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大田乗明(大田五郎左衛門尉乗明)は、三善康連の次男として日蓮大聖人と同じ年の貞応元年(1222)に生まれました。祖父は三善康信で源頼朝に仕え初代問注所の執筆(現在だと裁判所長官)に任命された人で、父・康連そして乗明も問注所の役人で、大田家は常陸(福島県)・越中(富山県)に所領を持つ相当裕福な家庭だったと思われます。康連が備後国(広島県)大田荘の地頭だったことから大田姓を名乗るようになったとされ、乗明は下総(千葉県)中山に住んでいました。乗明の入信は大聖人が松葉ケ谷の法難で一時鎌倉を離れて下総若宮の富木常忍の許へ身を寄せていたころと思われます。若宮と中山は地理的にも近く、一説には常忍夫人の富木尼…
日蓮大聖人には女性信徒も大勢いましたが中でも個人的に一番なのが、乙御前の母の日妙聖人です。幼い乙御前をつれて佐渡の大聖人の許を訪ねるその純真さと強さは間違いなく私の中では「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」です(笑)。そんな日妙聖人の氏素性はハッキリしていません。鎌倉の信徒で夫と離婚か死別をして寡婦だったこと。幼い子供を連れて佐渡まで行ったから年齢は多分20代前半。また幼女が「乙御前」と呼ばれていたので夫は武士階級(御前は階級の高い女性の名前に付ける尊称)であったと思われます。そんな日妙聖人が大聖人を訪ねて乙御前と佐渡に行ったのは鎌倉の大聖人の教団は壊滅に近かった状態文永9年(1272)のことで…
波木利日円の謗法により日興上人が身延離山の決意をされた状況と心情は、日円の子息である正信の信徒である原殿に宛てた『原殿御返事』に詳しく書かれいます。聖典にも掲載されているので聖典を所有している方はぜひ一読してください。当抄の内容は最初に身延謗法化の直接の発端を示し次の日円の謗法は日向の教唆によるもと断じ日興上人が身延離山を決意された苦衷の心情を述べ最後に日向の非行を難じで文を終えてます。日円の謗法については『富士一跡門徒存知事』には四箇謗法を挙げていますが『原殿御返事』には三箇謗法を示されていますがどちらも内容は同じです。即ち、1三島神社参詣。2福士の塔供養参加。3九品念仏道場建立。4立像一体…
日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日円が大聖人を知ったのは日興上人が四十九院の所化時代の頃と言われ興師が同郷であったので意気投合し日興上人が大聖人の門下になると念仏を捨てて大聖人門下になりました。時期としては定かではありませんが文永6年前後と思われます。尚、実長が入道して日円と名の乗ったのは弘安4~5年ころと言われています。大聖人より御書を数編賜っていますが目立った外護の働きは大聖人身延入山後の…
弘安7年10月13日に身延久遠寺において他の老僧が不参のなかで日蓮大聖人の三回忌法要を執り行った日興上人がその直後に、上総国の美作房日保師に書かれたのが『美作房御返事』です。同書の詳細については別に機会に譲りますが内容を要約すると「鎌倉方(日昭・日郎)の老僧は地頭・日円(波木井実長)が謗法を犯しているので大聖人の魂は身延に住んでしないといって墓所輪番も守らず一向に登延してくないが日興上人は日円が謗法を犯しているとは思えないし日興上人も日円も老僧方に他意はない。故に日興上人や日円に対する誤解をといて門下の人達が身延に参詣してくれればどれほど嬉しい事か、貴僧(美作房)も是非お越し下さる事を望んでい…
大聖人の御葬儀と初七日法要を終えた日興上人は、弘安5年10月21日に大聖人の御遺灰を抱いて池上を出発し、27日に身延に入山されました。 ◇御身骨を身延山に移し奉る事。或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、23日車返、24日上野南條七郎宿所、25日甲斐の国に入り給えり云々(元祖化導記・日朝著) 日位筆と言われる『大聖人御葬送日記』では19日を池上出発説をしていますがいずれにしても弘安5年10月下旬には日興上人は身延に入山され以降離山までの間、身延の別当として身延久遠寺に常住します。近年、『美作房御返事』や『尊師実録』の切文を用いて日興上人の身延入山を弘安…