までも大切に、彼らはこの場所からポストの前で待つ誰...

  • ヘルメスと語る 11

    明日は朝から診療があるから、と腰を上げたダイトを全員で1階のロビーまで見送って。電車で帰るつもりだったらしい彼を呼び留め、ハイヤーを手配してあると車寄せに案内して。「つくづく際限がない」と腹を抱えて笑うダイトを運転手に託して。4人で再び最上階の部屋に戻るが、フルアとダイトはドアの前で足を止めた。「では、私たちもこちらで失礼します」「明日は俺がお迎えに上がりますね」「え、お2人も部屋に戻っちゃうんです...

  • ヘルメスと語る 10

    ルネサンス芸術が“完成形”に至った時代。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ラファエロ・サンツィオが象徴とされるその時代を、ハイルネサンスと呼ぶ。均整の取れた構図、人体表現の完成、古代ギリシャ・ローマの理想の復興、人間と世界の美の調和…。それまでのルネサンスの試行錯誤を経て至った芸術様式は主にローマやフィレンツェで花開いた。カトリックの総本山であるヴァチカン市国のサン・ピエトロ...

  • ヘルメスと語る 9

    招かれたのは、錚々たる顔ぶれ。それもそのはずで、企業にとって重要な節目のイベントに開かれる親睦パーティーなのだ。招待客の多くは単なる取引相手ではない。長年の協業、提携、支援関係を保ってきた重要な存在であり、これからもそうでありたいと願う特別な相手。右を見れば、世界規模の大手自動車メーカーの会長。左を見れば、通信とテクノロジー技術で世界に名を馳せる大企業の社長。航空会社の取締役、ホテル業界の重鎮、フ...

  • ヘルメスと語る 8

    ベースに選んだ色は、アイボリーホワイト、サンドベージュ、ソフトグレーの3色。アクセントに加えたのは、シャンパンゴールドとくすみブルー。素材はオークをメインにし、真鍮、麻、サテンを組み合わせた。自然の温もりの中に磨き上げた金属を共存させることでフォーマル感を添え、メッセ・ミュンヘンのモダン建築美と融合させる。ライティングは、暖色を中心に。間接照明とスポットライトで空間を照らす。それらのライトは時間経...

  • ヘルメスと語る 7

    その青年の第一印象は、不安定。孤独で、危うく、何かが決定的に欠けていた。若さ故の不完全さではなく、もっと根本的な…。たとえば、心が丸い形をしているならば。彼のそれは一部が大きく欠落して歪な形をしていた。そんな青年と出会ったのは、数年前。知人の教授の誘いで、学生たちを相手に講演を行った帰りのことだ。多くの学生が行き交うキャンパスの中、その青年は他の誰とも違った。異質、とも言える存在感を放っていたのだ...

  • ヘルメスと語る 6

    片腕だけでも余ってしまう細い腰を抱き寄せ、右手でバスローブの紐を解く。しゅるり、ぱさり、と布が擦れる音が妙に艶めかしい。熱情が交じり合い、浅ましい欲が濁る。己のものであるというのにゾッとするほどの凶暴性を孕んだそれは、獣のそれそのもの。いや、獣のほうが理性的かもしれない。合理性も何もなく、貪り食おうとしているのだ。空腹を満たすため、心が求めるまま、己の醜い欲を押し付け、奪おうとしている。与えられる...

  • ヘルメスと語る 5

    ここまで来た、と吐き出した息に混じるのは微かな緊張感。安堵するにはまだ早いのだ。何故なら、費やした時間の結果が出るのは明日。企業にとって創業40周年という重要な節目を祝うイベントまで、あと14時間。満足感と達成感、自信もある。だが、評価を下すのは自分ではない。伝えたいメッセージは届くだろうか、理解されるだろうか、期待に応えられるだろうか。そんな緊張感が否めず、ハインリヒはベッドの縁に腰を下ろして2つ目...

  • 柔らかなデンテス

    高価な宝飾品よりも、市場の花屋に並んでいた小さなサボテン。豪奢なレストランでの食事よりも、2人で作る家庭料理。ロマンチックな台詞よりも、普通の挨拶。“特別”よりも、”日常”。アルフレードが選ぶのは、誰でも手に入れられるようなものばかりだ。何故なら、それこそが金では買えないものだと知っているから。当たり前のように来るはずだった日常を理不尽に奪われ、掴むはずだった未来すらも不条理に失ってしまった彼だからこ...

  • 柔らかなデンテス(おまけ)

    ここは、ただの“場所”ではない。アルフレードが無条件に愛されていた記憶、守られていた時間、人格の根が育った土地。言うなれば、アルフレードの聖域。ここにあるのは、アルフレードが両親から与えられた純粋な愛の思い出なのだ。そこに自分の欲望という私的で身体的なものを持ち込むことで、汚してしまうのではないかという恐れがどうしたって付き纏う。性的欲望を汚れたものだという単純な価値観で見ているわけではない。アルフ...

  • ヘルメスと語る 4

    ここはまさしく、謁見の間。玉座の置かれる場所。厳かで、しかし、ともすれば冷たく感じるのはここが孤独の象徴でもあるからなのか。たった独りで戦う人の背負う現実がじっとこちらを見ている。だが、それは突き放すものではなく。見定めるような冷静さがありながら、どこか柔らかい。冬の晴れ間にふと感じるような日向の温みのように。(主を見守っているような…そんな優しさを感じるのは…)気のせいかもしれない。ただの願望かも...

  • ヘルメスと語る 3

    朝からゆったりと湯に浸かり、いつもより随分と遅い時間に朝食を済ませて。豆から挽いて淹れたコーヒーの風味を堪能しながら、経済新聞と全国紙を広げて。限られた時間の中で飲み込むばかりだった情報を、今日はじっくりと咀嚼して。そうしていると、束の間の休息の時間はあっという間に過ぎていった。だが、午前中のたった数時間とは言え、疲弊していた心身にとっては貴重なものだ。何よりも、アルフレードの存在が擦り減るばかり...

  • ヘルメスと語る 2

    “許し”という愛がある。その本質にあるのは、相手の痛みを自分の心で抱きとめる“強さ”。怒りや悲しみの中に居ながら、それでもその人との繋がりを手放さない、ということ。たとえば。傷をなかったことにはさせない、許し。それは、己の傷から目を逸らさず、憎しみではなく愛を選ぶ強さによって自分自身を許すということ。たとえば。相手の未熟さだけを裁かず、己の不完全さを認める、許し。それは、期待を裏切られた痛みで自分を守...

  • ヘルメスと語る 1

    行き交う。マリエン広場に、人が。タール通りに、車が。イザール川に、船が。あの荷台の中に載せられた果物は、東の国から西の国へ。人々が持つモバイル端末の中では、言葉や映像が時代すら越えていく。目には見えない情報はそれこそ人体の静脈よりも細かく、複雑に分岐し、絡み合い、この世界を行き交っている。言い換えるなら、往来。あるいは、流通。その言葉には、「すれ違う」という意味がある。(季節はどちらだろう…)一度...

  • クリスマスの南十字星

    12月。季節は、冬。風は凍てつき、海は暗く、空は静かで。街は雪に覆われ、人々は白い息を吐きながら足早に行き交う。それが、「当たり前」。だが、「当たり前」とは本質的には普遍ではない。人間が安心して生きるために作り出した“共通の前提”であり、世界の見え方を簡略化するための、“仮の基準”。要は、「本来そうあるべきもの」ではなく。社会の中で、「そうあることで都合が良かっただけのもの」。それ故に、普遍でも不変でも...

  • それは、ある日常の「物語」 #38

    【2024年10月:12の記念日】10月10日「世界郵便デー」1874年に全世界を一つの郵便地域にすることを目的とする万国郵便連合がスイスで結成されたことに由来住人のあらゆる要望に応えるために24時間常駐しているコンシェルジュとの関りは浅く、必要最低限の会話さえあったか怪しい。見送りや出迎えの挨拶に首肯で返すことはあっても、足を止めることは一度もなかった。毎日のように顔を合わせているというのに名前すら知らなかったと...

  • それは、ある日常の「物語」 #37

    【2024年7月:12の記念日】7月15日「アルフレードの誕生日」太陽に愛された国、イタリア。植物を育む地中海性気候に恵まれ、特に南部のシチリア島やサルデーニャ島は年間を通じて日照時間も長い。アマルフィ海岸やトスカーナ地方の丘陵地帯、アルプス山脈、エトナ山などの美しい自然景観は壮麗にして壮大で。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどの都市は世界的に有名な歴史的建造物や芸術作品が数多く存在し、人々を魅了してや...

  • それは、ある日常の「物語」 #35

    【2024年1月:12の記念日】1月13日「煙草の日」1946年に「ピース」が発売された日を記念して制定された胸ポケットから取り出されたのは、ライターとシガレットケース。シンプルなデザインのそれらは有名なブランドのものではなく、露店で購入した数ユーロのものだと言っていた。いつ、どこの国で手に入れたかはもう忘れてしまったが、と微苦笑していた唇に煙草が触れる。節だった長い指は男性らしい逞しさがある一方で、爪は綺麗に...

  • それは、ある日常の「物語」 #34

    (黄道十二宮と占星術における形而上学的な意味:天蠍宮「情熱」/2023年10月)趣味であったり、仕事であったり。何かに夢中になり、熱中し、それに対して心を燃やす。それを、自分には関係のないことだと唾棄しながらも胸の内では追い求めていたのかもしれない、とハインリヒは口端に微笑とも苦笑ともつかない笑みを乗せた。そして、キッチンで食後のコーヒーを淹れていたアルフレードが2人分のカップを手に近付いてくる気配を背中...

  • それは、ある日常の「物語」 #33

    (黄道十二宮と占星術における形而上学的な意味:獅子宮「自信」/2023年7月)心痛くならないのだろうか。その危惧を口にしたフルアは、にこやかに微笑んで迷うことなく首を横に振ったアルフレードに目を瞠った。最初の出来事は、上司であるハインリヒが招待されたパーティーでのこと。同伴していたアルフレードと共にフルアもまた随行していたのだが、とある企業の社長令嬢がハインリヒの腕に擦り寄った。真っ赤な口紅を引いた唇に...

  • それは、ある日常の「物語」 #36

    【2024年4月:12の記念日】4月8日「ヴィーナスの日」1820年にエーゲ海のメロス島の農夫がヴィーナス像を発見した日不完全故の完璧さ。哲学的な視点においては、現実世界の物事はそもそも不完全であり、不完全であることがそれらに美しさを与えているとプラトンは説いた。美術的視点では、ウェイバーは不完全さや欠陥が美において重要であり、美を生み出すものだと主張した。“侘び・寂び”という日本の美における理念もまた同じで、...

  • それは、ある日常の「物語」 #32

    (黄道十二宮と占星術における形而上学的な意味:金牛宮「保守的」/2023年4月)どちらかと言うなら自分はどちら側なのだろう、と思う。アルフレードはかつてこの地に存在したドイツ帝国から現代のドイツ連邦に至るまでの政治史書を閉じてソファに背中を預けた。聖母マリア騎士修道会の征服から始まるプロイセン王国の繁栄と衰退、東西ドイツの分裂と統一を政治の観点から論じたその著書が父の遺したいくつかの論文が参考になってい...

  • それは、ある日常の「物語」 #31

    (新年限定公開/2023年1月1日~3日)いろいろあった、の“いろいろ”の部分を語るにはあまりにも時間が必要で。結局は、「いろいろあった」とまとめることしかできない。それでも、その短い言葉の中にあるひとつひとつの出来事を理解し、共有し、慰め、褒め、報いることができたなら。そういう存在になれたなら、なりたい、と心から思う。そう言って微笑んだアルフレードの横顔を、新年を祝う花火が照らし出す。色とりどりの鮮やかな...

  • アナンケの、

    ミュンヘンを「芸術の都」として発展させた、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ1世。ワーグナーを庇護し、ノイシュバンシュタイン城を築いたルートヴィヒ2世。バイエルン公位を与えられ、740年以上もの長きに渡りバイエルン支配を始めたオットー1世。その一族の名前は、ヴィッテルスバッハ家。バイエルン公国を王国に育て上げた彼らは神聖ローマ帝国で重要な選帝侯の地位を保持し続け、ギリシャ王国など海外の王朝とも深く関わることでそ...

  • あしたへ続くカンミーノ 12

    夜の帳が世界を柔らかく包み込む。薄絹のカーテンが開け放たれたフレンチドアから裸足のままバルコニーに出たアルフレードは、アドリア海から吹く風の心地良さに瞳を細めた。磨かれたテラコッタの床は夜露を帯びてひんやりとしている。薄手のガウンを羽織っているだけで、素肌に感じる楚々とした風がシャワーで火照った身体にひどく気持ち良い。先程まで交わされた情熱の記憶と官能の余韻はまだ色濃く残っているが、汗を洗い流した...

  • あしたへ続くカンミーノ 11

    邸の2階にある南向きの主寝室。アドリア海に面しているその部屋には大きな窓があり、アーチ型のフレームには色ガラスが組み込まれている。それは時間とともに変化する陽光を受けて、部屋の色調を緩やかに移ろわせる。朝は淡い金色に、昼は澄んだ青に、夕暮れには柔らかな紅に。壁や床を染め上げ、室内を幻想的に包み込む。その空間全体を見守るのは、ルネサンス期に流行した格子天井。神話を描いたフレスコ画と金箔の装飾が残って...

  • あしたへ続くカンミーノ 10

    糸杉やポプラの並木道も、潮気を帯びた風も、初めてこの地を訪れたときから変わらずに在るもので。しかし、4日振りに見たそれらは新鮮で、これほどに色鮮やかだっただろうかと思う。見慣れた世界の中にまだ見ぬ美しさを見つけることを“旅”だと言った小説家が居るが、この目に映る景色を「変わった」と感じるのは世界のそのものが変わったのではなく。己が勝ち取ったものだと己惚れてもいいだろうか、と内心で微かに笑み、ハインリ...

  • あしたへ続くカンミーノ 9

    ついに訪れた、最後の日。カマルドリ修道院からラ・ヴェルナ修道院へと戻る約14kmの道のり。ゆっくり進んだとしても6時間程度で森を抜けて帰還できる行程だ。修道院の壮大な風景と霊的な雰囲気にもう一度触れながら、この旅は終わる。ここまで歩いたという達成感と、終わってしまうという寂寥が入り混じる。「楽しかったなぁ」「まだゴールではないからな、気を緩めるなよ」「あ、そうだね!まだこれから歩くんだもんね。了解であ...

  • あしたへ続くカンミーノ 8

    気のせいではない、とアルフレードは足を止めて振り返った。カンピリア山を越えて、「カモシカ」と名付けられた山小屋で夜を過ごし、朝霧の中を出発して約5時間。こまめな休憩を取りつつ、3日目の目的地であったカマルドリ修道院に到着したのは昼前。ここは隠遁者の庵である“エレモ”と共同体修道院の“モナステーロ”と呼ばれる2つの施設から成り立っている修道院で、巡礼者や訪問者のための宿泊施設もある。エレモにあるゲストルー...

  • あしたへ続くカンミーノ 7

    カゼンティーノの森で迎える、2回目の朝。山小屋を出たのは、太陽が森の梢を金に染める頃。朝霧に覆われたカンピリア山の頂は人の気配がなく、足元の石は昨夜の冷気を宿し、すっかり足に馴染んだ登山靴のソールにひんやりとした感触を伝えてきた。だが、木々の間から差し込む朝陽は燦々としたもので。今日も汗ばむ陽気になるだろう、とアルフレードは空を仰ぎ見た。「快晴の予感だね」「そうだな。今日は小川の近くを通るから、涼...

  • あしたへ続くカンミーノ 6

    ラ・ヴェルナ修道院からおよそ10kmの行程を5時間かけて辿り着いたカゼンティーノの森の深部。ブナやモミの木に囲まれた小さな山小屋は、旅人を優しく迎え入れてくれた。古い栗の木材で組まれた素朴な佇まいとそこに流れるゆったりとした時間は、初めて訪れた場所だというのに懐かしさを感じさせる温もりがあった。案内された部屋も簡素なベッドがあるだけのシンプルな造りで。電気や水道も通っているがあまりにも最低限で、室内に...

  • あしたへ続くカンミーノ 5

    古代ローマの時代、森は“聖域”だった。人々は森を「神々や精霊の住処」だと考え、内部に祭壇を設けて供物や生贄を捧げた。女神ディアーナに捧げられた「ネミ湖畔の聖林」はその最たるもので、特に神聖視されて侵入や木々の伐採も禁じられたという。他にも、軍神マルスに捧げられた「ルクス・マルティス」やラテン人の諸都市が集会を行った森の「ルクス・フェレティヌス」もそのひとつで。それらは“聖なる森”として人々に敬愛された...

  • あしたへ続くカンミーノ 4

    北イタリアに位置するトスカーナ州とエミリア=ロマーニャ州にまたがる、翠滴る森。名前は、「カゼンティーノの森、ファルテローナ山およびカンピニャのカミル修道会国立公園」。多くの場合は略した「カゼンティーノの森国立公園」の名前で呼ばれている、ヨーロッパ有数の森林地帯だ。広さは、約36,000ヘクタール。想像をはるかに超える大地の広がりは大都市であるミュンヘンを丸ごと包み込むもので。どこまで行っても緑が尽きるこ...

  • あしたへ続くカンミーノ 3

    ミュンヘンを発ち、約1時間。2人は北イタリアの玄関であるボローニャ・グリエルモ・マルコーニ空港に降り立った。ターミナル内には“美食の都”であるボローニャの名物を取り扱うレストランが数多く並んでおり心を引かれたが、今日の目的地はこの先。腹の虫を窘めつつ、あらかじめ手配しておいたレンタカーに乗り込んだ。早々に運転席に座ったハインリヒにハンドルを任せることにして。アルフレードは、助手席から見えるエミリア=ロ...

  • あしたへ続くカンミーノ 2

    抱きかかえられたまま自宅に戻ってきたアルフレードは、一目散にバスルームに向かうハインリヒに小さく笑った。普段の彼はどんな場面でも冷静沈着に判断を下し、隙のない統率力を発揮する。誰もが認める”王”そのもので。それは深い森を見渡し、群れを導く賢い狼のように凛としていて。揺るぎない風格と品格を傅かせ、泰然自若を形にしたような人だというのに。彼の限りなく黒に近いブラックサファイア色の瞳には今、そんな気配はひ...

  • あしたへ続くカンミーノ 1

    およそ46億年前。いくつかの偶然が重なり合い、「地球」は誕生した。海の豊かさを象徴する“青い惑星”、ギリシア神話の大地母神の名前である“ガイア”、ラテン語で大地を意味する“テラ”…この惑星の美しさを表現する呼称はいくつもある。だが、誕生当初は今とまるで違い、宇宙のガスや塵が集まった高温でドロドロのマグマの球体だった。絶えず隕石が衝突する表面温度は数千度に達し、そこには生命どころか固体の地殻すら存在しなかっ...

  • カリオペと紡ぐ 11

    何を書けば、何と書けば、この想いを伝えられるだろう。思考はまとまらず、しかし、心に急かされてペンを取れば。考えるよりも先に手が動き、便箋を文字で埋めていた。言いたかったこと、言わなければいけなかったこと、言えなかったこと。一度堰を切ってしまえば、次から次へと言葉は溢れ、綴っていた。(あんなに思い迷っていたのに、いざその時になってしまえばこんなにも清々しい気持ちでいられるんだなぁ…)封蝋をした封筒を...

  • カリオペと紡ぐ 10

    あの日をやり直すことができたなら。何度そう思ったか分からない。あの日、彼に翌日の授業の準備の手伝いを頼まなければ。正門が施錠される時間になる前に終わらせていれば。裏口を使わせなければ。独りで帰さなければ。せめて見送っていれば。その後に起こる悍ましい出来事から彼を守ることができたかもしれない。いや、守れたはずだ。避けられたはずなのだ。自分がきっかけを作らなければ、彼は次の日も笑顔で登校して、学友と貴...

  • カリオペと紡ぐ 9

    遠くにアルプス山脈の丘陵を望む最上階の一室。徹底的に無駄を省き、洗練されたそこはまさに玉座が置かれるに相応しい場所。謁見の間としての厳かな重厚感が漂う中、フルアはフィックス窓から差し込む陽光を背負うその人を見つめた。上質なスーツに身を包んだその男は長い脚を持て余すようにゆったりと組み、レザーチェアに身体を預けている。周囲に漂う空気に感じるのは、ゆとり。人を統べる者としての貫禄と余裕と言うべきか。そ...

  • カリオペと紡ぐ 8

    朝の訪れを告げる鐘が鳴る。新しい1日がはじまる。大きな窓から差し込む朝陽は楚々としたもので。レースのカーテン越しに陽だまりが揺れ、まだ微睡む部屋の空気を優しく包み込む。まるで、昨夜の甘い時間の余韻を見守っているかのように。そっと寄り添う穏やかなその光を瞼の裏に感じ、ハインリヒは睡魔の手を振り解いて目を開けた。無意識に探した気配は腕の中にも隣にもなく。ふわりと漂うジャスミンの香りを追えば、裸足のまま...

  • カリオペと紡ぐ 7

    かつて、ヨーロッパを中心に上質なブティックホテルを展開し、「個性あるラグジュアリーホテル」として世界的な評価を得ていたイタリア系のブランドがあった。時代とともに他の国際的ホテルブランドと合併、あるいは吸収されてしまったが、その息吹は今も感じられるもので。洗練された内装にはイタリア的な美意識と様式の教養が根付いている。曲線を活かした調度、陰影を巧みに操る照明、質感のバランス、控えめでありながら個性が...

  • カリオペと紡ぐ 6

    静かに深みを増したミュンヘンの夜。タワースイートと名付けられた最上位クラスのスイートルームの大窓越しにフラウエン教会の双塔が月光を受けて浮かび上がる。遠くにはネオンに照らされたマリエン広場の姿も見え、街の息吹が感じられる。それを背にソファに座る2人の姿は堂々としたもので。テーブルに置かれたレコーダーとノートを開きペンを走らせる記者の前であっても、凛々しくあった。そして、それ以上に情熱的だった。思う...

  • カリオペと紡ぐ 5

    天井まで届く大きな窓の向こうには、ミュンヘンの夜景。ネオンに包まれた古き良き街並みと聖ペーター教会の塔とアザム教会の屋根が見えた。しばしそれを堪能してから室内に視線を戻したアルフレードは改めて感嘆した。床はパーケットフローリングで、その上に敷かれているクリーム色のカーペットは新品同様に手入れされている。壁には控えめな金の装飾が施され、伝統的で歴史的な風格の中に飾られているモダンアートが現代との懸け...

  • 旋翼は空へ、愛は地に

    容赦なく吹き付ける風にアルフレードは咄嗟に目を閉じた。シャツの裾が煽られ、仰け反った身体にバタバタと音を立てながら張り付く。まるで見えない腕に肩ごと後ろへ押されるような感覚に、足がよろめく。呼吸すら一瞬奪われた。細く目を開けてみるが、風が痛い。空を切り裂く力の塊。鼓膜の内側で暴れる風音の凄まじいエネルギーを受け、思わず後退る。だが、その背中を支えるものを感じ、アルフレードは視線をそちらに向けた。「...

  • カリオペと紡ぐ 4

    主演俳優や監督が登壇する特別な上映会はスポンサー企業の重役など業界のキーパーソンが多数出席するもので、多くのメディアも集まり、まさに“プレミアムイベント”と呼ぶに相応しいものだった。たった一夜のために費やされた時間は膨大で、多くの人が成功という1つの目的のために真剣に取り組んだ。だからこそ、スピーチをするはずだった配給会社の代表が急病で搬送されるというトラブルにも冷静な対応ができた。司会者との連携も...

  • カリオペと紡ぐ 3

    レッドカーペットの上を華やかに着飾ったゲストやキャストたちが歩く。そこはまさに、各々が主役の舞台。彼らの煌びやかな存在感は祝いの席を大いに盛り上げる。その熱は会場内にも伝わってくるほどで。ホール内で待機しているカメラも彼らの登場を今か今かと待ち構えており、浮ついた空気が流れている。だが、協賛企業の代表たちと和やかに挨拶を交わすハインリヒの気配は決して緩まない。主要スポンサー企業の代表者という主賓で...

  • カリオペと紡ぐ 2

    天井には、豪華なシャンデリア。足元には、毛足の長いワインレッド色の上等な絨毯。窓の外にはミュンヘンの美しい夜景が広がり、ライトアップされた双塔が帰宅を急ぐ人々を優しく見守っている。華やかでありながら静かな気品で満たされた空間はさりげなく、しかし計算された贅沢がそっと添えられ、壁に埋め込まれた間接照明の控えめな黄金色の輝きが柔らかな陰影を作り出している。その中であっても決して遜色することなく。むしろ...

  • カリオペと紡ぐ 1

    ドイツ南部に位置するバイエルン州の州都、ミュンヘン。ヨーロッパ屈指の文化と経済の中心地であり、歴史的な伝統と現代的な洗練が見事に融合したこの街を人々は「バイエルンの心臓」と呼ぶ。街の起源は12世紀。ベネディクト会の修道士たちが居住地としたことに始まったとされ、その名前も「修道士たちの場所」を意味する“bei den Mönchen”という言葉が短縮されたものが由来といわれている。ミュンヘンの市章にも修道士が描かれて...

  • ヤヌスの選択 11

    大きなアタッシュケースを両手に下げて訪れたテオバルトをハインリヒと共に迎え入れて。何やら真剣な顔で会話を始めた彼らから離れてキッチンに向かったアルフレードはコーヒーを淹れることにした。芳ばしい香りが部屋に広がり、今朝焼いたばかりのビスコッティを盛った小皿とカップをトレーに乗せてリビングに戻る。と、そこにはまるで映画のワンシーンさながらの物々しい光景が広がっていた。ソファの前にあるローテーブルの上。...

  • ヤヌスの選択 10

    世界有数の自動車生産拠点のひとつに数えられる、ドイツ南西部の町ジンデルフィング。現代は工業の中心地として知られているが、中世の頃は織物産業で栄えた。職人文化の礎を築いた地であり、今では“勤勉”と“技術力”の象徴となっている。周辺には“ウルム大聖堂”で知られるウルムや中世時代を再現したクリスマスマーケットで有名なエスリンゲン、自動車の聖地とされるシュトゥットガルトがある。バーデン=ヴュルテンベルク州とバイ...

  • ヤヌスの選択 9

    血相を変えて駆け込んできた2人の部下にぞんざいに押しのけられたハインリヒは、「自分は彼らの上司のはずなのだが」と肩を竦めた。だが、咎める気にならないのは、彼らとは単純な主従関係で結ばれているわけではないからで。何よりも、普段は己の影に徹している彼らのなりふり構わない様子はそれだけ心を動かされたということで。かつての彼らを知っているからこそ、その変化が微笑ましくも見える。口先だけの心配でも気遣いでも...

  • ヤヌスの選択 8

    バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する歴史的な町、ジンデルフィング。その名前が登場する最も古い文書は神聖ローマ皇帝が記したもので、ミュンヘンが歴史的に記録された年の83年前の1075年のこと。ミュンヘンからは車でおよそ2時間弱の場所にあり、アルプスから吹き降ろす清かな風が丘陵地帯を越えたその先にあるこの町を包む。交易路の一部としても栄えたこの町は、巡礼者や商人たちが行き交う場所でもあった。その名残りは今...

  • ヤヌスの選択 7

    最初のメールは、ごくごく普通のファンレターだった。作品に対する称賛とデザイナーとしての在り方に対する好意の言葉が並んでいた。その中に違和感はなく、活動を認められることは嬉しいなと純粋な気持ちで読んでいた。次に届いたメールも、その次に届いたメールも似たような文面で。どこそこで展示されたあの作品のあの部分が、使われたあの生地が、選んだあの材質が、とメール毎に違う作品を褒めちぎるもので。熱心に見てくれて...

  • ヤヌスの選択 6

    空に近い場所。そんな言葉がふと思い浮かんだ。市内の数ある高層ビルの中でも群を抜いて存在感を放つマンションの最上階。そこはワンフロアすべてが居住空間として設計されている。ゆとりをたっぷりと持たせた贅沢な居室はしかし、徹底的に無駄を排したシンプルなもので。機能美を追求した直線的なラインが品格を際立たせ、計算され尽くした美意識が随所に光っている。もはやこの場所はただの住まいではなく、選ばれた者だけが手に...

  • ヤヌスの選択 5

    仕事に使用しているメールアドレスは名刺にも記載されており、知ろうと思えば誰でも手に入れられる情報で。プライベートのものと使い分けていたとしても個人情報であることに変わりはなく、それが悪用される懸念点がある以上、公開しないことが最善だろう。しかし、アトリエや事務所を構えていない以上、それはどうしても必要になる。SNSのプラットフォームを活用すればダイレクトメッセージで交流することもでき、Webサイトに問い...

  • ヤヌスの選択 4

    いつも通りに目が覚めれば、いつもより爽快感があって。ぐっすりと眠った感覚に足取りも軽やかになり、「今日の朝食は何にしようか」と鼻歌を口遊みながらリビングに向かったアルフレードを迎えたのはエプロンを身に着けたハインリヒとダイトだった。泊まって行ったダイトと明け方まで書斎にいたハインリヒがキッチンの中から「おはよう」と声を揃える穏やかな様子に相好を崩し、朝の挨拶とハグをして。過保護を公言している彼らが...

  • ヤヌスの選択 3

    エントランスで見送るフルアとグラースに手を振り別れを告げて。すっかり顔馴染みになったコンシェルジュと夜の挨拶を交わして。エレベーターに乗り込めば、最上階の自宅まではあと少し。セキュリティの関係上、他の住民と顔を合わせることがないように居住階まで直通になっているそれの利便性をしみじみと実感しながら、アルフレードはハインリヒをちらりと見上げた。彼の端整な顔立ちは力強さや凛々しさを感じさせるもので、しか...

  • ヤヌスの選択 2

    ドイツの警察は連邦制を採用しており、各州に独自の機関が置かれている。空港や主要な鉄道駅の警備を担う連邦警察の他に、地域の交通管理や飲酒運転の取り締まりを行う交通警察、河川や湖の安全を維持する水上警察、アルプス地域での救助活動を担う山岳警察など地域の特性に合わせた組織があるのだ。特にミュンヘンは国内有数の国際都市で、その治安を維持するために高度に組織化された警察機構が存在している。その最たるものが、...

  • ヤヌスの選択 1

    湖に張った薄い氷の上に立っているかのような緊張感の中、紙の擦れる音が響く。プロジェクターの映像をスクリーンに投影するために窓にはブラインドが下ろされ、天井の照明も落とされる。暗がりの中、鋭く浮かび上がるプロジェクターの光はまるで白夜の月明りのようで。冷ややかで清冽なその輝きが壁や机の表面に淡く映り込み、悠然と玉座に腰掛けるハインリヒを照らす。オートクチュールのスーツは適度に鍛えられた彼の肢体を包み...

  • アストライオスを語る

    遠くの森の中でフクロウがホゥと一声だけ鳴く。風はなく、凍った葉を揺らす微かな音さえもない静寂がすぐに戻ってくる。湿地帯の広がる平野を覆う雪が吐息も食み、耳鳴りがするほどの静けさは恐ろしさを感じるほどで。空気は凛と澄み渡り、この世界そのものが人間の介在を拒むかのような冷たさを持っている。いや、それが自然の本来の姿なのかもしれない。始原の地球の姿。「吸い込まれそうな星空…」コテージの庭にあった木製のベ...

  • 敬愛するユリシーズへ 14

    夜が明けるように、静かにその映像は始まった。モノクロームのそれに最初に映し出されたのは、古い本が山積みになっている書斎。徐々にクローズアップされていく書斎机の上には使い込まれた万年筆と開かれたままのノートがあり、カメラの焦点はそのノートに合わせられる。それには持ち主の思考がぎっしりと書き込まれており、いくつかの文字にスポットライトが当てられていく。滅んでしまった文明の名前、革命を主導した人の名前、...

  • 敬愛するユリシーズへ 13

    創りたいのは、学術的な出版物ではない。歴史学者ベルナルド・エンツィオの情熱を、歴史というものに命を注いで向き合っていた友の人生そのものを形にしたいのだ。彼自身は見ることのできなかった未来を…“いま”を生きる人々にこそ知ってもらいたい。歴史とは、偉大な王や英雄が残した断片を繋いだものではなく、その全てが延長線上にあるもので。今、自分たちが歩いている道も、飲んでいる水も、語っている言葉も、数え切れない人...

  • 敬愛するユリシーズへ 12

    想像していたよりもやることが多い、とアルフレードは目の前にずらっと並ぶ書類を前に後退ってしまう。専門的な単語で埋め尽くされた書類の数々は読むだけでも一苦労で、それを正しく理解しなければならないとなると容易にはいかない。全ての判断に責任が伴い、承諾のサインをする手が震えてしまう。(こんな毎日を当たり前のような顔で乗り切っているのだから、やっぱりこの人は“選ばれた人”なのだろうな)向かい側のソファに腰を...

  • 敬愛するユリシーズへ 11

    不安はある。怖くないはずがない。それでも前向きでいられることは自信となる。臆病は簡単に治るものではないけれど、それでも。それを言い訳にして蹲っていたあの頃とはもう違うのだから、とアルフレードは軽やかな足取りのままベッドに近付く。こちらに向かって無言で両腕を差し出しているその人の随分と無防備な行動に小さく笑いながら。「ふふ、可愛いことしてる」昼間見せていた“王”の顔とは全く違う。それは1人の人間として...

  • 敬愛するユリシーズへ 10

    通話を終えてアプリを閉じれば、必要最低限のショートカットキーが整列するデスクトップ画面に切り替わる。無駄を省き、効率を重視する彼らしいすっきりとしたデスクトップだ、とアルフレードはほくそ笑んだ。執務机の上も整理整頓されており、パソコンのモニターが2台とキーボード、今は閉じられているノートパソコンが1台、書類ケースと電話機…そして、フォトフレームが3つ並んでいるだけ。彼にとって本当に必要なものだけがそこ...

  • 敬愛するユリシーズへ 9

    これぞ文明の利器と言うべきか。技術の進歩や発明によって人々の生活はより便利になり、新しい仕組みがつくられていく。インターネットの発展やコンピューター技術、ソフトウェアの進化はそれこそ目覚ましく、今では地理的な制約を超えてコミュニケーションを効率的に行えるようになった。世界中のどこからでもインターネットさえあれば簡単に交流ができるため、個々が移動する必要がなく、時間やコストの削減という経済的なメリッ...

  • 敬愛するユリシーズへ 8

    広告とは何か。それは、商品やサービス、イベントや情報などを広く一般に知らせ、消費者や特定のターゲット層に対して行動を促すための情報伝達手段である。具体的には、テレビやラジオの放送媒体、新聞や雑誌、屋外の看板やポスターなどの印刷物がそれだ。現代においてはデジタル広告も重要な存在で、ソーシャルメディアや検索エンジンを通じて何千何万の人々に今この瞬間も膨大な量の情報が発信されている。だが、闇雲に情報を流...

  • 燦爛と降りしきる

    バイエルン州の州都であるミュンヘンの南側にはアルプス山脈が控えており、標高1000メートルを超える山々にも近い。街自体も海抜500メートルの位置にあり、周辺地域と比較すると若干高めの地形にある。そのため、北西ヨーロッパからの冷たい大陸性の空気が山を越えて流れ込み、ミュンヘン周辺に留まって冷気が蓄積されることで急激に冷え込む特徴を持つ。特に夜間や早朝は厳しい寒さになり、気温が氷点下を下回ることも多い。降雪...

  • 敬愛するユリシーズへ 7

    現代の大聖堂、とでも表現しようか。ミュンヘンの中心地に青空を切り取るように聳え立つそのビルは一際目を引く。外壁にはガラスが多用され、鏡のように周囲の景色を映し出して輝いている。圧倒されるまま見上げれば、それの最上部に堂々と鎮座しているエンブレムが見えた。月桂樹の冠を被った狼の横顔。洗練されたそのフォルムと力強い意志を感じさせる精悍な狼は、知恵やリーダーシップの象徴だ。そして、月桂樹は勝利と栄光を意...

  • 敬愛するユリシーズへ 6

    “手当て”という言葉がある。怪我や病気に対して治療や応急処置を施すことを指しており、これは「手を当てる」という物理的な行為から派生した言葉だ。人類は古代から、傷付いた部分に手を当てる行為は心理的に安心感を与え、実際に痛みを和らげる効果があることを本能的に知っていた。現代においては化学的にも証明されており、人の肌に触れる行為は脳内でホルモンや快楽物質の分泌を促し、それらはストレスを軽減してリラックス状...

  • 敬愛するユリシーズへ 5

    細く均一なラインで構成されたシルバーフレームの眼鏡は余計な装飾を一切排したシンプルなもので。機能や用途に完全に適応し、効率的かつ合理的な構造の中に宿る美しさは純粋だ。故に、もはやそれはただの道具ではない。身に着ける者に寄り添い、引き立てる。そして、「本当に必要なものを選び取る」という所有者の確固たる美意識を静かに語る。まるで彼の在り方が結実したような眼鏡だと思いながら、それを外して満足そうにふぅと...

  • 敬愛するユリシーズへ 4

    太陽を輝かせる舞台となるセルリアンブルーの空。あらゆる生命の出発点であるコバルトグリーンの海。風に乗って姿を変えながら旅をするパールホワイトの雲。大地に根を張り季節と共に生きるジャスパーグリーンの木々。溢れんばかりの色彩を纏い歌う小鳥の声は軽やかで、波が喝采を送る。どこを切り取ったとしても美しい世界が、そこにはあった。時間の流れすら穏やかに感じるのは気のせいではないだろう。フィレンツェからほど近い...

  • 敬愛するユリシーズへ 3

    20年振りの再会を喜び、互いの近況を語り合う時間はいくらあっても足りないくらいで。しかし、アルフレードが言った通り迎えはあっという間にやって来た。それが、この見本市の会場となっているフランクフルトメッセの管理部門に属していると名乗った職員だったことにも十分驚かされたが、「これはこれで」とファビオは瞬きも忘れた。恐らく管理部門のそれなりの地位に就いているのであろうその職員に案内されるまま足を踏み入れた...

  • 敬愛するユリシーズへ 2

    ドイツは人類の進歩に大きな影響を与えた発明や技術革新が生まれた場所である。それは“三大発明”と呼ばれ、1つは自動車。1886年にカール・ベンツが発明したガソリンエンジンを搭載した三輪車は現代の自動車の始まりとされ、彼の発明はその後の自動車産業の基盤を築き、現代の交通と産業社会の発展に不可欠な役割を果たした。もう1つが、X線。1895年にヴィルヘルム・レントゲンによって発見された物体を透過する未知の放射線は医療...

  • 敬愛するユリシーズへ 1

    ミュンヘンから高速鉄道に乗り、約3時間。アルフレードはドイツ帝国時代の壮大なクラシック建築様式が今も色濃く残る駅舎に降り立った。名前は、フランクフルト中央駅。1888年にヨーロッパ最大の駅として、このヘッセン州フランクフルトに開業した。古典的なデザインと機能的な構造が調和した美しい建築物として広く知られており、中でも中央ホールのガラスと鉄で構成されたドーム天井は特徴的で映画やドラマの撮影場所としても度...

  • デダロスの迷宮

    思い返してみれば、違和感はいくつもあった。3ヵ月前からスケジュールに組み込まれていた“会談”は「最優先事項」として位置付けられていながら、その詳細は一向に不明のままで。どこで、誰に会うのか。何を目的としているものなのか。一向に知らされる気配がなく、痺れを切らしてフルアに詰め寄ったのは1ヵ月前のこと。COO専任秘書である彼は単純にスケジュールを組むことだけが仕事ではない。たとえば会談ならば、その目的や議題...

  • アポロンの轍 12

    魅力溢れる海岸都市アルゲロで過ごした2日間は短くも濃厚なものだった。サルデーニャ島でも特にスペイン文化の影響が強く残る町で、料理にもその特色が表れていた。地元のワインで煮込んだ豚肉料理の「アリスタ・アル・ヴェルメンティーノ」は肉の旨味とワインの香りが絶妙に調和した一皿で、サルデーニャ特有の小粒パスタ「フレゴラ」を使った料理も絶品だった。伝統的なスイーツも多く、揚げたパスタ生地にチーズを詰めてはちみ...

  • アポロンの轍 11

    古代ヌラーゲ文明の遺跡、透明度が抜群の海と真っ白な砂浜、サルデーニャ島最大の湖、豊かな海産物…小さいながらも魅力の尽きない町、カーブラス。別れを告げるにはあまりにも惜しい美しい景観だが、しかし別れを告げなければいけないときが来て。早朝の柔らかな光が大地を金色に染め始めた頃、「行こうか」というハインリヒに促されてアルフレードは車に乗り込んだ。猟師たちはすでに海に出ているようで、遠くに漁船の影が見える...

  • アポロンの轍 10

    潮風が頬を擽る。砂浜を素足で歩いていたアルフレードは探していたものを見つけ、それを拾い上げて満足そうに口端に笑みを乗せた。親指と人差し指の間に挟み、それを空に翳す。“シーガラス”と呼ばれるその小さなガラス片。それは、ジュースやワインの瓶や漁具などのガラス製品が海に投棄されたり何らかの理由で波に攫われたことで割れ、その破片が長い時間をかけて自然の中で摩耗や風化することで出来る。海底の石や砂にもまれるこ...

  • アポロンの轍 9

    窓から吹き込む海風の心地良さに瞳を細めれば、それを眩しいからだと思ったのかハンドルを握るハインリヒから「大丈夫か?」と声が掛けられる。限りなく黒に近いが、サファイアブルーを持つ彼の瞳は光に弱いようで、今も濃い色のサングラスをしている。それが妙に様になるのだから、同性が羨むのも分かる、と思いながらアルフレードは笑みで返した。「風が気持ちいいなぁって思って」「ダッシュボードの中にアルのサングラスも入っ...

  • アポロンの轍 8

    来訪者を告げるブザーの音に起こされ、ハインリヒは気怠さを隠すことなく乱れた前髪を掻き上げた。朝早くから一体何だ、と思いながら時間を確認するために枕元のモバイルに手を伸ばす。その拍子に、腕の中に抱え込んでいたアルフレードの柔らかな金糸の髪が頬に触れる。擽ったいそれにそっと口許を緩ませ、心地良さそうな寝息を立てて眠っている彼の額に唇を落とす。その間もブザーの音は止まず、小さく舌打ちをしながら手にしたモ...

  • アポロンの轍 7

    首都カリアリから国道で北へ約1時間。古代の火山地帯であるモンテ・アラジン自然保護区の看板が見えてくる。ハイキングや自然観察が楽しめるスポットであり、決して大きな町ではないが観光地としての人気は高い。だが、まだ時刻は商店やカフェがオープンする前で。人通りの少ない町の景観だけを楽しみ、ハインリヒが運転する車はさらに北上する。そうして直線が続く国道を20分ほど走った頃。オレンジ色の屋根の家々が見えてきた。...

  • アポロンの轍 6

    「あぁ、天使か…」ぽつり、と。欠伸交じりの声が聞こえ、夢現の場所を彷徨っていたアルフレードはまだ重たい瞼を押し上げた。ふわり、と舞う白いレースカーテンが視界の端に入る。と同時に見えたのは、半身を起こし、気だるげに前髪を掻き上げているハインリヒの横顔。くぁ、と狼や獅子のように大きく口を開けて欠伸をしている無防備な姿に思わず笑む。普段は気配に聡い人だが、見られていることに気付いていない。朝陽に促されて...

  • アポロンの轍 5

    好奇心を選んだ猫はどうなったのか。9つある命を全て使い切ってしまったか、それとも、満足感に生き返ったか。前者が教訓として語られることが多い諺だが、どちらかと言えば後者の気分だなとアルフレードはそっと口端を緩めた。過ぎる快感は、身体にとっては負担にしかならない。そもそも受け入れる構造になっていない身体を開く行為なのだから、無理が生じるのは当然のこと。関節も腰も鈍く重たい。酷い熱を出したときのように全...

  • アポロンの轍 4

    地中海の中央部に位置する島、サルデーニャ島。現在はイタリア領となっているが、その何千年もの歴史は実に複雑だ。様々な勢力に支配されたことでこの島にしかない独自の伝統や習慣が今も根付いており、20世紀初頭のイギリス文化における重要な人物の1人に数えられているD.H.ローレンスはこう言い表した。「この地は他のどこにも似ているところがない」、と。彼のその言葉はサルデーニャ島を世の中に広く知らしめるきっかけとなり...

  • アポロンの轍 3

    波の音。それは、幼い頃を過ごしたあの美しい港町の音。朝の爽やかな潮風は遠い記憶を引き寄せる。瞼の裏に感じる陽光の気配は、「おはよう」と髪を撫でてくれた母の手の温もりを、「よく眠れたようだね」と抱き上げてくれた父の腕の優しさを呼び起こした。まだ眠気はあるが、睡魔にしがみつきたいほどのものではなく。アルフレードはぬくく柔らかな記憶に包まれた多幸感の中で、手足を伸ばした。全身に感じる微かな倦怠感は、情交...

  • アポロンの轍 2

    空腹、とは違う。だが、限りなくそれに近い感覚が消えない。胃よりももっと、ずっと下。そして、もっと奥。そこが、足りない。胃が固形物を求めているせいだと言い聞かせて果物を食べたが、一度自覚してしまったそれはなかなか頑固で。身体の奥にじわじわと熱が溜まっていき、同時に不足感が募っていく。臍の下辺りを掌で摩りながら、アルフレードはプールサイドに置かれている椅子に腰掛けて空を仰いだ。そこには雲ひとつない突き...

  • アポロンの轍 1

    ローテーブルに整然と並べられた白い封筒が10枚。宛名も封蝋もされていない、無地のそれ。一体これは何だろう、と首を傾げながらアルフレードはコーヒーカップを両手に持ったままハインリヒの姿を探した。と、バルコニーへ続く窓が開いていることに気付く。風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れる。その拍子にハインリヒの後ろ姿が見え、風に乗って彼の声が聞こえてきた。話している内容までは聞き取れなかったが、口調と声音は穏...

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