日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。
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神は突然モーセに現れて、イスラエルをエジプトから救い出せと命じられた。 「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト3:10) モーセはこの言葉におじまどっている。過去はともかくも今はエジプトにも、イスラエルにも知られぬ一介の羊飼いであると思っていたからである。しかし、神は彼の命を守って王女に拾わせ、宮殿を恐れない備えをしておられたのであり、神の計画はイスラエルのリーダーとすることである。それはモーセの努力や力に拠って成すことではなく、すべて神の備えに拠る神の計画である。 キリスト者が自分を取るに足りない者と思う時も、神の計画はそれぞれに必要な賜物を備えて、命をたまわったときから神のご計画にある存在だ。 それは人に尋ねて知ること...モーセの信仰
イエスを売るという最悪、再重要な役割を果たしたユダはただの盗人であり、彼は日頃の行いの延長線上でこのことをしたのであり、彼がイエスにいたのも何時でも盗むことが出来る財布を任せられていたからであった。 此処でイエスがユダに財布を預けたのは、彼が重要な役割を負うことになる布石であるとしても、ユダにはイエスを信じて心を入れ替えるチャンスは何時でもあった。ユダは何時もみことばを聞き、近しく神の御わざを見ていたのである。それはすべて彼が生き方を変えるチャンスであった。しかし、彼の興味も関心も金にしか無かったのである。イエスの御わざを見ていても何も感じなかったが、もし、イエスが癒しの度に金を取っていたら、彼はイエスを尊敬していただろう。 マリアの高価な香油がイエスに注がれた時、彼は取り乱すほどの怒りに襲われた。「な...日常の罪がイエスを売ることに至る
アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(10~11) 彼が預言した言葉は事実である。彼はパウロに事実を告げる働きをしたことで、パウロが将来を知った上でみこころに歩んだ信仰に拠って、今もキリスト者のモデルなのである。 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。(12) 人は預言によって命を守ることを考えるが、主は進んで行く道を照らすために語られる。その預言によって自分で将来を選択することは出来る。人々が勧めたことは、誰もが死ぬべき命を少しの間長らえるための...預言(使徒21章)
イエスに繰り返し足を洗って頂くことが正しいことなのであろうか。それは勿体なくもイエスを何時までも奴隷の働きに留めることになるのではないか。未だ肉を着ている者であっても、イエスに一度足を洗って頂いた者はもうきよいのである。もう、全身きよいのである。 再び罪の泥水を選んで歩くことはないように、汚れを見分ける霊の目が見えるようにしてくださっている。十字架のキリストによる完全な罪のあがないに安息するなら、罪に執着する肉からは解かれて、心の底に沈殿する罪の暗闇を掻き回し、罪の欠片を探す習慣から解かれて、救いの喜びに住むことが出来るのだ。 繰り返し罪を侵すのは魂が罪に縛れてのことであり、イエスに罪をあがなわれ、聖霊の守りに在る者は、いつもキリストのうちに在ってきよさに浸され、罪から解放された神の子の喜びに満たされて...悔い改め(ヨハネ6章)
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16) この一見純粋と見える質問は、罪や弱さに悩む者には決して口に出来な言葉である。良いことをしている者だけが、なをその行いに付け加えるものがあるのかと問い、イエスからいのちの約束を聴くことが目的なのである。 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(17) イエスは彼の心を知っておられ、「なぜ尋ねるのか」と言われた。自分で行い戒めを守れば良いのである。彼にはイエスは必要ないからである。 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはな...神に語る祝福のストーリィ(マタイ19章)
キリスト者はイエスの十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、あがないのゆえに義と認められて神に受け入れられた者である。彼らは世から取り出されて、イエスの死とよみがえりを霊に於いて共にし、まったく新しく生み出された者である。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 救いに与るまでとは全く違う価値観にを持つようになり、日々みことばに根ざして生きる者である。世では自分の好みのままに人生を選択し、あるいは、どうすることも出来ない弱さの中で、世の流れに身を任せて生きて来た者が、聖霊の解き明かしによってたまわった永遠いのちを知り、救いの喜びにあふれて生きる者とされる。 心の底から湧き上がる喜びが状況が良くても悪くても変わ...黙って居られなくなる
妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、(民5:14) 民数記には様々な場合、祭司が主がモーセに命じられた事に従って民を裁き、神の民から汚れを取り除くのである。上記の場合は実際に罪を侵した場合と、姦淫を疑われただけの場合が並べて書かれてある。どちらにしても、女が祭司の言葉に従うことによって身の証しがなるようである。無実であれば免れて子を宿すとある。子は神の祝福だからであろう。 妻が罪を犯していないことを証し出来るのは神だけである。裁判の無実は、罪の証拠が得られないので罰することが出来ないだけであって、罪が無いと証されたことではない。しかし、神の基準は心の中で欲望を描いたけで罪なのである。それゆえ義人...義なる神の裁きから愛なる神の赦しへ
日曜日は地域の草刈りだった。私も公園の草を見ながら「もうそろそろだな・・」と思うまでにこの地に馴染んでいた。先日から左足首に痛みがあって自由が利かなかったので、昨夜、主に「しゃがんで草引きが出来るようにしてください。」と願った。 朝食の準備をしていて、ふと痛みが無いことに気付いた。癒された時はどうかすると癒しに気づかないことがある。逆に痛みが残っている時は直ぐに気付くのだ。我ながら不信仰だと思う。主は肉に過ぎない者のこどなど先刻ご存じであり、信仰によって癒されるのではなく、癒しは必要を満たすための、主の憐みに拠ることであるとわかる。 不自由がある度に何度でも祈る。重い病気の癒しも、老いによる日々の衰えも、数えきれず癒されて今生きている。癒しは主のみこころのままにたまわり、癒された命は主のものである。 癒...成長のための癒し
コロコロと土より生まるジャガイモはハラハラどきどき今日で百日 土曜日に、それまで我慢して来たジャガイモ堀をした。思っても見なかった掌の半分もある芋がコロコロと出て来た時は、息が止まるほど驚いた。まさか、こんなのが出来ているとは思っても見なかったから。それというのも、此処は畑ではなく息子が造った花壇の一角。花を植えるのに間があるということで、ジャガイモを育てて見たいと頼んで植えたもの。 通りがかりの方に「これはなにですか」と良く問われ、「ジャガイモです」と答えては「やはりそうですよね」と笑い合った。まさか出来立ての花壇に芋を植えるとはね、驚かれる気持ちはよくわかる。でも、そんなことでお話が出来たことは嬉しかったけれど・・。 包丁の背を当てるとつるんと皮が剥けて真っ白なお肌が現れる。じゃがベーコンやカレーラ...花壇でジャガイモ堀り
神はモーセに、民が備えの地で豊かに生きるための戒めを与えられた。それは「豊かさを得たければ、寸暇を惜しんで働いて備えよ」と言うことではなく、「六年毎に一年間の静まる時を持て」と言う命令であった。不信仰と貪欲による貧しさからの守りのためである。 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(2~4) 六年間働いて収穫を得たなら1年は休めということである。その年はすべての農作業をしてはならないとあり、前年度の種からこぼれて成った実の収穫もしては...神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)
あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申19:21) 民の中から罪を取り除くために、罪の代償は同じものを差し出させよ、とある。故意に命を奪った者は命を求められ、目を傷つけた者は目を差し出すことを神は命じられた。それによってイスラエルの民を治めるためである。 神はご自分の愛するひとり子イエスの命を持って、罪のゆえに死に行く人類を滅びの死からあがなわれた。それによって、イエスを信じるすべての人に無条件の救いが及んだのである。ご自身の定められた「いのちにはいのち」によるルールを適応されたのである。聖なる神には、人が心の中で考えることに拠る汚れも罪であり、あがないを必要とするもので、神の御前に義人は一人もいないのである。 内側から、すなわち人の心の中か...目には目を歯には歯を
引っ越した家の室内は完全なバリアフリーで躓くものはない。ただ、門から玄関まで数段の階段がある。息子は「スロープにするか?」と聞いてくれたことがあったが止めた。注意深く階段を昇るほうが安全なことを知っているから。 50年前に建てた前の家は、当然トイレも和式であり、お風呂のリフォームをしたときも、日々強制的にスクワットを繰り返すことが、私に良いと思ったからである。わざわざ運動をするために、何処かに通う気などさらさら無いからである。 引っ越して二年経ったが私は和式トイレに自信があったので、出かけ先で和式を使用したとき、直ぐに立ち上げることが出来なくなっていたことに驚愕した。使わない筋肉が退化してしまっていたのだ。新築の家ではバリアフリーは当然とされているが、それは筋肉が退化した時に役立つものであって、本当は必...バリアフリー
キリスト者はみな神の祭司とされ、新しく生かされた霊をもって神に仕える者である。 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(1ペテロ2:5)あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9) レビ記には身に欠陥の在る者は祭司となれないとある。キリスト者が神に仕える祭司とされているのは、自身の完全に拠ることではなく、イエス・キリストのあがないの完全にある義と聖に拠ることである。 たとえ見える所は完全であっても、みな心の内には罪があり、また体にあっては、歳と共...祭司のつとめ
「石ころ」はgooブログ終了により、はてなブログに引っ越しをいたします。長い間尋ねてくださり、支えてくださった方には感謝しかありません。18年馴染んで来たgooブログを閉じて、勝手の違うブログに移ることは心細い思いなのですが息子の助けを受けながら、イエスさまが「もう、いいよ。」と言われるまでは、続けようと思っております。それは明日かも知れないのですが・・。老いて新しいことに向かうのは戸惑う事ばかりですが、間違いの無い事実は、今日よりも明日の方が年寄りと言うことで、この辺で決心を致しました。生まれて初めてブログというものを書き始めたのは2006年でした。開設から6873日記事は3610件トータル閲覧数1449356トータル訪問数655196これらのgooブログでの恵みを此処に置いて、はてなブログでの日を...引っ越しのお知らせ
近い将来の備えとして自分の意思をはっきりと書き留め、子どもたちの負担を減らして置きたいと思った。また、苦痛を引き延ばすような延命治療によって、子や孫のための医療費を浪費したくもないから。 84歳まで生きてもう十分であり、むしろ思いのままに動けず、儘ならぬ体は重荷となり、また、世に見聞きすることのひとつ一つを、勝手に負担に思ってしんどいのである。その度に主に逃れて祈って事を忘れるようにしているけれど・・。 「何か重荷を負わせましたか」と言われたことがあった。「勘違いだったのか。座を汚していたのに過ぎなかったんだ」と自分の思い上がと知ったことがあったけれど・・、そういうものかもしれないが・・。テレビを見ることは無いけれど、スマホからも気の重いニュースは目に入って来る。 キリスト者であれば、主が召してくださる...リビングウィル
私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。(出エジプト33:16) キリスト者が神のみこころに叶う者であり、神の愛の中に在ることを世にどのように知らせるのか。それは、永遠のいのちの望みが、キリスト者の平安となって現れることに拠り、死におびえつつ瞬間を生きている世とは全く違う生き方となって現れることに拠る。永遠に変わることのないイエス・キリストの言葉を持つ特別な存在であることが、神の備えによって人生に現れることにある。 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。(マタイ6:10) 彼らは日々にこのように祈りつ、...みこころ
儘ならぬ身を引きずりて生くる日に聞くレクイエム近しきイエスよ 愛無きと棘持つ薔薇も香り立つ1タラントを埋めず開けば今日の歌(2025.05.16.)
五月晴れ庭に溢れる薔薇の香に固きうなじを解かされ憩う 飛び出したジャガイモ一個収穫すツルツルお肌少し青ざめ 五月晴れ三重三年目空広く頂き物のワラビ煮ており今日の歌(2025.05.15)
(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4)一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(7) 人目を避けて炎天下に水を汲みに来ている女は、イエスに差し上げる良いものは何も持っていなかった。女は訪れてくださったイエスに拠って育てられ、イエスの必要を満たすまでになる。それは時間をかけて学ぶことではなく霊に拠って悟ることである。 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(10) イエスは昔も今も同じであ...サマリヤの女の伝道(ヨハネの福音書4章)
花陰のバッタやカエル顔を出し少し遊びぬ梅雨の晴れ間に 移り来てまだ海見ぬと気付きしは友の電話の海辺のニュース今日の歌(2024.06.29)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14) キリストは永遠のいのちに在る神の栄光から、罪によって死ぬべき人の体を纏い、人によって育てられて生きることの苦しみや痛みを知っていてくださる。高い所から見下ろして裁く神ではなく、救いのために十字架にまで下ってくださって、今も私たちの弱さの真ん中に居て同情してくださるお方である。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(へブル4:15) ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先に...私たちの中に住まわれる神のキリスト(ヨハネの福音書1章)
鈍色の空に向かって青々と田の面広がり吹く風優し 向日葵の花はいつでも遠き日のあっけらかんを思い出させる今日の歌(2024.06.25)
神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。(6~8) バプテスマのヨハネは母エリサベツの胎にいるとき、マリヤの胎に居られるイエスを喜んで踊った。彼は生まれる前から、キリストを知らせる使者の光栄を大いに喜んでいた。 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。(ルカ1:41) バプテスマのヨハネの生涯はイエスをキリストを証して、世の闇を照らす救い主を待ち望む人々に、キリストが来られたことを知らせ礼拝する道を備えた。 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから...生まれる前から主を喜んでいた(ヨハネの福音書1章)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1~3) イエスは神とともに永遠の始まりであり天地宇宙を、神のみこころに拠って創造された方である。それもことばに拠って造られ、イエスのことばには無から有を創造する力があった。 初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:1~3) ヨハネ書の書き出しは人の思考を破壊する。人はせいぜい処女マリヤから生まれたイエスを受け入れるだけで精一杯なのだ。しかし人は神に造られたものであり、被造物の...天地創造の愛の神イエス・キリスト(ヨハネの福音書1章)
見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。(23:14) これらのことを率いた民と共に目で見て、主を経験したヨシュアの人生は非常に幸せであった。「心を尽くし精神を尽くして主を知る」人生だったからである。それも主のたまものであるから・・。 みこころを成し遂げて穏やかに召される日は、主の祝福の時である。「主が御約束を一つもたがわず実現してくださった」ことを経験し、主をほめたたえる言葉を遺して召されることほどの幸いなことはない。 ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主は...ヨシュアが受けた主の祝福(ヨシュア記24章)
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。まことに 私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが 私を追ってくるでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいましょう。「アーメン」今日の歌(詩篇23篇)
モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。(6~7) モーセの律法を断固として守るということは、彼らが主に留まろうとする意志に拠ることであり、そのとき、イスラエルの目は主に釘付けられて、その純潔は異邦人もその神々も知ることはない。律法に集中しているからである。 異邦の民との交わりを禁じるのは、主から目を離して異邦人に向くとき、彼らが珍しいものに引き寄せられて、いのちの主を忘れるからである。人は視線の先に向かって生きるのであり、今何を見て...主にすがりなさい(ヨシュア記23章)
此処しばらく歩いていない。暇な時刻には暑くなっていて躊躇してしまうのだった。昨夜、「歩きたいなあ・・でも暑すぎる」なんて・・「公園に行きたいな・・」けれど最近の体調では無理だ・・とネガティブ思考に陥っていた。 今朝息子を送り出し外の涼しい空気に触れて、「そうだ、何もすべてを終えてから歩かなくてもいい。こんなに気持ちいいから今行こう!」と、飛び出すと本当に風がひんやりと肌に心地よかった。 何処までなんて考えずに、心のおもむくままに歩いていたら、公園まで来ていた。途中で畑をしておられる方とちょっとお話をして、以前から「何だろう」と思っていた作物の名前を教えてもらった。 この道を歩くと色々な疑問が湧いて来る。「これは麦。でも何か植え方が変・・」、「普通の稲と少し違うような気がする・・」とか、「これはひょっとし...今日の歌(2024.06.12)
キリストの贖いを経て、永遠に生きるために与えられる復活のからだは、卑しい肉の体とはまったく違う霊のからだである。肉の体の一部を取って霊のからだとなることなどありえない。 アダムとエバが罪を犯して園を追われた時に、神は肉の体に皮の衣を準備してくださったように、天に召されると霊に着せる衣も備えてくださるのである。 肉の体の再生によって霊のからだが造られるなどということは、罪を知っている体は滅びるものであり、役割を終えて地の塵に返るものである。 たとえミイラにして保存してもそれは死んでおり、罪のゆえに土に返るべき骨から霊のからだが造られると考えるのは、あまりにも霊と肉の違いを知らなさすぎて、それは、猿から人間が出来る以上に滑稽な話である。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハ...霊のからだと肉の体
主が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。(1) 主はヨシュアの働きに満足されて、老年期の後半には平和を与えられた。民はリーダー次第で何もかも変わる。主に従順なリーダーに恵まれて、良く聞き従い彼らは主の祝福の中に住んでいた。ヨシュアは全イスラエルの指導者を呼び寄せて言った。 あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。(3) 今の平和は主が与えたものであると、ヨシュアはその事実を、あなたがたは見て来たのだと、改めて確認させている。それはやがてくるヨシュアの終わりの日のために、イスラエルが覚えて置くべきことなのである。良...戦いの中に在るキリストの平安(ヨシュア記23章)
空っぽの土の器のひび割れにいのちの血沁むイエスの愛なれ今日の歌(2024.06.07)
救われた者は失敗を悔いるために吐いたものを覗きに戻ることはなく、何処から救われたかは決して忘れることはない。しかし、ペテロは二度と主を否むことはなく、また事実を悔やむこともしない。 人は、創造主なる神を蔑ろにした罪は何一つ覚えてはおらず、すべての罪を悔い改めることは不可能である。神と断絶させるその罪は、キリストが十字架の上で御父に見捨てられて、人知れずに贖ってくださったことである。それゆえ今「アバ父」と御名を呼び、罪を未だ知らない幼子のように御許に安らぐことを得たのである。 主の憐みにあって赦され、キリストの復活と言う神の備えによって新しくされ、今や神の子の光栄を抱いて生きており、罪の記憶は神が忘れてくださったと同時に遠いものとなったのである。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者...炎のバプテスマによる復活のいのち
ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主よ、神の神、主はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、主に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。(21~22) 彼らは思わぬ疑いを掛けられたときに「神の神、主よ。」「神の神、主よ」二重に二度も主の御名を呼んで助けを求め叫んだ。「反逆なら救わないで」と、真実を知っていてくださる主に命を捧げての祈りでもある。 キリスト者も時に攻撃されたり脅されることもあるが、その時の身の避け方は唯一「神の神、主の主よ」と御名を呼ぶことだけである。向き合って語る人もなければ、唯一の弁護者であるキリストを求めて叫ぶのである。 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の...誤解②(ヨシュア記22章)
ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。(10) その大きさは主への感謝と思いを現わしているようである。しかし、その律法に拠らない祭壇は命を脅かすほどの誤解を生むことになった。 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。(11) 神より発したものでない祭壇は偶像礼拝となり、それらはイスラエルに多くの死をもたらせて来た歴史があり、彼らはイスラエルの中に偶像礼拝が入り込むことを防ごうと直ぐに動いたのだ。 ...誤解①(ヨシュア記22章)
修理はpcに問題がないことを確認して、システムの問題でもないことも分かり、結局家の中のにある、一つの機器が傷を受けたことを発見して回復させることが出来た。それが微妙な傷であったので一部が働いていたのだとのことであった。そういうことでpcが復活した昨夜、31日に準備していた記事を取り合えずUPした。息子は考え方を変えてみるということ経験したと言い、私は自分の言動を振り返って、具体的な愛の欠けや怠慢の指摘を受ける時となった。 回復が与えられたことを感謝しつつ、たまわっている時間を大切に用いたいと改めて思わされた。私の中にある多くの傷は、何かを切り捨てて逃げ腰になったり、いつの間にか思い上がったりさせるものだけれど、イエスさまが共にいてくださることには大きな望みがあるから。小さな傷の大きな障壁(2024.06.02)
台風で強い風と雨が降った28日。午後になって突然電気が消えPCがダウンした。その日にUPしようとしていたものは推敲も未完であったが、このままが良いとOKが出たような気がして手放すようにUPした後で良かったのだが・・。 それは停電とは言わぬほどの間であり、瞬停と呼ぶらしいが使用中であったPCは大きな被害を受けていた。インターネットは繋がっており、ただ、一部が繋がらないと言う嫌がらせのような故障であった。私はPCでないとブログの編集画面に入れず、スマホで画面を眺めることは出来ても、何もできないという状態になった。その時は、何時ものように息子が帰って来たら修理してくれるだろう・・という甘い考えでいた。息子は帰宅すると連日格闘してくれていたが、遠距離通勤であり疲労がたまることを恐れて、「急がないから今日は寝て」...瞬停でも痛手は続くPCダウン(2024.05.31)
そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。(1~2) 彼らはヨルダン川を渡る前に、この地に残ることをモーセに願っていた。モーセは彼らが先立ってヨルダン川を渡り、すべての戦いが終わったら帰って来て所有することを許した。また、彼らはヨルダン川を前にした時に、ヨシュアに改めて命じられたことにも従順を約束した。 あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。主があなたがたの兄弟たちにも、あなたがたと同様に安息を与え、彼らもあなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有し...約束を守らせてくださる主(ヨシュア記22章)
銀色のコントレール一本五月晴れ 薫風ふわりうたた寝の午後静か今日の歌(2024.05.25)
レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、カナンの地のシロで彼らに告げた。「主は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」イスラエルの子らは主の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。(1~3) レビ人に与えられた地は、彼らが管理し放牧地として用いても、それは彼らの家系に引き継がれるものではなく、初めの約束の通りに彼らがたまわっているのは主ご自身である。何処に住んでも、何を管理していてもその約束は変わらないのだ。 キリスト者もこの世で諸々の財産を得て管理して、それらを大いに用いることがあるが世は一瞬に変わるもので、何時までも残り御国にまで持って行くもの...一つも違わず実現するのを見る(ヨシュア記21章)