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富木常忍と聞くと真面目で几帳面なお堅いエリートで資産家のオジサンというのが私のイメージで、こんな人が父親だったら躾が厳しくて私が子供だったら耐えられないかも?なんて妄想したりしますが、富木五郎胤継は若宮(現・千葉県市川市)の領主で大聖人外護に全うした信徒です。後に入道し常忍と称し大聖人より日常の法号を賜っています。大聖人の御書では、「富木」の他に「土木」や「富城」と書かれているものもありますが富木家の出身は因幡国法美郡富城郷(現在の鳥取県岩美郡)だと言われているので「富城」が正しいと思われます。また「胤継」という名称は上古の記録にないので「胤継」は本名ではないという説もあります。生年については…
日蓮大聖人には女性信徒も大勢いましたが中でも個人的に一番なのが、乙御前の母の日妙聖人です。幼い乙御前をつれて佐渡の大聖人の許を訪ねるその純真さと強さは間違いなく私の中では「お嫁さんにしたい御信徒NO.1」です(笑)。そんな日妙聖人の氏素性はハッキリしていません。鎌倉の信徒で夫と離婚か死別をして寡婦だったこと。幼い子供を連れて佐渡まで行ったから年齢は多分20代前半。また幼女が「乙御前」と呼ばれていたので夫は武士階級(御前は階級の高い女性の名前に付ける尊称)であったと思われます。そんな日妙聖人が大聖人を訪ねて乙御前と佐渡に行ったのは鎌倉の大聖人の教団は壊滅に近かった状態文永9年(1272)のことで…
佐渡流罪が赦免された大聖人は文永11年(1274)3月26日に鎌倉に戻り同年4月8日に平左衛門尉と対面し3度目の国家諌暁をするも聞き入れられず身延に入山されますが、生きて2度とは帰れないといわれた佐渡流罪から大聖人が戻られたことは門下一同には大きな喜びであり就中竜の口の頸の座までお供し殉教すら決意した四条金吾の喜びは測り知れません。金吾はその歓喜と大確信の立ち主君・江間氏に対して文永11年9月に折伏を敢行します。江間氏は極楽寺良寛の熱心な信徒でしたでしがそれまでは金吾の法華信仰に対して咎めることも無く主従関係は和やかでしたが折伏後を機に金吾は主君より不興を買うことになります。そこから金吾の人生…