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日興上人が大聖人の御遺骨を奉持して身延に入山したのは弘安5年10月25日ですがその後、弘安8年に日向が身延に入山すると身延は謗法と化しついに日興上人は身延を離山することになります。(日興上人の身延離山史については過去記事をお読みください)日興上人は正応2年に身延を離山し富士河合の御養家に滞在します。南条時光は早速身延を離山した日興上人を南条家の持仏堂(現在の下之坊)にお招きし同年3月に日興上人御一行が南条邸に到着するとそこから半里ほど北に広がる四神相応の地「大石ケ原」の寄進を申し出ました。こうして同年秋に大石寺創建の工が始まりました。工事は着実に進み正応3年10月12日に十二間四間の大坊が完成…
日蓮大聖人が身延に入山するとともに日興上人の富士地方の積極果敢な折伏が開始されその教線は拡大しその結果熱原法難が惹起します。(熱原法難については過去記事をリンクしましたのでそちらを参考にしてください)熱原法難の報告を受けた大聖人は時光に急使を遣われ残った信徒たちの保護を要請しました。熱原法難は平左衛門尉頼綱の意向を受けたもので熱原信徒に加担すれば幕府を敵に回すことになりますが、時光は大聖人の御意のまま熱原信徒とその家族を匿い守ります。そして大聖人から上野賢人という「賢人号」を授かります。しかしこのことが原因で時光は過分の租税や夫役を課せられるなど謗法者達から経済的な迫害を受けることになります。…
大聖人の御在世の素晴らしい御信徒達は大勢いますが、私の中では筆頭はやはり南条時光です。大石寺の開基檀那だということもありますが、(池田創価は大石寺周辺の広大な土地を寄進したと偉そうにしていますけど、元はその土地は全て最初に南条時光が寄進した土地ですから池田創価より時光の方が凄いです)何と言っても大聖人と日興上人という宗開二祖を少年期から生涯変わらずにお慕い申し上げた水の流れるような信仰は派手さはないけど、その芯の力強さに感動します。他の御信徒は日興上人とも所縁の深い佐渡の信徒を除き大聖人御入滅後は日興上人に対し大聖人同様に接する御信徒は少なかったように感じます。地理的な要素や日頃の交流など日興…