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先月の御登山の帰りに少し遠回りして内船寺を見学してきました。大石寺から車で約1時間の内船寺は山梨県南巨摩郡南部町にある日蓮宗の寺院です。四條金吾頼基が建治3年(1277)に邸内に三間四面の持仏堂を建立したのがその始まりで、弘安8年(1285年)に自邸を改めて寺として四條山正住坊と称したそうです。その後移転を繰り返し今の地に落ち着いたとされていて寛政年間に一度、安政年間に二度の火災に遭い、現在の本堂・庫裡は1855年(安政2年)に再建されたもです。山間の小さな寺院なので境内を見て回るほどでもないですが、ここに立ち寄ったのは四条金吾と日眼女夫妻の廟所を見たかったからです。他にも見ることはできません…
日興上人が大聖人の御遺骨を奉持して身延に入山したのは弘安5年10月25日ですがその後、弘安8年に日向が身延に入山すると身延は謗法と化しついに日興上人は身延を離山することになります。(日興上人の身延離山史については過去記事をお読みください)日興上人は正応2年に身延を離山し富士河合の御養家に滞在します。南条時光は早速身延を離山した日興上人を南条家の持仏堂(現在の下之坊)にお招きし同年3月に日興上人御一行が南条邸に到着するとそこから半里ほど北に広がる四神相応の地「大石ケ原」の寄進を申し出ました。こうして同年秋に大石寺創建の工が始まりました。工事は着実に進み正応3年10月12日に十二間四間の大坊が完成…
大田乗明(大田五郎左衛門尉乗明)は、三善康連の次男として日蓮大聖人と同じ年の貞応元年(1222)に生まれました。祖父は三善康信で源頼朝に仕え初代問注所の執筆(現在だと裁判所長官)に任命された人で、父・康連そして乗明も問注所の役人で、大田家は常陸(福島県)・越中(富山県)に所領を持つ相当裕福な家庭だったと思われます。康連が備後国(広島県)大田荘の地頭だったことから大田姓を名乗るようになったとされ、乗明は下総(千葉県)中山に住んでいました。乗明の入信は大聖人が松葉ケ谷の法難で一時鎌倉を離れて下総若宮の富木常忍の許へ身を寄せていたころと思われます。若宮と中山は地理的にも近く、一説には常忍夫人の富木尼…
佐渡で一番最初の大聖人の信徒になった阿仏房の出自については諸説ありますが、現在の所は佐渡土着の武士であるとされています。妻の千日尼と共に佐渡流罪中の大聖人を外護し大聖人が身延に入られてから阿仏房は高齢の身で3度身延の大聖人の許を訪ねています。また千日尼の「千日」とは大聖人から頂いた法号とも言われ大聖人の佐渡在留期間が約1000日間だったことから「千日」の法号となったいう説もあります。さて大聖人が流罪の地である塚原三昧堂に入られたのは文永8年(1271)11月1日です。佐渡の念仏信者だった阿仏房は噂の極悪僧侶・日蓮(大聖人)を殺害せんと塚原にいきますが大聖人の御尊容と御法門に接しその場で念仏を捨…
佐渡流罪が赦免された大聖人は文永11年(1274)3月26日に鎌倉に戻り同年4月8日に平左衛門尉と対面し3度目の国家諌暁をするも聞き入れられず身延に入山されますが、生きて2度とは帰れないといわれた佐渡流罪から大聖人が戻られたことは門下一同には大きな喜びであり就中竜の口の頸の座までお供し殉教すら決意した四条金吾の喜びは測り知れません。金吾はその歓喜と大確信の立ち主君・江間氏に対して文永11年9月に折伏を敢行します。江間氏は極楽寺良寛の熱心な信徒でしたでしがそれまでは金吾の法華信仰に対して咎めることも無く主従関係は和やかでしたが折伏後を機に金吾は主君より不興を買うことになります。そこから金吾の人生…
富士宗門史として今回から日蓮大聖人御在世の信徒の略伝をかいていきたいと思います。独断と偏見でトップバターは四条金吾です。四条金吾の正式名は【四条中務三郎左衛門尉頼基】といいます。四条は性、三郎は通称、頼基は名で中務は父・頼員の官名(中務少丞)で、左衛門尉は頼基の官職位です。この左衛門尉を唐名で金吾校尉と呼ぶことから四条金吾と通称さていました。金吾の家系は現在も続いていて四条家に残る家系図によると四条家は藤原鎌足の後裔で父・頼員は承久の乱の後に北條一門の名越遠江守朝時その嫡子越後守光時に仕え頼員は建長五年に他界しています。金吾は寛喜二年(1230)に生まれ、正安三年(1300)年に没しており、妻…
日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日円が大聖人を知ったのは日興上人が四十九院の所化時代の頃と言われ興師が同郷であったので意気投合し日興上人が大聖人の門下になると念仏を捨てて大聖人門下になりました。時期としては定かではありませんが文永6年前後と思われます。尚、実長が入道して日円と名の乗ったのは弘安4~5年ころと言われています。大聖人より御書を数編賜っていますが目立った外護の働きは大聖人身延入山後の…
昨年2月に日興上人の略伝を書きましたが、日興上人の御生涯で一番の出来事といえばやはり身延山離山からの富士大石寺開創だと思います。そこで日興上人の別伝として数回に分けて日興上人の身延離山の略伝を書きたいと思います。それに先立って日興上人の御立場について最初に書いてみます。いうまでもななく日興上人は宗祖・日蓮大聖人より大聖人の仏法の全てを唯授一人血脈相承だれた御方です。それは、 ◆「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主この法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中く我が門弟等此の状を守るべきな…
ここまで江戸時代を中心に大石寺の法難の歴史を記してきました。江戸時代以降にも様々な法難がありました。戦時中でいえば『弾正会』の創始者である藤本秀之介(後に出家し蓮城と名乗る)の投獄・獄死。戦後、創価学会・戸田会長の活躍で大石寺もようらく春が訪れたかに思えたのも束の間で、池田大作が3代会長になると正本堂問題で妙信講(現在の顕正会)、52年路線を前後して正信会という2大異流儀が生まれ宗門攻撃をしてきました。この2大異流儀誕生は【昭和の法難】といっていいでしょう。そしてこの2大異流儀を生んだ根本原因は池田大作の驕慢謗法です。そして平成になると、その池田創価自体が宗門や法主上人に反逆し宗門の僧俗に対し…
金沢法難は日亨上人が富要集において『長』と記したように享保8年(1723)より江戸幕府崩壊までの約100年間の長期間に亘る法難です。領内に末寺が無い事から国禁(藩内における信仰の禁止)となり、その結果、閉門・閉戸・入牢・扶持離れ等の弾圧が続きましたが藩内には陸続と法華講中に結成され、池田宗信・加藤三右衛門・西田丈右衛門・竹内八右衛門・中村小兵衛などの強信者を輩出し、ついには金沢の地より37世日琫上人・47世日珠上人が御登座されました。金沢信徒に下賜された御本尊は350幅余り、歴代上人の御消息文は現存するだけも100通に達しています。そもそも加賀の国に大聖人の仏法が広まったのは5代藩主・前田綱紀…
江戸末期の弘化3年~4年にかけて惹起した『弘化度の法難』は、法難が惹起した地名から『猫沢法難』とも呼ばれている法難です。(また『猫沢問答』とも呼ばれます)。当時の柚野(ゆの)村(現静岡県芝川町)には、大石寺末の蓮成寺がありその近辺に一致派(日蓮宗)の妙覚寺・光徳寺・円恵寺等がありました。事の発端は、弘化3年1月22日に蓮成寺檀徒の政兵衛の母の葬儀に光徳寺の日逢が参列したことで葬儀の導師をしていた蓮成寺留守居の諦妙師等と口論になり(日逢が大石寺をキリシタンと同じと暴言を吐いたため)村役人も立ち会っ末に日逢がわび状を書く結果になりました。この一件を日逢等日蓮宗側は遺恨に思い日々奸策を巡らせます。当…
八戸法難は江戸時代末期の弘化元年(1844)に仙台・仏眼寺の玄妙房日成師による八戸弘教によって惹起した法難です。日成師は天保13年(1842)に奥州弘教に為に長横町の阿部喜七宅に投宿されその滞在中に、喜七と娘婿・阿部豊作を教化し、さらにこの両名の折伏で、三崎清兵衛、三崎忠助、石橋大治郎、佐藤清助(桝屋恒佐)、城前(瀬戸屋)善吉等が大石寺信仰に帰依しました。翌年の天保14年に喜七等は大石寺に参詣し日英上人より御本尊と御影像を頂戴し、帰郷後には日成師の指導のもとに益々折伏の邁進し入信者も相当数に増えていきました。当然、折伏弘教が進んでいくほど周囲の反発も大きくなり悪口や誹謗といった不穏な空気も徐々…
文政5年(1882)に大石寺信徒・永瀬清十郎の名古屋弘教によって惹起した法難が『尾張法難』です。清十郎は元々は日蓮宗一致派信徒でしたが大石寺の正義をしり日量上人の俗弟子となった人です。文政5年より自信がかつて日蓮宗を布教した名古屋の地の縁故の家を訪ねて大石寺の教えの布教を始めました。名古屋においては後の名古屋信徒の中心となる高崎唯六の母を折伏しやがて名古屋の武士階級に正法が広がりました。また清十郎の弘教は農村地帯の北在(現在の小牧市周辺)にも広がり、小木村・船橋儀左衛門、寄木村・平松増右衛門、小牧村・岩田理蔵、外山村・木全右京等が帰伏し教線が拡大します。当時は尾張一帯に大石寺の末寺はなく一致派…
『伊那法難』は、天明4年(1784)、信州・伊那(現在の長野県伊那市)で城倉茂左衛門が中心に折伏弘教した結果惹起した法難です。茂左衛門の生まれた城倉家は元々は曹洞宗・常輪寺の檀家でしたが茂左衛門の祖父の代から内々に日蓮宗身延派・深妙寺に帰依するようになり父・伴蔵の代には帰依が深まり城倉家の人々は法華経読誦をするようになっていましたので茂左衛門は幼少時より日蓮大聖人を尊んでいましたが、茂左衛門は大聖人滅後にその門流が様々に分派しているがいずれが正しく大聖人の御真意を伝えるているのか?という疑念を持っていました。そこでそれを知るために宝暦13年・茂左衛門19歳の時に千箇寺詣に出ます。近隣の法華寺か…