路があれば路を往くように。道があれば
路があれば路を往くように。道があれば
ぶっぽうはるかにあらずこころのなかにしてすなわちちかし般若心経秘鍵仏法
ある人、自己の欠点を知悉し得ない処に、一切の悩みと悲しみとは生まれる。ゆえにまた一切の苦悩の超克と解脱は自己の「如是性」の徹見あるのみ。と宣う。さは如何に。如是性
飛べないよとかんがえている哺乳類より飛べるかもとかんがえている哺乳類のほうが好きだしましてや飛んでいる哺乳類が存在することに私は感動している。わしら、哺乳類。
title:72年前の、ある一枚の写真-焼き場にて-少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見続けた。・・佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で...2017/08/13
(picture/source)フロイトの説いたものは意識についての無意識だったのか、無意識における意識性といったものであったのか。ものごとの「もの」の説明はいま、ものごとの「もの」の説明は一世紀ほどの間にいかほどの発展があったのかは定かでもない、人にまとわりつくそのものやそうでないものといった無防備なもの、フロイトの説いたものは意識についてのものだったのか、無意識についてのものであったのか。ストリップを学問したひとのスリップが無意識とともに売りに出されている、49ドル99セントで、無意識のようなものも一緒に。すぐ着た方がいいのか買った後で脱ぎ捨てるべきなのか、テンポラリー・コンテンポラリーを体現する機運、僕はこれはアートという芸術運動の浮世絵ではないかとにらんでいる。名前は、まだ無い。売りに出る無意識
飢えては喰らい楽しくて呑み穏やかなる眠りに安んず死生は可もなく不可もなく達せるかな達せるかな漢詩の良いところは、意味の謂わんとするところ、心情に沿うところの感得、それらを自由にさせてくれる遊び、とでもいいましょうか、私にとっては、その懐の深さにあると思っとります。また、特に酒を愛でることにおいて、李白と白楽天は大好きなご両人なのであります。はてさて達せるかな達せるかな白楽天もしくは白居易
災難に逢う時節は災難に逢うがよく候死ぬる時節には死ぬるがよく候是はこれ災難をのがるる妙法にて候。良寛さんは好きというよりも存在してくれたことに有難さを感じています。私にとっては、愚で愁で厳でなお了。というものをちらりはらりと大事の時に見せてくれるところなのです。良寛さん
春は青く夏は朱く秋は白く冬は黒い。人生も四季の如く移ろう也や否や。人の一生、その成り行きは焼かれるまでわからんとも言うが。それ我が移ろいの終わるとき。そうしきと呼ばれる。四季のこと。
title:まちなかの仙人出すぎたことを気にかけ、くたびれてはいても態度は朗らか、、言葉は少ないながらも解り良く声を出し、若い者の喜びを真面目に見守りそれを楽しむ。目は剥かず、剥く歯はなく、肩にも自我にも入れる力は忘れている。なによりも、自分が人を傷つけ芽を摘むことを恐れている。そして少しの茶気といくつかの魔法を持っている。佳き事佳き人は、順番に巡り行きかつ往来することを信じて生きる。2012/07/13
title:心のまことかまぼろしか。子供には色々なものが見えるという。そして大人になるに随って見えなくなるものがあるという。超現実的世界を全否定するつもりはないが、こんな話がある。毎夜枕元に立つ幽霊に悩まされた男が和尚を訪ねる。和尚はその男に対し大豆を幾粒か手に握りしめさせてからこう告げる。決してこの手を開いて中を見てはならぬ。そのまま夜まですごし、幽霊が現れたらこう聞け「この手に握っているものはなにか?」すると幽霊は「大豆」と答えるだろう。そしたら「では何粒あるか?」と問え。幽霊はしばらく考えるじゃろうが、たぶんスッと消えていなくなるはずじゃ。その夜やはり幽霊が現れたが、和尚の云われた通りのやりとりが起こり、幽霊は数を答えられずスゥ~と消えていなくなった。次の日男は和尚にそのわけを聞くと、「おまえさんは...2012/11/08
タケノコ竹になる。仏教では死ねば皆仏(ほとけ)とよばれる。ということで親が他界している私らは皆、仏の子である。仏になれるかどうか。1+1=2というのは算術だが、術では説明のつかない1+1=1ということがしみじみとくる今日この頃である。一滴に一滴を足しても二滴にはならない、またかわった一滴になるだけだ。ほとけの子
KeyframeAIVideoMadewithLumaandMidjourney新しいものは常に新しく、古いものは順番に古い。ということがにわかにわからなくなってきた。それとこの頃思うことがもう一つ。なんとなくいらないと想っていたものがはっきりといらなくなってきた。瞬歩進歩春歩、不易流行のこと。
魂よ謎を解くことはお前にはできないさかしい知者の立場になることはできないせめて酒と盃でこの世に楽土を開こうあの世でおまえが楽土に行けるとは決まっていないいつまで一生をうぬぼれておれようあるなしの論議などに耽っておれよう酒を呑めこう悲しみの多い人生は眠るか酔うかして過ごしたがよかろうルバイヤート(四行詩)より
title:T.レックス。Q:あなたは後世に何を残しましたか?A:骨。Q:あなたはこの生々しい現実をどう思っていますか?A:これは錯覚ではない、事実。しかし具体的な現実は私にとっては偉大な錯覚。Q:あなたが探していながら見つからなかったものは何ですか?A:未来。Q:あなたは何を最も恐れましたか?A:恐がること。Q:真実ということについて聞かれたらどう答えますか?A:真実ということについて。Q:あなたは幸せですか?A:時々。Q:あなたは肉は好きですか?A:はい、新鮮であれば。Q:あなたは肉体と魂は違うと考えてますか?A:食べられる方が肉体で、食べる方、つまり食べられない方が魂。Q:あなたにとって合理的とはどのようなことですか?A:錯覚の反対側にあるもの。Q:最後に今のあなたの状況について教えてください。A:...2013/04/27
豊臣の秀吉が豪華絢爛たる聚楽第を建造した時、その柱に、「驕れるもの久しからず」と落書きされた。くだんの祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・に掛けてであるが、さすが大物秀吉怒るどころか、「驕らなくても久しからず」と返歌を書いたという、嘘か本当かよくできた逸話がある。この話をなんとなく想い出して、二つ並べて書いてみた。久しからず。落首の妙
生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵
title:随意と不随意。随意と不随意を司るトップ同士には軋轢があった。脳が指示を出す「休め」、心臓は答える「休むことはできないのだ」脳が言う「おれの命令が聞けないのか」、心臓は突っぱねる「一身を賭してもできかねる」・・やがて心臓は寿命を迎え力尽きた、脳は薄れゆく意の下で最後につぶやく、「だから休めといったのだ」・・。そして脳も心臓も一緒に働いた組織は全員が静かに土に還る準備を始めた。しかしそれが休息を停止を意味したわけではない、この世界が休むことはない、腐敗の中にも発酵はある。より大きな「意」のなかに転化したのだ。2014/06/19
梅は綻び、桜は散り、椿は落ちる、牡丹は崩れ、菊は舞う。咲かない花が散ることはないように、生きない人が死ぬることもない。どのように散ろうが、それは咲いたということだ。それ花の去る様。
ちるさくらのこるさくらもちるさくらー詠み人知らずたったよしのもみるひとけりゃはなももみじもたにのちりー頼山陽みんひとのためにはあらでおくやまにおのがまことをさくさくらかなー白隠禅師桜花によせて花讃題。
死を想え。メメント・モリはそうした共通感覚にふさわしい響きを持って問いかける。死というものを。いわんや生を。*今日で毎日遺書を書くつもりでblogを初めてはや7506日目である。ということでもういつ死んでも悔いはない。また、様々なこと思い出すブログかな。ということでこの間の想い出も少しはある。ということで、「メメント・モリ」と「アーカイブ」というカテゴリーをつくってみたったりしました。今死んだ。
人は折々裏腹の表情を見せる。表情の裏にあるもの、心の躊躇に焦点を当てる。例えば認知症の人が歩き回るのがなぜ問題なのか。不用意に歩かれて困る人が周りに存在するからだ。言葉そのものででなく、誰かが乱暴な言葉と決めつけて初めて、それは暴言と呼ばれるようになる。優劣は、そこに優と劣の線を引かない限り存在しない概念でしかない。そんなここんなを待つ心の庵、それが妙喜庵である。待庵妙喜
むかしみしゆめふりすてていまはむかしのゆめこいし。ゆめみし夢
(gif/originalunknown)蛙の住んでいる環境でクロールは似合わない。やっぱり平泳ぎだ。水は掻かねばならない。牛乳の壺に落ちた蛙があきらめず藻掻いていたらやがてそれがバターになってきて命からがら逃げだせた。なんていう話もあるようにモガキは大事である。ただ悪あがきはいけない。藻の掻きかた。
ThereitRainsThereitRains
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはものと身にして人間の是非一夢のうち春に月に夢
知るも知らぬも進むところがおらが道、前になく後ろにできるおらが道、振り返ればなんと危うく続いたものよ。逢茶喫茶逢飯喫飯、暫時漸々修学あるのみであります。どうなることやらおらが道。さぐりかんぐりぽちぽちぽつぽつおらが道。この道を行けばどうなる、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。おらが道。
(sculpture/TheAngryBoy)子供の怒りは世の中にうまく順応できないことへの苛立ちからくることもある。産みの苦しさの表れであり、能の世界で謂うある種の「*披(ひら)き」かもしれない。学びなおし。年寄りになっても、吐きそうになりながら「披(ひら)き」をするはめになって怒りたくなるのもまた然りか。下記のような語録に意気地を貰いながら・・記*世阿弥が残した「初心忘れるべからず」は「始めた時の初々しい気持ちを忘れないように」という意味で理解されています。ただ、世阿弥は「折あるごとに古い自己を断ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない」という意味で「初心」を用いました。「初心忘れるべからず」とは「恐れず変化し続けなさい」ということです。でも自ら進んで過去の自分を断ち切るなんて、なかなかで...子供ならぬ、爺さんも怒りたい。
そもそも自分で人生の意味を問うてはいけません。自分は人生に問われている立場であり、自分が人生の答えを出さなければならないのです。―ヴィクトール・フランクル問い。
そなたの信仰は空虚な物語としてしか残らず。そなたの未来の子らはそれを信ぜず。石に刻まれた言葉だけが残り、そなたの敬虔さを語るのは石だけとなる。そして人々は人生に疲れ果て、宇宙を不思議で崇拝に値するとは考えなくなるだろう・・。ー「ヘルメス文書」よりピラミッド、マチュピチュ、ストーンヘンジにナスカにクメール・・・継承されなかったことは山のようにある。忘れ去られたもの。
よのなかはとまれかくまれさるまわし唄うも舞うもおなじなりわい。狂歌Ⅱ(生業)
貧乏神どんな神かと思うてきたが、わしのこととはこりゃたまらん。狂歌
経験とは、誰もが自分の間違いにつける名称である。とは誰が言ったか。試練にさらされることで思考が研ぎ澄まされ、人生というものをより切実に理解できるようになった。と言ったのは誰だったか。間違いないのは、その人はそれを経験した人だ。ということに気付き始めた経験からそう思う。経験について
(photo/originalunknown)止まったままの時計は、間違いなく日に二回は正確な時間を指す。へたに動くな。
利益率が伸びている間に、実は企業は義務を背負い込んでいるのだが、それが、5年、10年、20年後のコスト構造にどう影響するのかを予見するのは難しい。こんな警告を20年以上も前に受けていた。一連の想定が首尾よくいっている間に快く引き受けた義務が、状況の大きな変化によって予期せぬ負担をなし会社を破滅させかねない。こんな先行事例の警句もノートに認めてあった。にもかかわらずである。隠れ義務の予見は大変難しい。経験しないと理解できない、表面化するまで教訓を受け入れ活かすのが難しいのである。まったく。予見できない。
(picture/source)労力を節約する機械や装置は掃いて捨てるほどあるが、「思考を節約する」装置はもちろんのこと、「仕事を節約する」装置はいまだ誰も発明していない。しかしだ、それが実現しようとしている、もしくはそう思わせるような雰囲気に変わってきている。そんなことになれば、人々はそれを当然のこととし、思考や仕事というものに対し特別の意識を持たなくなるのではないか?。万事がずさんになり、手軽に済ますようになる。正しいことよりも都合のよいことを追いかける。考えなくなる。疑問を持たなくなる。答えは覚えていても、問題が何であったかを忘れてしまう。そして普通の人間に普通でないことを行わせた。とそれをさも人間機能の拡張のように囃す周りが増えていく。そんな気がしてならないがそれは悪夢だ。人間が創造的でクリエイテ...エーアイ、という時代。
(picture/originalunknown)我思う。この世界は汝の世界、だから、最終的には汝自身でそのつながりを解き明かすであろうよ。いつになく。-星巡りの歌我と汝
この浮世は仮の世ともいうじゃないですか、一時の財のあるなしも仮の姿、どうでしょうここはひとつ借りる人も貸す人も、借ると思わず貸すと思わず、でどないなもんでしょう。てなわけにはいくまいなぁ。借財の言い訳
忙中の閑、閑中の忙。というのもある。あわただしく忙しい浮世にあっても閑(しずか)に澄ました心を忘れるな、閑(ひま)で間延びした環境にあっても鋭敏に忙しく思いは巡らせておけ。とでもいうのだろうか。忙閑の閑忙、か、などと考えていたら、どうでもよいが「ぼうかんのかんぼう」という音から「防寒の感冒」という字が浮かんだ。ここ数日は寒い日が続いてます。あったかくして風邪をひかないよう皆様お気をつけください。動静の静動
(picture/source)2月28日のアメリカの大統領と副大統領そしてウクライナの大統領の会談のニュースを見ました。歴史に残るであろう場面ですが、見ているうちになにかいやなものがこみ上げてきました。平和とはより強いものが弱いものたちを平定している間のことだともいいますが、どうも臭うのです。夏目漱石「硝子戸の中」にこんな言葉が出てきます。「生きるということを人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差し支えないでしょう。しかし美しいものや気高いものを一義に置いて人間を評価すれば、問題が違ってくるかも知れません」。なまぐさい
若返りたいと思いますか?と問われて、無遠慮で思慮のない未熟さに戻りたいとは思わない、と答える。年を経て得たものはありますか?と問われて、なにも無いが失くしたものはたくさんあるぞ、嫉妬とか羨望とか見栄とか性欲とか。またこれまで大したことは全くしてこなかったというぐらいの自信もある。私は、前期高齢者という老人を今実感している。これらについて文句は一切ない。実感、老人力。
「リンゴの落下はモノ(substance)であり現象でしかなく、「この世のあらゆる物質は互いに引っ張り合っている。地球とリンゴもそうで、地球のその力に負けてリンゴは落ちたのだ」という万有引力こそがコト(event)なのである」。学者さん風に言うとこういうことが、随筆風に言うと、「書くものを持ったら書きたくなり、鳴るものを持ったら鳴らしたくなり、金槌を持ったら釘を打ちたくなり、権力を持ったら藪から棒に使いたくなる。筆や楽器や金槌や金はモノでありそれ自体は悪くないのだが、持てば起こすのがコトへの誘惑である。モノに気を付けないと自制心の弱い人間はいらんコトをする。よくよく吟味することだ」。というような風に使えなくもない。ものとこと。
昨日夜半こんな夢を見た。どこかで聞き齧っていたのだろう、隣の酔っ払いが私に説教をした。「いいかい、仕事は金脈じゃない人脈だぞ。人脈の中から金脈を探せよ、金脈の中から人脈を探すなよ」。いやにリアルであった。この頃深酒をしていないせいかも知れない。ついでに金脈の脈絡でカーネギーのこんな言葉も思い出した。「人間は金の採掘と同じ方法で開発される。一オンスの金を採掘するのに数トンの土砂を取り除かなければならないが、土砂を求めて鉱山に入るのではなく、金を求めて鉱山に入るのである」。・・ところで残念ながら未来のスナックの勘定、どちらが金脈になったのか、夢は冷めた。未来のスナックで。
霊魂なるものは火なり、肉体は薪なり。薪尽きて火滅す。かくのごときのみ。ー中江兆民たぶんそうだろう、けれどもそうだけれども、だ、ちょっと驚きに踊ってみたりするのも生きていることの醍醐味ではないか。何も驚くことはない。
思い出の品を自分で成仏させてやりたいときと、自分ではどうにも忍びなく、誰かに成仏を委ねるときがある、あのちがいはなんなんだろう。堪忍と許容は大いに違うということだろうか。おもひで
天下にはきれいな声と決められた声は無いのだ。我が耳のよろこぶ声が何よりも楽しい声だ。世間にはきれいな顔と決められた顔は無いのだ。おのが目の見惚れた顔が何よりも素敵な顔だ。人生には正しい選択と定められた選択は無いのだ。おのずからの選択が何よりも尊い選択だ。イエスも釈迦もマホメットもなにをモーセも頼めるのは自分しかなかったであろうよ。自分の寄る辺
縁あって、あつかましゅうもこの世の中におらしてもろうて63年ほどになります。つまるところ、世の中、奇跡なんか起こらないとおもうてるか。奇跡としか言いようがないとおもうてるか。それによって、合縁も奇縁も随分と変わってくるのではないですかね。知らんけど。合縁奇縁
職人とばれる人たちがいる。仕事師として私はこの気質の人々は大好きだし尊敬もしかつ憧れてきた。これぞ職人、の発したこんな言葉をすこぶる粋に感じるのである。「放送はいいよなぁ、返品されねえものなぁ、・・・返品してやりてえ番組ばっかりだもんなぁ、職人があんな品つくってみろよ、返品の山だぜ」。「残らない職人の仕事ってものもあるんですよ。ええ私の仕事は一つも残ってません。着物のしみ抜きをやっています。仕事のあとが残っちゃ仕事になりません」「自分の仕事、自分の能力、そこから欠点が見つけられない奴は職人じゃございません。欠点が見つけられない奴が作家と呼ばれたがります」。職人気質
どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもこれもゆきづまる。どの方向へ向いて行ってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為の閑道人である。とは興道禅師。出づるとも入るとも月を思わねば心にかかる山の端もなしとは無窓国師。閑道人
下着を放る。という意味ではありません。禅にある用語です。生きながら生きることの意味というそれ「自体」としては現実でないことを考える。そんなわたしも放下着。放下着
天気天候気候という熟語がある、全ては気象の状態、降水や気温など大気の状態を意味します。違いは期間の長短にあります。天気はある日時、数分から2~3日の気象の状態、天候は数日から2~3カ月の気象の状態、気候は数十年間の気象の状態です。と検索の結果にあった。その日の「天気」に影響されるべきではないが、時代の「気候」の影響を受けることは避けられない。とはその昔アメリカの判事の言葉。先の見えない明日、そもそもそんなものは当たり前の世界に私らは生きている。知っても知らずでも。ここに在る。
むろん風に音はない。風鈴も風による鈴の音で風の本音ではない。人の本音もほぼ聞けない。同様、媒体越しに見当をつけるしかない。そして、きれいな音を聞きたいのならよい媒質を選ぶことが大事だ。本音をきく
(photo/source)ええか悪いかは別にして今日が建国の記念日というには、日本の歴史はたぶん古すぎるしとどのつまり曖昧となる。何をもって今日なのか、ということについて5%ぐらいの矜持しか持てない。あとの2,3割は暗黒物質で7割程は暗黒のエネルギーがうみだした祝日であろう。聞かざる見ざるが、ゆうてしまえ誰にも言わんからとそそのかして、真実を知っているものに尋ねても絶対に言わない。それはそれが言わざるの矜持だし、存在理由だからだ。矜持
「ものの心(こころ)をしるは、すなわちものの哀(あわ)れを知るなり」「たとえば、嬉しかるべき事に際して嬉しく思うのはその嬉しかるべきという事の心をわきまえているから嬉しいのだ。また悲しかるべき事に際して悲しく思うのはその悲しかるべきことの心をわきまえているから悲しいのだ。だからことに触れて、その嬉しく悲しいことの心をわきまえてていることを、ものの哀れを知るという」。「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、すなはち是、もののあはれをしる也」そのような人を、「心ある人」という。紫文要領や石上私淑言(いそのかみささめごと)ではそのように説明される。心ある人粋な人、心ない人野暮な人、つまり、「哀れやなあ」と言う言葉の使いようは、蔑みでも同情でもなく、もっと品よく使う...心ある人
屁ひとつだって人に貸し借りできんやないか、人人はみんな「自己」を生きねばならない。興道さんの語録には好きなのがたくさんあるが、そのうちでも私のお気に入りをもう二つ。「われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさせた人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を産み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ」。「自分はもう一生ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれと言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものを惜しがらぬ。食わしてくれれば食う、食わねば食わぬ。生きられるだけ生きる。死なんならんときは死ぬと心がハッキリ決ま...宿なし興道さん
禅の公案に「主人公」というものがある。今朝、朝刊を読んでいたら、ふとこれがあの「主人公」ではないか、また「唯我独尊」という公案もこれに類するものではないかと想うことがあった。向谷地生良氏の「当事者研究」といものについての記事であったが、「苦労」は「反省」から「研究」へと発想を変えることで自らを自らの手に取り戻すことができる。そのことを氏は「自分の苦労の主人公になる」と言う言葉で表現されているように思えた。借金苦、病苦、生活苦・・当事者自身がじぶんの苦情を理解することで救われる苦労もあるというものだ。ちなみに以下、記事を一部抜粋してみる。「当事者研究」をご存じだろうか。幻覚や幻聴、摂食障害、リストカット、統合失調症といった「苦労」を抱える当事者が、自身の症状が起こるパターンやプロセス、構造を「研究」する取り...主人公
世間には情報が溢れているが、わしが何を知らないのかを教えてくれるものは皆無です。どちらかというと、知らないでいいからそのまま騙されて、みたような情報には山ほど接する。また人と接する中でこの頃なんとなく見えてきたものがあります。「状況の具体相に応じて色合いを変えていく言葉の意味」というものがあるということです。それと、「他者とはその長所とだけ付き合うこと、短所なぞと付き合っている暇はない」ということです。-汝、我を見いださない限りは、我を探し求めもすまい。-パスカルわし。という爺さん。
「離家三四月落涙百千行万事皆如夢時時仰彼蒼」菅原の道真公の五言絶句である。管公では、「こちふかばにほいおこせよ梅の花あるじなきとて春をわすれそ」など短歌も大好きである。齢(よわい)を重ねるごとにこの寂寞の風情、というものを味合うことしきりとなる。過行くもののあわれを落ち着いて許容するには、刻(とき)を重ねることに如(し)くはなさそうだ。菅公の心情幾許や。
自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。忘己利他
酒に逃げるのは、酒飲みとしては禁忌である。それゆえ、酒飲みは、隠喩、暗喩、揶揄、比喩、換喩、を駆使してそれと共に生きるのである。酔うたり醒めたりあればこその人生である。喩:①たとえる。たとえ。②さとす。教えさとす。①②諭③よろこぶ。やわらぐ。喩
“憂患に生きてこそ、安楽に死ねる”と、孟子の「告子章句下」という文献にある。ただ、そのレベルや範疇を問わなければ、のほほんのんべんだらり安楽安逸安易な人の一生など誰にもあろうはずはないから、孟子の遺言は相対的なココロにそれぞれ相対的に響いてくれるのだ。生於憂患,死於安楽
(photo/source)「民権ばあさん」の楠瀬喜多さんもあっぱれ!だったがアメリカのこのばあさんもなかなかあっぱれ!である。PamelaHemphill(パメラ・ヘンフィル)さん、通称「MAGAばあさん」だそうだ。以下新聞記事を抜粋引用する。-トランプ米大統領が就任初日、2021年1月の連邦議会議事堂占拠事件で罪に問われた人たちに恩赦や減刑を与え、極右団体指導者らが釈放された。対象は1500人を超え、恩赦の乱用との批判は強い。ばあさんは、恩赦を拒否した。そしてその理由をこう述べたという。「私が有罪を認めたのは、私が有罪だったからだ」「恩赦を受けることは議会を守っている警察や法制度、私たちの国への侮辱になる」トランプ大統領が警察官に暴行を加えた者まで含めて恩赦したことについて聞かれると、「彼らは歴史を書...あっぱれ!ばあさん。
(picture/originalunknown)君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。-マルクス・アウレーリウス「自省録」より苦悩する君へ
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。
ニーチェは云った。「私を殺さないものは全て私を強くする」アウレーリウスの自省禄の一節にはこんな記述がある。苦痛について。「耐えられぬものは殺す。長く続くものは耐えられるものである」遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。
皮肉なもの。若き心を知るには老いる必要がある。老年若生
運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右されるような気がする。運と実力。
提灯が消えて座頭に手をひかれ漆黒の闇夜、按摩さんは目が見えないので私が送って行きましょう、と出てはみたものの、途中で提灯の火が消えてしまい反対に手を引かれて迷惑をかけた。こんなのもある、按摩さんが帰りに提灯を貸してくれという、宿の女将が目が見えないのに明かりがいるの?と聞くと、按摩さんは「へぇ、明かりを持っていないとおっちょこちょいの目明き(目の見える人)にぶつかられてかなわんのです」と。またこんなのもある、偉い横柄な按摩が灯をもって歩いていたら目明きにぶつかられた、こやつ何をけしからん、灯が目に入らぬか、と一括したものの、灯はとうに消えていた。これということではないけれど、妙(みょう)に明(めい)に影(えい)に残る。めあきとめくら、の話です。芽明止蔵の話
「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」どっちだ。この花の「この」に力点を置いているのか、この花の「花」にそれを置くかによって、本質が全く違った、あるいは正反対の、方向に展開する可能性も生まれる。どっちだ。草冠に化けると書いて「はな」。花を見て
私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。ここで神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。-参照/森信三「最善観」より私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。最善観
山寺の鐘つく僧は見えねども四方(よも)の里人時を知るなり‐二宮尊徳翁どこのだれかは知らないけれど、誰もがみんなが知っている時間。一人暮らしの爺さんが限界集落で一人ひっそりと亡くなりました。あるじを失ってもおじいさんの古い時計だけは、時を刻んでいます。爺さんがいなくなって、残飯にあり付けなくなった鼠が時計に言いました。「馬鹿だなあ、誰も見る者はいないのに、何だって動いているんだえ」「人の見ていない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と時計は答えました。「人の見ていない時だけか、又は人が見ているときだけに働いているものはどちらも泥棒だよ」鼠は恥ずかしくなってコソコソと逃げていきました。hommage/夢野久作一隅を刻む
今日1月11日はえべっさんの残り福である。「商売繁盛笹もってこい」の音声に戎神社の境内は包まれる。えべっさんは恵比寿神という海の神様である。明日の大漁に掛けて商売繁盛をお願いする神様でもある。そう、明日への。明日といえば、西洋の神様の教え、マタイ福音書第6章34節にはこんな件がある。「さすれば、明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日自ら、己のために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」つまり、明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。1日の苦労は1日で足りる。私にとって大事な、「福音」である。神の福音
拝おくればせながら
「仕事の意味」と言うのは、「意味のある仕事」と言う言葉とは、別物である。と誰かが宣わっていたが、「仕事」と言う言葉を替えるだけで、この意味違いは何にでも使える。人生でも、出会いでも恋愛でも結婚でも離婚でも、死までもがそのようだ。意味の違い
世の中に混じらぬとはあらねども一人遊びぞ我は勝れる。と詠んだのは確か良寛さんだと思うが、人の浮世もままええものじゃが、離れておることが、わしゃ面白い。ということでは一茶も似ている。小林一茶、幼名、弥太郎、六歳の折の発句である。我ときて遊べや親のない雀小林一茶
(画/月岡芳年)語録の中では、「我に七難八苦与えたまえ」がつとに有名だが、「憂きことのなほこの上に積れかし限りある身の力試めさん」泣きっ面に蜂、苦境重なるそんな時この言葉に、励まされる。山中鹿之助
(photo/source)選挙の候補者が三人いるとする。誰に投票するか答えてみよう。候補者1、ポリオの後遺症で障害がある、高血圧症と貧血を患い、他にも深刻な病気を抱えている。目的のためなら嘘をつき、政治を占星術師に相談する。愛人がいて愛煙家,マティーニが大好き。候補者2、彼は肥満だ。すでに落選3回、うつ症状に苦しみ心臓発作を繰り返している。鼻持ちならない男で葉巻を吸いまくる。そして就寝前に酒を浴びるように飲む、シャンパン、コニャック、ウィスキー、それから睡眠薬を2錠。最後は候補者3、勲章を受けた英雄で、女性に敬意を払う。動物を愛しタバコは吸わず、酒もめったに飲まない。さあ、誰に投票する?全員が候補者3に投票するだろう。君たちが落選させた候補者1はフランクリン・ルーズベルト、候補者2はウィンストン・チャー...歴史の授業
寒い暑い栄えたり枯れたり、これ天や地の呼吸のようなもの。苦しい楽しい恵まれたり辱められたり、これ人の生の呼吸のようなもの。と観じて、達者は、これらの感のどこに至ってもにわかに驚くことはない。朱鍾馗
環境とは、誰にとっても自己以外のすべて。宇宙とは、それとは反対に自己を含むすべて。宇宙と環境との唯一の境界は、自己。それは経験する観察者。身の丈尺足らず
(gif/originalunknown)心は火に似ています。火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。心は火のようなもの
期待なしに人生を生きること具体的な結果を必要とせずに生きることこれが自由というものかもしれません。句読点の入れどころがわからない。名言であるかどうかはわからないけれど一つの至言ではありそうだ。詠み人知らず
行く末に宿をそことも定めねば踏み迷うべき道も無きかな今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。一休さん
腰かけて「みる」か。とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。-太宰治「御伽草子」より往生際
将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。あんまり勝たんとしてはいけない。自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動...将棋
宇宙(自然)のことをおもえば、そこには決して悪と言うものはないのです。ただ過ぎるとと及ばざるとがあるばかりです。この過ぎたるところ、及ばざるところが即ち悪と言う。また同じように宇宙(自然)のことは、別に善と言うものがあるのではありません。ただ過ぎたると及ばざるとがないところが即ちこれが善であるというのです。例えば、徳川家康が女中達に対し、世の中で一番うまいものは何かと問うた時、お梶の局が、「それは塩でございます」と答えましたので、「それでは一番まずいものは何か」と問うと、やはり「塩でございます」と答えたということです。なるほど、塩は調味料でこれが過不足なければ美味、もし過不足あればこれほど不味いものはないのであります。-出典不詳善悪の弁
水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の...水月の関係
とはいうものの、体験からいうと、辛いや痛いというのは何となく我慢できるけれども、苦しいというのはどうしようもなく苦しいのであります。苦は楽の種楽は苦の種
首を回らせば、七〇有余年、人間の是非、看破に飽きたり。往来跡幽かなり深夜の雪、一炷線香古窓の下。ー偈/良寛禅師良寛さん
生涯、身を立つるにものうく、騰々天心に任す。嚢中三升の米、炉辺一束の薪、誰か問わん、迷悟の跡、何ぞ知らん、名利の塵。夜雨草庵の裡、双脚等間に伸ばす。良寛さん
良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになった。みんなは良寛さんを偉いお方だと思った。べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかった。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかった。ちょうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒く潤し、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、そのまわりの人々の心を潤し、浮ついていた心をしっとり落着かせ、知らぬ間に希望(のぞみ)と喜びの芽をふかせると言う風である。世間で偉いと言われている人々の中には、なるほど固い意志の力を持って大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないという人もないものではない。しかし良寛さんはそんな人とは違っていた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失わなかった。或日良寛さんは、野中の一本道を歩...良寛さん
魂は抗議する。「われわれは不運だ。これからどれほどつらい試練に堪えなければならないことか!肉体を満足させるためにどれ程いやなことをしなければならないことか!肉体は間もなく滅びるのに!」ー「コレ・コスム」ヘルメス古写本よりいいね!をつける。
勧酒、題からしてオッときます。井伏鱒二さんの意訳がまたこれぞ、です。蘇軾の春夜、春宵一刻値千金、声細細、夜沈沈、などもまたこれ韻を踏んで好きな詩です。好きな詩
落ち葉は風をうらまない。座頭の市さんが映画の中で吐いたセリフです。誰の言葉か同じような言葉に、気に入らぬ風もあろうに柳かな。というのもあります。いつのまにかこんな言葉がシックリときてストンと落ちるようになりました。すきな言葉
先日の王座戦で藤井聡太王座に敗れた永瀬拓矢九段が、試合後のインタビューで語っていた言葉が印象に残っている。藤井王座の強さを聞かれた永瀬九段は確かこんな風に答えていた。「私たちは通常未来や将来といったものを考えるから恐怖心のようなものが先に立って思い切った手を躊躇してしまうように思う。藤井王座にはそんなことは一切考えずに、今この瞬間に没頭しつくす凄味がある」。私は藤井王座の天才肌もさることながら、永瀬九段のこの洞察力に得心と共に敬意を抱くものである。天賦の才
出世しようと思うていたにどうかする間に歳ばかりよるひとり鏡にうちよりみれば皺のよったを憐れむばかり也照鏡見白髪
通天閣のビリケンさんは、こう紹介されていた。“TheGodofThingsAsTheyOughttoBe”万事あるべきままの神、ということらしい。なるようになる。
それにつけても銭の欲しさよ。とはいうものの。
「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄
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路があれば路を往くように。道があれば
ぶっぽうはるかにあらずこころのなかにしてすなわちちかし般若心経秘鍵仏法
ある人、自己の欠点を知悉し得ない処に、一切の悩みと悲しみとは生まれる。ゆえにまた一切の苦悩の超克と解脱は自己の「如是性」の徹見あるのみ。と宣う。さは如何に。如是性
飛べないよとかんがえている哺乳類より飛べるかもとかんがえている哺乳類のほうが好きだしましてや飛んでいる哺乳類が存在することに私は感動している。わしら、哺乳類。
title:72年前の、ある一枚の写真-焼き場にて-少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見続けた。・・佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で...2017/08/13
(picture/source)フロイトの説いたものは意識についての無意識だったのか、無意識における意識性といったものであったのか。ものごとの「もの」の説明はいま、ものごとの「もの」の説明は一世紀ほどの間にいかほどの発展があったのかは定かでもない、人にまとわりつくそのものやそうでないものといった無防備なもの、フロイトの説いたものは意識についてのものだったのか、無意識についてのものであったのか。ストリップを学問したひとのスリップが無意識とともに売りに出されている、49ドル99セントで、無意識のようなものも一緒に。すぐ着た方がいいのか買った後で脱ぎ捨てるべきなのか、テンポラリー・コンテンポラリーを体現する機運、僕はこれはアートという芸術運動の浮世絵ではないかとにらんでいる。名前は、まだ無い。売りに出る無意識
飢えては喰らい楽しくて呑み穏やかなる眠りに安んず死生は可もなく不可もなく達せるかな達せるかな漢詩の良いところは、意味の謂わんとするところ、心情に沿うところの感得、それらを自由にさせてくれる遊び、とでもいいましょうか、私にとっては、その懐の深さにあると思っとります。また、特に酒を愛でることにおいて、李白と白楽天は大好きなご両人なのであります。はてさて達せるかな達せるかな白楽天もしくは白居易
災難に逢う時節は災難に逢うがよく候死ぬる時節には死ぬるがよく候是はこれ災難をのがるる妙法にて候。良寛さんは好きというよりも存在してくれたことに有難さを感じています。私にとっては、愚で愁で厳でなお了。というものをちらりはらりと大事の時に見せてくれるところなのです。良寛さん
春は青く夏は朱く秋は白く冬は黒い。人生も四季の如く移ろう也や否や。人の一生、その成り行きは焼かれるまでわからんとも言うが。それ我が移ろいの終わるとき。そうしきと呼ばれる。四季のこと。
title:まちなかの仙人出すぎたことを気にかけ、くたびれてはいても態度は朗らか、、言葉は少ないながらも解り良く声を出し、若い者の喜びを真面目に見守りそれを楽しむ。目は剥かず、剥く歯はなく、肩にも自我にも入れる力は忘れている。なによりも、自分が人を傷つけ芽を摘むことを恐れている。そして少しの茶気といくつかの魔法を持っている。佳き事佳き人は、順番に巡り行きかつ往来することを信じて生きる。2012/07/13
title:心のまことかまぼろしか。子供には色々なものが見えるという。そして大人になるに随って見えなくなるものがあるという。超現実的世界を全否定するつもりはないが、こんな話がある。毎夜枕元に立つ幽霊に悩まされた男が和尚を訪ねる。和尚はその男に対し大豆を幾粒か手に握りしめさせてからこう告げる。決してこの手を開いて中を見てはならぬ。そのまま夜まですごし、幽霊が現れたらこう聞け「この手に握っているものはなにか?」すると幽霊は「大豆」と答えるだろう。そしたら「では何粒あるか?」と問え。幽霊はしばらく考えるじゃろうが、たぶんスッと消えていなくなるはずじゃ。その夜やはり幽霊が現れたが、和尚の云われた通りのやりとりが起こり、幽霊は数を答えられずスゥ~と消えていなくなった。次の日男は和尚にそのわけを聞くと、「おまえさんは...2012/11/08
タケノコ竹になる。仏教では死ねば皆仏(ほとけ)とよばれる。ということで親が他界している私らは皆、仏の子である。仏になれるかどうか。1+1=2というのは算術だが、術では説明のつかない1+1=1ということがしみじみとくる今日この頃である。一滴に一滴を足しても二滴にはならない、またかわった一滴になるだけだ。ほとけの子
KeyframeAIVideoMadewithLumaandMidjourney新しいものは常に新しく、古いものは順番に古い。ということがにわかにわからなくなってきた。それとこの頃思うことがもう一つ。なんとなくいらないと想っていたものがはっきりといらなくなってきた。瞬歩進歩春歩、不易流行のこと。
魂よ謎を解くことはお前にはできないさかしい知者の立場になることはできないせめて酒と盃でこの世に楽土を開こうあの世でおまえが楽土に行けるとは決まっていないいつまで一生をうぬぼれておれようあるなしの論議などに耽っておれよう酒を呑めこう悲しみの多い人生は眠るか酔うかして過ごしたがよかろうルバイヤート(四行詩)より
title:T.レックス。Q:あなたは後世に何を残しましたか?A:骨。Q:あなたはこの生々しい現実をどう思っていますか?A:これは錯覚ではない、事実。しかし具体的な現実は私にとっては偉大な錯覚。Q:あなたが探していながら見つからなかったものは何ですか?A:未来。Q:あなたは何を最も恐れましたか?A:恐がること。Q:真実ということについて聞かれたらどう答えますか?A:真実ということについて。Q:あなたは幸せですか?A:時々。Q:あなたは肉は好きですか?A:はい、新鮮であれば。Q:あなたは肉体と魂は違うと考えてますか?A:食べられる方が肉体で、食べる方、つまり食べられない方が魂。Q:あなたにとって合理的とはどのようなことですか?A:錯覚の反対側にあるもの。Q:最後に今のあなたの状況について教えてください。A:...2013/04/27
豊臣の秀吉が豪華絢爛たる聚楽第を建造した時、その柱に、「驕れるもの久しからず」と落書きされた。くだんの祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・に掛けてであるが、さすが大物秀吉怒るどころか、「驕らなくても久しからず」と返歌を書いたという、嘘か本当かよくできた逸話がある。この話をなんとなく想い出して、二つ並べて書いてみた。久しからず。落首の妙
生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵
title:随意と不随意。随意と不随意を司るトップ同士には軋轢があった。脳が指示を出す「休め」、心臓は答える「休むことはできないのだ」脳が言う「おれの命令が聞けないのか」、心臓は突っぱねる「一身を賭してもできかねる」・・やがて心臓は寿命を迎え力尽きた、脳は薄れゆく意の下で最後につぶやく、「だから休めといったのだ」・・。そして脳も心臓も一緒に働いた組織は全員が静かに土に還る準備を始めた。しかしそれが休息を停止を意味したわけではない、この世界が休むことはない、腐敗の中にも発酵はある。より大きな「意」のなかに転化したのだ。2014/06/19
梅は綻び、桜は散り、椿は落ちる、牡丹は崩れ、菊は舞う。咲かない花が散ることはないように、生きない人が死ぬることもない。どのように散ろうが、それは咲いたということだ。それ花の去る様。
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄