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今時、偽書を造らずと雖も、本迹一致の修行を作す、豈蓮祖の獅子身中の虫に非ずや。我が日興上人は実にこれ蓮祖付嘱の写瓶なり。深くこれを思うべし云云。 今回は大聖人仏法における「師子身中の虫」に関する御指南です。「問う、蓮祖の獅子身中の虫これありや」との設問に『日興遺誡置文』の「僞書を造つて御書と號し本迹一致の修行を致す者は獅子身中の蟲と心得べき事」を引用し上記の御指南をされています。「本迹」というと一応は法華経の本門と迹門ということですが、総じて言えば「本迹」とは法華経に限りません。大聖人の仏法全般にわたって「本地」と「垂迹」が存在します。そしてこの「本迹」から、総別・能所・事理等の立て分けが生ま…
今得意して云く、二箇の相承は正しくこれ弘宣伝持の付嘱なり。謂く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり」とは、これ弘宣付嘱なり。故に「本門弘通」等というなり。「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり」とは、これ伝持付嘱なり。故に「別当たるべきなり」等というなり。秘すべし、秘すべし。 今回は『撰時抄上愚記(文段)』から付属に関する日寛上人の御指南を学びたいと思います。本文の前に「付嘱に三義あり」として、弘宣付嘱・伝持付嘱・守護付嘱の3種の付属を挙げられています。弘宣付嘱とは「四依の賢聖、釈尊一代所有の仏法を時に随い機に随って演説…
問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり この御文は『観心本尊文段』の一番最後の結論というべき御指南です。創価は自分たちの都合のいいように日寛上人の御指南を用いたり或いは否定したりしていますが、この御指南は日寛上人の創作でもなんでもなく日興上人爾来からのいわば大聖人の仏法の本尊義そして日興門流の基本中の基本の御指南です。創価の連中は「南無妙法蓮華経」とは何かを質問すると、ほとんどが「宇宙と自分の生命を貫く法則」などと知ったかぶりして答えます。本当に極稀れに「御本尊」と答える多少まともな学会員もいますが、「では御本尊の体…
自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり(観心本尊抄文段P219上) この御文は自行と化他の関係についての簡潔でしかも我々信徒にとって大切な御指南です。自行が満ちなければ本当の意味での化他行にはならない。折伏行には慈悲が伴わなければなりませんが、本当の慈悲は自行が満ちなければ起こらないし逆に自行が満ちてこそ本当の慈悲が生まれるわけですね。戸田会長の指導に「広宣流布は豆腐のおからである」というのがあります。戸田会長は豆腐=功徳・おから=折伏と定義しましたが、日寛上人の御指南に則せば豆腐=自行・おから=化他という意味になります。豆腐を作らなければおからは出来ないのです。創価活動家は豆腐…
暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。 この観心本尊文段の一節は有名な御文なので一度は聞いたことが有る方も多いと思います。読んだ通りなので特にこれといった解説はありませんが、この御文は我々大聖人門下の因行果徳が具体的に書かれています。「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば」とは我々信徒の修行です。「この本尊」とは当該文段の冒頭に【この本尊に人あり法あり。人は謂く久遠元初の境智冥合自受用報身。法は謂く久遠名字の本地難思の境智の妙法なり】と書かれているように人法一箇の本尊ですから「仏力・…
縦い名聞の為にもせよ、若しは利養の為にもせよ、身に妙法の行を立て、口に妙法の行を説け。或は身を仏前に運び、口に妙名を唱えよ。若し爾らば意業は自ら妙法の大善に入るべきなり云云。(御書文段P47上) 御書文段とは簡単に言うと日寛上人による御書講義録です。日興上人の御遺誡には御書の極理は師伝によることが示されていますが、この文段を読むと正しく血脈相承による師伝の深さをひしひしと感じます。御書講義ですから本門法義が多い読み物ですが我々信徒の信心の指針となる御指南もたくさんありますので今回から文段に書かれている御指南を少し拝していきたいと思います。初回は「立正安国論」上奏の月に因み『安国論愚記』の中から…
本抄の前半から本人並び看取りの人達の臨終において用心しなければならない御指南が続きますが、『臨終用心抄』の後半には「臨終の相」についての御指南が書かれています。一、臨終の相に依つて後の生所を知る事。と最初に「臨終の相」によって故人の死後の境涯を知ることができると言われています。つまり「臨終の相」が善相であるか悪相であるかで故人の成仏・不成仏が見て取れるということですが次では、一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事。と他宗謗法の人がたとえ臨終の時に善相を示したとしても堕地獄であるといわれています。その理由を【師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し、其の人命終して阿鼻獄に入るとは此れ也云…
臨終正念の妨げとなる原因である、1断末魔の苦、2魔の所為、3妻子財宝への執着に対する心得として日寛上人は次のようにご指南されています。 一、問ふ断末魔の時心乱れざる用心如何。答ふ、平生覚悟すべき事也。一には顕宗論の意に准ぜば他人を譏刺すべからず、人心を傷切すべからず、此れ常の用心也。二には玄四廿三に云く身本と鳴有ならず、先世の妄想、今の四天を招く、虚空を囲むを仮りに名けて身と為す文。(中略)死ぬる苦しきは家を槌にて頽るが如く四大の板柱材木面々に取り離す故に苦るしむ也、断末魔とは之れを云ふ。此の離散の五陰と云ふ如く離散の四大也。すはさればこそと読たるは苦なり、驚きたる処なり。解れば本の野原と読る…
今年の2月に母が亡くなりましたが、母が余命を宣告されホスピスに入院した時に日寛上人の『臨終用心抄』を何度も読み返していましたので、本抄について書いてみたいと思います。本抄は臨終に関しての心掛けを日寛上人が示された書で自分自身もまた看取る側にとっても重要な内容が書かれています。 一、祖判卅二十一に云く、夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが、念願すらく、人の寿命は無常也、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の燈尚譬にあらず、かしこきもはかなきも老たるも若きも定めなき習ひ也、されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと云云。 まず冒頭に大聖人の「妙法尼御前御返事」の一節を引用されています。仏…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第117条】神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向う所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ即ち事行の妙法、事の即身成仏等云云。 神座とは位牌のことです。他宗では本尊と位牌を並べて仏壇の中に立てますが当宗では位牌をいつまでも立てません。葬儀の時の白木の位牌は返納し故人の戒名を過去帳に写します。その理由は御本尊授与の時(ここでは常住御本尊のこと)に御本尊にそのひと…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 116条は長い御指南なので日達上人の『化義抄略解』の沿って3分割します。 【第116条①】釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華己前は仏の権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華以前に仏の権智を示めさるれば機も権智を受くるなり。さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約数と訳して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第111条】仏聖人の御使に檀方門徒へ行きて仁義にても引出物を得、布施などをも得たる時は本寺の住持の前にて披露するなり、其のまま我が所には置くべからず云云。 本条は在勤僧侶に対する御指南です。法主上人や御住職の代わりに信徒宅に行った際に受け取る世間的な儀礼としての引き出物や御供養は御住職(本山の場合は法主上人)にお見せして指示に従うということで見せずに勝手に自分が貰ってはいけないという僧侶としての筋道を示しています。 【第112条】世間病なんどの有る檀方の方へ御仏の御使に…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第107条】所にて仏事作善を広大になす時、其の所の謗法の地頭などの方へ、酒の初ほを進らする事一向世事仁義なり、又其所などに他宗他門の仏事、法会を成す時、其所の然るべき法華宗なんどの所へ酒の初ほをつかわす事有り是は世事の仁義なり、受け取る人も世事仁義と心得、請取る可きなり云云。 「初ほ」は「初穂」(その年に初めて実った稲穂)のことで「珍しいモノ」という意。ある場所で法要等を行う時にその土地の謗法者である地主などに酒を初穂として送ったり逆に他宗他門の法要の時に当宗信徒の地主…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第100条】他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時点心を備うには食すべきなり、既に請せず。又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず、又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには、有りあえたる時、点心を備うるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。 点心と…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第94条】法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云わず、又有智無智をも云わず、信志無二なる時は即身成仏なり、只し出家の本意なるが故に何にも持戒清浄ならん事は然るべし、但し破戒無智にして己上すべからず云云。 本宗は実大乗教なので無二の信心によって即身成仏するのでから戒律を守っているかどうかや智慧の有無は問題にはならりません。飲酒も肉食も創価の正宗誹謗のひとつである妻帯も小乗戒ですからそのような戒律は不要であり不問だということです。しかし信心をし…
記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「黒太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。 【第89条】法華宗の法師は他宗他門の人に交わる時は我が人体の分程と振舞ふべし、解怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし、我が法華宗の中にては貴賎上下を云わず仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云。但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。 本条項は、当宗僧侶の宗外・宗内での他者に対する振舞いに関する化義です。最初に宗外の人と接する時は礼節をもって(解怠すべからず)卑屈になることもなく世法上の自分の身分の程に応じて振舞えばよい。宗内においては御僧侶と…