できることなら、防御のためでなく攻撃のための下準備。思考というものについて、同じ悩むならそうしたい。考えは誰のものでもないんだからね。
自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。忘己利他
酒に逃げるのは、酒飲みとしては禁忌である。それゆえ、酒飲みは、隠喩、暗喩、揶揄、比喩、換喩、を駆使してそれと共に生きるのである。酔うたり醒めたりあればこその人生である。喩:①たとえる。たとえ。②さとす。教えさとす。①②諭③よろこぶ。やわらぐ。喩
“憂患に生きてこそ、安楽に死ねる”と、孟子の「告子章句下」という文献にある。ただ、そのレベルや範疇を問わなければ、のほほんのんべんだらり安楽安逸安易な人の一生など誰にもあろうはずはないから、孟子の遺言は相対的なココロにそれぞれ相対的に響いてくれるのだ。生於憂患,死於安楽
(photo/source)「民権ばあさん」の楠瀬喜多さんもあっぱれ!だったがアメリカのこのばあさんもなかなかあっぱれ!である。PamelaHemphill(パメラ・ヘンフィル)さん、通称「MAGAばあさん」だそうだ。以下新聞記事を抜粋引用する。-トランプ米大統領が就任初日、2021年1月の連邦議会議事堂占拠事件で罪に問われた人たちに恩赦や減刑を与え、極右団体指導者らが釈放された。対象は1500人を超え、恩赦の乱用との批判は強い。ばあさんは、恩赦を拒否した。そしてその理由をこう述べたという。「私が有罪を認めたのは、私が有罪だったからだ」「恩赦を受けることは議会を守っている警察や法制度、私たちの国への侮辱になる」トランプ大統領が警察官に暴行を加えた者まで含めて恩赦したことについて聞かれると、「彼らは歴史を書...あっぱれ!ばあさん。
(picture/originalunknown)君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのを君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまうものである。-マルクス・アウレーリウス「自省録」より苦悩する君へ
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。
ニーチェは云った。「私を殺さないものは全て私を強くする」アウレーリウスの自省禄の一節にはこんな記述がある。苦痛について。「耐えられぬものは殺す。長く続くものは耐えられるものである」遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう。
皮肉なもの。若き心を知るには老いる必要がある。老年若生
運は巡ってくる。と思いながらもそれだけではいかんようで、運ぶということも大事な気がする。よしあしのだいたいの輪郭は運命によって定まるとしてもだ。たとえば運というものがコップ一杯の器だとすれば、そこにはコップ一杯分しか運が入らないにしても、これに何を入れるかは自分の目利きにある。安物よりうまい酒を入れられるかどうかは、自分の腕にあるのだ。中に入れられる品物によって、そのコップ一杯の価値は定められる。容量は宿命的に定められているとしても、その内容の品質は自分の運ぶ力いかんによって上下左右されるような気がする。運と実力。
提灯が消えて座頭に手をひかれ漆黒の闇夜、按摩さんは目が見えないので私が送って行きましょう、と出てはみたものの、途中で提灯の火が消えてしまい反対に手を引かれて迷惑をかけた。こんなのもある、按摩さんが帰りに提灯を貸してくれという、宿の女将が目が見えないのに明かりがいるの?と聞くと、按摩さんは「へぇ、明かりを持っていないとおっちょこちょいの目明き(目の見える人)にぶつかられてかなわんのです」と。またこんなのもある、偉い横柄な按摩が灯をもって歩いていたら目明きにぶつかられた、こやつ何をけしからん、灯が目に入らぬか、と一括したものの、灯はとうに消えていた。これということではないけれど、妙(みょう)に明(めい)に影(えい)に残る。めあきとめくら、の話です。芽明止蔵の話
「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」どっちだ。この花の「この」に力点を置いているのか、この花の「花」にそれを置くかによって、本質が全く違った、あるいは正反対の、方向に展開する可能性も生まれる。どっちだ。草冠に化けると書いて「はな」。花を見て
私の身の上に起こる数々の事柄は、そのすべては偶然も必然であるとともに、この私という存在にとってそれは最善なはずだ。と観じればこそ私たちは、それに対してこれを嫌ったり拒んだり退けたりせず、素直に受け入れて、そこに隠されている神の意思を読み取らなければならない。ここで神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一の力のことであり、宇宙に内在している根本的な生命力のことを謂う。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶ。したがってそれはまた、自分に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯を指す。-参照/森信三「最善観」より私は思う。善では足らない、最善とおぼしめよ。と。最善観
山寺の鐘つく僧は見えねども四方(よも)の里人時を知るなり‐二宮尊徳翁どこのだれかは知らないけれど、誰もがみんなが知っている時間。一人暮らしの爺さんが限界集落で一人ひっそりと亡くなりました。あるじを失ってもおじいさんの古い時計だけは、時を刻んでいます。爺さんがいなくなって、残飯にあり付けなくなった鼠が時計に言いました。「馬鹿だなあ、誰も見る者はいないのに、何だって動いているんだえ」「人の見ていない時でも動いているから、いつ見られても役に立つのさ」と時計は答えました。「人の見ていない時だけか、又は人が見ているときだけに働いているものはどちらも泥棒だよ」鼠は恥ずかしくなってコソコソと逃げていきました。hommage/夢野久作一隅を刻む
今日1月11日はえべっさんの残り福である。「商売繁盛笹もってこい」の音声に戎神社の境内は包まれる。えべっさんは恵比寿神という海の神様である。明日の大漁に掛けて商売繁盛をお願いする神様でもある。そう、明日への。明日といえば、西洋の神様の教え、マタイ福音書第6章34節にはこんな件がある。「さすれば、明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日自ら、己のために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」つまり、明日のために心配するな。明日は、明日が自分で心配するであろう。1日の苦労は1日で足りる。私にとって大事な、「福音」である。神の福音
拝おくればせながら
「仕事の意味」と言うのは、「意味のある仕事」と言う言葉とは、別物である。と誰かが宣わっていたが、「仕事」と言う言葉を替えるだけで、この意味違いは何にでも使える。人生でも、出会いでも恋愛でも結婚でも離婚でも、死までもがそのようだ。意味の違い
世の中に混じらぬとはあらねども一人遊びぞ我は勝れる。と詠んだのは確か良寛さんだと思うが、人の浮世もままええものじゃが、離れておることが、わしゃ面白い。ということでは一茶も似ている。小林一茶、幼名、弥太郎、六歳の折の発句である。我ときて遊べや親のない雀小林一茶
(画/月岡芳年)語録の中では、「我に七難八苦与えたまえ」がつとに有名だが、「憂きことのなほこの上に積れかし限りある身の力試めさん」泣きっ面に蜂、苦境重なるそんな時この言葉に、励まされる。山中鹿之助
(photo/source)選挙の候補者が三人いるとする。誰に投票するか答えてみよう。候補者1、ポリオの後遺症で障害がある、高血圧症と貧血を患い、他にも深刻な病気を抱えている。目的のためなら嘘をつき、政治を占星術師に相談する。愛人がいて愛煙家,マティーニが大好き。候補者2、彼は肥満だ。すでに落選3回、うつ症状に苦しみ心臓発作を繰り返している。鼻持ちならない男で葉巻を吸いまくる。そして就寝前に酒を浴びるように飲む、シャンパン、コニャック、ウィスキー、それから睡眠薬を2錠。最後は候補者3、勲章を受けた英雄で、女性に敬意を払う。動物を愛しタバコは吸わず、酒もめったに飲まない。さあ、誰に投票する?全員が候補者3に投票するだろう。君たちが落選させた候補者1はフランクリン・ルーズベルト、候補者2はウィンストン・チャー...歴史の授業
寒い暑い栄えたり枯れたり、これ天や地の呼吸のようなもの。苦しい楽しい恵まれたり辱められたり、これ人の生の呼吸のようなもの。と観じて、達者は、これらの感のどこに至ってもにわかに驚くことはない。朱鍾馗
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できることなら、防御のためでなく攻撃のための下準備。思考というものについて、同じ悩むならそうしたい。考えは誰のものでもないんだからね。
あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
作者不詳の日本最古の漫画ともいわれる鳥獣戯画。下手くそがまねて描いてもほんのりゆるされるゆるさ。懐深い、とはこういうことを言うのかと思ったりします。鳥獣戯画
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於いて水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかもしれない。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯ー山頭火全句集より山頭火
怒り声は誰に一番よく聞こえるんだ。自分を傷つけたくないのなら、ほえるのはやめとけ。やめとけ。
言い得るも我言い得ざるも我肝を作れ人を作れ腹をくくる。
古いものに目新しさはない。ただ、新しいものに年代物という箔はつかない。熟成かどうかの問題。
袋をもっている。入れたいと思えるものに出会えばなんでも入れられる袋は、持っている。布袋さんはおもう。わしがこれに何か入れたら、もう布袋としての存在理由はなくなる。もっているから持っていない。布袋という冥加。
腕の逞しさや頭の力これらでどれほどの心の静けさを得られる私利私欲を離れ礼節と道義これらこそ人生の安静を得られるんじゃないかい蝦蟇河豚相撲図
生きることは老いて皺を刻むことと同じことで想うことは想うこととしての皺をつくる想うことを想うことはできないが想ってことで出来た皺については想うことができるー中原中也皺。
その腹に何が不足ぞ鳴く蛙蝦蟇
ほんとうは一つ目小僧なんですけどね。豆腐が好きでいつも買いに行くのです。あと茗荷と雑魚と葱も一緒に。何処に行くんですか?と聞かれるとある日は「足の向くまま」と答えます。又次の日に聞かれると「風の吹くまま」と答えます。又次の日「愛の向くまま、風の吹くままですか?」と聞かれるとこう答えます。「豆腐を買いに」。豆腐小僧
僕が初めて兄貴に贈り物をしたのが新築祝い、マーク・ロスコのリソグラフでした。オレンジとグレーの。オマージュ
羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂うらやむきみがさけありてよくすなわちようことをうらやむきみがせんなくしてよくうれいざることを「これはまずもっての美酒である。」「味わって貰いたい。」「何という名前の酒?」「メイコン、迷へる魂、迷魂。」「どうして君はそのような銘酒を手に入れたの?」「私はメイコンと称ばれる良酒を服用して、適度に酔うて来ました。」「次には何を味わって飲むの?」「メイテイ・・・」2020-02-12 酔唄抄。良酒は誘う大海原へ
天狗は人の心を読むという。ある木こりが奥山で天狗と遭遇した。「こりゃ怖い」と思うと、天狗は怖がっていることを知って余計に脅す。「これはまずいあっちに逃げよう」とすると、天狗は心を読んであっちこっちと先回りする。あっちこっちに逃げ惑う間にふと、木こりも意図せず持っていた斧がカズラを切りそれが天狗にぶち当たった。心を読めず思いもよらない仕返しに天狗はびっくらこいて、木こりを恐れ逃げ去った。念慮萌とかいてキザシ、誠や心の大切さ、おのれの余計ななにかに萌(きざ)されてはいけない。念慮萌
心に我慢あるときは愛嬌を失う我慢なきときは愛嬌そなわる心に欲なきときは義をおもう欲あるときは義をおもわず心を飾るときは偽りをおもう飾りなきときは偽りなし心に傲りあるときは人をうらむ傲りなきときは人を敬う心に私あるときは人を疑う私なきときは疑になし心に誤りあるときは人を怒る誤りなきときは恐るることなし心に邪見あるときは人を損なう直なるときは疑わず心に怒りあるときは言葉はげし怒りなきときは言葉やわらかなり心に貪りあるときには人に諂う貪りなきときは諂いなし心に愁いなきときは悔やみなし愁いあるときは悔やみ多し心に自慢あるときは人の善を知らず自慢なきときは人の善を知る心に迷いあるときは人を咎める迷いなきときは咎めることなし心ここにあらざれば視れども見えず聴けども聞こえずよくよく心するべし。どれかは嵌る、修養禅話。
時間はあっても金がないその境遇もまた一段の風流といわねばならぬ。あたりまえのことはあたりまえではないという処にいかぬかぎり知れるようなものではない。あるものを費やしてないものを贖う。
六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。untitled
みのたけにあわせて捨てて拾うて生きる。わたしはやどかりになりたい。
刺激への反応は瞬時に起きるのではない。その合間に私たちはどう対応するかを選択でき、対応の仕方には自身の成長と自由が投影される。-ヴィクトール・フランクル無題
「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄