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  • 又三郎とスナフキン。

    風の又三郎とスナフキンはちょっと似ている。どちらも風来坊で妖精っぽい。又三郎とスナフキン。

  • なぜなら。

    わし、つよいなぜならよわいからわしこわくないなぜならしらんからわしかしこいなぜならこれからやからせやからわしたのしい2020/12/18なぜなら。

  • とどのつまり。

    一口に芸者のために男が堕落するとよくいわれますけれども、芸者のために堕落するような人間は芸者がなくてもとどのつまりは堕落するので、あるいはそれ以上の毒を流し罪を創るかもしれません。現代の紳士淑女の人々に、芸者への攻撃を立派にできる資格のある人がいくたりあるでしょうか。それが問題です。ー石井美代酒が人間を堕落させるというような人がいるようだがわかっちゃいない。もともと堕落するような人間が酒を呑んだだけじゃあないか。というようなことを言ったのは確か立川の談志師匠。とどのつまりとはそういうことだ。とどのつまり。

  • 涙香さん。

    黒岩涙香さんは、土佐のいっごっそうだ。予は客を愛する。長居しない客を大いに愛する。なかでも来ることのない客をもっとも愛する。涙香さん。

  • 益軒先生。

    貝原益軒先生は牡丹が大変好きであった。花の咲くのを楽しみに丹精込め育てたそれらは、開花時期になると庭一面咲き乱れたそうである。ある日の先生留守中の事、書生二人が庭で相撲を取ろうということになった。最初は気を付けていたがつい夢中になってしまい、先生の牡丹をほとんど踏みにじってしまう。先生が帰ってくると二人はどんなに怒られても仕方がないとあやまりにあやまった。が、先生は「あ、そうか」といったきりである。もしや聞こえなかったのかと、もっと大きな声で牡丹を踏みにじってしまったともう一度おおいにあやまったが、やはり「あ、そうか」というばかり。困惑した二人は、「先生どうぞ私たちを叱ってください」というと、先生はこう云ったそうだ。「私が牡丹を育てるのは花を楽しむために育てるのじゃ。ここで私が腹を立てたら、腹を立てるため...益軒先生。

  • 主従表裏のたぐい。

    こんな話がある。幕末の漢詩人として知られる燕石は、博打が三度の飯より好きと言う人で、よく門人から諫められていたという。「先生、詩人の名に傷がつきます。やめてください」すると燕石笑ってこう応じたという。「詩人の博打うちだと云うからいけない。博打うちが詩をつくっているといえば美しいじゃないか」また、豊臣秀吉があるとき侍臣らに、「わしを猿に似ているという者たちがあるがほんとに似ておるか」と問うた。だれも答えるのを憚っていると、曾呂利新左衛門が進み出て、「いやいや殿下は猿に似ているのではありません。猿が殿下に似ておるのです」。とまた、こんな話を思い出した。新地のホステスが、「私、実は女子大生なんです」するとある男がこう言って返した。「女子大生のホステスかあ。てっきりホステスが女子大に通ってるのかと思っていた」主(...主従表裏のたぐい。

  • 売茶翁

    獅子舞をやるから何かの役をやれという。仕方ないので笛を吹く役も太鼓を叩く役も辞退して後足の役を願い出た。いやあこれが一番気楽でええわい。茶を売る翁と称された人の洒脱な精神が喜ばしい。売茶翁

  • 谷木因さん。

    芭蕉さんと仲が良かったといわれる木因さん。裏散りつ表を散りつ紅葉かなと一句詠んだ。木因さんと良寛さん(うらをみせおもてをみせてちるもみじ)。山中鹿之助はん(憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力試さん)と熊沢蕃山はん(憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の心試さん)。寺山修司氏と井伏鱒二氏(さよならだけが人生だ)。といったリレーションシップに時代や歴史を超えた何かをおもいます。谷木因さん。

  • 一酔

    青銅好く著す布嚢の中去って人間の小臥龍に謁す久しぶりにあなたとお酒を酌み交わそうと思っていたのに、お金のある時に限って逢わないなんて。こりゃまた残念。良寛さん、これまたしかり。一酔

  • コクトーさんのスタイル。

    私がジャン・コクトーさんを好きな理由は、おしゃれだからである。私の好きなおしゃれはファッショナブルということではなく、スタイリッシュな様子にそれを感じます。曰く「詩人はモノを描写するのではない。詩人はあるべき姿を解きほぐし、また違った風に結びなおすのだ」。絵を描かせたら、描きすぎを嫌い心に浮かぶものを線に乗せてしかもスピード感あふれてその世界を纏め上げてしまうのです。ファッショナブルな人はたくさんいるけれどスタイリッシュな人はなかなかいない。コクトーさんのスタイル。

  • 鐘も鳴るなり法隆寺

    ながむればわがこころさえはてもなくゆくえもしらぬ雲の影かな鐘も鳴るなり法隆寺

  • なにをくよくよ。

    水はどんな体になろうと文句は言わない。凍ろうが沸騰しようがおかまいなし。どこに行こうと頓着しないし、昼夜をおかずとどまることもない。岩に当たって激しても淵に嵌って沈しても無心だ。「随流識得性無喜無憂」流れに随いて性を識ること得れば、喜も無く憂も無し。水の流れをみて暮らそ。なにをくよくよ。

  • 良寛さんと貞心尼はん。

    良寛さんの前に座った貞心尼は、才媛もさることながら、清楚で匂いたつような美貌の人であった。道をひたすら歩いてきた良寛さんへの、仏からの贈り物のようにも思える。良寛さん70歳、貞心尼はん29歳のひとせである。師の君にはじめてこうやっておめにかかり、嬉しくていまだに覚めない夢のような気持ちです。夢ならばやがて覚めるでしょうか。と、貞心尼はん。夢のようなはかないこの世の中で、もううとうとと眠って夢を見、またその夢を語ったり夢を見たりするのも、その成り行きに任せましょう。と、良寛さん。梅の香りの桜花が柳に咲いた。そのような精神的な恋愛に、憧れにも似た感情が湧きます。良寛さんと貞心尼はん。

  • 真向いの翁。

    薮内竹心紹智、通称竹心という人、茶人ながら邪道に落ちた茶道を嘆き門を閉ざして俗との交わりを絶つ。その際「わしゃ真向勝負を挑むのに背面(そむく)と見る人これ笑止なり」と自賛した。評伝によると、その性、滑脱にして洒落、また剛毅にして権門に屈せず、時流に卓越し、常に茶道の正風を求めた人であったという。真正面からその面構えを見てみたい歴史上の人物の一人である。真向いの翁。

  • 猪兎亀ばあちゃん。

    干し芋がムシロに並べられている。干し柿の粉が陽光に輝いている。生垣の影の用土の上の満ち足りた膨らみに光が筋をつける。かまどで燃えるパチパチの木が、くゆらせたなびかせる層雲。まるまった暖かい相貌を崩して、ばっさまが静かに笑う。木綿の縞が幾重にも重なって深い情愛の風景を纏っている。そんな日和の風景が確かにあった。お袋にも、親父にも、じいさんにもない。ばあさんの日和が。近づくと、手に取ると、するりと零れるような日和。なんでだろうか。ばっさまは笑う。猪兎亀という芽出度い名前そのままで。浮きことも。浮かざることも。過ぎざれば。ただ夢の如くある。猪兎亀ばあちゃん。

  • 人が嫌がること。

    ゴマカサレルコト。シハイサレルコト。ナメラレルコト。ケッテイケンヲウバワレルコト。ゴカイサレルコト。蟷螂も斧を構える。惜しむ。からではない。守るために立ち上がり構える。生き物は、そっと触られると構える。不安定さに構える。圧力をかけ、ギュッと抱きしめると素直になる、という。恐る恐るは伝播するのだ。構えさせたくなければ。シハイショウトシナイコト。ゴマカソウトシナイコト。アマクミナイコト。ソンチョウスルコト。攻撃する為に構えるのではない。ドキドキだから構えるのだ。構えさすほうも構えるほうも。本意ではないことは多い。人が嫌がること。

  • ふうせん。

    すがるおひともおりゃせぬみなら。いだくるおもいはこのきのふうせん。ふうのきままにいくてをたくし。ねんげみしょうのかぜのふね。ながれるかわにせもあるほどに。あたしゃこのきでうかびもあがらせ。ういたはれたはこのよのえにし。どうせのるふねかぜのふね。ああ風の船。無山人2007-02-24 なんとなく落書。ふうせん。

  • 酒ありて。

    おお酒よ乾いていた心は潤い弱っていた心は蘇り散らばっていた心は次第にひとつに纏まってくるただちに心の栄養となる。酒ありて。

  • 狐の嫁入り

    降るか降らぬかわからぬ雨ハ持つか持たぬかわからぬ笠ヨそんなこととは露知らズ差すか差さぬかこぬかの雨ハさすもささぬも抜き差しならズなせばなるよの日も差した。狐の嫁入り

  • 闇と青。

    鍋に入れる具をそれぞれが持ち寄り、暗闇の中で各々が鍋に入れ、その食感において雑多で多様な発見と面白きを得るのが闇鍋だ。なかにはゲテモノや草鞋が入っていたりするがそれも一興と笑い飛ばすのがルールである。人生は闇鍋なりそれにつけても空の青さよ。闇と青。

  • 使節団と魯迅。

    昔、景気の良かったものは懐古を主張し今、景気の良いものは現状維持を主張し未だ、景気の良くないものは革新を主張する。使節団と魯迅。

  • 鮎は瀬に枯木に烏、人は情けのうちに住む。

    だましはきかず泣き言もきかず叱咤もきかずきくのはおのれの内なる声のみ。鮎は瀬に枯木に烏、人は情けのうちに住む。

  • 城窓から山間を望んで。

    芸術的手段や創造的衝動に我々が駆られるのはそこに自己という客観者の存在を認めたいからではないか。主観的なものを客観的な方法を用いて弁証することは人生の処方箋をつくることに役立たせる。という意味において。城窓から山間を望んで。

  • 潔(いさぎよ)さ。

    男子の本懐とはなんぞや女子の本懐でも構わん諸子におけるいだきしほんぶんのところを述べよ。潔(いさぎよ)さ。

  • カモメたちに

    えさを欲しがってカモメたちはついてくる。あいにく手持ち不如意であった。せめて唄でもと思って。我ときて食えや歌えや飽きるまでカモメたちに

  • 老様(おいざま)。

    つつましやかに又親しく人に交わり元気にわかりやすくものを言い自らは加わらないが若い者の喜悦をまじめに擁護しいろいろと気をもちいて世話を心がけ周囲が喜ぶことに満足と好感とを示すことのできる老人になるためには何が必要か。老様(おいざま)。

  • 雲があれば

    運があれば運にしたがうように。雲があれば

  • 湖があれば

    海があれば海を想うように。湖があれば

  • 道があれば

    路があれば路を往くように。道があれば

  • 仏法

    ぶっぽうはるかにあらずこころのなかにしてすなわちちかし般若心経秘鍵仏法

  • 如是性

    ある人、自己の欠点を知悉し得ない処に、一切の悩みと悲しみとは生まれる。ゆえにまた一切の苦悩の超克と解脱は自己の「如是性」の徹見あるのみ。と宣う。さは如何に。如是性

  • わしら、哺乳類。

    飛べないよとかんがえている哺乳類より飛べるかもとかんがえている哺乳類のほうが好きだしましてや飛んでいる哺乳類が存在することに私は感動している。わしら、哺乳類。

  • 2017/08/13

    title:72年前の、ある一枚の写真-焼き場にて-少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見続けた。・・佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で...2017/08/13

  • 売りに出る無意識

    (picture/source)フロイトの説いたものは意識についての無意識だったのか、無意識における意識性といったものであったのか。ものごとの「もの」の説明はいま、ものごとの「もの」の説明は一世紀ほどの間にいかほどの発展があったのかは定かでもない、人にまとわりつくそのものやそうでないものといった無防備なもの、フロイトの説いたものは意識についてのものだったのか、無意識についてのものであったのか。ストリップを学問したひとのスリップが無意識とともに売りに出されている、49ドル99セントで、無意識のようなものも一緒に。すぐ着た方がいいのか買った後で脱ぎ捨てるべきなのか、テンポラリー・コンテンポラリーを体現する機運、僕はこれはアートという芸術運動の浮世絵ではないかとにらんでいる。名前は、まだ無い。売りに出る無意識

  • 白楽天もしくは白居易

    飢えては喰らい楽しくて呑み穏やかなる眠りに安んず死生は可もなく不可もなく達せるかな達せるかな漢詩の良いところは、意味の謂わんとするところ、心情に沿うところの感得、それらを自由にさせてくれる遊び、とでもいいましょうか、私にとっては、その懐の深さにあると思っとります。また、特に酒を愛でることにおいて、李白と白楽天は大好きなご両人なのであります。はてさて達せるかな達せるかな白楽天もしくは白居易

  • 良寛さん

    災難に逢う時節は災難に逢うがよく候死ぬる時節には死ぬるがよく候是はこれ災難をのがるる妙法にて候。良寛さんは好きというよりも存在してくれたことに有難さを感じています。私にとっては、愚で愁で厳でなお了。というものをちらりはらりと大事の時に見せてくれるところなのです。良寛さん

  • 四季のこと。

    春は青く夏は朱く秋は白く冬は黒い。人生も四季の如く移ろう也や否や。人の一生、その成り行きは焼かれるまでわからんとも言うが。それ我が移ろいの終わるとき。そうしきと呼ばれる。四季のこと。

  • 2012/07/13

    title:まちなかの仙人出すぎたことを気にかけ、くたびれてはいても態度は朗らか、、言葉は少ないながらも解り良く声を出し、若い者の喜びを真面目に見守りそれを楽しむ。目は剥かず、剥く歯はなく、肩にも自我にも入れる力は忘れている。なによりも、自分が人を傷つけ芽を摘むことを恐れている。そして少しの茶気といくつかの魔法を持っている。佳き事佳き人は、順番に巡り行きかつ往来することを信じて生きる。2012/07/13

  • 2012/11/08

    title:心のまことかまぼろしか。子供には色々なものが見えるという。そして大人になるに随って見えなくなるものがあるという。超現実的世界を全否定するつもりはないが、こんな話がある。毎夜枕元に立つ幽霊に悩まされた男が和尚を訪ねる。和尚はその男に対し大豆を幾粒か手に握りしめさせてからこう告げる。決してこの手を開いて中を見てはならぬ。そのまま夜まですごし、幽霊が現れたらこう聞け「この手に握っているものはなにか?」すると幽霊は「大豆」と答えるだろう。そしたら「では何粒あるか?」と問え。幽霊はしばらく考えるじゃろうが、たぶんスッと消えていなくなるはずじゃ。その夜やはり幽霊が現れたが、和尚の云われた通りのやりとりが起こり、幽霊は数を答えられずスゥ~と消えていなくなった。次の日男は和尚にそのわけを聞くと、「おまえさんは...2012/11/08

  • ほとけの子

    タケノコ竹になる。仏教では死ねば皆仏(ほとけ)とよばれる。ということで親が他界している私らは皆、仏の子である。仏になれるかどうか。1+1=2というのは算術だが、術では説明のつかない1+1=1ということがしみじみとくる今日この頃である。一滴に一滴を足しても二滴にはならない、またかわった一滴になるだけだ。ほとけの子

  • 瞬歩進歩春歩、不易流行のこと。

    KeyframeAIVideoMadewithLumaandMidjourney新しいものは常に新しく、古いものは順番に古い。ということがにわかにわからなくなってきた。それとこの頃思うことがもう一つ。なんとなくいらないと想っていたものがはっきりといらなくなってきた。瞬歩進歩春歩、不易流行のこと。

  • ルバイヤート(四行詩)より

    魂よ謎を解くことはお前にはできないさかしい知者の立場になることはできないせめて酒と盃でこの世に楽土を開こうあの世でおまえが楽土に行けるとは決まっていないいつまで一生をうぬぼれておれようあるなしの論議などに耽っておれよう酒を呑めこう悲しみの多い人生は眠るか酔うかして過ごしたがよかろうルバイヤート(四行詩)より

  • 2013/04/27

    title:T.レックス。Q:あなたは後世に何を残しましたか?A:骨。Q:あなたはこの生々しい現実をどう思っていますか?A:これは錯覚ではない、事実。しかし具体的な現実は私にとっては偉大な錯覚。Q:あなたが探していながら見つからなかったものは何ですか?A:未来。Q:あなたは何を最も恐れましたか?A:恐がること。Q:真実ということについて聞かれたらどう答えますか?A:真実ということについて。Q:あなたは幸せですか?A:時々。Q:あなたは肉は好きですか?A:はい、新鮮であれば。Q:あなたは肉体と魂は違うと考えてますか?A:食べられる方が肉体で、食べる方、つまり食べられない方が魂。Q:あなたにとって合理的とはどのようなことですか?A:錯覚の反対側にあるもの。Q:最後に今のあなたの状況について教えてください。A:...2013/04/27

  • 落首の妙

    豊臣の秀吉が豪華絢爛たる聚楽第を建造した時、その柱に、「驕れるもの久しからず」と落書きされた。くだんの祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・に掛けてであるが、さすが大物秀吉怒るどころか、「驕らなくても久しからず」と返歌を書いたという、嘘か本当かよくできた逸話がある。この話をなんとなく想い出して、二つ並べて書いてみた。久しからず。落首の妙

  • 正法眼蔵

    生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵

  • 2014/06/19

    title:随意と不随意。随意と不随意を司るトップ同士には軋轢があった。脳が指示を出す「休め」、心臓は答える「休むことはできないのだ」脳が言う「おれの命令が聞けないのか」、心臓は突っぱねる「一身を賭してもできかねる」・・やがて心臓は寿命を迎え力尽きた、脳は薄れゆく意の下で最後につぶやく、「だから休めといったのだ」・・。そして脳も心臓も一緒に働いた組織は全員が静かに土に還る準備を始めた。しかしそれが休息を停止を意味したわけではない、この世界が休むことはない、腐敗の中にも発酵はある。より大きな「意」のなかに転化したのだ。2014/06/19

  • それ花の去る様。

    梅は綻び、桜は散り、椿は落ちる、牡丹は崩れ、菊は舞う。咲かない花が散ることはないように、生きない人が死ぬることもない。どのように散ろうが、それは咲いたということだ。それ花の去る様。

  • 桜花によせて花讃題。

    ちるさくらのこるさくらもちるさくらー詠み人知らずたったよしのもみるひとけりゃはなももみじもたにのちりー頼山陽みんひとのためにはあらでおくやまにおのがまことをさくさくらかなー白隠禅師桜花によせて花讃題。

  • 今死んだ。

    死を想え。メメント・モリはそうした共通感覚にふさわしい響きを持って問いかける。死というものを。いわんや生を。*今日で毎日遺書を書くつもりでblogを初めてはや7506日目である。ということでもういつ死んでも悔いはない。また、様々なこと思い出すブログかな。ということでこの間の想い出も少しはある。ということで、「メメント・モリ」と「アーカイブ」というカテゴリーをつくってみたったりしました。今死んだ。

  • 待庵 妙喜

    人は折々裏腹の表情を見せる。表情の裏にあるもの、心の躊躇に焦点を当てる。例えば認知症の人が歩き回るのがなぜ問題なのか。不用意に歩かれて困る人が周りに存在するからだ。言葉そのものででなく、誰かが乱暴な言葉と決めつけて初めて、それは暴言と呼ばれるようになる。優劣は、そこに優と劣の線を引かない限り存在しない概念でしかない。そんなここんなを待つ心の庵、それが妙喜庵である。待庵妙喜

  • ゆめみし夢

    むかしみしゆめふりすてていまはむかしのゆめこいし。ゆめみし夢

  • 藻の掻きかた。

    (gif/originalunknown)蛙の住んでいる環境でクロールは似合わない。やっぱり平泳ぎだ。水は掻かねばならない。牛乳の壺に落ちた蛙があきらめず藻掻いていたらやがてそれがバターになってきて命からがら逃げだせた。なんていう話もあるようにモガキは大事である。ただ悪あがきはいけない。藻の掻きかた。

  • There it Rains

    ThereitRainsThereitRains

  • 春に月に夢

    月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはものと身にして人間の是非一夢のうち春に月に夢

  • おらが道。

    知るも知らぬも進むところがおらが道、前になく後ろにできるおらが道、振り返ればなんと危うく続いたものよ。逢茶喫茶逢飯喫飯、暫時漸々修学あるのみであります。どうなることやらおらが道。さぐりかんぐりぽちぽちぽつぽつおらが道。この道を行けばどうなる、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。おらが道。

  • 子供ならぬ、爺さんも怒りたい。

    (sculpture/TheAngryBoy)子供の怒りは世の中にうまく順応できないことへの苛立ちからくることもある。産みの苦しさの表れであり、能の世界で謂うある種の「*披(ひら)き」かもしれない。学びなおし。年寄りになっても、吐きそうになりながら「披(ひら)き」をするはめになって怒りたくなるのもまた然りか。下記のような語録に意気地を貰いながら・・記*世阿弥が残した「初心忘れるべからず」は「始めた時の初々しい気持ちを忘れないように」という意味で理解されています。ただ、世阿弥は「折あるごとに古い自己を断ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない」という意味で「初心」を用いました。「初心忘れるべからず」とは「恐れず変化し続けなさい」ということです。でも自ら進んで過去の自分を断ち切るなんて、なかなかで...子供ならぬ、爺さんも怒りたい。

  • 問い。

    そもそも自分で人生の意味を問うてはいけません。自分は人生に問われている立場であり、自分が人生の答えを出さなければならないのです。―ヴィクトール・フランクル問い。

  • 忘れ去られたもの。

    そなたの信仰は空虚な物語としてしか残らず。そなたの未来の子らはそれを信ぜず。石に刻まれた言葉だけが残り、そなたの敬虔さを語るのは石だけとなる。そして人々は人生に疲れ果て、宇宙を不思議で崇拝に値するとは考えなくなるだろう・・。ー「ヘルメス文書」よりピラミッド、マチュピチュ、ストーンヘンジにナスカにクメール・・・継承されなかったことは山のようにある。忘れ去られたもの。

  • 狂歌Ⅱ(生業)

    よのなかはとまれかくまれさるまわし唄うも舞うもおなじなりわい。狂歌Ⅱ(生業)

  • 狂歌

    貧乏神どんな神かと思うてきたが、わしのこととはこりゃたまらん。狂歌

  • 経験について

    経験とは、誰もが自分の間違いにつける名称である。とは誰が言ったか。試練にさらされることで思考が研ぎ澄まされ、人生というものをより切実に理解できるようになった。と言ったのは誰だったか。間違いないのは、その人はそれを経験した人だ。ということに気付き始めた経験からそう思う。経験について

  • へたに動くな。

    (photo/originalunknown)止まったままの時計は、間違いなく日に二回は正確な時間を指す。へたに動くな。

  • 予見できない。

    利益率が伸びている間に、実は企業は義務を背負い込んでいるのだが、それが、5年、10年、20年後のコスト構造にどう影響するのかを予見するのは難しい。こんな警告を20年以上も前に受けていた。一連の想定が首尾よくいっている間に快く引き受けた義務が、状況の大きな変化によって予期せぬ負担をなし会社を破滅させかねない。こんな先行事例の警句もノートに認めてあった。にもかかわらずである。隠れ義務の予見は大変難しい。経験しないと理解できない、表面化するまで教訓を受け入れ活かすのが難しいのである。まったく。予見できない。

  • エーアイ、という時代。

    (picture/source)労力を節約する機械や装置は掃いて捨てるほどあるが、「思考を節約する」装置はもちろんのこと、「仕事を節約する」装置はいまだ誰も発明していない。しかしだ、それが実現しようとしている、もしくはそう思わせるような雰囲気に変わってきている。そんなことになれば、人々はそれを当然のこととし、思考や仕事というものに対し特別の意識を持たなくなるのではないか?。万事がずさんになり、手軽に済ますようになる。正しいことよりも都合のよいことを追いかける。考えなくなる。疑問を持たなくなる。答えは覚えていても、問題が何であったかを忘れてしまう。そして普通の人間に普通でないことを行わせた。とそれをさも人間機能の拡張のように囃す周りが増えていく。そんな気がしてならないがそれは悪夢だ。人間が創造的でクリエイテ...エーアイ、という時代。

  • 我と汝

    (picture/originalunknown)我思う。この世界は汝の世界、だから、最終的には汝自身でそのつながりを解き明かすであろうよ。いつになく。-星巡りの歌我と汝

  • 借財の言い訳

    この浮世は仮の世ともいうじゃないですか、一時の財のあるなしも仮の姿、どうでしょうここはひとつ借りる人も貸す人も、借ると思わず貸すと思わず、でどないなもんでしょう。てなわけにはいくまいなぁ。借財の言い訳

  • 動静の静動

    忙中の閑、閑中の忙。というのもある。あわただしく忙しい浮世にあっても閑(しずか)に澄ました心を忘れるな、閑(ひま)で間延びした環境にあっても鋭敏に忙しく思いは巡らせておけ。とでもいうのだろうか。忙閑の閑忙、か、などと考えていたら、どうでもよいが「ぼうかんのかんぼう」という音から「防寒の感冒」という字が浮かんだ。ここ数日は寒い日が続いてます。あったかくして風邪をひかないよう皆様お気をつけください。動静の静動

  • なまぐさい

    (picture/source)2月28日のアメリカの大統領と副大統領そしてウクライナの大統領の会談のニュースを見ました。歴史に残るであろう場面ですが、見ているうちになにかいやなものがこみ上げてきました。平和とはより強いものが弱いものたちを平定している間のことだともいいますが、どうも臭うのです。夏目漱石「硝子戸の中」にこんな言葉が出てきます。「生きるということを人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差し支えないでしょう。しかし美しいものや気高いものを一義に置いて人間を評価すれば、問題が違ってくるかも知れません」。なまぐさい

  • 実感、老人力。

    若返りたいと思いますか?と問われて、無遠慮で思慮のない未熟さに戻りたいとは思わない、と答える。年を経て得たものはありますか?と問われて、なにも無いが失くしたものはたくさんあるぞ、嫉妬とか羨望とか見栄とか性欲とか。またこれまで大したことは全くしてこなかったというぐらいの自信もある。私は、前期高齢者という老人を今実感している。これらについて文句は一切ない。実感、老人力。

  • ものとこと。

    「リンゴの落下はモノ(substance)であり現象でしかなく、「この世のあらゆる物質は互いに引っ張り合っている。地球とリンゴもそうで、地球のその力に負けてリンゴは落ちたのだ」という万有引力こそがコト(event)なのである」。学者さん風に言うとこういうことが、随筆風に言うと、「書くものを持ったら書きたくなり、鳴るものを持ったら鳴らしたくなり、金槌を持ったら釘を打ちたくなり、権力を持ったら藪から棒に使いたくなる。筆や楽器や金槌や金はモノでありそれ自体は悪くないのだが、持てば起こすのがコトへの誘惑である。モノに気を付けないと自制心の弱い人間はいらんコトをする。よくよく吟味することだ」。というような風に使えなくもない。ものとこと。

  • 未来のスナックで。

    昨日夜半こんな夢を見た。どこかで聞き齧っていたのだろう、隣の酔っ払いが私に説教をした。「いいかい、仕事は金脈じゃない人脈だぞ。人脈の中から金脈を探せよ、金脈の中から人脈を探すなよ」。いやにリアルであった。この頃深酒をしていないせいかも知れない。ついでに金脈の脈絡でカーネギーのこんな言葉も思い出した。「人間は金の採掘と同じ方法で開発される。一オンスの金を採掘するのに数トンの土砂を取り除かなければならないが、土砂を求めて鉱山に入るのではなく、金を求めて鉱山に入るのである」。・・ところで残念ながら未来のスナックの勘定、どちらが金脈になったのか、夢は冷めた。未来のスナックで。

  • 何も驚くことはない。

    霊魂なるものは火なり、肉体は薪なり。薪尽きて火滅す。かくのごときのみ。ー中江兆民たぶんそうだろう、けれどもそうだけれども、だ、ちょっと驚きに踊ってみたりするのも生きていることの醍醐味ではないか。何も驚くことはない。

  • おもひで

    思い出の品を自分で成仏させてやりたいときと、自分ではどうにも忍びなく、誰かに成仏を委ねるときがある、あのちがいはなんなんだろう。堪忍と許容は大いに違うということだろうか。おもひで

  • 自分の寄る辺

    天下にはきれいな声と決められた声は無いのだ。我が耳のよろこぶ声が何よりも楽しい声だ。世間にはきれいな顔と決められた顔は無いのだ。おのが目の見惚れた顔が何よりも素敵な顔だ。人生には正しい選択と定められた選択は無いのだ。おのずからの選択が何よりも尊い選択だ。イエスも釈迦もマホメットもなにをモーセも頼めるのは自分しかなかったであろうよ。自分の寄る辺

  • 合縁奇縁

    縁あって、あつかましゅうもこの世の中におらしてもろうて63年ほどになります。つまるところ、世の中、奇跡なんか起こらないとおもうてるか。奇跡としか言いようがないとおもうてるか。それによって、合縁も奇縁も随分と変わってくるのではないですかね。知らんけど。合縁奇縁

  • 職人気質

    職人とばれる人たちがいる。仕事師として私はこの気質の人々は大好きだし尊敬もしかつ憧れてきた。これぞ職人、の発したこんな言葉をすこぶる粋に感じるのである。「放送はいいよなぁ、返品されねえものなぁ、・・・返品してやりてえ番組ばっかりだもんなぁ、職人があんな品つくってみろよ、返品の山だぜ」。「残らない職人の仕事ってものもあるんですよ。ええ私の仕事は一つも残ってません。着物のしみ抜きをやっています。仕事のあとが残っちゃ仕事になりません」「自分の仕事、自分の能力、そこから欠点が見つけられない奴は職人じゃございません。欠点が見つけられない奴が作家と呼ばれたがります」。職人気質

  • 閑道人

    どんなことでもならべてみろ。百千あろうとも、どれもこれもゆきづまる。あれもこれもゆきづまる。どの方向へ向いて行ってもゆきづまるものばかり。そんなゆきづまるものはみんな捨てる。そして何も持っていない。そこが絶学無為の閑道人である。とは興道禅師。出づるとも入るとも月を思わねば心にかかる山の端もなしとは無窓国師。閑道人

  • 放下着

    下着を放る。という意味ではありません。禅にある用語です。生きながら生きることの意味というそれ「自体」としては現実でないことを考える。そんなわたしも放下着。放下着

  • ここに在る。

    天気天候気候という熟語がある、全ては気象の状態、降水や気温など大気の状態を意味します。違いは期間の長短にあります。天気はある日時、数分から2~3日の気象の状態、天候は数日から2~3カ月の気象の状態、気候は数十年間の気象の状態です。と検索の結果にあった。その日の「天気」に影響されるべきではないが、時代の「気候」の影響を受けることは避けられない。とはその昔アメリカの判事の言葉。先の見えない明日、そもそもそんなものは当たり前の世界に私らは生きている。知っても知らずでも。ここに在る。

  • 本音をきく

    むろん風に音はない。風鈴も風による鈴の音で風の本音ではない。人の本音もほぼ聞けない。同様、媒体越しに見当をつけるしかない。そして、きれいな音を聞きたいのならよい媒質を選ぶことが大事だ。本音をきく

  • 矜持

    (photo/source)ええか悪いかは別にして今日が建国の記念日というには、日本の歴史はたぶん古すぎるしとどのつまり曖昧となる。何をもって今日なのか、ということについて5%ぐらいの矜持しか持てない。あとの2,3割は暗黒物質で7割程は暗黒のエネルギーがうみだした祝日であろう。聞かざる見ざるが、ゆうてしまえ誰にも言わんからとそそのかして、真実を知っているものに尋ねても絶対に言わない。それはそれが言わざるの矜持だし、存在理由だからだ。矜持

  • 心ある人

    「ものの心(こころ)をしるは、すなわちものの哀(あわ)れを知るなり」「たとえば、嬉しかるべき事に際して嬉しく思うのはその嬉しかるべきという事の心をわきまえているから嬉しいのだ。また悲しかるべき事に際して悲しく思うのはその悲しかるべきことの心をわきまえているから悲しいのだ。だからことに触れて、その嬉しく悲しいことの心をわきまえてていることを、ものの哀れを知るという」。「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、すなはち是、もののあはれをしる也」そのような人を、「心ある人」という。紫文要領や石上私淑言(いそのかみささめごと)ではそのように説明される。心ある人粋な人、心ない人野暮な人、つまり、「哀れやなあ」と言う言葉の使いようは、蔑みでも同情でもなく、もっと品よく使う...心ある人

  • 宿なし興道さん

    屁ひとつだって人に貸し借りできんやないか、人人はみんな「自己」を生きねばならない。興道さんの語録には好きなのがたくさんあるが、そのうちでも私のお気に入りをもう二つ。「われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさせた人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を産み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ」。「自分はもう一生ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれと言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものを惜しがらぬ。食わしてくれれば食う、食わねば食わぬ。生きられるだけ生きる。死なんならんときは死ぬと心がハッキリ決ま...宿なし興道さん

  • 主人公

    禅の公案に「主人公」というものがある。今朝、朝刊を読んでいたら、ふとこれがあの「主人公」ではないか、また「唯我独尊」という公案もこれに類するものではないかと想うことがあった。向谷地生良氏の「当事者研究」といものについての記事であったが、「苦労」は「反省」から「研究」へと発想を変えることで自らを自らの手に取り戻すことができる。そのことを氏は「自分の苦労の主人公になる」と言う言葉で表現されているように思えた。借金苦、病苦、生活苦・・当事者自身がじぶんの苦情を理解することで救われる苦労もあるというものだ。ちなみに以下、記事を一部抜粋してみる。「当事者研究」をご存じだろうか。幻覚や幻聴、摂食障害、リストカット、統合失調症といった「苦労」を抱える当事者が、自身の症状が起こるパターンやプロセス、構造を「研究」する取り...主人公

  • わし。という爺さん。

    世間には情報が溢れているが、わしが何を知らないのかを教えてくれるものは皆無です。どちらかというと、知らないでいいからそのまま騙されて、みたような情報には山ほど接する。また人と接する中でこの頃なんとなく見えてきたものがあります。「状況の具体相に応じて色合いを変えていく言葉の意味」というものがあるということです。それと、「他者とはその長所とだけ付き合うこと、短所なぞと付き合っている暇はない」ということです。-汝、我を見いださない限りは、我を探し求めもすまい。-パスカルわし。という爺さん。

  • 菅公の心情幾許や。

    「離家三四月落涙百千行万事皆如夢時時仰彼蒼」菅原の道真公の五言絶句である。管公では、「こちふかばにほいおこせよ梅の花あるじなきとて春をわすれそ」など短歌も大好きである。齢(よわい)を重ねるごとにこの寂寞の風情、というものを味合うことしきりとなる。過行くもののあわれを落ち着いて許容するには、刻(とき)を重ねることに如(し)くはなさそうだ。菅公の心情幾許や。

  • 忘己利他

    自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。忘己利他

  • 酒に逃げるのは、酒飲みとしては禁忌である。それゆえ、酒飲みは、隠喩、暗喩、揶揄、比喩、換喩、を駆使してそれと共に生きるのである。酔うたり醒めたりあればこその人生である。喩:①たとえる。たとえ。②さとす。教えさとす。①②諭③よろこぶ。やわらぐ。喩

  • 生於憂患, 死於安楽

    “憂患に生きてこそ、安楽に死ねる”と、孟子の「告子章句下」という文献にある。ただ、そのレベルや範疇を問わなければ、のほほんのんべんだらり安楽安逸安易な人の一生など誰にもあろうはずはないから、孟子の遺言は相対的なココロにそれぞれ相対的に響いてくれるのだ。生於憂患,死於安楽

  • あっぱれ!ばあさん。

    (photo/source)「民権ばあさん」の楠瀬喜多さんもあっぱれ!だったがアメリカのこのばあさんもなかなかあっぱれ!である。PamelaHemphill(パメラ・ヘンフィル)さん、通称「MAGAばあさん」だそうだ。以下新聞記事を抜粋引用する。-トランプ米大統領が就任初日、2021年1月の連邦議会議事堂占拠事件で罪に問われた人たちに恩赦や減刑を与え、極右団体指導者らが釈放された。対象は1500人を超え、恩赦の乱用との批判は強い。ばあさんは、恩赦を拒否した。そしてその理由をこう述べたという。「私が有罪を認めたのは、私が有罪だったからだ」「恩赦を受けることは議会を守っている警察や法制度、私たちの国への侮辱になる」トランプ大統領が警察官に暴行を加えた者まで含めて恩赦したことについて聞かれると、「彼らは歴史を書...あっぱれ!ばあさん。

  • 苦悩する君へ

    (picture/originalunknown)君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。-マルクス・アウレーリウス「自省録」より苦悩する君へ

  • 遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。

    ニーチェは云った。「私を殺さないものは全て私を強くする」アウレーリウスの自省禄の一節にはこんな記述がある。苦痛について。「耐えられぬものは殺す。長く続くものは耐えられるものである」遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。

  • 老年若生

    皮肉なもの。若き心を知るには老いる必要がある。老年若生

  • 運と実力。

    運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右されるような気がする。運と実力。

  • 芽明止蔵の話

    提灯が消えて座頭に手をひかれ漆黒の闇夜、按摩さんは目が見えないので私が送って行きましょう、と出てはみたものの、途中で提灯の火が消えてしまい反対に手を引かれて迷惑をかけた。こんなのもある、按摩さんが帰りに提灯を貸してくれという、宿の女将が目が見えないのに明かりがいるの?と聞くと、按摩さんは「へぇ、明かりを持っていないとおっちょこちょいの目明き(目の見える人)にぶつかられてかなわんのです」と。またこんなのもある、偉い横柄な按摩が灯をもって歩いていたら目明きにぶつかられた、こやつ何をけしからん、灯が目に入らぬか、と一括したものの、灯はとうに消えていた。これということではないけれど、妙(みょう)に明(めい)に影(えい)に残る。めあきとめくら、の話です。芽明止蔵の話

  • 花を見て

    「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」どっちだ。この花の「この」に力点を置いているのか、この花の「花」にそれを置くかによって、本質が全く違った、あるいは正反対の、方向に展開する可能性も生まれる。どっちだ。草冠に化けると書いて「はな」。花を見て

  • 最善観

    私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。ここで神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。-参照/森信三「最善観」より私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。最善観

  • 一隅を刻む

    山寺の鐘つく僧は見えねども四方(よも)の里人時を知るなり‐二宮尊徳翁どこのだれかは知らないけれど、誰もがみんなが知っている時間。一人暮らしの爺さんが限界集落で一人ひっそりと亡くなりました。あるじを失ってもおじいさんの古い時計だけは、時を刻んでいます。爺さんがいなくなって、残飯にあり付けなくなった鼠が時計に言いました。「馬鹿だなあ、誰も見る者はいないのに、何だって動いているんだえ」「人の見ていない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と時計は答えました。「人の見ていない時だけか、又は人が見ているときだけに働いているものはどちらも泥棒だよ」鼠は恥ずかしくなってコソコソと逃げていきました。hommage/夢野久作一隅を刻む

  • 神の福音

    今日1月11日はえべっさんの残り福である。「商売繁盛笹もってこい」の音声に戎神社の境内は包まれる。えべっさんは恵比寿神という海の神様である。明日の大漁に掛けて商売繁盛をお願いする神様でもある。そう、明日への。明日といえば、西洋の神様の教え、マタイ福音書第6章34節にはこんな件がある。「さすれば、明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日自ら、己のために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」つまり、明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。1日の苦労は1日で足りる。私にとって大事な、「福音」である。神の福音

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