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新型コロナウイルス感染拡大が始まった頃から、電車、バス、マイカーで遠出することが無くなり、もっぱら家の近くをぶらつき回る暮らしになってしまっているが、もう3年目、今年もまた、花の季節がやってきた。3月、4月は、スプリングエフェメラルと呼ばれる、小さな可憐な花々が次々開花する時期、あっちこっちから開花情報が伝わってきており、そろそろ、感染対策した上で、そろーり、出掛けてみたい心境になっているところだ。ネタが無い分、コンデジでやたらカシャ、カシャ撮り、外付けHDに大量に溜まっている古い写真を引っ張り出しては、ブログネタにしているという次第である。ふっと、「ヨゴレネコノメ」の写真に目が止まり、引っ張り出してみた。今から21年前、2001年4月14日に、東京都西部に有る刈寄山を歩いた時に撮っていた「ヨゴレネコノメ」当時...ヨゴレネコノメ(汚れ猫の目)
昭和30年代中頃の話である。M男は、北陸の山村の親元を離れて、地方都市の学生寮に入寮することになった。入寮条件は、親の収入が有る一定額以下で、学費支払いにも窮するような貧困家庭の学生ということだったと思うが、当時の日本、まだまだ貧しい暮らしの家庭が多く、学生寮入寮希望者も多かったはずで、おそらく定員オーバー状態で(詰め込みで)、受け入れていたのではないかと、後年になってから思われたものだ。M男は、寮費が下宿等と比べたら段違いに安いことも有り、どんな寮なのかは問題外、藁をもすがる思いで申し込んだと思うが、入寮許可通知が届いた時は、家族共々、大喜こびしたものだった。ただ、いざ入寮が迫ると、世の中を知らない井の中の蛙は、初めて外で集団生活する不安に襲われたような気がする。しかし、事前に下見する等のことも無しで、いきな...学生寮の記憶・その1
◯寮の様子昭和30年代中頃、M男が、北陸の山村の親元を離れ、地方都市の学生寮に入寮し、生まれて初めて外で集団生活を始めた頃の話である。最初の1年間を過ごした学生寮は、第二次世界大戦の戦火を免れた、旧制高校時代からの古い木造平屋建(大正後期から昭和初期の建物)だった。記憶は曖昧になっているが、寮舎の入り口・玄関は、大きな引き戸で、入ると広い土間が有り、向かって右、中、左、並列に3棟が並んでいた。各棟は、「南寮」「中寮」「北寮」と呼ばれていたような気がするが、その3棟の奥には、さらに2棟が有って、「東寮」「西寮」と呼ばれていたと思う。いくつか有った「寮歌」の一つの歌詞の一節に、「三寮の窓、漏るる灯の・・・」が有り、おそらく、創立時には、「南寮」「中寮」「北寮」の3寮だったものが、後に、「東寮」「西寮」2寮が増設され...学生寮の記憶・その2