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波木利日円の謗法により日興上人が身延離山の決意をされた状況と心情は、日円の子息である正信の信徒である原殿に宛てた『原殿御返事』に詳しく書かれいます。聖典にも掲載されているので聖典を所有している方はぜひ一読してください。当抄の内容は最初に身延謗法化の直接の発端を示し次の日円の謗法は日向の教唆によるもと断じ日興上人が身延離山を決意された苦衷の心情を述べ最後に日向の非行を難じで文を終えてます。日円の謗法については『富士一跡門徒存知事』には四箇謗法を挙げていますが『原殿御返事』には三箇謗法を示されていますがどちらも内容は同じです。即ち、1三島神社参詣。2福士の塔供養参加。3九品念仏道場建立。4立像一体…
日興上人の身延離山は偏に地頭・波木利日円(南部実長)の謗法によります。日円は南巨摩郡の波木利に住していたことから波木利殿と呼ばれていました。子息は諸説ありますが長男から、六郎次郎・六郎三郎・六郎史郎・弥六郎(日教)の4人がいたようです。日円が大聖人を知ったのは日興上人が四十九院の所化時代の頃と言われ興師が同郷であったので意気投合し日興上人が大聖人の門下になると念仏を捨てて大聖人門下になりました。時期としては定かではありませんが文永6年前後と思われます。尚、実長が入道して日円と名の乗ったのは弘安4~5年ころと言われています。大聖人より御書を数編賜っていますが目立った外護の働きは大聖人身延入山後の…
弘安7年10月13日に身延久遠寺において他の老僧が不参のなかで日蓮大聖人の三回忌法要を執り行った日興上人がその直後に、上総国の美作房日保師に書かれたのが『美作房御返事』です。同書の詳細については別に機会に譲りますが内容を要約すると「鎌倉方(日昭・日郎)の老僧は地頭・日円(波木井実長)が謗法を犯しているので大聖人の魂は身延に住んでしないといって墓所輪番も守らず一向に登延してくないが日興上人は日円が謗法を犯しているとは思えないし日興上人も日円も老僧方に他意はない。故に日興上人や日円に対する誤解をといて門下の人達が身延に参詣してくれればどれほど嬉しい事か、貴僧(美作房)も是非お越し下さる事を望んでい…
大聖人の御葬儀と初七日法要を終えた日興上人は、弘安5年10月21日に大聖人の御遺灰を抱いて池上を出発し、27日に身延に入山されました。 ◇御身骨を身延山に移し奉る事。或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、23日車返、24日上野南條七郎宿所、25日甲斐の国に入り給えり云々(元祖化導記・日朝著) 日位筆と言われる『大聖人御葬送日記』では19日を池上出発説をしていますがいずれにしても弘安5年10月下旬には日興上人は身延に入山され以降離山までの間、身延の別当として身延久遠寺に常住します。近年、『美作房御返事』や『尊師実録』の切文を用いて日興上人の身延入山を弘安…
昨年2月に日興上人の略伝を書きましたが、日興上人の御生涯で一番の出来事といえばやはり身延山離山からの富士大石寺開創だと思います。そこで日興上人の別伝として数回に分けて日興上人の身延離山の略伝を書きたいと思います。それに先立って日興上人の御立場について最初に書いてみます。いうまでもななく日興上人は宗祖・日蓮大聖人より大聖人の仏法の全てを唯授一人血脈相承だれた御方です。それは、 ◆「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主この法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中く我が門弟等此の状を守るべきな…