あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
出世しようと思うていたにどうかする間に歳ばかりよるひとり鏡にうちよりみれば皺のよったを憐れむばかり也照鏡見白髪
通天閣のビリケンさんは、こう紹介されていた。“TheGodofThingsAsTheyOughttoBe”万事あるべきままの神、ということらしい。なるようになる。
それにつけても銭の欲しさよ。とはいうものの。
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あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
作者不詳の日本最古の漫画ともいわれる鳥獣戯画。下手くそがまねて描いてもほんのりゆるされるゆるさ。懐深い、とはこういうことを言うのかと思ったりします。鳥獣戯画
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於いて水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかもしれない。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯ー山頭火全句集より山頭火
怒り声は誰に一番よく聞こえるんだ。自分を傷つけたくないのなら、ほえるのはやめとけ。やめとけ。
言い得るも我言い得ざるも我肝を作れ人を作れ腹をくくる。
古いものに目新しさはない。ただ、新しいものに年代物という箔はつかない。熟成かどうかの問題。
袋をもっている。入れたいと思えるものに出会えばなんでも入れられる袋は、持っている。布袋さんはおもう。わしがこれに何か入れたら、もう布袋としての存在理由はなくなる。もっているから持っていない。布袋という冥加。
腕の逞しさや頭の力これらでどれほどの心の静けさを得られる私利私欲を離れ礼節と道義これらこそ人生の安静を得られるんじゃないかい蝦蟇河豚相撲図
生きることは老いて皺を刻むことと同じことで想うことは想うこととしての皺をつくる想うことを想うことはできないが想ってことで出来た皺については想うことができるー中原中也皺。
その腹に何が不足ぞ鳴く蛙蝦蟇
ほんとうは一つ目小僧なんですけどね。豆腐が好きでいつも買いに行くのです。あと茗荷と雑魚と葱も一緒に。何処に行くんですか?と聞かれるとある日は「足の向くまま」と答えます。又次の日に聞かれると「風の吹くまま」と答えます。又次の日「愛の向くまま、風の吹くままですか?」と聞かれるとこう答えます。「豆腐を買いに」。豆腐小僧
僕が初めて兄貴に贈り物をしたのが新築祝い、マーク・ロスコのリソグラフでした。オレンジとグレーの。オマージュ
羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂うらやむきみがさけありてよくすなわちようことをうらやむきみがせんなくしてよくうれいざることを「これはまずもっての美酒である。」「味わって貰いたい。」「何という名前の酒?」「メイコン、迷へる魂、迷魂。」「どうして君はそのような銘酒を手に入れたの?」「私はメイコンと称ばれる良酒を服用して、適度に酔うて来ました。」「次には何を味わって飲むの?」「メイテイ・・・」2020-02-12 酔唄抄。良酒は誘う大海原へ
天狗は人の心を読むという。ある木こりが奥山で天狗と遭遇した。「こりゃ怖い」と思うと、天狗は怖がっていることを知って余計に脅す。「これはまずいあっちに逃げよう」とすると、天狗は心を読んであっちこっちと先回りする。あっちこっちに逃げ惑う間にふと、木こりも意図せず持っていた斧がカズラを切りそれが天狗にぶち当たった。心を読めず思いもよらない仕返しに天狗はびっくらこいて、木こりを恐れ逃げ去った。念慮萌とかいてキザシ、誠や心の大切さ、おのれの余計ななにかに萌(きざ)されてはいけない。念慮萌
心に我慢あるときは愛嬌を失う我慢なきときは愛嬌そなわる心に欲なきときは義をおもう欲あるときは義をおもわず心を飾るときは偽りをおもう飾りなきときは偽りなし心に傲りあるときは人をうらむ傲りなきときは人を敬う心に私あるときは人を疑う私なきときは疑になし心に誤りあるときは人を怒る誤りなきときは恐るることなし心に邪見あるときは人を損なう直なるときは疑わず心に怒りあるときは言葉はげし怒りなきときは言葉やわらかなり心に貪りあるときには人に諂う貪りなきときは諂いなし心に愁いなきときは悔やみなし愁いあるときは悔やみ多し心に自慢あるときは人の善を知らず自慢なきときは人の善を知る心に迷いあるときは人を咎める迷いなきときは咎めることなし心ここにあらざれば視れども見えず聴けども聞こえずよくよく心するべし。どれかは嵌る、修養禅話。
時間はあっても金がないその境遇もまた一段の風流といわねばならぬ。あたりまえのことはあたりまえではないという処にいかぬかぎり知れるようなものではない。あるものを費やしてないものを贖う。
六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。untitled
みのたけにあわせて捨てて拾うて生きる。わたしはやどかりになりたい。
刺激への反応は瞬時に起きるのではない。その合間に私たちはどう対応するかを選択でき、対応の仕方には自身の成長と自由が投影される。-ヴィクトール・フランクル無題
人生も時間も世の中も。線か円かで大違い。線、それを引けば前後上下左右順番ができ、前の人は追い越せない。円、前も後もよくわからず、上下左右もおぼつかない。追い越す追い越されるの概念は無である。一円相。線か円か。
「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄