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たまに車で行く庶民的カツ屋さん『とんかつキッチン カナン』。注文するのはいつもランチの「味噌カツセット(下記画像)」と決まっています。少し値上げされましたが、それでも750円(税込825円)とリーズナブルな価格です。 薄切り肉を重ね合わせた
聖典の民には、しばしば原理主義者が出現する傾向があります。イスラム原理主義者をはじめ、キリスト教原理主義者、そして、シオニストを含むユダヤ教原理主義者も・・・。原理主義者とは、聖典の記述をそのまま信じ、今日において忠実にそれを実行しようとする人々です。聖典に記された全知全能の神の言葉は絶対であるとみなしますので、聖書の記述に違うことを行なえば、それは、神に対する背信行為である考えるのです。聖典の記述が普遍性のある道徳律の啓示であったり、その全てが過去の出来事の記述であれば、現代における負の影響は深刻に懸念するほどではなかったかも知れません。ところが、聖典には、未来に関する記述が含まれているという問題があります。『新約聖書』の最後に記されている「黙示録」の内容は、誰もが読んだり、耳にはしたことがあるはずです...イスラエルがアブラハムに倣うなら
下記は、「聖地エルサレム」月本昭男監修(青春出版社)からの抜萃です。「旧約聖書」で、神がイスラエルに与えたという「約束の地」、カナン(パレスチナ)には、どんな歴史があるのか、概略を知ることができると思います。そして、「旧約聖書」の記述を根拠に、ユダヤ人が、何世代にもわたって住み続けてきたパレスチナ人から土地や家を奪い、カナンの地(パレスチナの地)に住みつくこと、また、パレスチナの地に、イスラエルという国家を建国し、そのイスラエルという国からパレスチナ人を追い出そうとしているユダヤ人の方針が、許されるものでないこともわかると思います。なぜなら、紀元前に書かれた「旧約聖書」には、とても史実とは考えられないことがいろいろ書かれているからです。「旧約聖書」に限らず、「創世記」のような紀元前の話には、時の為政者が...旧約聖書とイスラエルの所業
聖書には「聖絶」という概念がある。(「聖絶 せいぜつ」という訳語は「新改訳」の造語で、「新共同訳」などでは「滅ぼし尽くすべきもの」などと訳されている。)神にささげるために滅ぼし尽くすというような意味だろうか。聖絶の対象が人間である場合、その都市なり民族なりは、男も女も子どもも一人残らず殺されなければならない。 エジプトからやって来たイスラエル人たちは、こうして先住…
マタイの福音書15:21~28及びマルコの福音書7:24~30に、イエスに娘をいやしてもらった異邦人の女の話が出てくる。彼女は必死にイエスに願うが、はじめイエスは彼女を相手にしない。 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには、遣わされていません。」「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」すなわち、イエスはユダヤ人を救うためにやっ…
ヨシュア モーセに代わってイスラエルの民をカナンの地に導き、彼らに土地を嗣業として分配しその生活指導を行なったヨシュアもいよいよ最期の場面を迎えた。イスラエルの民に対するラストメッセージである。 今日選びなさい ヨシュアの指示に従って、契約
主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。(10) 此処でもっとも恐れ驚くべきことは、「わたしがあなたとともに行う」ということばである。天地創造の神が奇しいわざを行われるのに、モーセともに行うと約束されたのである。モーセであれ、アブラハムであれ人が関わるということは、神には不自由と忍耐が伴うということなのである。 共に働くのは相棒であり主従関係とは違う。造られた者が、創造主に服従することは当然であるが、主が求めておられることは、信頼と愛による交わりの中で共に働く人であった。 ...恵みの地の約束を受け取るために(出エジプト34章)