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あなたがたは、死人のために自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主である。(28) キリスト者は生きる時も死ぬ時も、主の祝福であることを知っており、その平安の中でみこころに身を委ねるのである。神はすでに滅びの死から救い出してくださったのだ。それでも死はしばしの別れとなり遺された者の悲しみは深いが、聖霊は、その悲しみの中でしか聴けないみことばを導いて、慰め、癒やし、御国の再会の望みを確信させてくださる。 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)神によって生かされている者が、死に抗議をしてその身を傷つける行為は、神のものであるいのちの支配に立ち入ることであり、天に召された人の栄化を地で損なわせる。 聖霊の臨在を知って居る者が、自分の身...あなたがたは聖なる者でなければならない⑦(レビ記19)
あなたがたは、わたしの掟を守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、あなたは二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。(19) すべての植物も動物も初めに神が種類ごとに創造された。創造されたままであるとき、地は神の完全な守りの中にある。神の賢さによる備えは、多すぎることも不足することも無く、蔓延って他を侵食することもない。 しかし、人の賢さは目先の便利と貪欲の実を結ばせて、もう創造の初めの状態ではなく、人が始めたことは平等に人を富ませるものではない。人の知恵から造られたもろもろは、やがて手に負えなくなりバランスを崩した自然が呻いている。 地の産物で生きる人々は水にさえ渇き、生きることが困難になってしまった。神は...あなたがたは聖なる者でなければならない⑥(レビ記19章)
あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。(16) キリスト者の中傷は互いのいのちを損なうほどに危険である。世の言葉ではなく神の名を用いて語るからである。それが神の家族に対する攻撃なら、主がご自分のものを守られるからである。 心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。(17) 神の家族である兄弟に対して憎しみや妬みが生まれるのは、神の愛から生まれた子でありながら、どれほどに愛されているかを悟らず、あふれるばかりに注がれている愛に気づいていないからであり、勝手に貧しく飢え渇いているのだ。 聖霊はみことばに記されているすべての神の愛を、日々、事々に解き明かして、キリストの平安...あなたがたは聖なる者でなければならない⑤(レビ記19章)
盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。(11~12) 神の民が盗んだり、欺いたり、偽ることは御名を汚すことであり、それは主を恐れることを知らない者のすることである。神の民が良いことを行えば神の栄光となり、悪いことを行えばそれも神の名によって行っていることであり御名を汚す。 キリスト者は主の豊かな恵みによって盗む必要はなく、嘘を言って身を守る必要もなく、騙しごとを言う必要もない。主は信頼する者にすべての必要を、時を備えて満たしてくださる。神は愛であり、力があり、ご真実なお方だからである。 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪で...あなたがたは聖なる者でなければならない④(レビ記19章)
あなたがたが交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。それを献げた日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは火で焼かなければならない。(5~6) 自分自身を捧げて主の食卓に招かれる。主が喜びの食事を分け与えてくださる宴会である。そう、捧げものを一緒に味合わせて、一緒に楽しもうと招いてくださるのである。健やかな成長のために・・。 宴会は喜びに満ち溢れてあまりにも嬉しいので、差し出されたものは夢中になって平らげるだろう。しかし、その食卓に「ちょっと待てよ」という隙間風が入ると、親密な関係が一瞬にして醒めてしまうのだ。 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした。(出エジプト24:...あなたがたは聖なる者でなければならない③(レビ記19章)
主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(1~3) 「父と母」ではなく「母と父」とある。共同訳には「父と母」となっているけれど、口語訳にも「母と父」となっていた。「あなたの父と母を敬え」十戒にはこうあるが、此処は内容が微妙に違っている。 この箇所は聖とされて行くための戒めであった。「母と父を恐れよ」とは「敬え」と同じ意図だと思うが、なぜ言葉が違っているのだろうと思った。「恐れる」には「敬う」意味を含むけれど、此処ではより従順を意識させている。 主の聖さには愛と謙遜が伴っている...あなたがたは聖なる者でなければならない①(レビ記19章)